国鉄DD51形ディーゼル機関車 | |
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DD51 1027 (2007年10月3日 秋田港駅) | |
基本情報 | |
運用者 |
日本国有鉄道 北海道旅客鉄道 東日本旅客鉄道 東海旅客鉄道 西日本旅客鉄道 九州旅客鉄道 日本貨物鉄道 タイ国有鉄道 ミャンマー国鉄 |
製造所 | 日立製作所・川崎車輛(昭和45年まで)・三菱重工業 |
製造年 | 1962年 - 1978年 |
製造数 | 649両 |
主要諸元 | |
軸配置 | Bo-2-Bo |
軌間 | 1,067 mm |
全長 | 18,000 mm |
全幅 | 2,971 mm |
全高 | 3,956 mm |
機関車重量 |
84.0 t(0番台・500番台) 78.0 t(800番台) |
台車 |
DT113B(動力台車) TR101 (DD51 1 - 4) TR101A(DD51 5 - 53・501 - 547) TR106(DD51 548 - 799・1001 - 1193) TR106A(800番台)(付随台車) |
軸重 | 14 - 15 t (可変)(動力台車) |
動力伝達方式 | 液体式 |
機関 |
V型12気筒ディーゼル機関 61,070 cc DML61S×2 (DD51 1 - 19) DML61Z×2(DD51 20 - 53・500番台・800番台) |
変速機 | DW2A |
最高運転速度 | 95 km/h |
定格出力 |
2,000 ps / 1,500 rpm (DD51 1 - 19) 2,200 ps / 1,500 rpm(DD51 20 - 53・500番台・800番台) |
最大引張力 | 16,800 kgf |
備考 | 番台区分による差異あり |
国鉄DD51形ディーゼル機関車(こくてつDD51がたディーゼルきかんしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)によって1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)にかけて製造された液体式ディーゼル機関車である。
幹線から蒸気機関車を廃する「無煙化」を推進するため、1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)までの16年間に649両が製造された[1]。
本線用として先行して導入された電気式のDF50形は、亜幹線の無煙化の面では好評であったが、出力の不足や故障の多さ、価格の高さが欠点とされていた[2]。DD51形はこれに代わる本格的な幹線用主力機として開発された液体式ディーゼル機関車であり、速度面では旅客列車用大型蒸気機関車C61形を、牽引力では貨物列車用大型蒸気機関車D51形を上回る性能をもつように設計されている。
本形式の登場後も、より大出力のエンジンを1基装備したDD54形や軸重を軽減したDE50形など、幹線・亜幹線用のディーゼル機関車が開発・製造されたが、前者は不調続きで短命に終わり、後者は電化の進展で投入する機会が得られず、試作機のみで終わった。その結果、合理化推進のための車両「標準化」により、性能の安定したDD51形のみが長期量産・運用されることになった。
本形式は、最盛期には四国地方を除く[注 1]日本全国で使用され、非電化幹線の無煙化・動力近代化を推進した。一方、本形式の導入によって高い人気を博していた蒸気機関車が続々と廃車に追いやられたことから、一部の心無い愛好家には「赤ブタ」「文鎮」「ダメデゴイチ」と揶揄されることもあった[3]。
電化の進展と客車・貨物列車の減少により、1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化までに約60%が余剰廃車され、JR各社にはDD51 593以降の完全重連形のみの259両が継承された。
側面から見ると凸型となる車体中央部に運転室(キャブ)を備えており、前後に合計2組のエンジンと変速機を搭載した大型機関車である。
幹線用の大型機関車としては珍しく、入換機関車のような凸型車体(センターキャブ)が採用された[2]。この形態を採用した理由は、最大軸重の制限による軽量化要請への優位性、エンジン回りの整備性の良さ、機器配置の容易さなどによるものである。DF50形や車両メーカー系の試作大型ディーゼル機関車が軒並み箱形車体を採用していた1960年代初頭、あえて新型機関車での凸型車体採用を指示したのは、当時の国鉄臨時車両設計事務所次長の近藤恭三であった[4]。
