時代 | 飛鳥時代 - 奈良時代 |
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生誕 | 天智天皇4年(665年) |
死没 | 天平3年7月25日(731年8月31日) |
別名 | 多比等 |
官位 | 従二位大納言 |
主君 | 文武天皇→元明天皇→元正天皇→聖武天皇 |
氏族 | 大伴連→宿禰 |
父母 |
父:大伴安麻呂 母:巨勢人娘・郎女 |
兄弟 | 旅人、田主、坂上郎女、稲公、宿奈麻呂 |
妻 | 大伴郎女、丹比郎女 |
子 | 家持、書持、留女之女郎 |
大伴 旅人(おおとも の たびと)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿・歌人。名は多比等、淡等とも記される。大納言・大伴安麻呂の長男。官位は従二位・大納言。
和銅3年(710年)正月の元明天皇の朝賀に際して、左将軍として副将軍・穂積老と共に騎兵・隼人・蝦夷らを率いて朱雀大路を行進した[1]。和銅4年(711年)従四位下、和銅8年(715年)従四位上・中務卿、養老2年(718年)中納言、養老3年(719年)正四位下と元明朝から元正朝にかけて順調に昇進する。
養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した隼人の反乱の報告を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。5月頃軍営を張り、6月中旬までには一定の成果を上げる[2]。その後、8月3日に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから、8月12日に旅人は京に戻るよう勅を受ける。しかし、隼人の平定は未了であったため、副将軍以下は引き続き駐屯を命じられている[3]。翌養老5年(721年)従三位に、神亀元年(724年)聖武天皇の即位に伴って正三位に叙せられる。
神亀5年(728年)頃大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任する。60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であったが、この任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事[4]、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事[5]の両説がある。大宰府では山上憶良・満誓らとの交流を通じて筑紫歌壇を形成した。赴任後間もなく妻を亡くし[6]、後には異母妹の坂上郎女が西下している。なお、子息の家持・書持や坂上郎女の西下時期については、旅人の赴任と同時とする説と、天平2年(730年)6月に旅人が危篤になった時との両説がある。しかし、旅人の大宰帥時代については、史料が万葉集のみに限られていることから、旅人周辺の人物関係については推測の域を出ていない考察が多い。
旅人が九州にいる間に、神亀6年(729年)に長屋王の変で左大臣・長屋王が自殺、天平2年(730年)9月には大納言・多治比池守が薨去と大官が次々と没したことから、旅人は太政官において臣下最高位となり(太政官の首班は知太政官事・舎人親王)、同年11月に大納言に任ぜられて帰京する。翌天平3年(731年)正月に従二位に昇進するが、まもなく病を得て7月25日に薨去。享年67。最終官位は大納言従二位。
『万葉集』に和歌作品が78首選出されているが、和歌の多くは大宰帥任官以後のものである。酒を讃(ほ)むるの歌十三首[7]を詠んでおり、酒をこよなく愛した人物として知られる。『新古今和歌集』(1首)以下の勅撰和歌集に13首が入集[8]。漢詩集『懐風藻』に漢詩作品が採録されている。
歌風は、大陸的風雅心・老荘的自由思想と位置付けられている[9]。
注記のないものは『続日本紀』による。