大東文化大学 | |
---|---|
板橋キャンパス エントランスプラザ | |
大学設置 | 1949年 |
創立 | 1923年 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人大東文化学園 |
本部所在地 |
東京都板橋区高島平1丁目9番1号 北緯35度46分55.7秒 東経139度40分4.6秒 / 北緯35.782139度 東経139.667944度座標: 北緯35度46分55.7秒 東経139度40分4.6秒 / 北緯35.782139度 東経139.667944度 |
キャンパス |
板橋(東京都板橋区) 東松山(埼玉県東松山市) 緑山(埼玉県東松山市) |
学部 |
文学部 経済学部 外国語学部 法学部 国際関係学部 経営学部 スポーツ・健康科学部 社会学部 |
研究科 |
文学研究科 経済学研究科 法学研究科 外国語学研究科 アジア地域研究科 経営学研究科 スポーツ・健康科学研究科 法務研究科(法科大学院) |
ウェブサイト | https://www.daito.ac.jp |
大東文化大学(だいとうぶんかだいがく、英語: Daito Bunka University)は、東京都板橋区高島平1丁目9番1号に本部を置く日本の私立大学。1923年創立、1946年大学設置。大学の略称は大東(だいとう)、大東大(だいとうだい)。
大東文化大学は、大正期における日本の政治・経済・社会・文化の近代化の過程で見られた西洋偏重の傾向を是正し、漢学を中心とする東洋文化の振興を図ろうとする木下成太郎(北海道厚岸町の帝国議会議員)による「漢学振興運動」を発端として、1923年(大正12年)の帝国議会衆議院本会議において可決した「漢学振興ニ関スル建議案」に基づき設立された大東文化学院にはじまる。なお、議会の建議案決議で創設された経緯から、特定の創設者は存在しない。
2022年(令和4年)現在、8学部20学科・8研究科を設置している。
漢学(特に儒教)を中心として東洋の文化を教授・研究することを通じて、その振興を図ると共に儒教に基づく道義の確立を期し、更に東洋の文化を基盤として西洋の文化を摂取吸収し、東西文化を融合して「新しい文化の創造」を目指す、と定められている。1985年(昭和60年)に制定された。
そして、2008年(平成20年)9月には、創立百周年に向けた基本計画「中期経営計画(CROSSING2023)」を策定。この中で、これからの21世紀における時代のあるべき姿を提言し、建学の精神を「多文化共生を目指す新しい価値の不断の創造」と現代的に読み替え、掲げている。
大東文化大学は、建学の精神に基づき、東洋の文化を中心として広く全世界の文化に関する諸学を研究・教授し、その振興を図ると共に、東洋固有の文化を尊重し、その伝統的な美徳を身につけて豊かな人格の形成に努め、併せて国際的な視野を持ち、世界の文化の進展と人類の幸福の実現に寄与できる有為な人材を育成することを目指す。
8学部20学科・8研究科(大学院)からなる文系総合大学である。文学部日本文学科と中国文学科、経済学部は創立当時からの歴史と伝統を持つ[注釈 1]。
書道教育には力を入れており、多くの書家や研究者を輩出している。1969年(昭和44年)4月に大東文化書道文化センター(後の書道研究所)を開設し、日本で唯一の書道専門機関となっている[1]。
創立以来日本文学や漢文学をはじめとする東洋文化研究を柱に据えており、アジア・東洋重視の伝統は受け継がれている。2006年(平成18年)には、国際関係学部の「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム(特色GP)」に採択。
2005年(平成17年)より板橋キャンパス近くの高島平団地を活性化することを発端とした環境創造学部による地域貢献活動「高島平再生プロジェクト(後にみらいネット高島平)」を地域住民と行っている。平成19年(2007年)に文部科学省の「現代的教育ニーズ取組支援プログラム(現代GP)」に採択。
自己点検・評価は1994年(平成6年)の「大東文化大学自己点検及び評価規程」制定以来取り組まれており、現在では学長を委員長とする「自己点検・評価基本事項検討委員会」と、その下に実務機関としての「全学委員会」を組織して行われている。
また、教育の質や授業内容を向上させることを目的とした授業評価アンケートや、ファカルティ・ディベロップメント(Faculty Development、通称FD)プログラムも実施している。
