大塚 英志 (おおつか えいじ) | |
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![]() (2012年) | |
ペンネーム |
オーツカ某 S-nery Angel 三木・モトユキ・エリクソン 許月珍 |
誕生 |
1958年8月28日(66歳)![]() |
職業 |
大学教授 評論家 漫画原作者 小説家 編集者 元漫画家 |
言語 | 日本語 |
国籍 |
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教育 | 博士(芸術工学)(2007年・神戸芸術工科大学) |
最終学歴 |
筑波大学第一学群人文学類卒業 神戸芸術工科大学博士取得 |
活動期間 | 1987年 - |
ジャンル | 批評、民俗学、小説、漫画原作 |
主題 | 現代思想、民俗学、戦後民主主義、サブカルチャー、おたく、物語論 |
代表作 |
|
主な受賞歴 | サントリー学芸賞社会・風俗部門(『戦後まんがの表現空間 記号的身体の呪縛』)、角川財団学芸賞(『「捨て子」たちの民俗学―小泉八雲と柳田国男』) |
デビュー作 | 『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』 |
配偶者 | 白倉由美 |
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大塚 英志(おおつか えいじ、1958年8月28日[2] - )は、日本の評論家、研究者、漫画原作者、小説家、編集者、元漫画家である。
2012年4月から2024年3月まで国際日本文化研究センター研究部教授であり、2024年4月より同名誉教授。2006年から東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師も務める。2006年から2014年まで神戸芸術工科大学教授および特別教授、2014年から2016年までは東京大学大学院情報学環特任教授も務めた。妻は漫画家、小説家の白倉由美。2015年より研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版)を私費[3]で刊行している。
1958年8月28日[2]東京都田無市(現・西東京市)生まれ[1]。1981年3月筑波大学第一学群人文学類卒業。 大塚は、高校生の時に漫画家をしており、大学卒業後は編集者となり、その後、漫画原作者、評論家、小説家、大学教授になった。
大塚は、徳間書店でアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり1981年から1988年まで働いていた。また、フリーの編集者として白夜書房では1983年から1985年まで、角川書店の子会社の角川メディアオフィスでは1986年から1992年まで働いていた。 大塚の著書の『「おたく」の精神史――1980年代論』『二階の住人とその時代 転形期のサブカルチャー私史』『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』は大塚の編集者時代を回想した三部作である。『「おたく」の精神史』では白夜書房時代と徳間書店時代、『二階の住人とその時代』では徳間書店時代、『日本がバカだから戦争に負けた』では角川メディアオフィス時代をそれぞれ回想している。
1987年に大塚は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にて漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、1987年 - 1990年連載)にて漫画原作者デビューした。漫画原作者としての仕事も多く、代表作としては『多重人格探偵サイコ』『黒鷺死体宅配便』『リヴァイアサン』『木島日記』『アンラッキーヤングメン』『恋する民俗学者』など。自作のノベライズや、映像化や舞台化の脚本も行っている。
また、1987年に漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家デビューした。大学でのキャリアを断念した民俗学においても執筆活動を行い、『少女民俗学』『物語消費論』『人身御供論』などを上梓。サブカルチャーに詳しい評論家として、論壇で一定の地位を得る。大塚は1988年に評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした[4]。
『物語消費論』では、ビックリマンシールやシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。物語消費の概念は、東浩紀の著書『動物化するポストモダン』で参照され、同書で展開した概念である「データベース消費」に多大な影響を与えた。
評論対象は多岐にわたり、『サブカルチャー文学論』(朝日新聞社、2004年2月)、『更新期の文学』(2005年12月)、『怪談前後 柳田民俗学と自然主義』(角川選書、2007年2月)のような文芸評論、『彼女たちの連合赤軍』のようなフェミニズム論、『戦後民主主義のリハビリテーション』のような戦後民主主義論、『少女たちの「かわいい」天皇』『「おたく」の精神史』などの戦後日本論、『戦後まんがの表現空間』『アトムの命題』などの漫画論、『「捨て子」たちの民俗学 小泉八雲と柳田國男』(角川選書、2006年12月)、『公民の民俗学』(作品社、2007年2月)、『偽史としての民俗学 柳田國男と異端の思想』(角川書店、2007年5月)などの民俗学論、『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』(2000年11月)『ストーリーメーカー』などの創作論、など多彩かつ旺盛な執筆活動を続けている