DD13形やのちのDE10形、DD16形といった小型機と異なり、運転台は前後方向に共通ではなく、機関士・運転士は進行方向左側の運転台に前方を向いて座る。全長は大きいが、B-2-B軸配置による重量負担配分と、凸型車体運転台前後のボンネットとの間に緩衝ゴムを挟んだ柔結合として台枠自体の垂直強度をある程度落すことを許容し、軽量化したことにより軸重の低減を実現した。
2軸ボギー台車3組を装備し、うち両端台車が動力台車 (DT113B) とされ、無動力の中間台車 (TR106) によって全体の軸重を軽減している。従来の6軸機関車では2台車のC-CやA1A-A1Aの軸配置が主流であったが、軸間距離が長く曲線通過性能がそれほど良くなかったため、軸配置B-2-Bの3台車とすることで曲線区間での横圧を低減した[5]。
車体中央にある中間台車(付随台車)は、開発当初、全体の軸重を亜幹線基準の14 tに抑制する手段に過ぎなかったが、増加試作機ではライナー挿入、さらに量産機では空気ばねを搭載して空気ばね内の空気圧を調整することにより、動力台車の軸重を14 tと15 tとの2段階に調整できるようになった[6]。これによって、亜幹線への入線能力と、規格の高い重幹線での動輪粘着力確保を両立可能としている。
エンジンはDD13形で使用されていたDMF31S形をベースにして新開発されたDML61Z形ディーゼルエンジンで、気筒の数を直列6気筒からV形12気筒に変更[注 2]、排気タービン過給機(ターボチャージャー)と中間冷却器(インタークーラー)を装備して、最大出力が1,100 ps / 1,500 rpmとなり、それを2基搭載して、総出力2,200 psを出すことができる。ノッチは14段階。
動力伝達方式は、軌道の重量制限に対処する軽量化のため日本国外大型機関車の主流である電気式をやめ、日本での量産大型ディーゼル機関車では初めて液体式として製造された。液体変速機は3組のトルクコンバータを内蔵した充排油式(フォイト式)のDW2Aで、国鉄、日立製作所、川崎重工により[7][8]新たに開発されたものである。動力伝達システムは、両端の動力台車2基4軸を、前後のボンネット内にある1エンジンに1変速機の組合わせの動力装置と、その動力により駆動する2軸駆動の1台の動力台車の構成により動力が伝達されるシステムとなっており、エンジンと運転室側にある逆転機内蔵の液体変速機の間に第1推進軸、液体変速機と動力台車に内蔵された第1減速機(動力台車の運転室側)の間に第2推進軸、第1減速機と同じく内蔵された第2減速機(動力台車の先頭側)の間に第3推進軸がそれぞれ連結され、動力が伝達される。
また、エンジンの冷却系機器として先頭部両側面にラジエーターとその上部にファンを装備しており、補機駆動軸充電発電機と空気圧縮機を駆動させ、機関潤滑油・変速機油・機関と中間冷却器の冷却水をポンプで循環させることで、オイルおよびラジエーターを冷却している。
1962年(昭和37年)から1966年(昭和41年)にかけて製造されたDD51 1 - 53が該当する。
試作型および初期の量産型で客貨両用。客車暖房用の蒸気発生装置 (SG) を搭載しているが、重連総括制御装置は搭載しておらず、「非重連形」と呼ばれる。0番台はJRに継承されることなく、1986年(昭和61年)までにすべて廃車された。
1966年(昭和41年)から1977年(昭和52年)にかけて製造された。
重連運転のための重連総括制御装置を搭載しており、車端端梁部にKE70ジャンパ栓受けを両渡りに装備するとともに、ジャンパ連結器栓納めを前部デッキ部に取付けた区分で、「重連形」と呼ばれる。さらに、ブレーキの制御方式で以下のように区別される。一部を除いて蒸気発生装置を搭載したが、2013年(平成25年)現在は使用していない。また、空気圧縮機 (CP) からの圧縮空気を、連結した次位の機関車や牽引する客車などに送る元空気だめ管を両渡りに装備している。
非電化幹線・亜幹線の無煙化促進のため多数が増備されたが、1975年(昭和50年)以降は、同じディーゼル機関車で旧式化したDF50形や本形式より後に登場したものの、故障が多発していたDD54形を本形式新製機や電化余剰機(奥羽本線全線電化に伴う秋田機関区所属機、西九州電化に伴う博多運転区所属機をそれぞれ転属)で代替している。
この番台区分以降より、すべて外ハメ式の尾灯が用いられた。
DD51 501 - 592が該当する。