大正期に起こった「漢学振興運動」による東洋文化の振興を図ろうとする機運と、東洋学術研究の振興に努めることを建言した木下成太郎を中心とするメンバーの尽力により、1921年(大正10年)3月18日、第44回帝国議会衆議院本会議において「漢学振興ニ関スル建議案」が次のように提出された。
漢学ハ古来我ガ邦ノ文化ニ貢献シ国民思想ノ涵養ニ資益セシ所大ナルモノアリ而シテ今後亦之ニ待ツ所少シトセス之カ振興ノ途ヲ講スルハ刻下ノ急務ナリトス依テ政府ハ之ニ関シ適当ノ方法ヲ施サレムコトヲ望ム
右建議ス — 漢学振興ニ関スル建議案
その後、第45回、46回帝国議会衆議院本会議において、それぞれ第三次建議案まで提出され、繰り返し審議されることとなる。
この建議案の理由書には、「西洋文明ノ伝来スルヤ人々之ニ走ルニ急ニシテ漢学ハ疎ムセラレ其ノ神髄ヲ覗フコト漸ク難キニ至ラムトス」といった内容が記されているが、これは日本社会が西欧に倣った資本主義経済国家になる中で、様々な思想運動が大きく展開され、その一つとして漢学軽視の風潮に対する危惧を警鐘する意味があった。
再三に渡って行われた審議の結果、可決され1923年(大正12年)2月11日に「大東文化協会」が創設される。同年9月20日、法人格を財団法人へ改組し、大東文化協会の規約第一条の二「本邦現時ノ情勢ニ鑑ミ儒教ノ振興ヲ図リ及東洋文化ヲ中心トスル大東文化ヲ設立維持スルコト」とされた趣旨に基づき[2]、大東文化学院(旧制専門学校)は文部省から設置認可を受けたが、関東大震災で東京府東京市神田区錦町三丁目十番地の校舎予定地(旧東京工科学校の一部を借り受けした地)が火災により全焼。同9月15日、開校予定地は、東京市麹町区富士見町六丁目十六番地(現在の東京都千代田区富士見)にある、法政大学旧校舎(九段校舎)に変更され(開校予定日は変更無く同10月1日)、始業式は1924年(大正13年)1月11日、開校式は同1月28日、開院式が行われたのは同2月11日のことであった。結局、この九段校舎は1941年(昭和16年)まで法政大学から借用することになった。初代総長は平沼騏一郎、初代会頭は大木遠吉、初代副会頭は小川平吉、江木千之。評議員の一人に渋沢栄一。
大木遠吉は、文部大臣より認可が下されるまで、開設準備として「学院綱領並学則編制委員会」を設けて自らその委員長となり、東京帝国大学、京都帝国大学、早稲田大学を中心とした私学グループの三者に意見を求めて慎重な学則の制定に当たった[2]。
教授陣には、第二代総長となる井上哲次郎が哲学を担当したことをはじめ、法学の鵜澤總明、山岡萬之助、漢学の松平康國、牧野謙次郎、内田周平のほか、哲学者北昤吉も論理・心理学を講じている。また、平沼淑郎(平沼騏一郎の実兄)も開設時から大東文化学院の経済学教授として教鞭をとった[3]。
大東文化学院は、本科3年課程と高等科3年課程からなり、全学生が国庫補助によって授業料が免除されることに加え、本科生には25〜35円、高等科生には50〜80円が支給され、教科書も支給されたことや、「大東文化学院学則第一章総則第一條」によれば、皇道及び国体に醇化した儒教、東洋文化について教育を行うことを第一の目的に謳っていることから、当時の私立専門学校の中ではやや特殊な性格を持った高等教育機関であった。(「財団法人大東文化協会」項目も参照)
九段校舎は、青桐という落葉高木によって囲まれていたのが特徴で、現在においても校章や同窓会組織名称(青桐会)に使われるなど、長らく大東文化のシンボルとなっている。
この期の大東文化学院生らの功績は、膨大な語彙を収めた漢和辞典「大漢和辞典」(大修館書店)の編纂である。同書刊行以前には簡易的な辞書しか存在していなかったが、戯曲や小説を含む中国古典の原文の参照、出典・引用文の再調査など、それまでの辞書が踏襲していた誤記語釈を改め、正していった。高度な漢学知識を必要とした、その長きに渡る編纂過程の中で原田種成ら学院生は中心的存在として携わった。戦中の資源不足の中に刊行され、戦災で原版を失い、最終的な完成は2000年となった足かけ75年余のこの大事業は、今なお世界最大の漢和辞典としての位置を占めている。大東文化学院では1925年頃に学内紛争があり、百人近い退学者を出していた。漢字研究者で同学院で教鞭を執っていた諸橋轍次が、行く当てを無くした彼らの再就職までの仕事としてこの辞書編纂事業を引き受けた、という経緯がある。