1980年代末より学習院女子大学、和光大学等の私大の非常勤講師を歴任。2006年4月に神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科教授に就任。また東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師として物語理論および漫画表現論の講義を担当。学科改組により2010年4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。2012年国際日本文化研究センター客員教授。2013年3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から2014年3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。2013年10月から国際日本文化研究センター研究部教授[5]。2014年から2016年まで東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授[6]を歴任した。
2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」[7]。
半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』で大塚は、漫画家のみなもと太郎、民俗学者の千葉徳爾と宮田登の3人を「師匠」と呼んでいる。また、『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』では影響を受けた思想家・批評家として江藤淳、柳田國男、三島由紀夫、吉本隆明などを挙げている。また、『戦後民主主義のリハビリテーション』にて、批評の対象ではなく読書の趣味の対象として愛読している小説家として、田山花袋、川崎長太郎、嘉村磯多の3人の私小説家を挙げている[8]。
1958年8月28日東京都田無市(現・西東京市)生まれ。父が満州からの引揚者だったため、工業排水が混じったドブ川沿いにあり、台風のたびに床下浸水する劣悪な環境の引揚げ住宅で大学入学まで暮らしていた[9]。父は元日本共産党員だったが、60年安保が終了したころに離党した[10]。 父は大塚が1歳ごろに経理関係の事務所を経営していたがすぐに失敗したため、大塚一家は困窮した[11]。その後、大塚の父は会社を転々としながら経理の仕事で家族を養っていた[12]。
中学生の時に漫画同人集団「作画グループ」に入会したのがきっかけで、高校1年生より漫画家のみなもと太郎のアシスタントを始める。 高校2年生の時に、みなもと太郎が締め切りに間に合わなかった連載の代理原稿に自分が描いたギャグ漫画が採用されたのがきっかけで、ギャグ漫画家としてデビューする[13]。大塚が描いたギャグ漫画は学研の中学生向けの学習誌や『漫画ギャンブル王国』(海潮社)に掲載されていた。なお、『漫画ギャンブル王国』は成人雑誌だったが大塚が描いていたのはポルノではなくノーマルなギャグ漫画だった[14]。
当初は経済的な理由で大学進学は断念して、高校卒業後は地元の市役所の水道課に就職して、働きながら漫画家を続ける予定だった[15]。しかし、両親が働きながら息子の学費を貯金してくれていて、国公立大学なら何とかなるのが分かったため大学進学を決意した。高校3年生の時に、師匠のみなもと太郎から『平凡パンチ』での連載を紹介されていたが、大学受験を機に自分の才能に見切りを付けて、その連載の話を辞退して1年で漫画家を引退した[16]。みなもと太郎のアシスタントそのものは、大学卒業ごろまで不定期のアルバイトで手伝っていた[17]。
高校の現代国語の授業で柳田國男の『雪国の春』を読んで感動したのがきっかけで、民俗学を勉強したくて筑波大学第一学群人文学類に進学した[15]。大学では民俗学者の千葉徳爾と宮田登の指導の下で、日本民俗学を勉強した(千葉は柳田國男の直系の弟子だったため、大塚は柳田の孫弟子になる[18])。千葉徳爾は大塚の在学中に定年退官したため、大学生時代の4年間のうち、最初の3年間が千葉徳爾、最後の1年間だけ宮田登の指導を受けた[19]。大塚は大学在学中に民俗学のフィールドワークの費用を稼ぐために、「作画グループ」の先輩の沢田ユキオの紹介で、徳間書店の雑誌『テレビランド』で漫画家のアシスタントのアルバイトをしていた[20]。
1981年3月筑波大学を卒業。当初は研究者を目指したが、『キネマ旬報』の映画投稿欄に映画評を投稿していたのを、指導教官の宮田登に読まれていたのがきっかけで、口頭試問で宮田登に「君の発想はジャーナリスティックすぎて学問には向かない」と引導を渡されて大学院への進学を断念した[21]。大塚は教師も志望していたが、同時期の教員採用試験に落ちてしまったため、翌年の採用試験を受けるまでの生活費を稼ぐために、大学在学中に漫画家のアシスタントのアルバイトをしていたツテで、徳間書店の雑誌『リュウ』で編集者のアルバイトを始める[22]。当初の予定では来年の採用試験までのツナギで、1年間だけ編集者をやる筈だったが、結局教師にはならずに編集者としての人生を歩むことになっていった。大塚はアルバイトの編集者から契約社員の編集者となり、徳間書店では1981年から1988年まで働いていた。
大塚は最初の半年は、『リュウ』の編集長格の校条満に編集者の仕事を教えてもらった[23]。その次に、校条満が担当していた漫画家の石ノ森章太郎と、モンキーパンチと、安彦良和の原稿の受け取りの仕事を担当した[24]。この時に石ノ森章太郎から漫画のネームの見方について徹底的に指導された[22]。後に石ノ森章太郎が『リュウ』に連載していた漫画『幻魔大戦』の打ち切りが決定したときは校条満の指示で大塚が石ノ森に打ち切りを宣告しに行った[25]。その後、校条満から徳間書店に漫画の持ち込みに来た新人の対応を任せられるようになり、その一人だったかがみあきらと友人になった[26]。
