おおがたむら 大潟村 | |||||
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国 | 日本 | ||||
地方 | 東北地方 | ||||
都道府県 | 秋田県 | ||||
郡 | 南秋田郡 | ||||
市町村コード | 05368-6 | ||||
法人番号 | 2000020053686 | ||||
面積 |
170.11km2 | ||||
総人口 |
2,831人 [編集] (推計人口、2024年9月1日) | ||||
人口密度 | 16.6人/km2 | ||||
隣接自治体 | 男鹿市、潟上市、南秋田郡八郎潟町、井川町、五城目町、山本郡三種町 | ||||
村の木 | 黒松 [1] | ||||
村の花 | サルビア [1] | ||||
村の鳥 | 白鳥 [1] | ||||
大潟村役場 | |||||
村長 | 髙橋浩人 | ||||
所在地 |
〒010-0494 秋田県南秋田郡大潟村字中央一丁目1番地 北緯40度01分04秒 東経139度57分36秒 / 北緯40.01781度 東経139.95994度座標: 北緯40度01分04秒 東経139度57分36秒 / 北緯40.01781度 東経139.95994度 | ||||
外部リンク | 公式ウェブサイト | ||||
ウィキプロジェクト |
大潟村(おおがたむら)は、秋田県の西側の男鹿半島の付け根に位置する村[2]。南秋田郡に属する。
村の全域は、かつて日本で2番目の面積を誇る湖沼でもあった八郎潟を干拓して造った土地であり[3]、干拓地として日本最大である。地方自治体としては1964年(昭和39年)10月1日に発足した新しい村で[4][3]、既存自治体の合併や分割などを伴わない新設自治体としては日本最後である[5]。大潟村は秋田県で69番目の自治体として成立したが、村の発足時は6世帯わずか14人の人口であった[2]。
男鹿市と若美町の合併協議会に参加したこともあったが、単独立村を選択した。
大潟村の行政区域面積は中央干拓地に加え、八郎潟調整池、東部承水路、西部承水路を含み(後述)、170.05 km2である[6][5]。
村域の中央部に北緯40度と東経140度の交点があり、日本の領土である陸地において10の倍数の緯線と経線の交点はここだけである。現在この交点には経緯度交会点標示塔[7]が建つ。【北緯40度00分00.00秒 東経140度00分00.00秒 / 北緯40.0000000度 東経140.0000000度】
もともと、湖沼(八郎潟)であった大潟村の陸地に川は1本も無く、自然に形成された山も存在しない。 ほぼ楕円形を成す大潟村の外周は整備された八郎潟の残存水域で形成されており、この水域が周辺市町村との境界になっている。大潟村と周辺市町村は直接には接しておらず、7基の橋だけで繋がっている。 村の南には今でも「八郎潟」の名で呼ばれることがある「八郎潟調整池(別名:八郎湖、八郎湖調整池)」が広がっており、その東側には東部承水路[注 1]がある。 東部承水路は、村の周辺部を形作りながら北へ伸張し真北で西部承水路と繋がっている。西部承水路は北から南西へと伸びて、八郎潟調整池と繋がっている。かつての八郎潟は、南の調整池と村周辺を巡る水域という形で残存している。
これとは別に、村の内側は灌漑用水路と排水路が整備されている。自然に形成された山が無い大潟村では、1990年代に村のシンボルとして築山が造成された。大潟富士がその築山である。比高は3.776 mであるが海抜ゼロメートル地帯にあるため、標高0 mである。
大潟村は、村域の大部分が農地であるが生活の中心地は村域の西中央部にある一区画で、「総合中心地」と呼ばれている。村役場が所在する大潟村字中央を中核とするが、他の主要施設も「総合中心地」内に集中している[注 2]。
地点 | 座標 | 備考 |
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東端 | 【北緯40度02分24.8秒 東経140度04分16.4秒 / 北緯40.040222度 東経140.071222度】 | 新生大橋北の東部承水路[注 1]内 |
北端 | 【北緯40度05分39.0秒 東経139度59分15.8秒 / 北緯40.094167度 東経139.987722度】 | 西部承水路内 |
西端 | 【北緯39度57分30.6秒 東経139度55分20.8秒 / 北緯39.958500度 東経139.922444度】 | 西部承水路内 |
南端 | 【北緯39度55分11.2秒 東経140度00分56.8秒 / 北緯39.919778度 東経140.015778度】 | 八郎潟調整池内 |
アメダス大潟(大潟村大潟(標高-3m))観測。1991年(平成3年)から2020年(令和2年)までの平均値[8]。
