天下

「天下」の概念
図は漢代の華夷思想に基づくもの。「天下」概念は時代及び国によってその定義が異なるため、これはあくまで実例の一つである。赤の範囲が「華」或いは「夏」の領域で、一般庶民に至るまで漢の礼制・法制に従う。青は漢の徳の及ぶ「外臣」及び「朝貢国」の領域で、「外臣」とは漢皇帝に臣属した夷狄の君主たち。「外臣」の国では外臣のみが漢の礼制・法制に従う。その外側には未だ漢の徳の及んでいない「化外」の領域がある。外臣・朝貢国・化外は基本的に「夷」の領域である。一般に「天下」概念は観念上にこのような同心円的構造をもって成立する

天下(てんか、てんが、てんげ、あめのした)は、全世界を意味する概念。字義的には「普天の下」という意味で、地理的限定のない空間のことであるが、用法によっては一定の地理概念と同じ意味に用いられることもある。また一般に天下は、一定の秩序原理を伴い、その対象とされる地域民衆国家という形で捉えられる。すなわち一般に「世界」は「世界観」がなくても客観的に存在しているものと認識されるが、「天下」は一定の秩序原理によって観念的に成立している。

読み

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「てんか」は漢音、「てんが」はその連濁、「てんげ」は呉音である。現在は「てんか」読みが普通だが、本来は「てんげ」と読んだ。「天上天下」など成句の中には、現在も「てんげ」と読むものがある。

英語への翻訳

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「天下」は東アジア固有の思想背景に基づく要素が強く、かつ多義的な概念であるうえに、日本・韓国・ベトナムといった中国以外の東アジア各国でも歴史的に長く使われている言葉であるため、文脈によって特定の英単語に置き換えることは可能であるものの、1:1で完全に対応する語は存在しないので、少なくとも中国語の「天下」についてはピンインに基づく「Tianxia」を用いるか、「All Under Heaven」と直訳調で言及するのが一般的である[1][2][3]

定義と特徴

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中国

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中国における天下は、一般に中国王朝の皇帝が主宰し、一定の普遍的な秩序原理に支配されている空間であった。皇帝は天命を受けた天子とされた。天下の中心にあるのが中国王朝の直接支配する地域で、「夏・華夏・中華・中国」などと呼ばれる。その周囲には「四方」「夷」などといった中国王朝とは区別される地域があるが、これらの地域もいずれは中国の皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられる存在として認識されていた。

歴史的には、天下の中心には必ず天子がおり、天下とは、天子の威徳が及ぶ範囲を指す[4]。その範囲は天子のによって自在に伸縮するため、明確な境域は存在せず、天子の徳が大きいほど天下は拡大し、逆であれば縮小する[4]。天下の拡大は直轄領の拡大のみならず、冊封国朝貢国の数・範囲の増大も含まれる[4]。したがって天下の広狭は天子の徳と密接に関わっており、天下領域の拡大は中国の支配者にとって有徳の証、政権の正当性の根拠と考えられた[4][注釈 3]

中国史における天下概念には少なくとも広狭2つの意味が看守され、狭義には天下は天子の実効支配領域(中国華夏あるいはのちには中華天朝と称される)、広義には天下は天子の実効支配領域に加え、その徳に服する、あるいは服するべき周辺諸国・民族(夷狄)を含んでいた[4][注釈 5]。しかし、これは中国人の間に広狭の2つの「天下」観が厳密に区別されて意識され、使用されていたことを意味せず、実際は広狭2つの天下が中国人の頭の中で渾然として一体化されて存在し、無意識裡に「天下」という言葉は広狭2つの概念で使われていた[4]。したがって、広狭いずれの「天下」が本質的な天下かという議論の前に、そもそも中国人はそれらを区別せずに一体として「天下」の語を使用しており、それらが指し示す内容はどちらも本当の天下であったという事実がある[4]

日本

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日本でも「天下」は歴史的に盛んに使われており、「天子」をその中心と見なすなど、その使われ方は中国の「天下」にほぼ準ずるが、遅くとも記紀編纂時期までには日本の「天下」は「天津神」と「高天原」の観念と結びついており、基本的に天下の主宰者である天子は天津神の子孫である天皇家の家系に限られるとする考えが形成されている。日本では、天皇が内政外交において、時代を通じて常に政務の最終決定権を持っていたわけではなく、外交の代表者であり続けたわけでもなく、したがって政治権力のすべてを掌握していたわけではないが、そのような時期でさえ、日本の政治権力者は天皇の職務を代行するという名目の下に権力を行使した。