『リュウ』の編集部は、アニメ雑誌『アニメージュ』と同じ徳間書店第二編集局にあった。大塚は『アニメージュ』の創刊者であり、初代編集長の尾形英夫にフックアップされ『アニメージュ』編集部で働くことになる[27]。この時期の『アニメージュ』副編集長は後にスタジオジブリのプロデューサーとして有名になる鈴木敏夫だった。大塚は『アニメージュ』1982年2月号より連載が開始された宮崎駿の漫画作品『風の谷のナウシカ』に、鈴木敏夫『アニメージュ』副編集長の指示で、連載第1回のみアシスタント業務に参加しており、原稿のスクリーントーン貼りを行った[28]。また他誌に『リュウ』の交換広告を届ける過程で『ふゅーじょんぷろだくと』編集者の小形克宏と知己を得る[29]。
1982年、大塚は徳間書店の美少女漫画雑誌『プチアップルパイ』の創刊編集長になる。この雑誌は大塚が徳間書店で最初に企画した雑誌だった[30]。並行して大塚と小形は「ぼくらのまんが誌」を実現するため『漫画ブリッコ』の原型となるプロジェクトをスタートさせる(企画営業は小形がそれまでの活動で培った人脈をフィールドとして始められ、大塚が企画を主導する形となった)[29]。1983年1月、大塚と小形の初コンビ仕事として『COMICキュロットDX』がセルフ出版から刊行。これが『漫画ブリッコ』のパイロット版となった。ほどなく大塚は憧れの編集者だった末井昭の下で働こうと思い、徳間書店との兼業で白夜書房(大塚が勤務した当時の社名は「セルフ出版」)のフリー編集者として働き始める[31]。なお、大塚は白夜書房では1983年から1985年まで働いた。
1983年春、日本で2番目となる成人向けロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』(83年5月号 - 85年9月号、セルフ出版→白夜書房)の編集人となる[32]。この時期の大塚は平日の日中は徳間書店、平日の夜間および週末は白夜書房で編集者として兼業で働いていた[33]。『漫画ブリッコ』の編集人となる条件は、『漫画ブリッコ』が万が一警察から警告もしくは摘発された時に、一人で責任を被って逮捕されることだった[34]。元々、この雑誌は経営不振から半年後に廃刊が決定しており、大塚と小形はあくまでも残務処理担当として編集者を任されていた[35]。
ここで大塚は、どうせ廃刊だから商売度外視で好きなことをやってみようと思い、徳間書店に持ち込みに来ていたオタク系の新人漫画家を大量に動員して、『漫画ブリッコ』83年11月号より表紙を少女漫画寄りのイラストに差し替えて、美少女コミック誌としてリニューアルした[36]。その結果、『漫画ブリッコ』リニューアル号は完売したため廃刊は撤回され、会社から引き続き美少女コミック路線で続行することを命じられた[37]。特に、大塚英志は『漫画ブリッコ』にて友人でもある漫画家のかがみあきらの『ワインカラー物語』(「あぽ」名義、83年10月号 - 84年4月号連載)の連載を担当していた。『ワインカラー物語』は本筋のラブコメとは別に、かがみあきら本人と大塚英志がモデルの編集者キャラ「オーツカ某」の2人が毎回登場して、楽屋落ちのネタをやるのが定番のギャグだった。「オーツカ某」というキャラクターを作ったのはかがみあきらであり[38]、そのキャラクターは『漫画ブリッコ』に掲載されている他の作家の漫画にも楽屋落ち的に登場していくことになっていった。また、「オーツカ某」は大塚英志が『漫画ブリッコ』に記事を書く時のペンネームとしても使われた。その他に編集者としては、桜沢エリカ、岡崎京子、白倉由美、藤原カムイ、などの漫画家、映画イラストライターの三留まゆみ(早坂みけ)等をこの雑誌で発掘したことが業績とされている。後に大塚英志の妻となる白倉由美はこのころの担当漫画家だった。
1984年、大塚英志は白夜書房が経営する漫画専門書店『まんがの森』(同年10月1日に新宿店本店開店)の立ち上げに参加した。大塚は『リュウ』(徳間書店)のコラムで、編集していたミニコミ誌を特集したことがあったおしぐちたかしを『まんがの森』の初代店長にフックアップした。大塚は同人誌系の人脈をおしぐちたかしに紹介し、『まんがの森』で岡崎京子、桜沢エリカのサイン会を実施した。また、おしぐちたかしは2018年のインタビューで『まんがの森』立ち上げについて、「あの店の立ち上げ時の半分くらいは、大塚(英志)さんのアイデアが組み込まれている。」[39]と発言している。このころ、白夜書房のミニコミ誌『白夜通信』で書いた文章を評価した『漫画ブリッコ』担当営業の藤脇邦夫に業界誌『新文化』を紹介され、コラムを書き始める。
同年より、大塚英志は徳間書店にて校条満と共に、少年向けマンガ雑誌『少年キャプテン』立ち上げに参加する。同紙の企画書は大塚英志が描いたとのことである[40]。大塚の企画案では雑誌タイトルは『ZERO』であった[41]。大塚は看板作家にかがみあきらを置く予定であり、かがみの才能があれば雑誌を成功させられると確信していた[40]。また、同紙で大塚はかがみの他に、高屋良樹の『強殖装甲ガイバー』とあさりよしとおの『宇宙家族カールビンソン』の担当編集者だった[40]。『強殖装甲ガイバー』は高屋に「仮面ライダーみたいなまんが描いて」と依頼した[42]。
しかし、1984年8月9日にかがみあきらは自宅で急死してしまう[43]。かがみあきらが亡くなったのは、白夜書房よりかがみの単行本『ワインカラー物語』が刊行されたのとほぼ同時期だった。大塚が白夜書房にかがみあきらの急死を連絡すると、直ちに『ワインカラー物語』の単行本を重版しようと提案されたことで、担当営業の藤脇邦夫と口論になり、大塚は白夜書房に対する忠誠心を失った[44]。かがみあきらが亡くなった半年後、大塚は『漫画ブリッコ』紙上で会社に無許可で同紙の休刊を予告したため、社内で問題になり、『漫画ブリッコ』85年9月号にて編集人を降板した[44]。この休刊の背景には、前述の藤脇との対立に加え、大塚が企画や原案に関与し、白夜書房から発売された18禁アニメビデオ作品『魔法のルージュ りっぷ☆すてぃっく』の売れ行き不振があった。
