生誕 |
1897年11月17日 新潟県高田(上越市) |
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死没 |
1994年12月9日(97歳没) 東京都目黒区 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 農芸化学(発酵醸造) |
研究機関 | 応用微生物研究所 |
出身校 |
第一高等学校 東京帝国大学 |
主な受賞歴 | 日本学士院賞、藤原賞、文化勲章、勲一等瑞宝章 |
プロジェクト:人物伝 |
坂口 謹一郎(さかぐち きんいちろう、1897年(明治30年)11月17日 - 1994年(平成6年)12月9日)は、日本の農芸化学者。発酵、醸造に関する研究では世界的権威の一人で、「酒の博士」として知られた。東京大学応用微生物研究所初代所長および同大学名誉教授、理化学研究所副理事長。日本学士院会員。愛称は「坂謹(さかきん)」。
新潟県高田(現・上越市)出身。正利の長男 [1]。新潟県立高田中学校を中退し上京、神田の順天中学校に編入。同期には中村震太郎もいたが、とくに学友との交流もなかった。同校卒業後、第一高等学校理科に首席で入学。1919年、同校卒業、1922年、東京帝国大学農学部卒業[2]。同助手、講師、助教授を経て、1939年、教授[3]。1958年、定年退官、名誉教授。
その後は1962年まで理化学研究所で副理事長を務め、退職後は様々な研究所へ招かれて指導に当たった(本人曰く「若い人たちににくまれ口をたたいてきらわれている。そんな生活です。」)[4]。1966年の講書始では、「醗酵学の進歩について」という題目で昭和天皇に進講を行っている[5]。
微生物の培養に用いられる坂口フラスコを発明した他、1975年新春には宮中歌会始の召人も務め、歌人としても知られた。
1994年12月9日、東京都目黒区の自宅で心不全のため死去[6]。97歳没。
故郷の上越市にはその業績を記念した「坂口記念館」があるが、その建物は元々同じ高田市内にあった旧家を移築したものである。
もともと酒をたしなんでいたが、1917年頃に病気のため禁酒をした。しかし40歳頃になって、大蔵省専売局の依頼で当時日本領だった台湾に渡って現地の酒造場を視察するうちに、どうしても飲まなければならなくなり、仕方なく飲んだところ以前よりも体調が良くなったため、再び酒を飲むようになった [7]。その後、自律神経失調症をわずらい、医者から禁酒を言い渡されている[4]。なお、飲酒した翌日は必ず30分から1時間早く出勤することを心掛けていた(本人曰く「それぐらいでなければ、飲む資格はありません。」)[7]。
1940年、東京上野のビアホールで「泡が多すぎる」と客から苦情出たことから、警察の調べが入り「生ビールの仕入れ量より売り上げた量が異常に多い」と判明、泡をビールとして販売した法令違反の疑いで、ビアホール会社を検察が起訴した[8]。この裁判で坂口が「ビールの泡はビールよりもアルコール濃度が高い」と証明し、1944年8月「ビールの泡もビールと認める」と無罪の判決が下された[8]。