大衆車(たいしゅうしゃ、英:People's car)とは、一般的な大衆が購入・維持できるような、廉価な価格帯の乗用車のことである。類義の呼称として「国民車」(こくみんしゃ)があり、本項ではこれについても取り扱う。
19世紀末に登場した乗用車は、当初は貴族や大富豪など一部の上流階級のみが道楽として所有するものであり、大衆車と高級車という区分はされ得なかった。20世紀初頭、大量生産手法を導入したフォード・モデルTに始まる乗用車の普及・大衆化により初めて、一般所得層であっても所有できる乗用車が現実化し、以後各国で大衆がその日常生活において自家用車を求める需要に応じて、様々な企業から発売された。特に企業が自主的に設計・開発・生産を行って販売したものもあれば、企業が政府の依頼を受けて開発したものもある。
基本的な大衆車では、以下の点が重要視された。
その後、大衆車の普及により、初期の大衆車にはない様々な価値が求められ、現在では多種多様な大衆車が存在する。
大衆車が普及する以前に、自国における一般的な所得層でも所有が可能な乗用車を開発・販売し、その国のモータリゼーションのはしりとなる構想が各国でみられた。こうした構想により開発された車を一般的には「国民の誰もが乗れる車」として「国民車」として呼称することがある。
また、結果的にその国の中で高いシェアを獲得した車についても、「国民の誰もが乗っている車」として「国民車」と呼称することがある。
「国民車」では、大衆車に求められるものよりも一層厳しい要件として、「その国の一般的な所得層でも十分に購入できる価格帯」と「家族全員が乗れる一定の居住性」、「未舗装の道路や登坂などでの一定の走行性能」、「壊れにくく修理しやすい」というものがあった。実際にこの要件を全て満たす自動車の設計は困難であり、広く「国民車」として認識された車種は、世界的にも非常に限られる。
太平洋戦争終結後に日本を占領下に置いた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、1945年9月に日本のトラック生産を許可したのに引き続き、1947年6月に台数限定つきで小型乗用車の生産を許可した。しかし、戦後の急激なインフレーションを抑制するためにGHQが実施した金融引き締め政策(ドッジ・ライン)による不況に翻弄されていた当時の日本人には、乗用車の所有など考えることすらできなかった。
状況が変化したのは1949年の中華人民共和国の成立、ならびに1950年6月の朝鮮戦争の勃発を受けてのことである。GHQは早急な占領政策の終結に向けた平和条約の締結と、日本の経済的自立のため、国内産業育成の必要性に迫られた。また朝鮮戦争の軍需物資調達のための、いわゆる朝鮮特需により、1956年(昭和31年)の経済白書で「もはや戦後ではない」という言葉に象徴される空前の好景気に日本は沸き、1960年(昭和35年)には当時の池田勇人内閣が「所得倍増計画」を発表するなど、日本の戦後復興は着実な歩みを進めていた。
そうした中、1954年10月に軽自動車の規格が改定され、ボディサイズは全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000、排気量は2サイクル、4サイクルともに360 cc以下と統一された[注 1]。この新規格に沿って開発された日本初の本格的な軽自動車として、1955年(昭和30年)10月には鈴木自動車工業(現・スズキ)がドイツのロイトを手本に「スズライトSF」を発売している。
1955年(昭和30年)5月18日、通商産業省(現・経済産業省)の「国民車育成要綱案(国民車構想)」が新聞等で報じられた[注 2]。この構想では、一定の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するというものであった。要件は以下の通りである。