日本における天下の概念は、はやく古墳時代に見ることができる。当時、倭国王は中国王朝に対して倭国王または倭王と称していたが、熊本県江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文などによれば5世紀後期ごろには国内に対して「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」と称していたことが判明している。これは、その時期までに、倭国内で「中国世界とは異なる独自の天下」概念が発生していた徴証だと考えられている。『隋書』によれば7世紀初頭の大業3年(607年)に倭国王(原文「俀國王」)が皇帝煬帝への親書に自らを「日出處天子」と称したことも、中国世界と異なる天下概念が存続していたことを物語っている。7世紀には律令制の導入とともに中国的な天下概念が移入された。律令制の特徴である公民思想を伴って、「天下公民」という形で把握された。王朝国家の進展に伴って、平安時代には一時「天下」の概念は廃れるが、鎌倉幕府の成立が「天下の草創」と認識された。室町時代以後は、「天下」の語は畿内・近国とその周辺の領域のことを主として意味していたことがほぼ確実になりつつある[7][8][9]織豊政権期以降、武家社会の進展に伴って「日本」とほぼ同義の意味で使用されるようになった。

朝鮮

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モンゴルの宇宙三界説
天上世界・地上世界・地下世界から宇宙が成り立っているとする考え方。天上界から地上支配を代行する「英雄(=テングリの子)」が遣わされ、秩序をもたらす。地上世界は大きく英雄の秩序に服する世界とそれに敵対する世界に分かれ、英雄の支配は徐々に拡大するものと主観されている。トルコ民族にも同様の構造をした世界観が存在する

朝鮮においては、歴史的に「天下」の用例は極めて少ない。それは中国王朝を中心とする天下のなかにあった時期が極めて長かったことによる。高句麗新羅百済の古代王朝、そして高麗の時代にも朝鮮を中心とする独自の天下概念がなかったわけではないが、高麗後期に朱子学が流入すると、名分論の立場から朝鮮中心の天下的世界認識に批判が加えられた。一方で朱子学は自国を「小中華」「小華」などと認識する小中華思想を生んだ。小中華主義は明代中国に流行しながら朝鮮では流行しなかった陽明学を異端視する風潮、清朝による中国支配を「中国が夷狄の支配に服するもの」と規定する認識となり、朝鮮こそが中華の本流であるという思想をはぐくんだ。朝鮮では中国を中心とする「天下」概念と朝鮮を中心とする「天下」概念が並存していた。

ベトナム

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ベトナムにおける天下の概念は、13世紀の元寇を契機として民族意識が昂揚するとともに出現した。その天下概念は当初陳朝にいたるベトナム王朝を南越国の後継と位置づけ、その領域であった中国の嶺南地方からベトナム北部に至る地域に固有の天下概念を設定するものであった。ところが18世紀末の黎朝末期のころになると、南越をベトナム王朝の正統とする史観に批判が加えられ、阮朝の時代には自称国号も「大南」となり「越」字が消滅する。このことは当時のヨーロッパ人が「トンキン」「コーチシナ」と呼んだ今日のベトナムの領域に天下国家が設定されるようになったと考えられている。ベトナムの「天下」は主に中越関係に影響されながら、その領域を変容させた。

北方アジアの遊牧民

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モンゴルを代表とする北アジア中央アジア遊牧諸民族においては、中国王朝の「天」に対応あるいは類似する概念として「テングリ」概念が存在する。テングリは今日においてはカムチャツカ半島からマルマラ海にまで遊牧民族の信仰生活に密接にかかわっている。テングリは天の主宰神として運命神であるとともに、天そのものでもあり、創造神として現れることもある。また今日ではテングリに対する祭祀はシャーマニズムに基づいて行われるが、アジアの遊牧民のシャーマニズムには宇宙三界観と呼ばれる独特の世界観があるとされている。地上にはテングリの代理者として救世主的な英雄がしばしば遣わされ、この英雄は「テングリの子」というように呼ばれていた。匈奴単于チンギス・ハーンをはじめとするモンゴル帝国のハーンはこの「テングリの子」を称した。彼らはこのことにより地上の救済を観念上独占し、地上における唯一の君主として君臨する者と主観された。このようにアジアの遊牧民にも一定の秩序原理に基づいた「天下」概念類似の地上世界観が存在したとされるが、そこには「テングリの子」に服属する者と敵対する者という二元的構造が存在するのみで、華夷秩序のように段階的な秩序構造は存在しなかったか希薄であった。