学生数の増加や明治期に建造された木造校舎の老朽化により、1941年(昭和16年)に九段校舎から池袋校舎(東京都豊島区池袋三丁目1385番地)へ移転[4]。剣道場や柔道場、弓道場などが整備された。1944年(昭和19年)3月26日に「大東文化学院専門学校」と改称。次第に太平洋戦争の学徒動員等で教育機能が失われていき、1945年(昭和20年)4月14日未明の空襲によって校舎が全焼し、数万冊の蔵書も焼失。その後は、当時の総長である酒井忠正伯爵が小石川原町(現・文京区白山)の邸宅の一部を仮校舎として開放し、授業を継続した。
終戦翌年の1946年(昭和21年)1月、総長である酒井忠正がGHQにより公職追放となり、前述の設立経緯を持つ学院は閉鎖、酒井邸(仮校舎も含む)は進駐軍により接収された。残された学院関係者と生徒は拠り所を求めて、同年2月12日に青砥校舎(葛飾区青戸町四番地)へ移転、同18日には授業が再開した。
この青砥校舎は元来、大日本機械の少年工訓練養成所と寄宿舎であり、駅からも遠く、川が氾濫すると泥田のようになる土地であり、学校として確保すべき立地環境が整えられているとはいえなかった。それでも学生らは戦災で残された貴重な書物を貪るように読み、卒業生からの寄贈や家族らの支援を受けて、劣悪な環境の中で学び続けた。
1947年から認可・移行が始まった新制大学へ認定されるにあたり、同校設立の経緯、「大東文化」が学名として相応しくないこと、校舎環境等の不備などを理由として第一回審査では認可保留となった。この審査に備えて校舎隣接地に建設中であった図書館は、襲来したカスリーン台風によって倒壊し未完成であり、これも設備不備とされた。
制度上、大学への昇格が不可能であれば廃校となるため、何としても昇格させなければならないとして関係者や卒業生らは学院内外で協議を重ねた。1949年(昭和24年)4月付で「財団法人大東文化学院」を廃止とし、5月に「財団法人東方文化協会」と改称した。その上で、申請する学名を「東京文政大学」とし、旧池袋校舎跡地で諸設備を整えることを条件に再審査を訴え、1949年(昭和24年)6月、新制大学への移行を認可された。開学時の学部は文政学部(日本文学専攻・中国文学専攻・政治経済学専攻)のみ。同年10月に池袋校舎が完成し、移転した。同月、各種学校として東京文政学院も認可された(1961年(昭和36年)8月廃止。)
1951年(昭和26年)、法人名を「学校法人文政大学」、大学名を「文政大学」に改称した。さらに卒業生からの強い要望と働きかけにより、新制大学第一期生の卒業間際に大学名の変更許可が下り、1953年(昭和28年)に法人名を「学校法人大東文化大学」、大学名を「大東文化大学」として再出発した[注釈 2]。
1956年(昭和31年)には、同校の教授・卒業生・在校生により「書道学会」が発足し、全国的な展覧会を実施。日本国内の書道教育発展の基礎が大東文化大学関係者主導で創られた[5]。その後、学内でも書道分野の教授陣の充実が図られ、これまでに山﨑節堂、熊谷恒子、松井如流、青山杉雨、宇野雪村、上條信山らの大家が名を連ねた。[6]
この頃、校地の狭さなどによる施設不足等が問題となり、大学振興計画案が立てられた。この計画案を前提として、1960年(昭和35年)10月に現在の板橋校舎の土地(当時は東京都板橋区志村西台町)を購入し、同年11月から校舎新築工事に着手、第一期工事は1961年(昭和36年)8月に完成した。同月には池袋校舎を引き払い、現在地へと全面移転した。
翌年の1962年(昭和37年)4月に、文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組し、大東文化大学第一高等学校が開校した。
この間に東洋研究所や大東柔道整復専門学校(大東医学技術専門学校。2012年(平成24年)末閉校)や文政幼稚園(1963年(昭和38年)廃止)が設立されている。
学生数の急増に対応するため、埼玉県東松山市の元国有林野にキャンパス建設を計画。1966年(昭和41年)7月から造成工事が昼夜問わず行われ、翌年3月末には新校舎が竣工。そして、すべての教養課程が東松山キャンパスに移行した。
創立50周年記念事業で板橋キャンパスには記念館、研究室の整備が進められた。
1969年(昭和44年)に「大東文化書道文化センター」開設。1988年(昭和63年)には「書道研究所」へ改組された。現在、日本で唯一の書道専門機関となっている[1]。さらに2001年(平成13年)には日本初の書道学科(文学部)が誕生した。 1972年(昭和47年)、大東文化大学附属青桐幼稚園が開園。
1973年(昭和48年)、板橋校舎に開学50周年記念講堂が完成。 1976年(昭和51年)、東武東上線東武練馬駅至近に大東文化会館が竣工。[7]板橋校舎への通学に使用されるいわゆる「学バス」はこの一階を発着場とした。
