おおたけ ひろし 大竹 宏 | |
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プロフィール | |
本名 |
大竹 宏 おおたけ ひろし[1] |
愛称 | タケサン[2] |
性別 | 男性 |
出身地 | 日本・神奈川県川崎市[3]、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田)[3] |
死没地 | 日本・東京都[4] |
生年月日 | 1932年3月14日 |
没年月日 | 2022年8月1日(90歳没) |
血液型 | B型[5] |
職業 | 俳優、声優 |
事務所 | 81プロデュース[6] |
公式サイト | 大竹宏 Official |
公称サイズ(時期不明)[7] | |
身長 / 体重 | 160 cm / 52 kg |
声優活動 | |
活動期間 |
1956年 - 1991年[8] 1995年 - 2022年 |
ジャンル | アニメ、ゲーム、吹き替え、ナレーション |
俳優活動 | |
ジャンル | 舞台 |
大竹 宏(おおたけ ひろし、1932年3月14日[3][9][10][11] - 2022年8月1日[12])は、日本の俳優、声優。最終所属は81プロデュース[6]。神奈川県川崎市出身[3][注 1]、東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田)育ち[3]。
小学時代に東京府東京市神田区(現:東京都千代田区北東部神田)に一家そろって移住[3]。以来、ここで育ったため、「俺は江戸っ子」だと自認していた[3]。
明治大学付属明治高等学校時代は生来から手先が器用であり、絵画の才能も抜群であり、中学高校時代は美術部に所属していた[3]。人前で落語をしたり、喋ることも好きであり、高校時代には演劇部にも所属して部長を務めた[3][13]。高校2年から3年生まで演劇部の部室に入り浸り、勉強はほとんどしていなかったが、美術も得意だった[13]。体育祭の入場門も手作りしており、自作、自演、自演出、舞台装置まで手掛けて公演していた記録を持っている[3][13]。1951年、同高校卒業後、東京都台東区浅草の装飾専門店に就職[13]。アルバイトをしながら専門学校[注 2]へ通って商業美術の世界を目指していた[3]。
数か月後、演劇への情熱やみ難しく役者の道へと進む[13][14]。児童劇団・合唱団ちどり會を経て内田研吉の劇団ちどりに入る。当時は内田が、メガネの奥の目を光らせて、「ずっと演劇の道を歩みたいんなら、のめり込めよ」と言っていた[13]。この頃より友人の紹介で児童劇団ちどりの公演を手伝うようなったという[3]。劇団では、前述の経験が役に立って、内田から舞台監督に任命されていた[13]。当初は大道具係であったが、内田に才能を認められて内田のアシスタントやカバン持ちを務め、内田が出演していたNHKに出入りするようになり、大竹が二十歳の頃にはNHKのラジオドラマに出演するようになった[13]。その頃、装飾専門店務めを辞めた[13]。内田没後の1952年(昭和27年)頃には劇団ちどりを主宰した[11][13][15]。1955年(昭和30年)からはこけし座に移り、舞台俳優を務めるとともに子供の演技指導も行っている[3][15]。
テレビでは草創期から活動[16][17]。初めて放送に出演したのは1953年(昭和28年)のNHKの公開ラジオ番組『犯人は誰だ』の「金太郎物語」のクマ役となる[3][6]。NHKテレビの人形劇『アシンと十三人の盗賊』(1955年)や『ガンツ君』(1956年)において声優を務め[6]、これらの演技が評価されて1956年(昭和31年)に人形劇『チロリン村とくるみの木』の声優の一員に選ばれた[3][5]。同作ではタコチュー役を8年間に亘って務めた[11]。1966年(昭和41年)からはフジテレビの子供向け番組『ママとあそぼう!ピンポンパン』に声優として出演、放送開始2年後にマスコットキャラクターを登場させることになり、河童のカータンの着ぐるみが作成された。歌って踊れて絵がうまく、また子供と遊ぶのが好きなことから大竹に白羽の矢が立ち、カータンの声だけでなく着ぐるみの操演も担当した[17]。その時はプロデューサーが「お前が入れ」と言い出し、その頃、着ぐるみの操演を担当する人物は、体育学校の人物などダンサーのアルバイトのような感じだったことから、一度は断っていた[5]。しかし「セリフがしゃべれる、歌が歌える、踊りがおどれる、絵も描けるだろ」とおだてられ、ギャラにもつけられたという[5]。『ママとあそぼう!ピンポンパン』には16年間に亘って出演した[11]。