釣り合い引き通し管を装備していないため、重連運転時に前位の本務機が単独ブレーキ弁(単弁)を操作したときは本務機のブレーキのみが作動し、次位の補助機関車(補機)はブレーキが作動しない[9]。このタイプはJRには継承されなかった。
DD51 548以降は、ブレーキ力増大のため中間台車にも基礎ブレーキ装置を装備したために台車形式はTR106形となる。ブレーキ装置のスペース確保のため、床下の燃料タンク容量が4,500 Lから4,000 Lに減少している。
DD51 587 - 592の6両は蒸気発生装置 (SG) 未搭載機として落成している。800番台のような本格的なSG非搭載機とは異なり、SG用ボイラを積載していないだけでSG機器室などの関連機器は省略されていない。
半重連形のうち、美濃太田機関区(現・美濃太田車両区)所属だったDD51 592は、国鉄名古屋鉄道管理局(当時)の12系欧風客車「ユーロライナー」の運用開始にあたり、塗色を「ユーロライナー」色に変更しジョイフルトレイン牽引に活躍したものの、塗色変更から1年半後の1987年(昭和62年)2月に廃車された。
半重連形は、北海道の釧路機関区配置機の一部に1981年(昭和56年)ごろより余剰休車となる車両が現れ、その他の車両も1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正で全機運用を離脱し、1987年(昭和62年)までに廃車された。
DD51 593 - 799・1001 - 1193が該当する。
釣り合い引き通し管を元空気だめ管の外側に両渡りで装備しており、重連運転時に本務機の単独ブレーキ弁(単弁)の操作が次位の補機まで作動するように改良された区分である。一部の半重連形で釣り合い引き通し管を新設し、全重連形に改造されたものも存在した。
DD51 1001以降は、500番台がDD51 799まで達したため貨物用800番台との重複を避け、DD51 1001に飛び番となったグループである。JRに継承されたものはこのグループが多い。このグループからナンバープレートが切り文字式からブロック式に変更された。DD51 1010以降は運転室内前後の天井に扇風機が設置されたため、運転室屋根に突起が2か所ある。またDD51 1052以降はラジエーターカバーが2分割タイプに変更された。
北海道地区に配置された500番台は半重連形と全重連形とを区別するため、区名札の隣に「半」「重」の識別札を挿入していた。2011年(平成23年)現在では北海道旅客鉄道(JR北海道)函館運輸所所属の重連形に「函」「重」の札が残るのみだが、国鉄時代は「築」「重」(小樽築港機関区)、「鷲」「重」(鷲別機関区)、「釧」「半」(釧路機関区、半重連形)、「旭」「非」(旭川機関区、非重連形)などの組み合わせが存在した。
北海道内で使用された本区分のうち、1972年(昭和47年)に前照灯をボンネット前端上に増設し、3灯化された車両が存在する。冬季降雪時の視界確保のためで、五稜郭機関区などに配置された5両(DD51 710・716・741・742・745)に施工された。DD51 745は1986年(昭和61年)に本州に転属してからも補助灯を存置し、東日本旅客鉄道(JR東日本)長岡車両センターに配置され、2002年(平成14年)まで磐越西線などで使用された。また入換作業時の誘導係への連絡用として、スピーカーを装備した車両も北海道地区では多く見られた。
DD51 791は前述のDD51 592に代わって「ユーロライナー」の牽引機として専用塗装に変更されて運用された。
1968年(昭和43年)から1978年(昭和53年)にかけて製造されたDD51 801 - 899・1801 - 1805が該当する。
貨物列車の運用を主体とするため、SGを搭載せずに登場したグループである。SG関連機器やボイラ・タンクなどを省略し、運転室中央にあったSG機器室がなくなった[注 3]。運転整備重量は約6 t軽くなり、各軸の荷重負担割合が変化したことから中間台車の枕ばねを変更し、滑走防止のためブレーキシリンダを縮小したTR106Aとなった。その他は基本的には同時期に製造された500番台の完全重連形の仕様に準じており、ナンバープレートやラジエーターカバーも時期を同じくして変更された。またDD51 855以降は運転室内に扇風機が設置されたが、500番台と異なり運転室屋根の中央に大きな突起が1か所あるのみである。北海道地区には一時的に投入されたのみで、A寒地仕様機は存在しない。