一方、徳間書店の『少年キャプテン』はかがみあきら不在の状態で、1985年1月22日創刊した。創刊編集長は校条満だった。創刊号は実売発行部数12万部で完売した。また、同紙連載漫画の単行本も順調に売れていた。しかし、看板作家のかがみあきらの不在や、自社で新人漫画家を育てようとしていた編集部と、大手出版社からベテラン漫画家を引き抜こうとしていた徳間書店上層部との方針の食い違い等が重なり、『少年キャプテン』は徐々に迷走していった。『少年キャプテン』は実売発行部数が20万部で頭打ちになった時点で、校条満が責任を問われて編集長を解任され、これにより大塚も失脚・干されることになった[45]。1988年に徳間書店を正式に退職するまでの最後の2年間は、月に一回ほど、担当の漫画家の原稿の入稿で会社に顔を出し、ササキバラ・ゴウなどの若手社員と話すだけだった[46]。
親友だったかがみあきらが亡くなったのと、編集者人生を賭けたマンガ雑誌『少年キャプテン』が失敗したことで、ヤケクソになった大塚英志は、86年ごろから他社の中堅クラスの版元の漫画雑誌創刊に参加してはすぐに廃刊になるのを繰り返していた。このころに大塚が創刊に参加した雑誌には『週刊少年宝島』(宝島社)や『月刊コミックNORA』(学研)等がある[47]。しかし、同時期に漫画業界への不平不満をぶつけて書いていた、業界誌『新文化』のコラムが好評となり徐々に評論家として認められていくことになった[47]。大塚は翌1987年に、上記の『新文化』のコラムや、80年代前半の『白夜通信』に書いていたコラムをまとめた漫画評論『「まんが」の構造――商品・テキスト・現象』(弓立社)で評論家としてデビューした。大塚は同時代のニューアカブームの影響を受け、大学時代に勉強していた日本民俗学と、フランス現代思想のポスト構造主義をミックスした評論を書いていた。大塚は特に、フランスの現代思想家のジャン・ボードリヤールの、「ポストモダン社会において、商品の価値は使用価値ではなく、記号的な広告価値で決定される」という思想に影響を受けた。大塚は後年、ボードリヤールを「80年代に、自分が最も心酔していた思想家」と回想している[48]。
1986年、大塚英志が業界誌『新文化』に書いた当時の角川書店の企画や流通の問題点を批判したコラムを読んで激怒した、角川書店幹部(専務取締役)の角川歴彦に呼び出しを受けるというトラブルが発生する[49]。大塚は、角川歴彦の側近の千葉孝を通してホテルのバーに呼び出され、大塚と角川と千葉の3人で話し合いになった。最初は冷静な話し合いだったが、次第に売り言葉に買い言葉で本気の口論となっていった。大塚は角川歴彦から「お前は理屈ばかりだ、悔しかったらヒット作を作ってみろ」と一喝されたのを受けて、「作ってやる」と啖呵を切って席を立ったため、大塚と角川の話し合いは20分ほどで終了した[50]。しかしその数日後、今度は角川歴彦の別の側近の佐藤辰男を通して、角川書店の雑誌で「ゲームをベースにしたまんが」を作らないかとヘッドハンティングの連絡がきた。この時期の徳間書店での大塚は、大塚が育てた新人漫画家全員を、徳間書店の正社員の編集者に引き渡すように編集部から圧力をかけられているありさまだったので、この角川歴彦のヘッドハンティングに乗ることにした[51]。こうして大塚は、角川書店の子会社で、角川発行の雑誌の編集およびキャラクター商品の開発などを担当する会社であり、角川歴彦がオーナーをしていた出版社角川メディアオフィスにてフリーの編集者として働くことになった。その際、徳間書店から「徳間ではいらない」と言われていた新人漫画家の、田島昭宇、円英智、羽衣翔の3人を徳間書店から許可をもらった上で角川書店に引き抜いていった[51]。しかし、大塚が徳間書店を正式に退職するのは1988年なので、最初の数年間は角川メディアオフィスと徳間書店でフリーの編集者として兼業で働いていた。
1987年、大塚英志は角川書店の雑誌『マル勝ファミコン』にてファンタジー漫画作品『魍魎戦記MADARA』(作画:田島昭宇、世界設定:阿賀伸宏、 1987年 - 1990年連載)にて漫画原作者デビューした。この時大塚は、大学時代に勉強していた「物語論」を参考にして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した。大塚は、映画監督のジョージ・ルーカスが映画『スター・ウォーズ』のシナリオ制作時にアメリカの神話学者のジョーゼフ・キャンベルの物語論『千の顔をもつ英雄』を下敷きにした逸話を参考にして、『魍魎戦記MADARA』ではロシア民俗学者のウラジーミル・プロップの物語論『昔話の形態学』と、フロイト派精神分析学者のオットー・ランクの物語論『英雄誕生の神話』と、日本民俗学者の折口信夫の物語論『貴種流離譚』を下敷きにして、さらに手塚治虫の漫画『どろろ』と三島由紀夫の小説『豊饒の海』のキャラクター設定をミックスして『魍魎戦記MADARA』のシナリオを作成した[52]。『魍魎戦記MADARA』はヒット作となり、コミックの売上が10万部に達した時点でゲーム化が決定した[53]。同作はその後大塚英志 によって「MADARA PROJECT」という名称のメディアミックス戦略が展開され、ゲーム化以外にも、小説・OVA・ラジオドラマ等へ幅広く展開したメディアミックスの先駆け的作品となった[54]。大塚の回想によると、『魍魎戦記MADARA』のコミックスの売上は最終的に、コミックス各巻の売上がそれぞれ40万部に達した[55]。