この計画に対し、国内各自動車メーカーからは実現不可能であると消極的な反応が多かったが、1956年(昭和31年)9月にはトヨタ自動車が空冷4ストローク2気筒700 cc、前輪駆動の「A1型[注 3]」計画を発表したり、小松製作所が国民車政策を発表したりする動きはあった。
当時、自動車市場への新規参入を狙ったスバル・1500(P-1)の発売断念から、1955年(昭和30年)から新たな軽自動車規格に沿って新型軽自動車の開発に取り組んでいた富士重工業(現・SUBARU)では、航空機製造で培った経験を取り入れ、1957年(昭和32年)2月に試作第1号車を完成。1958年(昭和33年)3月に「スバル360」として発表し、同年5月に発売した。
スバル360は、それまで各メーカーが実現不可能と冷遇していた通産省の「国民車構想」をほぼ満足させる内容で、軽乗用車の市場を確立させた。ただし、富士重工業の首脳陣および百瀬晋六麾下の開発スタッフの念頭にあったものとしては、シトロエン・2CVのスペック等を参考とした以下の要求の実現を図ったものであり、「国民車構想」に完全に沿って開発されたものではない。
これに続き、1959年(昭和34年)9月には鈴木自動車工業も「スズライト」をモデルチェンジした「スズライトTL」を発売。1960年(昭和35年)には東洋工業(現・マツダ)が「R360クーペ」を、1962年(昭和37年)10月には新三菱重工業(現・三菱自動車工業)が「ミニカ」を、1966年(昭和41年)にはダイハツ工業が「フェロー」をそれぞれ発売し、軽自動車市場は一気に活況を呈することになった。
また、小型車では1960年(昭和35年)4月に発売された新三菱重工業の「三菱500」、1961年(昭和36年)4月のトヨタの「パブリカ」が発売された。三菱500はパブリシティにおいても「国民車」を銘打っており、車体に「三菱500国民車」と書かれた発表時の写真が残されている[1]。
結果的に、「国民車構想」に沿って開発・発売された「大衆車」に対して通産省が補助を行うことはなかったが、それまで自動車とは縁がなかった一般大衆に自動車を身近なものとして定着させ、欧米の自動車先進国に対して著しく立ち遅れていた日本の自動車産業に画期的な技術革新を促したという意味では、この構想は非常に大きな貢献があったとされる。一方、日本での自家用車の普及は、政府の方針にとらわれることなく開発されたスバル360の功績であり、国民車構想の影響はほとんどないとする意見もある。
初期の乗用車は上記要件を満たすため、その多くが小型のエンジンを搭載し、そのエンジンで駆動できるよう軽量化のために、やや小型のものが多い。またこの他にも国によって異なるニーズにより、一定の違いも見られる。特にこれらの多くが第二次世界大戦以降に開発されたのは、軍需産業の民生品への転換と、経済復興による大衆の購買力向上に関係する。
なお生産国の経済成長が大衆の所得を押し上げ、一般の労働者が持つ購買力が一定以上に達したため、これら一般大衆車の多くは「自動車の普及」という役割を終え、装備の充実した次の世代の大衆車に市場を譲ることとなった。
日本でモータリゼーションが進み始めたのは第二次世界大戦後の1950年代末のことである。厳しい自然環境ゆえの耐久性や、起伏に富んだ国土ゆえの登坂性能が重要視される一方、国土が狭く道路の最高速度が100 km/hにとどまっていたため、高速長距離巡航の性能はさほど重要視されなかった。特に年間の寒暖差が50 ℃から70 ℃ほどにもなる[注 4]ため、真夏における高負荷でもオーバーヒートしにくく、かつ冬場の冷間時でも難なく始動できるエンジンが求められた。また、1960年代までは未舗装路が多かったことから、丈夫な足回りも求められた。さらには欧州と同じく狭い道が多いことから小柄なボディや、ガソリン価格の高さのために低中速域での燃費性能も重視される。
かつて大衆車の主流であったセダンの市場は、2000年代以降は社用車および教習車等の業務用途を除いて衰退の一途をたどっており、2020年代現在では長引く不況もあってダウンサイジングが著しく、大衆車はもっぱら軽自動車が主流となっている。ファミリーカーとしては実用本位のミニバンやトールワゴンも人気がある。