1986年(昭和61年)には東松山キャンパスに図書館、記念講堂を含む施設が建設された。
1990年代前半、東松山キャンパスの遊休地に授業利用および営利を目的としたパットゴルフ(パターゴルフ)場を造る計画が浮上したが、学生やOBらの反対もあり頓挫した。同時期、群馬県に新キャンパス用地を取得。
2003年(平成15年)、創設80周年を記念して新たなシンボルマークが制定、同年から2006年(平成18年)まで、板橋キャンパスが再開発され、環境に考慮した校舎や「交流の杜」と「思索の杜」という広場が整備された。
2006年(平成18年)、ビアトリクス・ポター資料館竣工。また、東武練馬駅隣接の大東文化会館の改築が完了した。
2007年(平成19年)に東松山キャンパスは開設40周年を迎え、2008年(平成20年)に総合グラウンドの完成、2015年(平成27年)完工の3工期にわたる新たなキャンパス整備事業に着手した。また、廃校となった東松山市立緑山小学校[8]を取得。「緑山キャンパス」と改称した。
学園年表
西暦 | 和暦 | 月 | 沿革 |
---|---|---|---|
1921 | 大正10 | 3 | 第44国会にて「漢学振興ニ関スル建議案」が可決 |
1923 | 大正12 | 9 | 第46回国会の決議に基づき、国費をもって、財団法人大東文化協会を設立、大東文化学院(本科・高等科、旧制専門学校)を設立認可 |
11 | 校舎と事務所を麹町区富士見六丁目十六番地に置く(九段校舎) | ||
1944 | 昭和19 | 3 | 校名を大東文化学院専門学校と改称 |
1949 | 昭和24 | 4 | 大東文化学院専門学校を廃止 |
5 | 法人名を財団法人東方文化協会と変更 | ||
6 | 新制大学に移行、(東京文政大学)文政学部(日本文学専攻・中国文学専攻・政治経済学専攻)設置。 | ||
10 | 東京文政学院(各種学校)設置認可 | ||
1951 | 昭和26 | 2 | 法人名を学校法人文政大学、校名文政大学と改称認可 |
1953 | 昭和28 | 3 | 校名を大東文化大学と改称 |
1956 | 昭和31 | 10 | 文政幼稚園設置認可 |
1960 | 昭和35 | 6 | 法人名を学校法人大東文化学園と改称 |
9 | 大東柔道整復専門学校設立認可 | ||
1961 | 昭和36 | 4 | 大東柔道整復専門学校を大東医学技術整復専門学校に改称、衛生検査科を新設、東洋研究所設立 |
8 | 東京文政学院廃止認可 | ||
1962 | 昭和37 | 4 | 文政学部を文学部(日本文学科・中国文学科)と経済学部(経済学科)に改組、大東文化大学第一高等学校開校 |
1963 | 昭和38 | 4 | 経済学部経営学科設置、文政幼稚園廃止認可 |
1964 | 昭和39 | 4 | 大学院文学研究科日本文学専攻(修士課程)・中国学専攻(修士課程)設置 |
1967 | 昭和42 | 4 | 文学部英米文学科、大学院文学研究科中国学専攻(博士課程)設置、 大東文化大学東松山キャンパス開設 |
6 | 大東医学技術整復専門学校を大東医学技術専門学校と名称変更 | ||
1968 | 昭和43 | 4 | 文学部外国語学科設置 |
1971 | 昭和46 | 12 | 大東医学技術専門学校の衛生検査科を臨床検査科と名称変更 |
1972 | 昭和47 | 4 | 大東文化大学附属青桐幼稚園開園、文学部教育学科、外国語学部中国語学科・英語学科、大学院経済学研究科経済学専攻(修士課程)、大学院文学研究科日本文学専攻(博士課程)設置 |
1973 | 昭和48 | 4 | 法学部法律学科設置 |
1977 | 昭和52 | 4 | 大学院法学研究科法律学専攻(修士課程)設置 |
1978 | 昭和53 | 4 | 大学院経済学研究科経済学専攻(博士課程後期)、大学院文学研究科英文学専攻(修士課程)、別科日本語研修課程、文学専攻科経済学専攻設置 |
1986 | 昭和61 | 4 | 国際関係学部国際関係学科・国際文化学科設置 |
1990 | 平成2 | 4 | 法学部政治学科設置 |
1991 | 平成3 | 4 | 大学院法学研究科法律学専攻(博士課程後期)、文学専攻科教育学専攻設置 |
1993 | 平成5 | 4 | 外国語学部日本語学科、大学院経済学研究科(経済学専攻)設置 |
1994 | 平成6 | 4 | 大学院法学研究科政治学専攻(修士課程)設置 |
1995 | 平成7 | 4 | 大学院経済学研究科経営学専攻(博士課程後期)設置 |