1988年、大塚英志は崩御する直前だった病床の昭和天皇を題材にした評論『少女たちの「かわいい」天皇』(『中央公論』1988年12月号掲載)で29歳で論壇デビューした[4]。同評論は天皇制を擁護したともとれる内容だったため、大塚の回想によると右翼方面から歓迎されたとのことである[56]。 以降の大塚英志は、80年代末から、90年代全般、2000年代前半にかけて『中央公論』『諸君!』『Voice』『論座』『正論』といった保守論壇系のメディアで評論家活動をしていた。 大塚は、思想的には比較的「左」の自分が保守論壇にいた理由について、当時の保守論壇は自分たちと立場・思想が異なる人間が評論を発表することに寛容であり、いい意味でゆるかったからと回想で述べている[57]。
1989年、大塚英志は同年5月に刊行した評論『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』(新曜社:1989年5月刊行)が広告業界からマーケティング理論として高く評価されたのがきっかけで、大塚は1989年から1993年ごろまで広告業界のシンクタンクにてマーケティング担当の評論家として雇われていた。この時に大塚が働いていたシンクタンクの一つがぴあ総研である[58]。大塚はぴあ総研では「特別研究員」という肩書で1993年ごろまで働いており[59]、若手の社会学者のスタッフとトレンドの調査研究をしていた。
1989年7月23日に犯人が逮捕された東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件には衝撃を受け、即時に『漫画ブリッコ』での連載コラムで「おたく」という言葉を発明した中森明夫との対談集『Mの世代―ぼくらとミヤザキ君』を上梓。犯人が「おたく」だったのを事件の原因であるかのように決めつける風潮に異議を唱え、「(犯人の)彼が部屋に蓄えた6000本のビデオテープをもって、彼が裁かれるのであれば僕は彼を弁護する」「彼の持っていた6000本のビデオテープの中で、実際には100本ほど(約1%)しかなかったホラー作品や性的ビデオに事件の原因を求めるには無理がある」と発言。実際に1990年から1997年に行われた一審では犯人の特別弁護人を務めた(二審以降は弁護団からは距離を取りつつも、一般傍聴人として裁判所に通い続け、2006年1月17日の最高裁での死刑判決時も、傍聴席で判決を直接聞いている[60])。
1990年、大塚英志は自分の事務所の名称を「物語環境開発」とした。「物語環境開発」というネーミングのうち、「環境開発」とはバブル時代によくあった地上げ屋の会社名であり、自分は「仮想現実の地上げ屋」であるという皮肉が込められている[61]。一方、「物語開発」とは、ハリウッド映画にて脚本作成の前段階でのストーリーの企画開発を意味する映画用語の「Development Stage」を日本語に意訳したものであり、自分はストーリー開発の専門家であるという自負が込められている[62]。
1992年、大塚英志は太田出版より「太田COMICS芸術漫画叢書」というレーベルを立ち上げ、吾妻ひでおの漫画『夜の魚』、『定本 不条理日記』の二冊を刊行した。これは太田出版の名義を借りただけで、大塚の自費出版だった[63]。特に『夜の魚』のあとがき漫画『夜を歩く』は、後の吾妻ひでおの代表作『失踪日記』第一話になり、吾妻ひでおは大塚英志にこの原稿を宅配便で送ったその足で『失踪日記』で描かれた2度目の失踪に入った[64]。
1992年9月14日、角川書店社長角川春樹が、角川書店副社長であり大塚英志の上司でもある角川歴彦を、角川書店副社長職および角川メディアオフィス社長職から解任して、角川書店から追放した。角川歴彦は直ちに角川書店の子会社の角川メディアオフィス全社員71人のうち、70人の社員を引き抜いて出版社メディアワークスを立ち上げたため、角川書店の社長と副社長の対立は、後世に「角川騒動」と称される同社の分裂騒動に発展した。大塚英志はこの時点でも角川メディアオフィスの正社員ではなく、フリーの編集者の立場だったが、分裂騒動に首謀者の一人として参加しており、2017年の著作『日本がバカだから戦争に負けた 角川書店と教養の運命』(星海社新書)にて、その内幕を詳細に語っている。
角川歴彦が解任されたその直後から、大塚英志を含む歴彦派の人間は、角川書店で仕事をしている作家やライターと、独立構想と独立後の版権移動について交渉を開始していた[65]。大塚の回想によると、角川メディアオフィスの編集部の人間が私立探偵に尾行調査された疑いがあったため、角川メディアオフィスの秘密会議では外部に情報が漏れないように合言葉を使って、角川書店を分裂させるための謀議を行っていた[66]。
当初は歴彦派がメディアワークスを立ち上げるのに必要な取次口座の当てがなかったため、大塚英志は評論を何冊か出版した付き合いがあり、当時経営不振に落ち込んでいた出版社弓立社の取次口座を、『魍魎戦記MADARAシリーズ』の印税をつぎ込んで購入しようとしたが、結局主婦の友社の口座が使えることになったのでこの計画は実行されなかった[66]。
大塚英志は同時期にぴあ総研にて「特別研究員」として働いていた時の人脈を使って[67]、メディアワークスの資本金の一部の資金調達も行っており、ゲームセンター経営の企業のオーナーの「三浦さん」という人物から、数千万円単位の出資を取り付けていた。この時に大塚は「三浦さん」にメディアワークスに出資して貰うための保証として、その出資額の1割に相当する金額のメディアワークスの株を自費で購入した[68]。そのために、この時期のメディアワークスの雑誌の一部では、大塚の原作漫画が掲載される時に大塚の肩書が「株主原作者」とクレジットされていた[69]。また、この時に大塚が購入したメディアワークス株は2017年の時点で全部そのまま保有しているとのことである[70]。