歴史的展開

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中国における「天下」

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殷――天下以前

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の時代には世界としての「天下」はいまだ成立していなかったと考えられている。殷の人々は首都である大邑の周囲に「」と呼ぶ直轄支配領域を持ち、これは周代以後の「」すなわち「畿内」に当たると考えられている[10][11](戦国時代以降の文献での用語で「内服」という[10][12])。この奠の外側に「東土」「西土」「南土」「北土」などの「四土」が広がっていた[11]卜辞においてこれら「四土」を対象とした豊凶の占いが頻繁に見られることから、「四土」(戦国時代以降の文献での用語で「外服」という[10][12])は大邑商にとって強い利害関係が存在した土地であったと考えられている[11]。「四土」の外側には「四戈」と呼ばれる境界領域があり、その外側に「周方」「鬼方」「土方」などといった独立政治勢力が支配する「四方」あるいは「四至」[12]という領域が存在した[11][注釈 6]。このうち「周方」から勢力を伸ばした周がのちに殷に取って代わって「中国」を支配することとなった[11]。周代と異なって、殷代には諸侯を封建した事例が甲骨文字から確認できないため、殷代前期に封建が行われた可能性は否定できないものの、殷王朝の君主は周代ほど地方領主に強い影響力を及ぼしていなかったと考えられている[14]。おそらく殷代の直轄地以外は間接統治されて殷の支配力は弱く、地方領主は後世に比べて自立性が高かったと考えられている[14]。殷代の君主は祭祀を通じて宗教的権威を構築し、同時に祭祀儀礼に参加する臣下に供物を分け与えることで経済的恩恵を示すとともに、君臣関係を確認していたと考えられている[14]。また殷代では後代に夷狄とされる「」をはじめとする敵対勢力民を捕らえることに関する占卜も広く見られることから、戦争を通じて彼らを奴隷としていたとも考えられているが、殷代における奴隷制は決して大規模ではなく、戦争捕虜の多くは生け贄として祭祀に供されていた[14]。殷代にはという神に対する信仰が行われていたことが知られているが、この帝が周代になると天と結びついて昊天上帝の信仰に結実した[14][注釈 8]。帝信仰は武丁の時代以降殷では衰えたと考えられている[14]

西周――受命する天子、四方を治める王

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の時代に人格的な天(上天・天帝・昊天上帝)の概念が成立すると、それにあわせて「天下」概念の萌芽が見られる[11][注釈 10][注釈 13]。「四方」「万邦」という用語がそれで、「四方」というのは王朝成立の対象領域[注釈 14]で、その経営の中心は周王のいる「中国」あるいは「周邦」であり、その周囲にある異民族のいる土地のことである。「万邦」というのは「民」と「疆土」のことで、「民」は異民族も含めた民、疆土にも異民族の土地が含まれていた。周王は天命によりこの「万邦」を「受け」たとされた。すなわち、文王が天命を受け、武王が殷を打倒したとされ、周王は「天子」と称した[10][注釈 15][注釈 23][注釈 25]。後世と異なり、西周時代の「中国」と「夷狄」の間には優劣や対立の概念はなかったと考えられている [25][注釈 27]。この時代の「夷狄」は国邑と隣接して居住し、周の統治に組み込まれた存在であった [25]。たとえば淮夷は周の征伐の対象となる一方で、西周後期には臣下と位置づけられている[12]。伝世文献における「天下」の初出は『詩経』大雅であり、西周時代後期の同時代史料であると考えられている[10][注釈 28]。一方で殷周時代の金文に「天下」の語を明記するものはまだ発見されていない[11][注釈 29]