当初の計画では貨物列車用の新形式「DD52形」を予定していたが、新形式の投入に際しては労働組合との間で難しい折衝を行う必要があった[注 4]ために、既存形式DD51形の仕様を変更する方針を採ったとされる[注 5][10][11]。
JR東日本ぐんま車両センターに所属するDD51 842は非電化区間のお召し列車牽引機として用いられ、台枠側面の飾り帯やデッキ手すり・煙突カバーにステンレスが用いられている[注 6]。なお、DD51 842はお召し列車運用の他、同センター配置のDD51 895とともに管内のイベント列車などに使用されている。
DD51 1801以降は、800番台がDD51 899まで達したため、DD51 1801に飛び番となったグループである。成田線および総武本線での成田空港向けジェット燃料輸送のために製造されたが、将来の客車列車牽引への転用も考慮してSG搭載の準備工事[注 7]がされた。
DD51形はほぼ日本全国に配置されたため、配置された気候条件によって以下の仕様がある。使用地域別にA寒地仕様、B寒地仕様、一般型の3種類の仕様に分けて製造された[9]。
現役機も最終増備機の製造から30年以上が経過し、特に北海道地区のものは厳しい気候条件と過酷な長距離の運用により、著しく老朽化が進んでいるため置き換えとしてDF200形が投入されていたが、全面的に置き換えるまでには時間を要した上、北海道地区以外のものは老朽化こそ進んでいるものの置き換えるには及ばなかった。このため1994年(平成6年)以降は、まず北海道のものから本格的な更新工事が実施されるようになった。
1987年(昭和62年)の国鉄分割民営化に際しては、北海道旅客鉄道(JR北海道)25両、東日本旅客鉄道(JR東日本)29両、東海旅客鉄道(JR東海)4両、西日本旅客鉄道(JR西日本)63両、九州旅客鉄道(JR九州)1両、日本貨物鉄道(JR貨物)137両の計259両がJR各社に継承された。すべて重連形の500番台および800番台である。
1988年(昭和63年)度にはJR貨物が貨物列車増発のため、国鉄清算事業団より800番台4両(DD51 874・875・877・878)を購入している[13]。
2000年(平成12年)までは東京都内、2011年(平成23年)までは大阪府内でも定期運用があったものの、近年は運転列車の設定の消滅や新型機関車への置き換え、老朽化などにより本形式は徐々に淘汰されつつある。JR北海道では2015年(平成27年)度に5両が廃車され(DD51 1137が2015年〈平成27年〉11月30日付、DD51 1093・1095・1102・1141が2016年〈平成28年〉3月31日付)[14][15]、2016年(平成28年)4月30日付で5両が廃車され[16]、残存していた8両すべてについて、海外譲渡を前提とした甲種輸送が行われている[17]。
2023年(令和5年)6月現在の在籍機は、JR東日本2両、JR西日本8両である[18]。すでに全廃されているJR北海道・JR東海・JR九州・JR貨物の各社については、在籍末期の状況を当節に記載する。
JR北海道に継承されたDD51形は25両で、当初は釧路、旭川、空知に配置された[19]。空知配置車は1988年に運行を開始した寝台特急「北斗星」に合わせた青地に金帯の塗装に変更された。1994年の空知運転所廃止により同所のDD51形は函館運輸所へ転出した。
引退時点では函館運輸所に配置されていた。2016年(平成28年)3月25日時点での定期運用は急行「はまなす」のみで、翌26日のダイヤ改正で同列車が廃止となった[20]ため運用が消滅した。運用区間は札幌駅 - 函館駅間(室蘭本線経由)であるが、臨時列車「トワイライトエクスプレス」については函館駅に乗り入れず五稜郭駅で付け替えを行っていた。
2015年(平成27年)8月22日に「北斗星」が臨時列車としても運行を終了したことにより、余剰機がミャンマーへの譲渡を前提として室蘭港に輸送された[21]。また、2016年(平成28年)4月30日付で最後まで車籍を残していた5両(DD51 1100・1138・1140・1143・1148)が廃車され[16]、同年7月3日から翌4日の2日間にかけて、8両がJR貨物のDF200-63牽引により旧陣屋町臨港駅へ甲種輸送された[22]。
JR東日本には29両のDD51形が継承され、発足時点では秋田、郡山、長岡、高崎、田端の各所に29両が配置されていた[19]。