要素 | 観測値 | 観測年月日 |
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最高気温 | 38.1℃ | 1978年(昭和53年)8月3日 |
最低気温 | -19.3℃ | 1988年(昭和63年)2月22日 |
大潟(標高-3m)の気候 | |||||||||||||
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月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 12.1 (53.8) |
19.5 (67.1) |
23.4 (74.1) |
26.0 (78.8) |
31.2 (88.2) |
31.8 (89.2) |
35.6 (96.1) |
38.1 (100.6) |
35.9 (96.6) |
29.4 (84.9) |
24.4 (75.9) |
17.1 (62.8) |
38.1 (100.6) |
平均最高気温 °C (°F) | 3.0 (37.4) |
3.6 (38.5) |
7.4 (45.3) |
13.4 (56.1) |
18.8 (65.8) |
22.8 (73) |
26.4 (79.5) |
28.5 (83.3) |
24.8 (76.6) |
18.6 (65.5) |
12.1 (53.8) |
5.9 (42.6) |
15.4 (59.7) |
日平均気温 °C (°F) | 0.2 (32.4) |
0.5 (32.9) |
3.5 (38.3) |
8.7 (47.7) |
14.3 (57.7) |
18.7 (65.7) |
22.6 (72.7) |
24.0 (75.2) |
19.9 (67.8) |
13.7 (56.7) |
7.9 (46.2) |
2.6 (36.7) |
11.4 (52.5) |
平均最低気温 °C (°F) | −3.1 (26.4) |
−3.1 (26.4) |
−0.9 (30.4) |
3.3 (37.9) |
9.6 (49.3) |
14.6 (58.3) |
19.1 (66.4) |
19.9 (67.8) |
15.2 (59.4) |
8.5 (47.3) |
3.3 (37.9) |
−0.8 (30.6) |
7.1 (44.8) |
最低気温記録 °C (°F) | −17.3 (0.9) |
−19.3 (−2.7) |
−12.7 (9.1) |
−6.5 (20.3) |
−0.1 (31.8) |
6.2 (43.2) |
10.7 (51.3) |
9.8 (49.6) |
3.4 (38.1) |
−1.4 (29.5) |
−10.8 (12.6) |
−14.4 (6.1) |
−19.3 (−2.7) |
降水量 mm (inch) | 101.3 (3.988) |
81.1 (3.193) |
82.3 (3.24) |
82.8 (3.26) |
91.3 (3.594) |
95.6 (3.764) |
153.5 (6.043) |
145.9 (5.744) |
154.1 (6.067) |
155.1 (6.106) |
164.6 (6.48) |
139.0 (5.472) |
1,430.6 (56.323) |
平均降水日数 (≥1.0 mm) | 18.7 | 15.9 | 14.4 | 10.9 | 10.6 | 9.5 | 11.1 | 10.1 | 11.8 | 14.4 | 17.9 | 20.9 | 166.1 |
平均月間日照時間 | 33.3 | 56.3 | 128.2 | 179.5 | 190.7 | 178.9 | 156.1 | 190.6 | 169.7 | 145.5 | 85.2 | 41.6 | 1,554.3 |
出典1:平年値(年・月ごとの値) | |||||||||||||
出典2:観測史上1~10位の値(年間を通じての値) |
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平安時代の頃「大方(おおがた)」と呼ばれていた八郎潟は、のちには「大潟」と記すように変わったと伝えられている[10][1]。村名はこれに基づき、公募によって全国から寄せられた候補の中から、1964年(昭和39年)7月22日に選定された[10][1]。
新しい型式の農村を開発して、大規模農業を本格的に行うモデル農村となった。農家一戸あたりの水田は10haである。大型機械を導入して住宅を1か所にまとめ、農場には自動車で出かける生活をパターンとする近代的な大規模農業経営が進められた[11]。