1992年10月[71]に、角川書店の子会社の角川メディアオフィスの全社員71人のうちの70人が、角川書店本社に事前予告なしで突然一斉に退職した。事態に気づいてパニックになった角川書店本社側の人間が、漫画家や小説家やライターにお詫びとご説明の電話をするが、大塚英志を含む歴彦派の人間があらかじめ根回しをしていて、「お前の会社はどうなっているんだ!そんな雑誌には、もう書けない」とわざと激怒して、強引にメディアワークスに掲載紙を移籍させた[70]。特に角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』では、ある日突然、編集部の編集者全員と連載していた漫画家のほとんどが、メディアワークスの新雑誌『月刊電撃コミックガオ!』に移籍したため、角川書店本社側に攻撃的な打撃を与えることになった。この時大塚英志は、分裂騒動の事情も知らずに突然抜擢され、編集部がほとんど誰もいなくなった状態で『月刊コミックコンプ』を立て直さなくてはいけなくなった同紙の新編集長に同情して、『月刊コミックコンプ』にて新連載漫画の原作を「雑誌のページが埋まれば内容は何でもいい」という条件で引き受けた[72]。こうして大塚英志は、日本の天皇制を題材にしたSF漫画『JAPAN』(作画:伊藤真美)や、柳田民俗学を題材にした伝奇漫画『北神伝綺』(作画:森美夏)、巨大な壁で封鎖された都市で17歳の少年少女達が大人たちと戦争させられる『東京ミカエル』(作画:堤芳貞)といった自分が本当にやりたかった漫画を角川書店分裂の混乱のどさくさで角川書店の雑誌『月刊コミックコンプ』に連載させることで、ゲームやアニメのメディアミックス狙いの漫画原作者で終わりたくないという個人的な野心を実現させた[72]。
1993年8月29日、角川書店社長角川春樹が、コカイン密輸事件で麻薬取締法違反・関税法違反・業務上横領被疑事件で千葉県警察本部(千葉南警察署)により逮捕されるというアクシデントが発生する。これにより角川歴彦の角川書店への復帰が決定し、同年10月角川歴彦は角川書店代表取締役社長に就任した。こうして1年に渡って続いた角川書店の分裂騒動は大塚英志の所属する歴彦派の逆転勝利で唐突に決着した。92年に角川歴彦が角川書店から追放された時、新会社の取次口座も資本金もなく、新しい編集部の受け入れ先のビルも決まっていない状態で、角川歴彦は完全に失脚する寸前まで追い込まれていた。大塚英志はこのような危機的状況で逃げずに角川歴彦を支えた部下の一人だったため、93年以降の角川歴彦支配体制下の角川書店において、評論家・漫画原作者・小説家として厚遇された。また、その後の角川書店は、大塚に評論家としては書きたいことを好きなように書かしてくれたが、これは大塚の発言によると、漫画原作者・小説家として一定以上の商業的な黒字が出せていることが絶対条件だったとのことである[73]。
1994年、大塚は評論『戦後まんがの表現空間――記号的身体の呪縛』(法藏館:1994年) でサントリー学芸賞を受賞した[1]。このことについて、大塚英志は半自伝的な著作である『「おたく」の精神史』にて「あれは選考委員の一人が、青木雄二の「ナニワ金融道」に賞を与えようと言い出して、しかしさすがにまんがを受賞対象にはできない、ああそういえば大塚のまんが評論があった、という冗談みたいな経緯で選ばれてしまったにすぎない。実話である。」と述べている[74]。
1995年、大塚は原作漫画『聖痕のジョカ』(作画:相川有。1993年 - 1995年連載)の読者コーナーの常連投稿者だったひらりんを大塚の事務所である「物語環境開発」にキャラクターデザイナーとしてスカウトした。ひらりんは『新・聖痕のジョカ』(1995年 - 1997年連載)以降の大塚作品のキャラクターの設定デザインを担当している[75]。また、大塚の著書『物語の体操』『キャラクター小説の作り方』にはひらりんの描いた、キャラクターの設定資料の一部が収録されている。
1997年、大塚英志は角川書店の雑誌『月刊少年エース』1997年2月号よりサイコサスペンス漫画『多重人格探偵サイコ』(作画:田島昭宇、1997年 - 2016年連載)を開始した。同作は『月刊少年エース』1997年1月号より連載スタートの予定だったが、第1話で主人公の恋人の女性が、両手両足を切断された状態で宅配便で箱詰めして届けられるという描写があり、これを見て本気で激怒した角川書店の役員が輪転機を止めたため、当初1月号から連載が始まる予定が2月号からになるというアクシデントで連載をスタートした[76]。同作は連載が10年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作は大塚英志のプロデュースで、小説・テレビドラマ・ドラマCD・新劇等へ幅広くメディアミックス展開された。
1998年4月より、大塚英志は文芸誌『文學界』(文藝春秋)にて、批評家の江藤淳の推薦[77]で文芸評論『サブカルチャー文学論』の連載をスタートした。同連載は『文學界』2000年8月号まで連載されたが、小説家の石原慎太郎の文学作品を論じた回が編集部から掲載拒否されたのがきっかけで、連載打ち切りになった。その石原論は2002年の第1回文学フリマにて手書き原稿で発表された[78]。また、『サブカルチャー文学論』は2004年に版元を朝日新聞社に変更して、最終回を書き下ろしで追加して単行本化された。
2000年代以降は、東浩紀と批評誌『新現実』を創刊したり[注釈 1]、市川真人と文学作品展示即売会『文学フリマ』を主催したり、柳田民俗学と自然主義文学、社会進化論、ナチズム、オカルティズムとの関係や小泉八雲の民俗学者としての側面を論じた評論や、小説や漫画の入門書を続けて刊行している。
2000年、大塚英志は角川書店の雑誌にて、「死体が動いたらただそれだけで本当は怖い、というホラーの原点に戻ったまんが」というコンセプト[79]のホラー漫画『黒鷺死体宅配便』(作画:山崎峰水)を開始した。同作は連載が20年以上続くヒット作となり、大塚英志の漫画原作者としての代表作の一つになった。同作はその後、『松岡國男妖怪退治』『アライアズキ、今宵も小豆を洗う。』のスピンオフ作品が2作制作された。