定期旅客列車の牽引は男鹿線のみで、磐越西線の普通列車牽引をJR貨物に委託する一方、磐越東線や八高線の貨物列車牽引をJR貨物より受託していた[19]。男鹿線客車列車は1994年まで運転されたほか、北上線では20系客車の臨時急行「おが」を牽引することもあった[19]。
JR東海には4両のDD51形が継承された[26]。うち3両が「ユーロライナー」色とされ、同編成をはじめとした臨時列車の牽引に使用された。最後に残っていた791号機はレール輸送等に使用されたが、キヤ97系への置き換えにより2007年に運用を終了した[27]。
JR西日本に継承されたDD51形は63両で、発足時点で亀山・福知山・米子・下関に配置されていた[28]。山陰本線や播但線、草津線などで客車普通列車の牽引があり、山陰本線では寝台特急「出雲」なども牽引した[28]。また、SL列車「SLやまぐち号」の補機にも使用された。
草津線客車普通列車の廃止に伴い、亀山運転区の配置車は1990年(平成2年)6月に宮原区に移管された[29]。福知山配置車は1992年の播但線客車普通列車廃止や急行「だいせん」の受け持ち移管により1993年に米子区へ転属した[30]。
JR九州にはDD51 1071の1両のみが継承されたが、定期運用はなく1999年に廃車となった[40]。2001年まで運行されていた筑豊本線の客車列車はJR貨物門司機関区のDD51形が牽引していた[40]。
JR貨物には137両のDD51形が継承され、発足時点で鷲別・五稜郭・東新潟・佐倉・稲沢・吹田・厚狭・門司の各区に配置されていた[40]。各地の貨物列車のほか一部の旅客列車も牽引した[40]。稲沢区所属車は1994年に愛知機関区へ転属した[40]。
2018年の平成30年7月豪雨(西日本豪雨)で山陽本線が一部不通となった際は伯備線・山陰本線・山口線経由の迂回貨物列車が運転され、米子駅 - 幡生駅間では愛知機関区のDD51形が牽引した[41]。
最後まで残ったのは愛知機関区所属車による関西本線・東海道本線方面の運用であったが、2015年(平成27年)に全般検査が打ち切られ、2021年(令和3年)3月12日をもって全車両の運行が終了した[42]。定期運行終了後はイベントでの展示などに用いられ、2022年時点でも愛知機関区に6両が残存していたが、2023年3月までに全車が解体された[43]。
本形式に代わる運用はDF200形が担っている。ただし、本形式が牽引していたシキ800形大物車の貨物輸送は、同じく愛知機関区所属のDD200形が担当している[44]。
本形式は本線用機関車として大量に製作され、汎用性の高さから基本設計を踏襲した派生形式も多数製作された。詳細は各形式のリンク先を参照。
画像 | 番号 | 所在地 | 備考 |
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DD51 548 | 北海道三笠市本町971-1 三笠鉄道村クロフォード公園 |
1968年(昭和43年)9月に北海道100年記念式典でお召し列車が運転された際の牽引機で、DD51形初のお召列車牽引機である。また、半重連形から全重連形へ改造されている。 | |
DD51 610 | 北海道三笠市幌内町2丁目287 三笠鉄道村 |
オハフ33 451、スハフ44 12、スユニ50 505と連結されている。 | |
DD51 615 | 北海道小樽市手宮1丁目3-6 小樽市総合博物館 |
オエ61 309、スエ78 5、ソ34、ヨ7904と連結されている。 | |
DD51 1 | 群馬県安中市松井田町横川 碓氷峠鉄道文化むら |
トップナンバー機、試作機(上記参照)。廃車後高崎運転所で修復され保管されたのち、1999年(平成11年)に碓氷峠鉄道文化むらの開館に伴い展示されている。 | |
DD51 756 | 京都府京都市下京区観喜寺町 京都鉄道博物館 |
JR貨物に承継された車両で、廃車後に整備され、2015年(平成27年)1月に梅小路蒸気機関車館(現・京都鉄道博物館)で特別展示された[46]のち、京都鉄道博物館で保存展示されている。 | |
DD51 1040 | 京都府亀岡市大井町並河1丁目1−2 並河駅鉄道歴史公園 |
米子機関区に初めて投入。新製配置から半年ほどは、寝台特急「出雲」をDD54形と交互に牽引していた。その後の特急列車の牽引はDD51形に統一となる。 | |
DD51 1187 | 岡山県津山市大谷 津山まなびの鉄道館 |
お召し列車や「出雲」の牽引機であるとともに、お座敷客車「みやび」が強風により余部橋梁から転落した際の牽引機でもあった。 |
廃車となったDD51形のうち、数両が日本国外に譲渡されている。