堀口 大學 (ほりぐち だいがく) | |
---|---|
ペンネーム | 十三日月 |
誕生 |
1892年1月8日 日本・東京府東京市本郷区 (現:文京区) |
死没 |
1981年3月15日(89歳没) 日本・神奈川県三浦郡葉山町 |
墓地 | 日本・鎌倉霊園 |
職業 | 詩人・歌人・翻訳家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学部文学科予科中退 |
活動期間 | 1918年 - 1980年 |
ジャンル | 詩・翻訳・文芸評論 |
文学活動 |
象徴主義 ダダイスム 高踏派 |
代表作 |
『月光とピエロ』(1908年) 『月下の一群』(1925年、訳詩集) 『夕の虹』(1958年) |
主な受賞歴 |
読売文学賞(1959年) 勲三等瑞宝章(1967年) 新潟総合テレビ文化賞(1973年) 勲二等瑞宝章(1974年) 文化勲章(1979年) |
デビュー作 | 『昨日の花』(1918年) |
ウィキポータル 文学 |
堀口 大學(ほりぐち だいがく、新字体:堀口 大学、1892年〈明治25年〉1月8日 - 1981年〈昭和56年〉3月15日)は、明治から昭和にかけての日本の詩人・歌人・フランス文学者。訳詩書は300点を超え、日本の近代詩に多大な影響を与えた。雅号は十三日月。葉山町名誉町民。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
欧米生活を経て、フランス近代詩の訳詩集『月下の一群』(1925年)を発表し反響を呼んだ。象徴派の詩に知性と官能美を加えた優雅な創作詩でも後進に影響を与えた。作品に『月光とピエロ』(1919年)、『砂の枕』(1926年)など。
1892年(明治25年)、帝国大学法科大学在学中であった堀口九萬一(のち外交官)の長男として、東京市本郷区森川町(現・東京都文京区本郷或いは西片辺り)に生まれる。父は北越戦争で戦死した長岡藩士堀口良次右衛門の長男で、母・政は村上藩士江坂氏の長女。大學という名は、出生当時に父が大学生だったことと、出生地が帝国大学の近所であったことに由来する。
1894年(明治27年)の日清戦争勃発後、第一回外交官及領事官試験に合格し外交官となった父が領事館補として朝鮮・仁川に単身赴任するにあたり、新潟県古志郡長岡町(現・長岡市)に転居。3歳の時、母が23歳時に結核で病死したため、以後は祖母に育てられる。父は閔妃暗殺事件に連座して非職、予審に付されたため、後事を漢城在任以来の知己である与謝野鉄幹に託した。1898年(明治31年)長岡町立阪之上尋常高等小学校(現・長岡市阪之上小学校)に入学。復職後オランダ在勤となった父の指導により、日本人牧師に就いて英学を始める。日露戦争勃発後の1904年(明治37年)4月(旧制)新潟県立長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)に入学。この頃から文学に魅かれ、内藤鳴雪の俳句に心酔。同級に松岡譲がいた。
1909年(明治42年)に上京し、好んで谷中墓地を逍遥して短歌を詠み、文芸誌『スバル』を通して明星派短歌に魅了され、十三日月の雅号で詠草が12月号に掲載される。9月に「新詩社」に入った。1910年(明治43年)慶應義塾大学部文学科予科に入学。与謝野鉄幹の推薦もあって永井荷風との知遇を得て『三田文学』に詩歌の発表を始める。同門の佐藤春夫とは終生の友人であった。予科の教師は広瀬哲士(ベルグソンの初期訳者)で、学年末のフランス語成績は「不可」であった。翌年に予科2年に進級するが、父の任地メキシコに赴くため中退した。
東洋汽船会社の香港丸で横浜を出帆し、メキシコの日本公使館に在ること1年。この頃、肺結核を患う。父はベルギー人スチナ・リグールと再婚(堀口スチナ)し妹・岩子と弟・瑞典が生まれた。家庭内の通用語はフランス語で、その習得に専念しつつ、パルナシアン(高踏派)や象徴派の詩・散文を読み進めた。
滞在中の1913年(大正2年)2月、マデロ大統領が謀殺された軍事クーデター「悲劇の十日間」を体験する。同年中にシベリア経由でベルギーに向かい、ランボーをピストルで撃ったヴェルレーヌの事件を担当した裁判官シャルル・リグール家に住み、10月には当時日銀副総裁だった水町袈裟六の斡旋でベルギー国立銀行に日本銀行の委託研究生として勤務し、異例の待遇を受けた。
詩人としては、ヴェルレーヌを始めサンボリスム詩人への傾倒が始まり、詞華集『今日の詩人』でレミ・ド・グールモン(Remy de Gourmont)の詩を読み、「一生を通じての精神上の最大の事件」[1]といえる決定的な影響を受ける。以後も父の赴任に従いなながら、ベルギー、スペイン、スイス、パリ、ブラジル、ルーマニアと、青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。スペイン滞在時はマドリード日本公使館で、マリー・ローランサンと交歓しギヨーム・アポリネールを教えられる。スイスでは、トーマス・マン『魔の山』の舞台になったサナトリウムで療養した。