しかし当初は着ぐるみの操演を担当した時に「ああ、これはいけないもんに入っちゃった」と思い、汗でずぶずぶになり、息苦しく、「明日辞めよう明日辞めよう」と思いつづけて十何年という感じだったという[5]。声優の世界に戻れば、周囲もたててくれたが、着ぐるみの操演を担当していた時は、裏方と同じように見られてしまうようなところがあり、そういうジレンマをいつもかかえていたといい、思いすごしだったかもしれないという[5]。それで、本当に「辞めよう」と思ったこともあったが、その時に、『ママとあそぼう!ピンポンパン』のプロデューサーだった横澤彪から「9年でやめたら、他人は評価しないよ。10年やったといえば重みが違うよ」と言ってくれて、思い止まったりしていた[5]。結局、ある時に、プロデューサーが代わったのを機会に、また「辞めたい」と伝えていたところ、あっさり「いいですよ」と言われてしまい、「ほんとうに辞めてやる」と心を決めたという[5]。その人物も冷たかったわけではなく、『ママとあそぼう!ピンポンパン』の放送終了が、その時すでにわかっていたようだったという[5]。
『ママとあそぼう!ピンポンパン』の毎日のレギュラーを務めるかたわら、数多くのアニメ作品にも出演しており、アニメでのデビューは1963年、『狼少年ケン』のブラック役となる[3]。
劇団東少[10]、東京俳優生活協同組合[11]、青二プロダクション(創立メンバー)[11]、オフィス薫[11]、ぷろだくしょん★A組に所属していた。また、晩年には後進の育成にも力を注ぎ銀プロダクション養成所、CHK声優センターなどで講師も務めている[4][10]。
1991年1月、一時休業のためにレギュラー出演『キテレツ大百科』のブタゴリラ役、準レギュラー出演『魔法使いサリー』の花村よし子の父·花村利夫役を途中降板した。役は前者が龍田直樹[8]、後者は石森達幸に引き継がれた。その時はちょっとした事情があり、あの時期は朗読などワンマンショーの舞台活動に熱中していたからである[5]。その後大竹は1995年に『超力戦隊オーレンジャー』のバラクローズ役で仕事復帰している。
2015年1月から、81プロデュースに所属している[18]。同年に第九回声優アワードにおいて多年に亘る貢献を表彰する「功労賞」を白石冬美と伴に受賞した[19][20]。
晩年は持病はなく元気な様子だったが、2022年8月1日、急性心不全のため東京都で死去した。90歳没[4][12][21]。
三枚目的な役柄を得意としており、ガキ大将的なキャラクターを演じている[23]。また感情豊かな動物役でも知られており[23]、「動物をやらせるなら大竹宏」、「動物をやらせたら彼の右に出る者はいない」との定評を得ていた[3]。動物役を演じることを少しも嫌がっておらず、ノミ、ゴキブリ役であろうとも、常に真剣に取り組み、自分のものにしていた[3]。しかし時には不快な思いもすることもあり、犬、猫の「鳴き声だけをやってくれ」と言われた時などであった[3]。これまで怪獣からゴキブリまで数多く演じていたが、決して動物の声のモノマネ屋ではないことから「ドラマに登場してくる動物のキャラクターを演じる心は十分に持ち合わせているが、効果音として動物の声を出せといわれても、それに応じることはできない」と言っていた[3]。動物役では、持ち前のカン高い声を使っていたが、人間役では野太い声を出して演技をしていた[3]。
『マジンガーZ』で演じたボスの登場時のセリフ「ジャンジャジャーン!」は大竹のアドリブとされる[4][24]。
『Dr.スランプ アラレちゃん』でニコチャン大王を演じる際、愛知県出身である杉山佳寿子から名古屋弁の指導を受けてアフレコに臨んだ[25]。
「スーパーロボット大戦シリーズ」における収録の際、大竹は自分の持ち役である『マジンガーZ』のボスの台詞を見て、「台詞がボスくさくない」という理由から、骨子はそのままに自分でワープロで打ちなおして持参した。その後、スタッフ側から増やした台詞の修正を依頼され、「ここまでしてくれる方は他にはいない」と絶賛された[5]。
第9回声優アワードで功労賞を受賞した際には、100歳まで現役生活を送ることを宣言していたが、果たせなかった[4][26]。
趣味・特技はスポーツ全般[27]、イラスト、指笛、ハーモニカ[6]。
大竹の死後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
後任 | 役名 | 概要作品 | 後任の初担当作品 |
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間宮康弘 | サトシのオコリザル | 「ポケットモンスターシリーズ」 | 『ポケットモンスター(2019)』 |
太字はメインキャラクター。