1996 | 平成8 | 4 | 大学院法学研究科政治学専攻(博士課程後期)設置 |
1999 | 平成11 | 4 | 大学院外国語学研究科中国語学専攻・英語学専攻・日本言語文化学専攻(修士課程)、大学院アジア地域研究科アジア地域研究専攻(修士課程)設置 |
2000 | 平成12 | 4 | 文学部書道学科設置(日本初の書道の専門学科)、経済学部経営学科を学部に昇格させ、経営学部経営学科と企業システム学科設置 |
2001 | 平成13 | 4 | 環境創造学部環境創造学科設置、経済学部を社会経済学科と現代経済学科の2学科を設置 |
2003 | 平成15 | 4 | 大学院経営学研究科経営学専攻(博士課程前期・後期)、文学研究科書道学専攻(修士課程)設置 |
2004 | 平成16 | 4 | 大学院法務研究科法務専攻(専門職学位課程) 設置 |
2005 | 平成17 | 4 | 文学部中国文学科を中国学科へと名称変更、スポーツ・健康科学部(スポーツ科学科・健康科学科)設置 |
2006 | 平成18 | 「アジア理解教育の総合的取り組み」が文部科学省の「特色ある大学教育支援プログラム」に選定 | |
2007 | 平成19 | 4 | 外国語学研究科日本言語文化学専攻(博士課程後期)設置 |
2008 | 平成20 | 4 | 大学院文学研究科教育学専攻(修士課程)設置 |
2009 | 平成21 | 4 | 大学院スポーツ・健康科学研究科(修士課程)設置 |
2011 | 平成23 | 2 | 外国語学研究科(中国言語文化学専攻)博士課程後期課程を開設(従来の中国語専攻修士課程は博士課程後期課程の開設に伴い、中国言語文化学専攻博士課程前期課程と改称)。 |
2012 | 平成24 | 3 | 大東医学技術専門学校閉校 |
2013 | 平成25 | 4 | 文学部教育学科に保育士課程を開設 |
2015 | 平成27 | 4 | 大学院法務研究科(法科大学院)学生募集停止 |
2016 | 平成28 | 4 | 経営学部 企業システム学科学生募集停止、経営学部 経営学科一科へ改組 |
2018 | 平成30 | 4 | スポーツ・健康科学部看護学科、文学部歴史文化学科、社会学部社会学科 設置。環境創造学部環境創造学科 学生募集停止 |
学校設置法人(経営母体)と学校(高等教育機関)の変遷
学校設置法人(経営母体) | 学校(高等教育機関) | |||
---|---|---|---|---|
大東文化協会 1923年(大正12年)2月11日設立 - 1923年(大正12年)9月20日 |
(開設準備) | |||
財団法人大東文化協会 1923年(大正12年)9月20日改組 - 1949年(昭和24年)4月 |
大東文化学院 1923年(大正12年)9月20日設立認可 - 1944年(昭和19年)3月26日 |
旧制専門学校 | ||
大東文化学院専門学校 1944年(昭和19年)3月26日改称認可 - 1949年(昭和24年)4月廃止 | ||||
財団法人東方文化協会 1949年(昭和24年)5月名称変更 - 1951年(昭和26年)2月 |
東京文政大学 1949年(昭和24年)6月新制大学移行認可 - 1951年(昭和26年)2月 |
新制大学 | ||
学校法人文政大学 1951年(昭和26年)2月改称認可 - 1960年(昭和35年)6月 |
文政大学 1951年(昭和26年)2月改称認可 - 1953年(昭和28年)3月 | |||
大東文化大学 1953年(昭和28年)3月改称 - 現在 |
. | |||
学校法人大東文化学園 1960年(昭和35年)6月改称 - 現在 |
大学院 1964年(昭和39年)3月設置 - 現在 |
専攻科 1978年(昭和53年)4月 - 2012年(平成24年)度募集停止 |
建造物所在地等年表
西暦 | 和暦 | 月 | 沿革 |
---|---|---|---|
1923 | 大正12 | 11 | 校舎と事務所を麹町区富士見六丁目十六番地に置く(九段校舎) |
1941 | 昭和16 | 2 | 九段より豊島区池袋三丁目1385番地に移転(池袋校舎) |
1945 | 昭和20 | 4 | 戦災により池袋校舎を焼失 |
1946 | 昭和21 | 2 | 葛飾区青戸町四番地(青砥校舎)に移転 |
1949 | 昭和24 | 10 | 池袋校舎跡地に校舎完成復帰 |
1961 | 昭和36 | 8 | 大学を池袋より板橋区志村西台町に移転(現在地) |
1967 | 昭和42 | 4 | 大東文化大学東松山キャンパス開設 |