何尊
尊は酒器の一種。「中国」の語が初見する
何尊銘文

周の前期、西周時代には「三事」と「四方」という概念があり、「三事」は王畿内、すなわち周王朝の直轄支配地域を意味し、「四方」はその外側の外地を指し、「諸侯」の管轄する地域であった[27]。なお、『逸周書』に現れる「四方」については殷を代表する四つの諸侯国あるいは拠点都市を総称したものであるという[29]。「三事」も周原宗周(を指すか[12])、成周洛邑を指すか[12][注釈 32]を除いて周に仕える貴族により間接統治されたが、この「三事」を支配する貴族は金文で「邦君」と呼ばれた[27]。周王朝は「三事」と「四方」の双方に命令を下すことができた[27]。なお、西周時代の「京師」は軍の駐屯地の一つを指しており、後世のように天下の中心地である首都圏を指す言葉かどうかははっきりしていない[27][12]。また、何尊銘文に現れる「中国」はおそらく最古の事例であるが、これは「中央の地域」を漠然と意味し、成周周辺を指すか大邑商のあった殷の首都圏を指した[27][12][11][26][注釈 33][注釈 35]。同様に、伝世文献では『詩経』大雅で「中国」と「四方」が対比されて登場するものの、ここでは「中国」はやはり成周周辺の畿内を指し、「夷」との対立は考えておらず、ただ「四方」の中心地域と位置付けられている[26][注釈 36]。殷時代に「方国」が外部勢力を意味していたのとは異なり、周において諸侯の支配領域を指した「邦」は基本的に体制の内側にあった[12]。また「鬼方」などの殷代に存在した「方国」は引き続き西周時代の金文に散見される[12]

春秋戦国時代――天下の成立

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華夷思想の成立
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周の後期(春秋戦国時代)には、周に封建されていた諸侯が各自の国内・周辺地域に対する政治支配と同化を進めた。また異民族自体が周に封建され、諸侯として大国化する例も見られた。これにより多くの国に共通の文化圏、経済圏が形成され、黄河中流域を中心に「中国」概念も拡大された[26]。この時代、華北において「中国」の領域が拡大し、同地域に雑居していた「夷狄」は弱小化し、徐々に「中国」と「夷狄」の間に文化的優劣関係が措定されるようになっていった [25][26][注釈 37]。『春秋左氏伝』には、『詩経』大雅の「中国」「四方」を援用する形で、「中国」「四夷」の対比が初見する[10][注釈 38]。ここに現れた「中国」は「諸夏」の住まう中原を意味し、辺境に住む野蛮人である「四夷」に対比され、内部に夷狄を含まない均質化された領域として再定義されている[10]。『孟子』では文明圏としての「中国」と非文明的で野蛮な「夷狄」という対立関係が鮮明になっている [25][注釈 39]。『孟子』の文明論的な天下観においては「中国」と「夷狄」の区別は流動的であり、「中国」に教化されて「夷狄」が「中国」に上昇することもあれば、「中国」が没落して「夷狄」になることも考えられている [25]。この文明論的な観念的「天下」概念は『春秋公羊伝』においてはより明確となっており、そこでは「夷狄」とは「あるべき中華の資格を持たない存在」とされている [25][26][注釈 41][注釈 42]。『春秋穀梁伝』では、さらに「中国」と「夷狄」の二者択一性は明確になり、「中国」と「夷狄」は相容れない属性とされ、「中国」内部における「夷狄」の存在をほぼ認めなくなる[26]。これは『左氏伝』で邾・らが「蛮夷」とされつつ、国際秩序としての「華夏」に参加する限り、その一員として論じられていたのとは大きく異なっている[26]。同様の傾向は、金文では西周前期の大盂鼎においてすでに確認される[10][32]。それによれば、異民族である「夷」は諸侯国である「邦」に対置され、「夷」は周王朝の政治社会組織から疎外されていたことがわかる[10]。覇者が主催する諸侯の会盟の場では「夷狄」は排除されたように、この時代には差別的な「華夷思想」が明確に見いだされるようになり、西周時代には単なる「中央の地域」を意味していた「中国」は、周王朝を奉じる諸侯たちの文化的アイデンティティと結びついた言葉として使われるようになっていた[12][33][26][注釈 44]。戦国末期になると、華夷の別を「礼」の有無に収斂する思想が『荀子』において確立されているのが確認できる[26][注釈 45][注釈 46]

