大元帥明王(だいげんすいみょうおう、サンスクリット: Āṭavaka)は、仏教(特に密教)における尊格である明王の一つ。なお、真言密教においては「帥」の字は発音せず「たいげんみょうおう」と読み、また太元明王と記すこともある。
大元帥明王は、古代インド神話に登場する非アーリアンの鬼神アータヴァカ(Āṭavaka)に由来し、「荒野鬼神大将」と漢訳される。直訳すると「林に住む者」、「林の主」の意味となる。 毘沙門天の眷属である八大夜叉大将の一尊に数えられ、無比力夜叉、阿吒縛迦夜叉大将、阿吒縛迦鬼神元帥とも呼ばれる。
このようなアータヴァカは、インド神話において弱者を襲って喰らう悪鬼神とされたが、密教においては大日如来の功徳により善神へと変じ、その慰撫しがたい大いなる力は国家をも守護する護法の力へと転化させ、明王の総帥となった。 大元帥明王は大元帥の名が示すとおり、明王の最高尊である不動明王に匹敵する霊験を有するとされ、一説には「全ての明王の総帥であることから大元帥の名を冠する」と言われる。
日本への伝来は、小栗栖の常暁によって請来されたという。常暁は栖霊寺・文祭から太元法を受けて、諸尊像や経軌を書写して持ち帰り、840年(承和7年)に法琳寺に安置されて以降、宮中で修法されるようになった。
大元帥明王は国土を護り敵や悪霊の降伏に絶大な功徳を発揮すると言われ、「必勝祈願」や「敵国粉砕」「国土防衛」の祈願として宮中では古くから大元帥明王の秘法(大元帥法)が盛んに厳修されてきた。 なお、軍組織における大元帥や元帥の呼称は、この大元帥明王からきているという説もある。
立川武蔵(国立民族学博物館教授)は、
恨みを抱いたまま不遇の死を遂げたある将軍が、臨終に際して、夜叉となって転生し、都城内の男女をすべて食べるという誓願を起こした。そして、実際、その死後に病死者が続出したため、人々は一人ずつ人身御供を夜叉に捧げるようにした。順番が来てある長者の家で、生まれたばかりの子どもが捧げられることになった。嘆き悲しむ妻を夫は慰め、愛児を夜叉に捧げるために林の中に送り[1]、長者夫妻は髙楼に上って、一心に子どもの無事を祈った。仏眼によってこのことを知った釈尊は、ただちに夜叉のところに赴き、法を説いて浄心を生せしめ、仏教に帰依させた。そして釈尊の手によって長者夫妻のもとに、無事赤ん坊は送り返された。 — 立川武蔵、 「癒しと救い -アジアの宗教的伝統に学ぶ」、2001年、pp.158-159[2]。
と述べている。
大元帥明王の仏像は奈良市所在の秋篠寺の秘仏として安置されている鎌倉時代作のものが知られる。絵巻や掛軸等は全国に残るがその数は決して多くはなく、描かれた姿も一面六臂から八面十六臂まで様々である。
秋篠寺に残る大元帥明王像は一面六臂の憤怒相であり、東大寺の仁王像を彷彿とさせる筋骨隆々たる逞しい体つきで六本の腕に武器を構え、軍荼利明王 と同様、身体に蛇を巻き付けている。顔はもはや憤怒相を通り越してまさに鬼神そのものとも言うべき恐ろしい相であり、髪は怒りによって天を衝くように逆立つ。
また、京都の東寺にも存在し、国家をあげての調伏に利用されている。
真言 ノウボウ タリツ タボリツ ハラボリツ シャキンメイ シャキンメイ タラサンダン オエンビ ソワカ (Namo tariḥ taburiḥ bhara buriḥ śakyame śakyame trasaddhāṃ uyaṃvi svāhā)
秋篠寺
理性院(りしょういん:醍醐寺塔頭)
太元堂(東寺)
京善寺
慈光院