1970 | 昭和45 | 6 | 第一高等学校新校舎竣工 |
1973 | 昭和48 | 10 | 板橋校舎50周年記念館竣工(現交流の杜) |
1975 | 昭和50 | 5 | 群馬県嬬恋セミナーハウス竣工 |
1976 | 昭和51 | 12 | 大東文化会館竣工 |
1988 | 昭和63 | 3 | 東松山校舎建設および開発造成工事竣工 |
1989 | 平成元 | 3 | 板橋校舎1号館竣工 |
1994 | 平成6 | 6 | 長野県菅平セミナーハウス竣工 |
1995 | 平成7 | 5 | 第一高等学校新校舎竣工 |
1998 | 平成10 | 4 | 図書館書庫棟竣工 |
1999 | 平成11 | 4 | 東洋研究所徳丸研究棟竣工 |
2003 | 平成15 | 4 | 板橋キャンパス整備計画第I期工事(中央棟図書館・3号館)竣工 |
12 | 信濃町校舎(法務研究科)竣工 | ||
2005 | 平成17 | 8 | 板橋キャンパス整備計画第II期工事(体育館・厚生棟)竣工 |
9 | 東松山校舎新9号館竣工 | ||
2006 | 平成18 | 4 | ビアトリクス・ポター資料館竣工 |
2007 | 平成19 | 5 | 板橋キャンパス整備計画第III期工事(思索の杜・交流の杜)※全事業完了 |
2010 | 平成22 | 10 | 東松山キャンパス整備事業第1期工事(新3号館・10号館)起工 |
2011 | 平成23 | 12 | 東松山キャンパス整備事業第1期工事(新3号館・10号館)竣工 |
2012 | 平成24 | 2 | 東松山キャンパス整備事業第2期工事(新4号館・新5号館)起工 |
2013 | 平成25 | 3 | 東松山キャンパス新4号館供用開始 |
5 | 東松山キャンパス新5号館供用開始、東松山キャンパス整備事業第2期工事(新4号館・新5号館)竣工 | ||
8 | 東松山キャンパス整備事業第3期工事(新2号館・周辺外構整備)起工 | ||
2014 | 平成26 | 10 | 東松山キャンパス新2号館供用開始予定 |
2015 | 平成27 | 1 | 東松山キャンパス整備事業第3期工事竣工 |
2018 | 平成30 | 8 | 法務研究科、信濃町校舎より板橋校舎へ移転 |
大東文化学院・大東文化学院専門学校
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
大東文化 学院総長 | |||||
初代 | 平沼騏一郎 | 1923年(大正12年)9月25日 | 1925年(大正14年)2月16日 | ||
第二代 | 井上哲次郎 | 1925年(大正15年)2月16日 | 1926年(大正15年)10月11日 | ||
第三代 | 大島健一 | 1926年(大正15年)10月23日 | 1927年(昭和2年)6月20日 | 総長事務取扱 | |
第四代 | 鵜澤總明1 | 1927年(昭和2年)6月20日 | 同年11月30日 | 総長事務取扱 | |
第五代 | 鵜澤總明2 | 1927年(昭和2年)11月30日 | 1928年(昭和3年)12月3日 | 総長事務取扱 | |
第六代 | 大津淳一郎 | 1928年(昭和3年)12月3日 | 1932年(昭和7年)1月29日 | ||
第七代 | 加藤政之助 | 1932年(昭和7年)1月30日 | 1938年(昭和13年)2月9日 | 1938年(昭和13年)1月27日まで総長事務取扱 | |
第八代 | 松平頼寿1 | 1938年(昭和13年)2月10日 | 1940年(昭和15年)3月1日 | 1940年(昭和15年)12月以降名誉総長 | |
第九代 | 鵜澤總明3 | 1940年(昭和15年)12月27日 | 1943年(昭和18年)8月24日 | ||
第十代 | 松平頼寿2 | 1943年(昭和18年)8月25日 | |||
第十一代 | 酒井忠正 | 1943年(昭和18年)9月 | 1945年(昭和20年)12月 | 1944年(昭和19年)3月以前は「総長」 | |
大東文化 学院 専門学校 校長 | |||||
1944年(昭和19年)3月の改称後から「校長」 | |||||
第十二代 | 鵜澤總明4 | 1946年(昭和21年)9月18日 | 1948年(昭和23年)3月10日 | 名誉総長 | |
第十三代 | 藤塚鄰 | 1948年(昭和23年)3月[9][10] | 1948年(昭和23年)12月 | ||
第十四代 | 土屋久泰 | 1949年(昭和24年)1月15日 | 同年3月18日 |