1970年(昭和45年)からの減反政策により国は米作りから畑作への転換を推奨した。国は大潟村にも米作りから畑作への転換を迫ったが干拓後間もなく水はけが悪く、畑作に向かない土地だった。米作りのエリートの誇りがあった「ヤミ米派」と、国の方針に従う「順守派」に分かれて対立したが、1995年(平成7年)の食糧管理法の廃止で自由に米がつくれるようになった。[12]全財産を処分することを条件に入植した農民の中には、経済苦から自殺者も多数出現した。離農も相次ぎ、また残留して非正規流通米を生産し続ける農家もある。2009年(平成21年)の民主党への政権交代後は米粉のかたちでの生産を許容してはいるが、日本の減反政策の犠牲になったモデル地区であり続けている。
大潟村と全国の年齢別人口分布(2005年) | 大潟村の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 大潟村
■緑色 ― 日本全国 |
■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
大潟村(に相当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
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代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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村長職務執行者[注 3] | ||||
1-6 | 嶋貫隆之助 | 1964年(昭和39年)10月1日 | 1976年(昭和51年)9月4日 | 秋田県職員[29] |
村長 | ||||
嶋貫隆之助 | 1976年(昭和51年)9月5日 | 1978年(昭和53年)9月4日 | 元・村長職務執行者[29] 1期2年 | |
宮田正馗 | 1978年(昭和53年)9月5日 | 2000年(平成12年)9月4日 | [30][31] 1期目のみ1期2年。都合6期22年。 | |
黒瀬喜多 | 2000年(平成12年)9月5日 | 2004年(平成16年)9月4日 | 1期。55歳。無所属。女性。 | |
2004年(平成16年)9月5日 | 2008年(平成20年)9月4日 | 2期。59歳。 | ||
高橋浩人 | 2008年(平成20年)9月5日 | 2012年(平成24年)9月4日 | 1期。8月24日当選(2,506人、92.18%。48歳)。無所属。 | |
2012年(平成24年)9月5日 | 2016年(平成24年)9月4日 | 2期。8月24日無投票再選。52歳。 | ||
2016年(平成28年)9月5日 | 2020年(令和2年)9月4日 | 3期。8月23日無投票三選。56歳。 | ||
2020年(令和2年)9月5日 | (現職) | 4期。8月23日無投票四選。60歳。 |
その他の村民サービス施設 [32]
最寄りの病院は、湖東厚生病院(南秋田郡八郎潟町川崎字貝保98番1に所在)[36]
大潟村は開村以来、集配局が無い村であった。村で唯一の大潟郵便局は民営化以前の無集配特定郵便局であった。現在の集配業務は男鹿市にある若美郵便局が担当している(ゆうゆう窓口は、秋田中央郵便局が管轄)。
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村域内に鉄道は敷設されていない。最寄り駅は、村域外の東側を走る東日本旅客鉄道(JR東日本)奥羽本線の鹿渡駅(北東方面)と八郎潟駅(南東方面)、および、八郎潟調整池の南西対岸を走るJR男鹿線の船越駅と天王駅(共に南西方面)である。
2008年(平成20年)10月1日をもって、村内を走っていた秋田中央交通の路線バスが廃止されたため、同村では大潟村マイタウンバスを運行開始した[25]。2010年(平成22年)4月1日から「八郎潟駅・湖東厚生病院行き」バスについては、1回100円の運賃が必要になった[25]。また、2011年(平成23年)4月1日から村内巡回路線を含む全3路線に1回100円の運賃が必要になった[25]。
2019年(令和元年)10月1日より、五城目町及び八郎潟町と共同による、南秋地域広域マイタウンバスに移行されている。村内及び八郎潟町までは200円、五城目町までは400円となっているが、村内で完結する利用に限り、100円で乗車できる回数券を村で発行している。
最寄りの高速道路は秋田自動車道、インターチェンジは琴丘森岳IC(北東方面から新生大橋経由で大潟村に至る)と五城目八郎潟IC(南東方面から大潟橋経由で大潟村に至る)である。また、村域を走る道路は以下のとおり。
男鹿市、三種町 | 三種町 | 三種町 | ||
男鹿市 | 三種町 | |||
大潟村 | ||||
男鹿市 | (八郎潟調整池)、潟上市 | 八郎潟町、(八郎潟調整池)、五城目町、井川町 |