塚田 理喜智 | |
---|---|
生誕 |
1892年12月15日 大日本帝国 石川県 |
死没 |
1958年5月19日(65歳没) 日本 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1916 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 第1挺進集団長 |
戦闘 |
第二次世界大戦 *レイテ島の戦い |
塚田 理喜智(つかだ りきち、1892年(明治25年)12月15日 - 1958年(昭和33年)5月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
石川県出身。1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉任官。1924年(大正13年)11月、陸軍大学校(36期)を卒業。参謀本部兵要班に配属された。のち、兵科を航空兵科に転ずる。
1933年(昭和8年)3月、浜松陸軍飛行学校教官に就任。1936年(昭和11年)5月、支那駐屯軍参謀部付となり、北支那方面軍情報主任参謀として日中戦争に出動。1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に昇進し、同年6月、飛行第7連隊長に就任。1939年(昭和14年)12月、第1飛行集団参謀長に異動。1941年(昭和16年)8月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
1942年(昭和17年)4月、第3飛行団長となり、第3航空軍参謀長、挺進練習部長を経て、1944年(昭和19年)11月、第1挺進集団長に着任。1945年(昭和20年)1月、建武集団長としてルソン島の戦いに臨み、同年3月、陸軍中将に進み、終戦を迎えた。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。