大阪府立北野高等学校 | |
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(2008年〈平成20年〉3月撮影) | |
北緯34度42分56.4秒 東経135度28分41秒 / 北緯34.715667度 東経135.47806度座標: 北緯34度42分56.4秒 東経135度28分41秒 / 北緯34.715667度 東経135.47806度 | |
過去の名称 |
欧学校 集成学校 東進級学校・西進級学校 大阪府第一番中学校 大阪府中学校 大阪師範学校別科大阪府中学校 府立大阪中学校 府立大阪尋常中学校 大阪府第一尋常中学校 大阪府第一中学校 大阪府堂島中学校 大阪府立堂島中学校 大阪府立北野中学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 大阪府 |
併合学校 | 大阪府立北野夜間中学 |
設立年月日 | 1883年(明治16年)7月 |
創立記念日 | 4月20日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 文理学科 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | D127210000014 |
高校コード | 27101C |
所在地 | 〒532-0025 |
外部リンク | 公式ウェブサイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
大阪府立北野高等学校(おおさかふりつ きたの こうとうがっこう、英: Osaka Prefectural Kitano Senior High School)は、大阪府大阪市淀川区にある公立の高等学校。源流としては、大阪府第一番中学校、及び大阪府中学校を経て、府立大阪師範学校(大阪教育大学の前身の一つ)の中等科(別科大阪府中学校)から、明治初期の1883年(明治16年)に府立大阪中学校として独立。大阪府立で最初の旧制中学校(修業5年間〈男子校〉)になる。
1873年(明治6年)、東大組(後の東区、現在の中央区)に創立の「欧学校」に起源を持ち、大阪府が最初に設置した旧制中学校「大阪府第一番中学校」の流れを汲む[1]。
校名の「北野」は前学校所在地の地名によるもので、現学校所在地である十三(じゅうそう)への移転後も名乗り続けている(後述)。
太平洋戦争後1948年(昭和23年)の学制改革により、新制の高等学校の大阪府立北野高等学校に改編。大阪府立大手前高等学校(旧制の府立大手前高等女学校)と生徒・教職員を交流(入れ替え)し、男女共学となった。
全日制課程と定時制課程ともに普通科を設置していたが、定時制は2004年(平成16年)度の募集を最後として2007年度で廃止。全日制は2009年に大阪府教育委員会の進学指導特色校事業の対象校になり、2011年度より従来の普通科に加えて文理学科を併置した(普通科は2016年度の入学者選抜〈入学試験〉より廃止)。
なお、かつて2002年度から文部科学省スーパーサイエンスハイスクールに指定(2006年度まで)。2014年度から文部科学省スーパーグローバルハイスクールに指定されていた(2018年度まで[2])。
1901年3月、大阪府は大阪府立の中学校・高等女学校(同年4月開校予定の学校も含む)の校名について、同年4月より従来の設置順を表す数字の校名(いわゆるナンバースクール)をやめ、学校所在地の地名を取り入れた校名に改称する方針を打ち出した。これにより、当時北区堂島浜通(現・福島区福島)に所在していた本校は大阪府堂島中学校と改称した。翌1902年4月には北区北野芝田町(現・芝田)への移転に際して大阪府立北野中学校と改称した。
一方、当時は学校を新設する際に既設の学校内に仮校舎を設置して開校するケースが多く、これ以降に開校した新設校も、校地が決定するまで、あるいは新校舎へ移転するまでの間、一時的に設置順を表す数字の校名を名乗ることが多かった。1921年4月に大阪府立生野中学校(現・大阪府立生野高等学校)内に仮校舎を設置して開校した大阪府立第十三(じゅうさん)中学校は、校地が豊能郡豊中村(現・豊中市)に決定したことを受けて同年9月に大阪府立豊中中学校と改称し、翌1922年に移転した(現・大阪府立豊中高等学校)。
1931年4月に東淀川区十三南之町(現・淀川区新北野)への移転が決定した本校では、大阪府立十三(じゅうそう)中学校への改称に対して、府立一中のイメージが失われること、一時的に大阪府立第十三中学校を名乗っていた大阪府立豊中中学校と紛らわしくなることなどを理由に反対運動が起き、改称が見送られたとされている[3]。