フランスは農業大国で不整地も多いことから、悪路での走破性が求められる上、石畳での乗り心地も重要なため、他国の車に比べてホイールベースが長い、サスペンションストロークが大きい、シートは大柄でソフトなものが多い、などの特徴を持つ。国土の大半が平坦で使用速度域が高いことから、キャスターアクションも強く、直進安定性に優れる傾向がある。また、小排気量車でも引っ越しや蚤の市(出品・購入)の際に大荷物を積むことや、キャンピングトレーラーをけん引することを想定しており、かつ巡航速度も高く設定されているため、ギア比は非常にワイドレシオとなっている。
イギリスの都市部には狭い路地が極めて多いことから小柄な車両が求められたが、長身の欧州人が収まる必要性から広い室内も重要視され、なおかつ石畳で故障しにくいサスペンションも求められた。
ドイツ製の大衆車は信頼性と安全性に定評があり、アウトバーンによる高速長距離巡航能力を重視し、小型車でも140 km/h以上の高速巡航を想定した設計となっているものが多い。モータリゼーションの起源はナチス・ドイツ政権下の1930年代であり、ゼネラル・モーターズ(GM)の子会社であるオペルが1935年にOpel_P4、翌1936年にカデットを発売。1938年には国威発揚という趣旨から、エリートに限らず一般国民が自由かつ廉価に旅行できる手段としてKdF-Wagen(後のフォルクスワーゲン・タイプ1)が開発された。特に長距離走行でも故障を起こさないことが求められ、また高速走行での燃費の良さも重要視された。これに並行してアウトバーンの整備も行われていたが、第二次世界大戦の勃発により資源は軍事に振り向けられ、本格的なモータリゼーションは戦後を待つこととなる。
イタリアは狭く入り組んだ路地が多く、小型でスペース効率を重視した乗用車が主流である。また第二次世界大戦の敗戦から経済的に立ち直っていなかった時代には、とりわけ小型・安価な乗用車が求められた。
アメリカ合衆国では都市間の長距離走行を念頭に置き、大きめのボディサイズ、大排気量のエンジン、柔らかめのサスペンションという組み合わせが基本である。当初は未開の地が多く存在していたため、悪路での走破性や修繕のしやすさが求められてきた。税制の関係上ピックアップトラックの人気が高く、各メーカーは実用性の高さのほか、アメリカ人好みの力強いイメージを押し出している。近年ではそれらから派生したSUVも人気を集め、乗用車派生のクロスオーバーSUVが人気の他の地域とは異なる状況にある。また、ガソリンの価格が他の地域よりも安いため、燃費はあまり重視されない傾向にある。
経済発展が著しい中華人民共和国(中国)では中間層の拡大も著しく、北米に次ぐ世界第2の自動車市場に成長している。自国のメーカーは中間層向けに幅広い車種を取り揃え、他国のメーカーも現地生産で価格を抑えた中間層向けの大衆車を発表している。実用性以上にステータスシンボルとしての価値が重視され、中型セダンやクロスオーバーSUVが人気で、他のアジア諸国とは異なり小型車は少ない。
日本の大衆車はアメリカ合衆国に輸出され、1980年代にはジャパンバッシングに代表される感情的な米国内自動車産業界の反発を招くほどに市場を席巻したが、その進出の歴史は最初から順風満帆というわけでもなく、日本国内の自動車産業が大衆車の開発・発展に伴い円熟する1970年代まで待たねばならなかった。
日本車のアメリカへの本格輸出は、大衆車が生まれる以前の1960年頃から始まり、トヨタからはクラウンとランドクルーザー、日産からはダットサン・トラック220型、セダン210型、スポーツS210型が輸出された。
トラック並のシャシに排気量3.9 Lのエンジンを搭載したランドクルーザーは評判が良かったが、クラウンは当時のトヨタにおける最高級車であったにもかかわらず、カリフォルニア・ハイウェイパトロール(CHiPs')のテストでは高速走行時の操縦安定性が危険とされるレベルであり、オーバーヒートや焼きつきも頻発し、早々に輸出が中止された。後にT20系コロナもクラウンにあやかった「ティアラ」の車名で北米進出を果たしたが、良い評価は得られないまま輸出を中止している。また、トヨタ初の大衆車であるパブリカは極少数しか輸出されなかった。