東京文政大学・文政大学・大東文化大学
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
---|---|---|---|---|
初代 | 土屋久泰 | 1949年(昭和24年)5月1日 | 1958年(昭和33年)3月31日 | 名誉総長 |
第二代 | 平島敏夫 | 1958年(昭和33年)4月1日 | 1962年(昭和37年)11月30日 | |
第三代 | 南条徳男 | 1962年(昭和37年)11月30日 | 1969年(昭和44年)3月31日 | 名誉総長 |
第四代 | 佐伯梅友 | 1969年(昭和44年)4月1日 | 1975年(昭和50年)3月31日 | |
第六代 | 清原道壽 | 1983年(昭和58年)4月1日 | 1984年(昭和59年)3月31日 | |
第七代 | 香坂順一 | 1984年(昭和59年)4月1日 | 1987年(昭和62年)3月31日 | |
第八代 | 杉本良吉 | 1987年(昭和62年)4月1日 | 1990年(平成2年)3月31日 | |
第九代 | 穂積重行 | 1990年(平成2年)4月1日 | 1993年(平成5年)3月31日 | |
第十代 | 佐藤定幸 | 1993年(平成5年)4月1日 | 1996年(平成8年)3月31日 | |
第十四代 | 渡部茂 | 2008年(平成20年)4月1日 | 2010年(平成22年)8月10日 | 任期途中退任 次代学長就任まで経営学部長岡田良徳教授(当時)が職務代理 |
第十五代 | 太田政男 | 2010年(平成22年)10月27日 | 2017年(平成29年)3月31日 | |
第十六代 | 門脇廣文 | 2017年(平成29年)4月 | 2020年(令和2年)3月 | |
第十七代 | 内藤二郎 | 2020年(令和2年)4月 | 2023年(令和5年)3月 | |
第十八代 | 高橋進 | 2023年(令和5年)4月 | 現職 |
板橋校舎近くにある和菓子店が製造する「大東まんじゅう」が生協(板橋・東松山)で販売中。淡いグリーンとオレンジを基調にした「大東文化大学」の文字が施された包装紙、学園章に記された「東」「文」の文字の刻印、黒ごまが入ったこしあんが特徴である[13]。
Google ストリートビューで、板橋・東松山キャンパスの風景を見ることができる。撮影時期は2011年(平成23年)10月で、2012年(平成24年)9月6日から提供開始。
東松山キャンパスから約2.5kmの距離。旧東松山市立緑山小学校。
地上4階、地下1階建て。平成18年(2006年)4月にリニューアル。1階にホール、3・4階に研修施設がある。東武練馬駅より徒歩2分。
敷地は約2,800坪で、ゼミ室やテニスコート、ラグビーコートなど多目的グラウンドがある。ゼミ合宿やクラブ活動で利用されている。
8学部20学科
●:博士課程前期・後期
○:修士課程
◎:専門職学位課程
東松山キャンパスに隣接するこども動物自然公園内で運営している。大東文化大学図書館・英米文学科が所蔵するコレクションの中から、ピーター・ラビットシリーズで日本でも著名なビアトリクス・ポター関連のものを中心に、貴重な書籍、原画、直筆手紙などを一般公開している。
中国
2007年(平成19年)4月に開設した海外事務所。中国国内の協定大学との学術交流の促進を行う。日本人スタッフが駐在し、学生間の交流と情報交換の場にもなっている。
それぞれの分野における学術研究や調査、高度な職業人育成のための講座などを展開している。
1969年(昭和44年)設立の「大東文化書道文化センター」が前身。1988年(昭和63年)設立。日本で唯一書道の研究と芸術活動を行う研究機関で、書道・美術関連の貴重な資料や図書を収蔵している。書道テキストシリーズや1969年(昭和44年)創刊である月刊誌「大東書道」を刊行、2011年(平成23年)現在、大学で刊行される唯一の競書雑誌であり、500号刊行を記念する展覧会を開催した。「高校生のための書道講座」も開催している。
1923年(大正12年)設立。大東文化大学の前身である大東文化協会の研究機関から度々の改組を経て、1961年(昭和36年)に大学附属の研究機関として発足。
研究論文機関誌「東洋研究」を年4回発行している。
当研究所は徳丸研究棟にある。
歴代所長
氏名 | 在任期 |
---|---|
平島敏夫 | 1961年4月 - 1962年11月 |
南条徳男 | 1962年12月 - 1964年3月 |
