大鳥 圭介 おおとり けいすけ | |
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大鳥圭介 | |
生年月日 |
1833年4月14日 (天保4年2月25日) |
出生地 | 日本 播磨国細念村 |
没年月日 | 1911年6月15日(78歳没) |
死没地 |
日本 神奈川県足柄下郡国府津村の別荘 瀧の家 |
出身校 |
閑谷学校 適塾 江川塾 ジョン万次郎 |
称号 |
正二位 勲一等 男爵 |
子女 | 大鳥富士太郎 |
内閣 |
黒田内閣 三條暫定内閣 第1次山縣内閣 第1次松方内閣 第2次伊藤内閣 |
在任期間 | 1889年 - 1894年 |
在任期間 | 1893年 - 1894年 |
在任期間 | 1882年10月13日 - 1889年6月3日 |
在任期間 | 1894年11月10日 - 1911年6月15日 |
大鳥 圭介(おおとり けいすけ、天保4年2月25日(1833年4月14日) - 明治44年(1911年)6月15日)は、江戸時代後期の幕臣(幕府伝習隊長、歩兵奉行)、医師、蘭学者、軍事学者、工学者、思想家、発明家。明治時代の教育者(工部美術学校校長、工部大学校校長、学習院第3代院長、華族女学校校長)、政治家、外交官、官吏。位階勲等は正二位勲一等男爵。
別名、大鳥純彰。号は如楓(じょふう)。家紋は鶴の丸。
1833年(天保4年)摂津尼崎藩の飛地領である播州細念村小字石戸(現・兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙字石戸)に村医者の息子として生まれる。備前岡山藩閑谷学校で漢学、赤穂・中島意庵の下で西洋医学、適塾で医学を学んだ後大木忠益(坪井塾)で塾頭となり江川塾から教授に招聘され尼崎藩に仕官。旗本となり、開成所洋学教授から歩兵頭、歩兵奉行となり伝習隊を結成。戊辰戦争では箱館・五稜郭を占拠し陸軍奉行となる。
戊辰戦争後に入牢するが黒田清隆の尽力で赦免され、開拓使五等出仕として明治政府入り。大蔵小輔・吉田清成の随行として大蔵少丞に就任し米国と英国に渡航し外債募集を行う。次いで工部省に入り公的に日本人として初めてシャム国(タイ)を訪問。第1回内国勧業博覧会御用掛に就任。工学寮美術学校が開校されると校長となり、工学権頭・工学頭、工部省工作局長を経て、1877年、工部大学校(旧工学寮工学校、東京大学工学部の前身)の初代校長となる。続いて大書記官兼参事院員外議官補工部技監に任じられ、第1次伊藤内閣の農商務大臣として転出した谷干城の後任として第3代学習院長に就任、華族女学校校長を兼務。外交面では、陸奥宗光の後ろ盾で清国朝鮮国駐箚公使として壬午事変、甲申事変により悪化した清国の袁世凱と交渉。
学者としては、江戸で松本良順と交流しコレラの治療法を研究。洋式兵法を研究しフランス式兵制を幕府に導入し伝習隊を結成。 錺職人に製法を伝授して日本で初めて金属活字(大鳥活字)を作成し、『築城典刑』『砲火新論』などの翻訳書を出版した。『築城典刑』は好評で、長州では参考に築城も行われた。また、洋書を参考に銀板とレンズを作成して写真を紹介。島津斉彬に写真術の伝授も行った[1]。さらに蒸気船の模型を設計・製作。日本初の温度計、気球も制作した。一方、漢詩や和歌にも通じ、戊辰戦争前後の記録として『南柯紀行』を記し、英国を視察した際にダーウィンの『種の起源』を読み『進化論』を解説した。
播磨国赤穂郡赤松村(現在の兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙石戸)の医師・小林直輔の子として生まれる。幼名、慶太郎。
父も学んだ閑谷学校で5年間、漢学、儒学、漢方医学を学ぶ[2]。嘉永2年(1849年)、上郡に帰郷し、蘭方医・中島意庵の助手となる(この頃名を圭介と改める)。嘉永5年(1852年)5月2日、蘭学修行の為、上坂して緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学んだ後、安政元年(1854年)に適塾時代の仲間と共に江戸に出る。薩摩藩の知遇を得て翻訳などの手伝いをした後、坪井塾で塾頭となり、軍学、工学に関心が移るようになる。この間、西洋式兵学や写真術を学び[3]、同時期に勝海舟の知遇を得る。
安政4年(1857年)、縄武館(江川塾)に兵学教授として招かれる傍ら、中浜万次郎に英語を学んだ。安政5年(1858年)、服部元彰の紹介で故郷を領地とする尼崎藩に8人扶持で取り立てられ「藩士」となった。その後、徳島藩を経て安政6年(1859年)に蕃書調所へ出仕。翌年、『砲科新編』翻訳出版。日本で初の合金製活版を作る。大鳥活字と呼ばれた。この後も大鳥活字を使い多数の本を出版している。
文久元年(1861年)12月、江川英敏の推挙により、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として出仕。文久3年(1863年)8月20日、海陸軍兵書取調方出役。開成所教授も兼務し、二院制議会の採用を幕府に建言している。元治2年(1865年)1月28日、陸軍所に出仕した後は富士見御宝蔵番格として正式に「幕臣」に取り立てられ、俸禄50俵3人扶持の旗本となる。
