つちもと のりあき 土本 典昭 | |||||
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2005年の土本典昭 | |||||
生年月日 | 1928年12月11日 | ||||
没年月日 | 2008年6月24日(79歳没) | ||||
出生地 | 岐阜県土岐市 | ||||
国籍 | 日本 | ||||
職業 |
映画監督、脚本家 記録映像家、ルポルタージュ作家 | ||||
ジャンル | 映画 | ||||
活動期間 | 1963年 - 2008年 | ||||
活動内容 | 1963年:監督デビュー | ||||
著名な家族 | 娘:土本亜理子 | ||||
主な作品 | |||||
映画 「水俣-患者さんとその世界」 | |||||
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土本 典昭(つちもと のりあき、1928年12月11日 - 2008年6月24日[1])は、日本の記録映画作家、ルポルタージュ作家。
岐阜県土岐市生まれ。小学生で東京に移住し、麹町小学校を経て麻布中学校・高等学校に入学。中学時代は勤労奉仕に明け暮れ、「頭のてっぺんから足の先まで、本当に天皇のために命を捨てる青年として育てられた」が、終戦を機に「誰も本当のことを言ってくれなかった」という思いから、新聞記者あるいはジャーナリストを志す[2]。早稲田大学文学部を学生運動のため除籍。在学中に日本共産党に入党し、1952年に山村工作隊の活動で逮捕される。山村工作隊では小河内ダム破壊を目指した小河内工作隊に所属し、共に活動した勅使河原宏とは終生友人であった。
1956年岩波映画製作所に入社し、ドキュメンタリー制作に携わる。1957年フリーになり、民放へも活動の場を広げ、1963年、国鉄のPR映画「ある機関助士」で監督デビュー。また、黒木和雄、小川紳介らと「青の会」を結成。
1965年に初めて訪れた水俣市で、水俣病患者の現状に衝撃を受ける。『ドキュメント 路上』『パルチザン前史』(1969年)などを経て、1971年『水俣 - 患者さんとその世界』発表以降は、水俣病問題に取り組み続け、同作を含む17本の連作を主として青林舎に拠って製作した。
また青林舎からは土本の助監督出身者として、小池征人、西山正啓、若月治、藤本幸久らがドキュメンタリー映画監督として巣立っている。
その後も晩年に至るまで積極的にドキュメンタリー映画を撮り続けてきたが、2008年6月24日に肺がんのため、千葉県南房総市の入院先の病院で死去。享年79。
葬儀は近親者のみの密葬で行われ、7月26日に東京都千代田区にある如水会館スターホールで「お別れの会」が開催された。
ノンフィクション作家の土本亜理子は実娘。
1965年、30分テレビ番組の水俣病特集のために訪れた水俣病患者多発地区の水俣市湯堂で患者家族から言われた「なして(フィルムに)撮るか」「撮ったって少しも体が良くならんばい、この子は。人を見せ物にして」という言葉が「茫然自失」となるほど深く突き刺さったという[2]。その言葉は今まで撮り逃げしていたのではないかと自問し、魂の入った作品を制作することを決意させることとなる。その後、本格的に水俣に入り、家を借り現地の人々と生活を共にしながら撮影を行い[2]、1971年「水俣 - 患者さんとその世界」を発表した[3]。その後も水俣病やそれに関する作品を制作し続け、患者支援運動の関係者から「空気のようなカメラ。それが患者家族の外に向かって重く閉ざした扉の1つを開けた」と評された[3]。
患者の遺影収集にも取り組んでいた。1996年に開催した「水俣・東京展」では、不知火海沿岸にある患者の遺族を一軒一軒尋ねて、約500人の遺影を集めた[3]。
2021年9月23日、ユージン・スミスを題材にした映画『MINAMATA-ミナマタ-』が日本で全国公開。これに合わせて、土本の『水俣 - 患者さんとその世界』と『水俣一揆 - 一生を問う人々』が同月から全国6つの劇場で特別上映された[4]。