1917年(大正6年)に外交官及領事官試験のために帰国し、日夏耿之介、柳沢健、長谷川潔を知る。第一次論文選考、第二次筆記試験には合格したが口述試験で病弱のため採用されず、外交官への道を断念。翌年に浅野合名会社嘱託通弁となり、永井荷風序文による処女作『昨日の花』を自費出版。リオデジャネイロから『三田文学』『炬火』に寄稿。1919年(大正8年)、最初の詩集『月光とピエロ』(永井荷風序文)、歌集『パンの笛』(与謝野鉄幹、与謝野晶子序文)を刊行。以後、ブラジルのバイーア州、ペルナンブーコ州、リオ、サンパウロ、サントスやアルゼンチン、ウルグアイに滞在、ウルグアイではジュール・シュペルヴィエルを知る。
1923年(大正12年)ルーマニアへ赴く船中でポール・モラン『夜をひらく』を訳し、パリにモラン自身を訪ね翻訳出版の快諾を得た。長谷川潔や鈴木龍二らと再会交流し、藤田嗣治[2]や詩人アンドレ・サルモンらと交友。1925年(大正14年)に帰国した。
以後その仕事は作詩、作歌にとどまらず、評論、エッセイ、随筆、研究、翻訳と多方面に及び、多数の出版を手がけ、生涯に刊行された著訳書は、300点を超える。
彼の斬新な訳文は当時の文学青年に多大な影響を与え、特に新感覚派運動の誘因となった。帰国後に文化学院大学部でフランス近代詩を講ずる。以後、ヴェルレエヌの研究評伝を手がけ、戯曲訳にも手を染め、ジャン・コクトーをはじめ、11家13篇を訳す。1928年(昭和3年)日夏耿之介、西條八十との共同編集で詩誌『パンテオン』を創刊。岩佐東一郎、青柳瑞穂、城左門、田中冬二、矢野目源一、熊田精華らの若い詩人が集った。4月に文化学院を辞任。しかし、翌年に日夏耿之介と確執、決別し『パンテオン』が廃刊。自ら後継詩誌『オルフェオン』を第一書房から創刊し、新たに菱山修三が加入、機知感覚の詩風は、シュルレアリスム詩『詩と詩論』と共に詩壇に新風を与えた。
1932年(昭和7年)東京市小石川区(現・文京区の西部)に居を構え、6月に『昼顔』を発行するが発禁処分となる。1935年(昭和10年)に日本ペンクラブ副会長に推される(会長・島崎藤村)、文芸誌『若草』の詩選を担当し、京都の『時世粧』の編纂人となる。1936年(昭和11年)5月にコクトーが来日した際は帝国ホテルに同宿して歌舞伎などを案内[3]した。国家総動員法公布に伴い、日本学者のジョルジュ・ボノーと野尻湖畔のレーキサイドホテルにこもり、仏訳に専心した。しかし、著書が情報局検閲で削除されるなど思想弾圧を受けた。1941年(昭和16年)に静岡県興津に疎開。翌年に師・与謝野晶子が死去し、青山で挽歌十首を捧げた。1945年(昭和20年)に空襲下の静岡を脱出し、新潟県関川村(現:妙高市)に再疎開。秋には父が亡くなり故郷で葬った。1946年(昭和21年)より新潟県高田市(現・上越市)に転居[4]。
1947年(昭和22年)に詩集五冊を上梓したのを皮切りに著作活動を再開。翌年に東郷豊治と西蒲原郡の旧家を訪ね、良寛の遺墨を観る。1950年(昭和25年)に疎開先から引き揚げ、神奈川県湘南の葉山町に終生在住した。白水社の草野貞之の知遇により、ボードレール『悪の華』を全訳。
1957年(昭和32年)に日本芸術院会員。9月に国際ペン大会会長として来日したアンドレ・シャンソンと会談。1959年(昭和34年)『夕の虹』にて第10回読売文学賞を受賞。日本現代詩人会の「詩祭」で顕彰され、上司海雲と東郷豊治の案内で、秋篠寺、唐招提寺、薬師寺などを参観、日本全国を旅した。室生犀星詩集賞や読売文学賞選考委員となる。
1967年(昭和42年)1月の宮中歌会始(お題は「魚」)では、召人として「深海魚光に遠く住むものはつひにまなこも失ふとあり」と詠んだ[5]。生物学者でもある昭和天皇はたいそう喜んだとされるが、一部には、天皇本人を目の前にしての批判(諌言)であると解する向きもある。4月に勲三等瑞宝章を受章。
1970年(昭和45年)日本詩人クラブ名誉会員。大阪万博「日本の日」に式典歌として作詞した「日本新頌」「富士山点描」を発表し、11月に文化功労者に選定。翌年、日本現代詩人会名誉会員に。1973年(昭和48年)10月に新潟総合テレビ文化賞を受賞。1974年(昭和49年)、友人岩佐東一郎の葬儀に参列、同年秋に勲二等瑞宝章を受勲。1975年(昭和50年)に父の漢詩に和訓を付し、年譜を添え『長城詩沙』(大門出版)を上木し、宿願を果たした。1979年(昭和54年)11月に文化勲章を受章。東大寺落慶法要式典歌作詞のため、奈良へ取材旅行。1981年3月15日、急性肺炎のため葉山町の自宅で死去[6]。享年89。
葉山町森戸神社境内に「人に」、日光市龍王峡に「石」、上越市高田城址公園に「高田に残す」の詩碑が建立されている[7]。