慶応3年(1867年)1月、伝習隊創設を進める幕府の勘定奉行小栗忠順に頼み、同じく幕臣の矢野次郎、荒井郁之助、沼間守一らとともにこれに参加する[4]。大鳥は歩兵隊長として士官教育を受け、10月23日には、歩兵頭並(佐官級)となり、幕府陸軍の育成や訓練にあたった。慶応4年(1868年)1月28日、歩兵頭に昇進。鳥羽・伏見の戦い後の江戸城における評定では小栗忠順、水野忠徳、榎本武揚らと共に交戦継続を強硬に主張する。2月28日には陸軍の最高幹部(老中1人、若年寄2人、歩兵奉行3人)である歩兵奉行(将官級)に昇進した。
しかし、江戸開城と同日の4月11日、伝習隊を率いて江戸を脱走し、本所、市川を経て、小山、宇都宮や今市、藤原、会津を松平太郎[5]・土方歳三等と合流しつつ転戦し、母成峠の戦いで伝習隊は壊滅的な損害を受けたものの辛うじて全滅は免れ仙台に至る。仙台にて榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、箱館政権の陸軍奉行となる。箱館戦争では遅滞戦術を駆使し粘り強く戦ったものの、徐々に追い詰められ、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭で降伏したのち、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄された。
明治5年(1872年)1月8日に特赦により出獄後、新政府に出仕して、左院少議官、開拓使5等出仕を経て、大蔵小丞の職を兼任し、欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉の為に歴訪した。明治7年(1874年)3月に帰国後は、開拓使に戻り、後に陸軍大佐拝命を経て工部省四等出仕となる。技術官僚として殖産興業政策に貢献した。工作局長として官営工場を総括し、セメントやガラス、造船、紡績などのモデル事業を推進するなどインフラ開発にも関わる。また、内国勧業博覧会の審査員として国内諸産業の普及と民力向上に尽力し、日本初の工業雑誌「中外工業新報」[注釈 1]を発刊して先進的技術の普及につとめたほか、明治15年(1882年)『堰堤築法新按』の翻訳や民間草の根レベルの水利・ダム技術の紹介などにつとめた。開拓使時代に北海道の天然資源の報告書をまとめている。
明治10年(1877年)、工部省工学寮工学校を改称した工部大学校の校長に任命される。明治14年(1881年)12月3日、工部技監に昇進。勅任官となり技術者としては最高位になる。同年、東京学士会院会員に任命される。4年後の明治18年(1885年)12月28日には元老院議官に就任し明治19年(1886年)4月10日、学習院院長兼華族女学校校長となるなど、技術・教育関係の役職を歴任した。その後は外交官に転じて明治22年(1889年)6月3日に駐清国特命全権公使を拝命し、11月に着任。明治26年(1893年)7月には朝鮮公使を兼任し、翌年6月には朝鮮へ赴任。甲午農民戦争が起こり、朝鮮の要請を受けた清朝が出兵すると日本も自国民保護と天津条約を理由に出兵。事態が治まっても日本は撤兵しようとせず、朝鮮への内政干渉を始めた。日本は近代化の名の下に朝鮮の改革を主張、大院君を新政府の首班として推した。日本軍が朝鮮王宮のそばを行軍中に朝鮮の反日派から発砲を受けたとして王宮を襲撃、乱入し事実上占領した[7]。そのまま捕えた国王高宗に大院君を新政府首班とすることを認めさせ、大院君からは清朝の軍勢を朝鮮から退去させることを要請する文書を得て、清朝軍と交戦する大義名分を得て、開戦することとなる[7]。このため、この王宮(景福宮)占拠が日清戦争開戦のきっかけとされている。この日本軍が発砲を受けたことを理由とする王宮攻撃は、実際には日本側の事前の綿密な計画と陰謀によるものとみられている[8]。
明治27年(1894年)10月11日、公使解任。帰国後の同年11月10日枢密顧問官に転じる。明治33年(1900年)5月9日、多年の功により男爵を授けられる。
晩年には、小田原大海嘯で被災したり、息子に相次いで先立たれるなどの不幸に見舞われた。
明治44年(1911年)、 神奈川県足柄下郡国府津村の別荘において食道癌のため死去。享年78。
1860年代に縄武館や陸軍所での印刷に供するのに、オランダ伝来の技術書を参照して明朝風楷書体活字を鋳造し、『築城典刑』『砲科新論』など数十点を出版した(ただし、全ての本に活字を使用したわけではなく、また、活字を利用した本でも製版による印刷を行ったページもあるなど、夫々の本を精査する必要は有る)。材質は亜鉛・錫とされる。活字は戊辰戦争の時に行方不明となり、僅かに印刷された本が残るのみである。
先進的技術の普及につとめ、幕末に『野戦要務』のほか要塞建築の案内書『築城典刑』を訳出した。幕末の幕府軍との戦いの記録として、五稜郭開城から千住に護送されるまでの日記のほか、最晩年には往時を述懐して残している。
公職 | ||
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先代 平岡通義 |
製作頭 1875年 - 1877年 |
次代 (廃止) |
学職 | ||
先代 榎本武揚 榎本武揚 山尾庸三 |
工業化学会会長 1907年 - 1908年 1904年 - 1905年 1902年 - 1903年 |
次代 榎本武揚 山尾庸三 榎本武揚 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 大鳥(圭介)家初代 1900年 - 1911年 |
次代 大鳥富士太郎 |