壺井 栄 (つぼい さかえ) | |
---|---|
1955年当時 | |
誕生 |
岩井 栄 1899年(明治32年)8月5日 日本 香川県小豆郡坂手村(現・小豆島町) |
死没 |
1967年(昭和42年)6月23日(67歳没) 日本 東京都中野区中野 |
墓地 | 小平霊園 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 内海高等小学校 |
ジャンル |
児童文学(童話) 一般向小説 |
主題 |
反戦・反核 戦災孤児 児童・日常・家族 孤島 |
代表作 |
『暦』(1940年) 『妻の座』(1947年 - 1949年) 『柿の木のある家』(1949年) 『母のない子と子のない母と』(1951年) 『二十四の瞳』(1952年) |
主な受賞歴 |
第4回 新潮文芸賞(暦、1941年受賞) 第1回 児童文学賞(柿の木のある家、1951年受賞) 第2回芸術選奨文部大臣賞(坂道・母のない子と子のない母と、1952年受賞) 第7回女流文学者賞(風、1955年受賞) 内海町(小豆島町)名誉町民(1967年受賞) |
デビュー作 |
プロ文士の妻の日記(1928年、初の活字化作) 崖下の家(1934年、初の執筆小説) 大根の葉(1938年、初の商業向作品) |
配偶者 | 壺井繁治 |
ウィキポータル 文学 |
壺井 栄(つぼい さかえ、旧姓:岩井、女性、1899年〈明治32年〉8月5日 - 1967年〈昭和42年〉6月23日)は、日本の小説家・詩人。主に一般向小説および児童文学(童話)を主領域に活躍した作家で、戦後反戦文学の名作として後に映画化された『二十四の瞳』の作者として知られる。夫は詩人の壺井繁治[1]。
1899年(明治32年)8月5日、香川県小豆郡坂手村に醤油樽職人の岩井藤吉の五女として生まれる[1]。蔵元が倒産したことで父が失職して経済状態が悪くなり他家の子守りを請け負い日銭を稼ぐなどの苦労を重ねるが、坂手小学校、内海高等小学校を卒業する。この時期に学校図書館や島の本屋の軒先に置かれていた『少女の友』『少女世界』の影響を受ける。卒業後は海漕業に転職した父の手伝いをしながら、都会に出稼ぎに出ていた長兄より不定期に『少年』『少女』などの雑誌を贈られて愛読するようになる[2]。
1915年(大正4年)郵便局、役場に勤める[3]。この頃から幼少期よりの無理がたたり、肋膜炎症や脊椎カリエスを患うようになる。1922年にははしかにかかり、かかった医師の医療の後手のために生死の境をさまよう羽目に陥る[2]。この頃、里帰りをしていた隣村の壺井繁治と知り合い、交流を持つようになる。1925年に上京し、繁治と結婚[4]。東京都豊多摩郡世田谷町字三宿(現在の世田谷区三宿)に居を構え、後に太子堂に移る。この頃、夫の文士活動の影響から林芙美子、平林たい子、佐多稲子、宮本百合子らと親交を持つようになる[2]。この頃から周囲の見様見真似で手習い作品を執筆するようになった。執筆作は夫や周囲の人々の計らいで彼らの同人誌や機関誌に載せられるようになる(この時期の作品は基本的に「身内に向けた作品が周囲の手によって雑誌に載せられたもの」であるためデビュー作とはみなされない事が多い)。
1928年、雑誌『婦女界』が読者日記(今で言うなら随筆およびエッセイ)の懸賞を行い、これに『プロ文士の妻の日記』として自身の日記を出す。入選賞となったため同作が『婦女界』に活字掲載され賞金30円をもらう[2](ただし、作家として正規の活動ではないため、デビュー作とはみなされない事が多い)。
1934年、雑誌『進歩』に壺井豊子の名義で、短編「崖下の家」を執筆する[2](変名義作品であるため、この作品もデビュー作とは、みなされない事が多い)。
1936年、佐多稲子に坪田譲治の『風の中の子供』を勧められる[2]。同時に稲子は、栄の作風からプロレタリア文学ではなく、未来に生きる子どもたちのための児童文学(童話)を執筆する事を勧めた[2]。ここから本格的な執筆活動を開始する。この時、坪田作品に影響を受けて執筆された作品のひとつが、後にデビュー作と見なされる『大根の葉』である[2]。
1938年、雑誌『文藝』に本名名義で『大根の葉』を一般文芸作として発表[5]した。一般には、これ(初の本名名義および意図的な作家活動による作品発表)をもってデビュー作とみなす。のち数多くの作品を執筆するようになる。芸術選奨文部大臣賞を始め、新潮文芸賞[4]・児童文学賞などを受賞。1952年に発表された『二十四の瞳』は1954年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され[1]、小豆島の名を全国に知らしめた。
1961年、高齢により気管支喘息の発作を起こし、慶應義塾大学病院に入院。翌年に退院するが、以降は発作を抑えるために軽井沢にて静養する事が多かったとされる。以降、数度の転院による入院生活を余儀なくされる事となる。
1967年に内海町名誉町民の称号を与えられた。同年6月23日に喘息発作のため、自宅近所の熊谷病院にて死去。享年67。
1972年、壺井の文学を顕彰するとともに、郷土の児童・生徒の文学資質の向上と発展を図るために壺井栄賞が創設された[6][7]。