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ちい たけお 地井 武男 | |||||
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本名 | 地井 武男 | ||||
生年月日 | 1942年5月5日 | ||||
没年月日 | 2012年6月29日(70歳没) | ||||
出生地 |
日本・千葉県匝瑳郡八日市場町 (現:匝瑳市) | ||||
死没地 | 日本・東京都港区 | ||||
身長 | 175 cm | ||||
血液型 | B型 | ||||
職業 | 俳優 | ||||
ジャンル |
映画 テレビドラマ CM バラエティ番組 紀行番組 ラジオパーソナリティ | ||||
活動期間 | 1967年 - 2012年 | ||||
活動内容 | 俳優 | ||||
配偶者 |
真木沙織(1974年 ‐ 2001年) 一般女性(2004年 ‐ 2012年) | ||||
事務所 | サイプロダクション(最終所属) | ||||
主な作品 | |||||
テレビドラマ 『岡っ引どぶシリーズ』 『太陽にほえろ!』 『北の国から』 『時間ですよ』 『刑事貴族』 バラエティー番組など 『ちい散歩』 | |||||
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地井 武男(ちい たけお、1942年〈昭和17年〉5月5日[1] - 2012年〈平成24年〉6月29日)は、日本の俳優。本名は同じ[1]。千葉県[1]八日市場市(現:匝瑳市)出身。最終所属はサイプロダクション。身長175cm。体重63kg。
俳優座[2] → どりいみい7[1][3] → 沢井プロダクション → サイプロダクション
千葉県匝瑳郡八日市場町(現:匝瑳市)に8人兄弟の末っ子として生まれる。なお、兄弟は長兄以外は全員女性[4]。千葉県立匝瑳高等学校卒業[1]後、石原裕次郎や赤木圭一郎に憧れ[4][5]、1963年に俳優座養成所へ第15期生[1]として入所。同期には原田芳雄、林隆三、太地喜和子、赤座美代子、前田吟、夏八木勲、高橋長英、竜崎勝、秋野太作、栗原小巻、小野武彦、村井國夫、三田和代などそうそうたるメンバーがいる[2]。
1966年に養成所を卒業。その後は串田和美、吉田日出子らと創立メンバーとしてオンシアター自由劇場でも活躍した。
その後は主にテレビ・映画で活躍。岡本喜八監督『斬る』で映画デビューし、1970年には武田敦監督『沖縄』で映画初主演。以降、主演から脇役、悪役からマイホームパパまで、幅広い役柄を演じ演技派の総合俳優として活躍。特に活動歴の前半には岡本喜八、山本薩夫、今井正らの巨匠による社会派・戦争大作と、日活ニューアクション系の流れを汲む不良性感度の高い作品群が並行しており、その役柄の幅広さを反映している。この二つの源流は、良心のかけらもない狂暴冷血な悪役、誠実そのものの善人役という両極端へと別れていったあと、1981年『月光仮面 THE MOON MASK RIDER』の新興宗教系テロリスト幹部だが良心を捨てきれず粛正される役どころで一種の合一を果たした。1982年から、人気ドラマ『太陽にほえろ!』に、降板する竜雷太の後任として出演、1986年の番組終了まで出演した。以後は自然体な中年男性の役が多くなっていく。やがてテレビにも進出しタレントとしても活躍、バラエティ番組やCMにも出演するようになり、広い世代から認知されていた。
真木沙織(本名:地井佐和子)と1974年に結婚、1女をもうける。真木は2001年6月に乳癌で他界。3年後の2004年2月に真木と面識のあった元モデルの女性と再婚[6]。再婚に関しては、生前の真木が助言をしていたことによる[7]。
1995年末には狭心症を患い、市立札幌病院に1か月ほど入院していた。それ以来、後述する闘病生活まで大病はなかった[8]が、これがきっかけとなり、健康に気を遣うようになり、また再婚を機にタバコもやめた[8]。
日本の四季、自然、植物を愛することでも知られた。それを象徴するかのように、2006年4月3日より、自身のライフワークともいうべき番組となった『ちい散歩』が放送開始。後述の通り2012年に自身が病に倒れて終了するまで、放送1518回、訪問地833か所、総歩数3,227,000歩、総距離数2581.6kmを記録し約6年続く人気番組となった。同番組は昨今の散歩ブームの火付け役となり[9]、本人も「散歩の達人」として知られるようになった。