2000年、大塚英志はテレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』(キー局:WOWOW、放送期間:2000年5月2日 - 5月7日、全六話、監督:三池崇史)を原作・企画・脚本・プロデュース・キャスティングした。ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は、漫画版とはキャラクターの名称や設定をある程度共有しているが、ストーリーは全く異なっている。当初はWOWOW側が用意した脚本家がいたが、原作者は脚本に口出ししないことを要求してきたので、すぐにクビにして大塚英志が自分で脚本を執筆した(脚本の一部は白倉由美、大塚ギチとの共同執筆)[80]。出演者のうち、保坂尚輝、大杉漣、中嶋朋子、裕木奈江、三浦理恵子は、大塚英志が個人的にファンだった[81]。 大塚英志は、妻の白倉由美と共にオーディションに参加しており、登場人物の一人のロリータ℃役には当時無名の新人子役だった平野綾を抜擢した[82]。 ドラマ版『多重人格探偵サイコ』は平野綾の女優デビュー作である。平野綾の才能に惚れ込んだ大塚は、平野綾がドラマ版『多重人格探偵サイコ』で演じた役のロリータ℃名義で歌ったサウンドトラックアルバム『ロリータの温度』(作詞:白倉由美、作曲:後藤次利、レーベル:キングレコード、リリース:2001年8月29日)や、平野綾の同名のイメージ写真集『ロリータの温度』(本文:白倉由美、写真撮影:伊島薫、角川書店:2000年12月刊行)をプロデュースした。 大塚英志がドラマ版『サイコ』の監督の選択で条件にしたのは「①低予算で雇える事、②現場でどんなトラブルが起きても最後まで逃げずに作品を完成させられる事、③決してやっつけ仕事ではなく一つの作品として監督できる事」の3点であったので、全部の条件をクリアしている、当時は比較的無名であった映画監督の三池崇史が選ばれた[83]。 大塚英志が三池崇史を選択した最大の理由は、三池崇史監督の映画『中国の鳥人』(1998年6月10日公開)を観たことである。『中国の鳥人』は実際に中国雲南省の奥地にて撮影された日本映画であるが、途中でロケ隊とはぐれてしまうというトラブルが発生して、監督以下少数の残ったクルーで、とにかく中国奥地の先へ先へと進みながら完成させた映画だった。また、『中国の鳥人』は一つの作品としても素晴らしい映画だったので、大塚英志は「この監督なら何が起きても大丈夫」と思って三池崇史にオファーした。実際にドラマ版『サイコ』では、大塚の悪い予感が当たって、撮影中に主役俳優の保坂尚輝が急病で入院してロケからリタイアするというトラブルが発生したが、三池監督は締め切りと予算をキッチリ守って完成させた。大塚は三池監督の現場対応力について感謝と称賛を回想で述べている[83]。
また、2002年に大塚英志はテレビドラマ『多重人格探偵サイコ/雨宮一彦の帰還』全6話を約90分に再編集してドラマ版とは違うストーリーにした劇場公開映画『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』(2002年7月6日公開)をプロデュースした。この時に 三池崇史監督が再編集版の制作に不服を唱えたため、大塚英志は喫茶店で三池崇史本人と直接2人だけで交渉して「再編集版は大塚英志が完全に自由に制作して、三池崇史は一切関わらない」ことを了承させた[84]。『MPD-PSYCHO/FAKE MOVIE REMIX EDITION』は大塚事務所のスタッフで、「UNDERSELL ltd.」所属の菊崎亮が再編集を行った。また、一部のシーンは大塚英志が自分で追加撮影した[85]。
2001年、大塚英志は同年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件に衝撃を受け、評論家としては明確に反戦を主張した。 大塚英志は、角川書店のアニメ雑誌『月刊ニュータイプ』に連載していた小説『MPD-PSYCHO/FAKE 試作品神話』の同紙2001年11月号にて、小説作中に作者の大塚英志本人が本筋のストーリーを中断させる形で突然登場して、読者に向かって反戦を訴えた。これは大塚の回想によると、『月刊ニュータイプ』編集部に事前の相談は一切行わずに、締め切りをギリギリまで引っ張って、これ以上入稿が遅れると雑誌の発売スケジュールが狂うというタイミングで入稿することで、強引に掲載させたとのことである[86]。 また、大塚は角川書店のライトノベル雑誌『ザ・スニーカー』にて連載していた、小説の書き方講座の『キャラクター小説の作り方』の同紙2001年12月号にて、書き方講座を一旦中断して、日本の戦後の歴史において手塚治虫の漫画や富野由悠季のアニメ等のサブカルチャーがいかにして現実の戦争を受け止めてそれを描いたかを論じることで、読者に向かって反戦を訴えた[87]。
2001年から2002年にかけて、大塚英志は論壇誌『中央公論』紙上にて、「夢の憲法前文をつくろう」と題した日本国憲法の前文を自分の言葉で書くという読者参加型投稿企画を連載していた[88]。同企画は『中央公論』連載終了後は、主に中高生を対象にして募集を継続して、『私たちが書く憲法前文』(角川書店:2002年)『「私」であるための憲法前文』(角川書店:2003年)『読む。書く。護る。――「憲法前文」のつくり方』(角川書店:2004年)『香山リカと大塚英志が子供たちが書いた憲法前文を読んで考えたことと憲法について考えてほしいこと』(角川書店:2005年)として書籍化された。
2004年3月、和光大学がオウム真理教教祖麻原彰晃の三女を入学拒否した事件で、大塚英志は同年3月に和光大学に抗議して同大学の非常勤講師職を辞職した[89]。
2004年12月、大塚英志は1984年8月に急死した友人の漫画家のかがみあきらの個人選集『ワインカラー物語―かがみあきら選集』(ニュータイプ100%コミックス:2004年)を企画・編集・監修して角川書店より刊行した。大塚は選集だけではなく、いつか『かがみあきら全集』を刊行したいと2004年に述べている[90]。