金子昇 | 1964年4月 - 1965年3月 |
髙橋梵仙 | 1965年4月 - 1968年3月 |
市野沢寅雄 | 1968年4月 - 1970年3月 |
野口正之 | 1970年4月 - 1972年3月 |
土井章 | 1972年4月 - 1978年3月 |
中嶋敏 | 1978年4月 - 1983年3月 |
岡倉古志郎 | 1983年4月 - 1985年3月 |
古島和雄 | 1985年4月 - 1993年3月 |
遠藤光正 | 1993年4月 - 1997年3月 |
松本照敬 | 1997年4月 - 2003年3月 |
福田俊昭 | 2003年4月 - 2009年3月 |
山田準 | 2009年4月 - 2017年3月 |
岡﨑邦彦 | 2017年4月 - |
体育連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、39部、2同好会が存在している。後述の「スポーツ」の項目でも触れるが、数多くの部が大会などで実績を上げている。
文化団体連合会に所属する部活動は2022年(令和4年)3月現在、24部存在している。大東文化大学では文化系のクラブ活動も盛んである。以下に特筆すべき文化系の部活動を紹介する。
大学側が把握している団体が、2018年(平成30年)3月現在で約70存在する。
学園祭は「大東祭」とよばれ、毎年11月の上旬に2日間または3日間開催される。元々は板橋校舎で開催されていたが、板橋校舎の再開発によって平成14年(2002年)度より東松山校舎で行われていた。平成20年(2008年)度より再び板橋校舎で開催されるようになった。プロのミュージシャンによるライブ、俳優や声優のトークショー、お笑い芸人のライブなどが開催されることもある。
本校が主催で各種コンテストを開催している。
1967年(昭和42年)4月に創部。青葉昌幸監督の下で力をつけ、1973年(昭和48年)の全日本大学駅伝で学生駅伝初優勝を飾る。関東学生陸上競技連盟所属。
襷の色はDAITOグリーン。「大東文化大学」の文字が黒糸で施されている。
箱根駅伝には1968年(昭和43年)の第44回大会から43回連続出場し、第97回大会現在、50回出場・4回の総合優勝・全区間で区間賞を獲得(区間新記録は2区と7区以外で獲得)している。平成2年(1990年)度には史上初の学生駅伝三冠を達成(出雲くにびきロードリレー、全日本大学駅伝、箱根駅伝)している[14]。特に5区と6区に強く、「山の大東」とも称されることもある。しかし、第87回大会では予選会で敗退し、連続出場回数が43で途絶えた。第96回大会・第97回大会では予選会で15位以下(10位までが本選出場)に沈み、最も低迷した時代を迎える。
全日本大学駅伝では1973年(昭和48年)〜1976年(昭和51年)の4連覇と1984年(昭和59年)、1989年(平成元年)、1990年(平成2年)の7勝を挙げている。4連覇は早稲田大学・駒澤大学に並ぶ大会連勝記録である。出雲駅伝は1990年(平成2年)の1回である。しかし、2010年頃からはシード権争いにも絡まず低迷。1994年の第26回大会には出場できず[注釈 3]、連続出場が25で途絶えた。2008年の第40回大会から5年連続で予選会敗退するなど低迷した時代を迎える。
2021年(令和3年)には高校、社会人で活躍した留学生が初めて入部。近年遠のいていた箱根駅伝本選出場の期待がかかっていたが、予選会ではその留学生が大ブレーキで出場ならず。しかし2022年(令和4年)、仙台育英高校を全国屈指の強豪に育て上げた大東文化大学OBの真名子圭を新監督に迎えたことで、仙台育英時代の教え子だった留学生の実力が開花。同年の全日本大学駅伝予選会と箱根駅伝予選会を突破し、2023年(令和5年)に箱根駅伝本選へ4年ぶりに出場する。2024年(令和6年)にも箱根駅伝本選に出場し、10位で9年ぶりにシード権を獲得した[15]。
箱根駅伝での主な記録(2024年現在)総合優勝回数:4回(第51回-第52回,第66回-第67回)
|
|
|
|
2010年(平成22年)度創設の女子長距離部門は、全日本大学女子駅伝に第29回から出場。2024年現在、10回の準優勝を果たしている。
東京都板橋区との連携事業
インターンシップ
他大学間協定 卒業単位の一部を他の教育機関で取得することができる。
2010年(平成22年)4月現在、全部で21ヶ国71大学と国際交流協定を結んでいる。詳しくは協定校を参照のこと。
主な協定校
付設校は、大学を頂点とする附属校ではなく、学校法人大東文化学園が設置する形態を取っている。