諸国を包含する政治地理概念の成立
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『禹貢』に基づく九州の概念図

またこの時代、早くて平王の代から周の君主は君主号として新たに「天王」を名乗るようになるが、これは春秋時代に複数の諸侯が自らを天子と考えるようになったことによるか、あるいは周の王族内部での王位継承権争いが影響していると考えられている[27]。たとえば1955年に出土した蔡侯盤では、金文から呉王夫差が「天子」と呼ばれていること[27]、同様に秦の景公墓から出土した編磬で景公は「天子」とされており、『詩経』秦風や石鼓文においても秦の君主を「天子」「王」と称しているのが確認できる[10]。戦国時代には魏の恵王が王号(「夏王」)を称し、周王朝を滅ぼそうとして、斉の威王馬陵の戦いで敗れたが、この頃より諸侯の間で次々に王号を称する者が増加した[29][27][10]。一方で、周の王位継承権争いは戦国時代に鎮静化し、それとともに「天王」号は用いられなくなっていく[27]。戦国時代末期、周室の権威が著しく低下すると、前288年、斉の湣王は秦の昭襄王とともに「東帝」「西帝」を称した[27][10][31][35]。この帝号は長続きしなかったが、諸侯が覇者体制などとは異なる、周王朝なしでの広域秩序を模索していた実例と見なされている[27][10][31][35]。「帝」号が称された所以は、当時すでに諸侯が「王」を称することが一般化して久しかったため、自国の領域を大きく超えて他国まで支配権が広がった君主の称号として「王」はふさわしくないと見なされたと考えられている[31]

一方、春秋時代後期になると、『春秋左氏伝』『国語』などには「天下」の用法が頻りに確認される[注釈 48]孔子も『論語』においてしきりに「天下」の語を用いている[11][注釈 49]。したがって、前6世紀から前5世紀の春秋末期には「九州」の国土観念は明瞭になり、領域観念としての「天下」が成立していたと考えられる[11][注釈 50][注釈 52]。「天下」観としては「九州」説のほかに『禹貢』『国語』『荀子』『周礼』に現れる「畿服」説もこの頃成立した[26][注釈 54][注釈 56]

秦漢――天下の統一と安定

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によって、周の支配していた地域が政治的に一元化されて統合されると、現実の政治世界に対応する明確な地理概念として「天下」概念は顕在化した。秦の統一は「天下の統一」であり、中国が天下を統一したということは中国の拡大であった。のちの始皇帝となる秦王政が即位した当初、秦は必ずしも中国の武力統一を考えておらず、秦の覇権下における封建制の枠組みも考えられたようであるが、前236年を境に六国征服へと舵を切った[33][注釈 58]。秦の始皇帝は他の戦国六国を滅ぼすと、新たに皇帝という称号を創設した[37][注釈 59]。皇帝号は「天下を統一した君主」の号として創設されたため[注釈 67]子嬰時代に秦の実質的な支配権が天下に及ばなくなると、王号に戻すことが検討されている[31][注釈 68]。始皇帝は六国を滅ぼすと、その地域に秦国内ですでに行われた郡県制を敷いて直轄化し、度量衡車軌文字を秦の制度に基づいて統一した[37][注釈 69]。また統一された帝国内の武器を没収・徴集し、旧六国の武力・経済力を削減して国を安定させようとした[40][注釈 73]。こうして天下を統一した始皇帝は前219年泰山封禅儀礼を行い、天(昊天上帝)を祀って自らが「天子」であることを示した[37]。ただし、始皇帝の封禅は祀天より不死延命を祈ることに主眼が置かれており、官吏を参加させた祭祀を通じて皇帝支配を可視化し喧伝する目的を持っていた[43]。始皇帝は咸陽近郊、渭水を挟んだ南東対岸の阿房に壮麗な宮殿(阿房宮)を築く計画を立て、咸陽宮と阿房宮を複道によって連結して閣道に倣い、渭水を天の川に見立てて天極を象る首都を造営しようとした[40][37][44][注釈 74][注釈 76]

の版図(紀元前210年)
前漢の版図(武帝期)