2005年7月5日、大塚英志は文学者の中上健次の未発表だった未完の長編小説『南回帰船』の所在不明になっていた原稿を発掘して角川学芸出版より自費出版で刊行した[91]。大塚英志が初めて文芸評論を書いた時に、大塚の著書『少女民俗学』(光文社:1989年)を読んだ中上健次が「あいつに文芸評論を書かせるとおもしろい」と言って大塚の知らない所でこっそり推薦してくれていて、大塚は中上健次の死後にそれを知ったという経緯があった[92]。大塚が中上健次の『南回帰船』を自費出版で刊行したのは、このことへの個人的な恩返しという意味があったとのことである[93]。
2006年4月に神戸芸術工科大学先端芸術学部メディア表現学科教授に就任。また東京藝術大学大学院映像研究科兼任講師として物語理論および漫画表現論の講義を担当。
2007年、大塚英志は評論『「捨て子」たちの民俗学――小泉八雲と柳田國男』(角川選書:2006年) で第5回角川財団学芸賞を受賞した。このことについて、大塚英志は「本の刊行元が関連する主催者の賞だから、『少年マガジン』連載作品に講談社漫画賞が廻ってきたのと同じ以上の意味は当然、持っていない。」と述べている[94]。
2007年7月、勤務先の神戸芸術工科大学で博士(芸術工学)の学位を取得。博士論文は「『ミッキーの書式』から『アトムの命題』へ 戦後まんがの方法の戦時下起源とその展開」(From Mickey's format to Atom's proposition : the origin of postwar manga methodology in wartime years and its development)」[7]。
学科改組により2010年4月から神戸芸術工科大学まんが表現学科教授。2012年国際日本文化研究センター客員教授。2013年3月神戸芸術工科大学教授を退職するが、そのまま同年4月から2014年3月まで神戸芸術工科大学大学院芸術工学研究科総合アート専攻特別教授。2013年10月から国際日本文化研究センター研究部教授[5]。2014年から2016年まで東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座特任教授を歴任した。
2012年から、海外でまんが表現を教育するネットワーク「世界まんが塾」を、神戸芸術工科大学での元教え子の浅野龍哉・中島千晴らと運営している[3]。2016年9月の時点で、中国の北京、韓国、シンガポール、フランスのパリ・トゥールーズ・アングレーム、デンマーク、イスラエル、カナダ、メキシコ、アメリカの世界9か国11地域で、各都市の国立大学やメイドカフェ、移民居住地区の図書館で、「日本式のまんがの書き方」を教えるワークショップを開催した[95]。
2014年5月14日の角川書店とドワンゴの経営統合発表時には、同年5月17日に星海社ウェブサイト『最前線』に評論『企業に管理される快適なポストモダンのためのエッセイ』を投稿して、「KADOKAWAとドワンゴの合併のニュースを聞いて軽い吐き気がした。」とコメントして合併を批判した[96]。また、同年9月30日の、角川書店とドワンゴの合併記念会見にて、大塚は川上量生による「普段からあまりいいことを言ってくれない人にお願いした」というオファーを受けて、プロモーションビデオに出演する形で記念会見に参加した。大塚英志はそのPVにて、角川書店・ドワンゴの合併を「5年後には多分この二つの会社は離婚しているか、もしくは二つ揃って沈没している」と発言して角川グループ会長角川歴彦とドワンゴ会長川上量生の二人を批判した[97][98]。2010年代後半になると、実際にドワンゴが運営するニコニコ動画のユーザー減少が指摘されだした[99]。また8年後の9月には角川歴彦は東京五輪汚職疑惑で逮捕されている[100]。
2015年より、海外の若手まんが・アニメ研究者に研究発表の場を提供する研究誌『TOBIO Critiques』(太田出版、2015年 - )を私費[3]で刊行している。
2015年4月26日、「ニコニコ超会議2015」の日本国憲法についての討論イベントに参加した大塚英志は、司会の田原総一朗の司会進行に抗議して途中退席した[101]。
2019年から2020年まで、全国(東京、京都、札幌、静岡、松本、郡山)で巡回された画家のアルフォンス・ミュシャの展覧会『みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ─線の魔術』(2019年7月 - 2020年4月開催)にて大塚英志は「アドバイザー」として参加した[102]。
2020年、大塚英志は「日文研大衆文化研究プロジェクト」の編纂委員会の委員の一人として、歴史教科書『日本大衆文化史』(KADOKAWA:2020年、序、4-7章執筆)と、その副読本『日本大衆文化論アンソロジー』(太田出版:2021年2月5日)の執筆・編纂に参加した。
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※丸括弧内の年はその漫画の単行本が刊行された年ではなく、連載されていた年で統一されている(『贖いの聖者』は書き下ろしのため単行本の刊行年)。
※幾つかの作品には共通のキャラクター(大江公彦、笹山徹、犬彦、スパイMなど)が登場する。
※大塚自身は代表作として『北神伝綺』『木島日記』『八雲百怪』の三部作を挙げている[108]。
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成人向けアニメビデオ
テレビドラマ
劇場公開映画
劇場公開アニメ映画
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