十三移転後も北野を名乗り続けた本校の影響から、1974年には十三南之町の町名が新北野の現行町名に改称されることとなった。
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文武両道をモットーとして掲げており、体育では学年・性別によってそれぞれノルマ(二重跳び男子50回以上など)が課せられ、達成できなかった場合は特別補講がある[4]。水泳および持久走の授業を欠課した際は、休憩時間または放課後を利用しての補講が求められる。
2022年度(令和4年度)の主な大学合格者数(浪人含む)は、国公立大学が東京大学14名、京都大学91名、大阪大学64名、神戸大学31名、大阪公立大学44名。私立大学が早稲田大学27名、慶應義塾大学12名、明治大学12名、同志社大学164名、立命館大学93名[5]。
(年表節の主要な出典は公式サイト[6] と平成30年版の学校案内[7] と同窓会サイト[8])
現在の校歌は1915年(大正4年)11月、土井晩翠による作詞、岡野貞一による作曲で、大正天皇即位の大典記念の一つとして制定された。1~5番まで存在するが、全て歌われることは少ない。
前後期制を採用し、授業は1時限65分間。年5回の定期考査と、1、2学年には年3回長期休暇後の宿題考査がある。「授業第一主義」がモットーである。特に数学に力を入れ、進度も早く、補講も随時行われる。
かつて2002年度の文部科学省スーパーサイエンスハイスクール指定にあわせ、理系教育の推進向上のため、1学年の8クラス中2クラスをSS(スーパーサイエンス)クラスとし、入学後に希望者から選抜。SSクラスでは、1つのテーマを1年間研究し成果を発表する「課題研究」というカリキュラムがあった(2011年度の文理学科併置で新規SSクラス開設を廃止。「課題研究」は文理学科・普通科問わず全員が実施)。
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ほかに、修学旅行(2年時)、勉強合宿(1年時)がある。
校舎は2003年(平成15年)に卒業生でもある建築家竹山聖の設計により完成した。外観は打放しコンクリートで、内部はコンクリート塗装とフローリングを中心の無機質さの中に、「空間」と「広がり」をデザイン。公立高校の校舎とは思えない、モダンなつくりになっている。
旧校舎の壁に、米軍のグラマン戦闘機(F6F)の機銃掃射の跡があった。その壁の一部が「メモリアルウォール」として保存され、記念碑が設けられている[14]。
校内には卒業生の植物学者笹部新太郎が開発した笹部桜が植えられており、春には校門から校舎までの道を桜並木が彩る。校門前には旧制北野中学の頃のモニュメントもある。
北端には高校では全国でも最大規模の図書館があり(図書室ではなく地上2階、地下1階の別館)、地上に約2万冊、地下の書庫に約4万5千冊の計7万冊近くの蔵書があり、戦前の蔵書も少なくない。1階部分は自習室となっている。
屋上には、卒業生の石川勇[15] により作られた鏡面半径51cmの望遠鏡が設置されている(2003年設置)。望遠鏡は年に数回、生徒の天体観察や課題研究にも使用され、文化祭で一般公開される。
高校レベルでは珍しい50mプール(オリンピックサイズ・プール)がある(1943年8月に竣工式、1971年3月に改築工事が竣工)。
硬式野球部は春4回(第20回大会・第21回大会・第22回大会・第24回大会)、夏1回(第13回大会)の計5回甲子園に出場している。このうち春の第21回大会では優勝しており、これは春夏通じて大阪府の公立勢による唯一の甲子園優勝となっている。また、夏は第2回大会から地方大会(大阪大会)に参加し、第9回大会の1回不参加があるだけで、明星高等学校(第27回大会と第61回大会の2回不参加)および大阪府立八尾高等学校(第7回大会と第8回大会の2回不参加)と並んで、皆勤校である大阪府立市岡高等学校、第2回大会から連続参加している桃山学院高等学校に次いで3番目に参加回数が多い。
ラグビー部は1923年(大正12年)に創部し、1939年1月より4年連続全国中等学校ラグビー大会出場(1942年に第24回全国中等学校ラグビー大会優勝)。1987年12月には3年生の橋下徹らが第67回全国高校ラグビー大会に出場したが、2014年(平成26年)に部員2人だけとなり[16]、翌2015年秋に部員ゼロで一時休部状態となっていた[17]。