漢代になると、この「中国=天下」概念が現実の冊封関係に影響されて変容し、周辺諸民族をも含めた現代的意味での世界として「天下」概念が成立した。冊封関係とは、周辺国家の首長を皇帝の臣下として君臣関係を取り結ぶもので、このことにより周辺国家の首長の支配下にある地域は、観念的に皇帝の主宰する秩序原理に組み入れられた。秦漢帝国の歴史的展開に伴い、前代に文明論的かつ観念的な傾向を強めていた「夷狄」観にも変化が生まれる。「四方」に存在する異民族の名称に「夷」「狄」「戎」「蛮」の区別がつけられ、「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」として明確な方位概念を伴うようになった [25]四夷)。このような変化は、秦漢の中華統一により、帝国の四方に異民族が存在するという現実の構図が反映された背景があって初めて成立したと考えられており、「夷狄」は地理的かつ対外的観念として再構築された [25]。こうした夷狄観の成立の背景には漢帝国初期に匈奴の軍事的優勢に晒されていた漢民族の現実もあった [25]。『春秋公羊伝』に見られる過激な攘夷思想は、その編纂時期、すなわち匈奴に屈辱的な外交を強いられていた前漢景帝期の現実と劣等感が反映されて差別意識が助長されていたとも見られる [25]武帝期における儒学の隆盛はこうした華夷秩序の明確化と軸を一にして、漢を中央集権的な礼法国家として確立させ、長城の内側を中華世界とみる観念世界が成立した [25]阿部幸信によれば、『史記』では中華統一が「(天下)平定」として表現されているが、秦の天下平定において「一統」や「并(併合、併呑)」が強調されている[注釈 77]のに対し、漢のそれは一般に「安定」が強調されており[注釈 78]、少なくとも武帝期において、秦と漢の天下秩序観に相違があったことを示唆するという[46]

同様に、景帝期の前154年に、漢帝国内部では呉楚七国の乱を契機として建国以来の郡国制が事実上の郡県制へと移行し[注釈 79]、中国全土に対する中央集権化が高まっていたが、形式的であれ郡国制が維持されたことは漢帝国以後の中華帝国の国際関係に大きな影響を及ぼすことになった[48][注釈 83]。直接統治を前提としない自立的な単位として「国」という地域や「国王」という爵位を残したことで、異民族の支配地域を「国」として認め、その「国王」に朝貢させるという形で、彼らを「天下」の支配領域に含めることが可能となった[48]。すなわち「冊封体制」の淵源は郡国制にあり、華夷秩序に基づいて中華帝国が「天下」を支配する東アジアの国際秩序の枠組みのモデルとなった[48]

なお、内実は郡県制と変わらなくなったにもかかわらず、以後も郡国制が維持された理由は、当時の思想潮流で周が理想化され、その統治体制である封建制(≒郡国制)をも理想化されていたとともに、郡県制が苛政を行った秦の制度と考えられていた[注釈 84]ため、思想上は郡県制が忌避されたからである[15]。武帝期に儒教化された封建論が現れ、諸侯王の冊立が皇帝による教化を支援し、補佐するものであり、郡国制は高祖が周の封建制に倣って創始した不易の統治体制であるといった議論が出現する[15]。こうした儒教化した封建論は班固による『漢書』のなかでたびたび確認され、封建制が周初に始まる優れた統治制度として賛美される一方、郡県制は秦を短期間で滅亡させた誤った制度とされ、封建制度は理想化されていった[15]王莽では封建制論は周代以前に遡るようになり、唐虞時代)、夏后、周の武王、周公、漢高祖といった聖王の制度として賛美し、五等爵制と結びつけられて称揚された[15][注釈 85][注釈 87]

武帝期に開始された元号制定も、漢が一つの「天下」を支配する帝国であることを理念的に示すこととなった[48][注釈 88]。元号の制定は封禅儀礼と密接に関わっており、天人相関説に基づく瑞祥を機に行われる天子の専権事項とされた[48][注釈 90]。元号は、皇帝が天の命を受けて天下を支配する天子であることを表現し、時空を支配していることを象徴した[48]。したがって、後の冊封体制においては皇帝に服属する周辺諸国の王権は、中国皇帝から冊封を受けるとともに、皇帝の定めた元号と暦法を用いる(正朔を奉ずる[注釈 94])ことを求められ、それによって自らの正統性の根拠とすることができた[48]。元号によって、中華皇帝は時だけでなく、空間をも支配し、徳治と朝貢に基づく東アジアの国際秩序である冊封体制の中核を形成することになった[48]