2012年1月30日、視野が狭くなったため緊急入院し、精密検査を受けた[6][10]。その後、目の具合はよくなったものの、検査で心臓疾患が判明し、医師から「無理をすれば心不全を引き起こす可能性がある」と診断された。大事を取って芸能活動を休止、治療・療養に専念し、体調を見て復帰時期を決めると発表した[11]。2月15日、当面休養するにあたり、関係者らに以下のコメントを寄せた[12]。
関係者の皆様へ
— 地井武男
このたびは、皆様にご心配をおかけいたしております。
本日、心不全精査および治療を要すとの診断が下り、
しばらくの間治療に専念したく、お休みさせて頂くことに致しました。
ご迷惑をおかけし、心からお詫び申し上げます。
療養に専念するため『ちい散歩』のほか『地井武男の音楽旅行』『和風総本家』といった各レギュラー番組を降板[13]。うち『ちい散歩』は同年2月29日放送分以降、これまでの放送分から厳選・再編集した名場面集を中心に放送した[14]が、療養長期化のため70歳の誕生日の前日である5月4日を最後に放送終了[13][15]、最終回では本人直筆によるお礼のメッセージが読み上げられた。また『音楽旅行』では3月以降、布施博ら役者仲間や共演者らが月替わりでパーソナリティを務める形で継続[16][17]していたが、結局9月30日をもって番組終了となった[18]。
2012年6月29日午前7時5分、東京都港区の病院にて心不全のため逝去[19]。70歳没[20][21]。入退院を繰り返していたが[20]、6月の入院中も病室でストレッチをして、亡くなる前日まで家族や事務所関係者らと談笑するなど、元気そうな様子であった[7]。また1月から2か月間の入院時は「闘病日記」をノート3冊分に書き留めていた[22]。
訃報に際し、俳優座の同期であり「どりいみい7」の盟友ら(前田・林・小野)[23]のほか、田中邦衛・左とん平・萬田久子らも続々とその死を悼んだ[24][25][26]。また、番組を引き継いだ加山雄三は「彼とは5年も一緒に時代劇をやっていたので、体調を崩して散歩を続けられないと聞いた時、いずれ戻ってくるまで、僕に出来ることなら頑張ってみようと番組をお引き受けしました。ゆっくり静養してもらおうと思っていたのに、まさかこんなことになるとは…大変ショックです」[26]とコメントした。
地井の生涯最後の仕事となったのは『ちい散歩』で調布市布田(日活撮影所が所在)を散歩した回(2012年2月21日放送)の撮影だった。
また、テレビ朝日『土曜ワイド劇場』で2012年秋に放映予定だったスペシャルドラマ『大崎郁三の事件散歩』が俳優としての遺作となり、逝去翌日の6月30日に追悼番組として繰り上げて放送された[27][28][注釈 1]。
2013年9月17日、『かぐや姫の物語』の製作記者会見にて、2011年夏に“竹取の翁”役の声優としてアテレコに参加(収録済み)[注釈 2]していたことが、製作者サイドより明らかにされた[29]。従ってこの作品が、声優としての出演ではあるが、遺作となった。なお、死後、作品完成間近にセリフの変更や息づかいの調整が行われた計6シーンの再収録(アフレコ)にあたっては、三宅裕司が代役を務めた[30]。
通夜と葬儀・告別式は近親者のみで行われた[31]。同年8月6日には東京・青山葬儀所にてお別れの会(発起人:田中邦衛・早河洋・渡哲也)が開かれ、地井と親交のあった著名人ら800人[32]、一般も含め約2300人が訪れ、最後の別れをした。『北の国から』で共演し、発起人も務めた田中は、
ちい兄ぃ、俺ら、何度言われてもまだ信じられない。
昨年秋には我が家に来てくれたり、暮れには贈り物をたくさんもらったり……。あれは別れに来たのか……。
3カ月前の4月には電話もくれた。手紙もくれた。ちい兄ぃ……ごめんな。
……会いたいよ……。ちい兄ぃ、会いたいよ!
と霊前に語りかけ
お別れの会が終わった5日後の2012年8月11日には、テレビ朝日系にて追悼特別番組『追悼・地井武男さん…「想い出をありがとう 今夜、最後のお別れ」』が放送された。
2013年7月25日には、匝瑳市にある実家近くの空き店舗を改修し、ゆかりの品を集めた記念館「地井武男ふれあい記念館 ちいちい茶屋」が3年間の期間限定でオープンした。当初の予定通り2016年の同日をもって営業を終了し、展示内容の一部は八日市場駅前にある観光案内センター「