トヨタは、クラウンやコロナのための販売会社とショールームをロサンゼルスに設けたが、肝心の商品が全くない状態となってしまい、カローラの本格的な輸出が始まるまでは、ランドクルーザーの販売のみで北米会社を支える日々が続いた。
ダットサン各車は、もとより丈夫なオースチン車のコピーであったため、最高速度が遅い点以外に大きな不満はなかったが、貧相で小さすぎることから売れ行きは芳しくなかった。しかし、後に北米日産の社長となる片山豊が、自らの運転で現地ディーラーへの飛び込み営業を続けた結果、次第に品質が認められ、フェアでフレンドリーな片山の人柄もあって着実に販売網を増やし続け、1970年代の大躍進につながった。
トヨタや日産が本格的な乗用車の輸出を試みて苦戦していたこの時期、スバルやホンダといった軽自動車中心のメーカーは、360ccのエンジンを400 - 600ccのものに換装した上で北米や欧州に輸出し、それなりの実績を上げていた。これらは本格的な乗用車ではなく、粗末なバブルカーの代替となるシティコミューターとして受け入れられたものである。戦後の輸出市場における日本車の強みが「小型・軽快」であることは、この時点で確定していた。
一方、カローラやサニーの輸出は1967年モデルからと、日本車のアメリカ進出としてはやや後発の部類に入る。
市場経済の成長期に登場した大衆車は、初期こそ民衆の生活向上心を煽り盛んに販売・消費されたが、次第に経済的成長傾向が鈍化すると、飽和状態に陥って消費者の関心が細分化する傾向があることから、これら画一的な大衆車への関心は薄れる傾向にある。このため大衆車の勃興は、一種の経済的指標とみなすことも可能である。
日本や欧米といった経済的に豊かな地域においては、これら大衆車の多くは役目を終えて生産を終了しているか、一定の高級感を出すことでファミリーカーへの転換が図られている。
21世紀に入ってからの先進国では、自動車市場の成熟化が進み、乗用車の動力性能が過剰性能になっていることから、大衆車が再び小型化するダウンサイジングの様相を呈し、日本では税制面で優遇される軽自動車が売上を伸ばしている。欧州各国でも、常態化している都市部の交通渋滞や環境対策として基準を満たしたAセグメント車に税制面での優遇措置が実施されたことで、ダウンサイジングが進んでいる。
2010年代にはトヨタ・アイゴ(約7,000英ポンド)、ヒュンダイ・i10(約8,000英ポンド)、日産・ピクソ(約6,900英ポンド)、フォルクスワーゲン・up!(約10000ユーロ)など、装備を極力簡素化して価格を抑えた小型車が各社から相次いで販売されている。これらはシティコミューターとしての利用だけでなく、欧州メーカーにとっては高級ラインへの偏重で取り込めなかった低所得者層をもターゲットに含めることができる。
2010年代から各メーカーでは、東南アジアやインドなど経済発展が著しいアジア市場へ投入する「アジア戦略車」を相次いで発表している。これらの市場では収入に見合った価格(新車でも日本円にして100万円以下)と燃費の良さに加え、未舗装路が残り冠水が頻発する道路事情への対策を施した小型車が好まれる。トヨタ・アギアやブリオ・サティヤ(ホンダ)のように現地生産する新規開発車もあるが、コスト削減のため先進国向けを現地仕様にした車種も多い。メーカーにとっては、飽和状態で各種規制が厳しい先進国よりも多量の販売が見込めるため、新たな世界戦略車としての側面も持つ。
日本車においては軽自動車およびその拡大版がその役目を担うことも多く、1990年代以降ではマルチ・スズキ・インディア[4](スズキ合弁)やプロドゥア(ダイハツ合弁)、大宇国民車[5]の存在、パキスタンにおける8代目アルトの現地生産、プロトン・ジュアラ(三菱・ミニキャブ派生)などがある。