時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 |
安永7年(1778年) ※天明元年12月2日(1782年1月15日)とも |
死没 | 天保8年3月19日(1837年4月23日) |
別名 | 秀次郎、新十郎 |
諡号 | 楽園、華岳 |
墓所 | 東京都世田谷区太子堂の教学院 |
幕府 | 江戸幕府老中 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 相模小田原藩主 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 父:大久保忠顕、母:杉山氏 |
妻 | 正室:蜂須賀治昭の娘 |
子 |
忠脩、逸(牧野忠雅正室)、 偶子(加藤明邦正室、のち本庄宗秀継室) 養子:忠愨 |
大久保 忠真(おおくぼ ただざね)は、江戸時代後期の譜代大名、老中。相模国小田原藩の第7代藩主。小田原藩大久保家9代。
第6代藩主・大久保忠顕の長男として生まれる。父の死により、寛政8年(1796年)、家督を継ぐ。
江戸時代後期になると、小田原藩でも財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていた。
藩主の忠真は二宮尊徳を登用して改革を行なうこととした。尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとした。
しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである。そこでまず、忠真は文政5年(1822年)、尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地、現在の栃木県真岡市二宮地区)の復興を依頼した。桜町は3000石の表高にもかかわらず、荒廃が進んで収穫が800石にまで落ち込んでいた。それまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、その都度失敗していた。
尊徳が桜町復興に成功すると、次に忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援した。天保8年(1837年)のことである。尊徳登用を思い立ってから15年が経っていた。尊徳の農村復興は九分九厘成功したが、天保8年、忠真が57歳で突如として急死し、跡を嫡孫の忠愨が継ぐと、尊徳は後ろ盾を無くした。二宮尊徳による小田原藩の改革は保守派の反対によって頓挫した。
また、文政5年(1822年)には藩校集成館(小田原市立三の丸小学校所在地にあった)を興した。この藩校は維新後、幾度かの変遷を経て六郡共立小田原中学校となり、1886年(明治19年)、同中学校が大住郡金目村に移転され三郡共立学校となることで、神奈川県立秦野高等学校、神奈川県立平塚農業高等学校の前身となった[注釈 1]。
一方、幕政においては松平定信の推挙で老中となり、20年以上在職する。政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面で矢部定謙、川路聖謨、間宮林蔵(蝦夷地や樺太の探検で著名)など下級幕吏を登用・保護している。
父母
正室
側室
子女
養子