南北朝以後

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南北朝時代には一時中華の内部に複数の皇帝が出現し、天下の政治的分裂という現象が見られたが、の時代には中華帝国の皇帝は北方遊牧民族の諸国に対しても「大可汗」[注釈 95]として君臨した。タラス河畔の戦いに代表されるように、西方で匹敵するイスラーム帝国と軍事的衝突や交易など交渉があったが、唐朝はかつての秦漢帝国と異なり、その天下概念には匈奴のような対等国は基本的には存在しなかった。

ところがの時代には、北方にの強大な王朝が出現し、宋は圧迫されて北方の帝国と国家同士の擬制的な血縁関係(たとえば宋を兄、遼を弟とするような外交関係)を結んだ。この時代の高麗なども両王朝に両属する形を取り、天下は全く二分されていた。空前絶後の支配領域をもったモンゴル帝国、大元ウルスは再び中国を統一したが、その統治においても、政治上南人(元南宋の民、江南の人士)と漢人(元金の民、華北の人士)は区別されていた。このことは天下の政治的分裂が元の統治下において解消されなかったことを示している[注釈 96]。その後王朝は秦漢帝国の理念に近い形で「中国」を統合するが、その天下はほぼ明王朝の支配領域と同義であり、世界大の広がりを持ったものではなかった。

清代の「天下」
図は清代の華夷思想に基づくもの。前掲の漢代のものと比べると、現実の政治世界に影響されて多様化しているが、同心円構造は変わらない。「互市国」とは政治的関係はほとんどなく、交易関係があるだけの国。「朝貢国」は清皇帝と君臣関係を結んだ君主の国で、定期的に朝貢した。漢代とは異なり、清代の「朝貢国」の君主は、清皇帝の冊封を受けて臣属する形態をとるのが一般的である。「藩部」は理藩院によって管轄される異民族の支配領域。「土司」「土官」は少数民族の指導者を地方官に任じて間接統治するもの。「土司」「土官」の支配下では異民族独自の慣習は認められていたが、その地に漢民族が流入し多数となると中国に編入する「改土帰流」政策がおこなわれて内地化された。「朝貢国」「藩部」「土司」「土官」などは漢代の華夷秩序でいえば、「外臣」にほぼ相当する。「中央」と「地方」はいわゆる「中国」の領域である。なお「満州」と呼ばれた中国東北地方は明までの華夷思想からいえば中国ではないが、藩部ではなく直轄統治されている。清朝の君主は藩部では遊牧民に適合的な「ハーン」称号を、中国では「皇帝」称号を用いて「天下」に君臨した。

明末に朱子学に対する批判が起こると、「修身斉家治国平天下」(『大学』)という儒教思想にも変化が起こった。明末清初の王夫之は『大学』のあげる「平天下」はつまるところ国を治めるための思想(すなわち「治国」)を述べるに過ぎず、天下の次元には通用しないものであると述べて、これを尊重する朱子学を批判した。一方明王朝の滅亡により本来的には夷狄であるはずの王朝が中国を支配するという現実世界での華夷の逆転も「天下」概念に大きく影響した。同時代の顧炎武は明の滅亡は「亡国」であるが「亡天下」ではなく、夷狄の王朝である清が皇帝となっても、中華の文明が維持される限り天下は継続するものであるという考えを述べた。このように「天下」概念に対する検討・批判が加えられたが、このころの「天下」はいまだに中華帝国を中心として捉えられている。

皇帝を中心とする華夷秩序に理念づけられ、朝貢と冊封によって外国との関係を維持していた「天下」概念が変容するのは、1793年イギリスの外交使節マカートニーが派遣されたころからである。マカートニーは主権平等主義に立つヨーロッパ外交に基づいて清と条約を結ぶことを望んだが、清は中国を「地大物博」(土地が広く物産が豊かなこと)と述べ、恩恵を与える朝貢貿易ならまだしも対等貿易は不要であると突き返した。やがて19世紀にはいるとアヘン戦争が起こり、敗北した清朝はイギリスなどと片務的な不平等条約を結んだが、清朝としては清側に片務的であるのは皇帝の恩恵的配慮によるものであるからだという説明がされた。アヘン戦争後も依然として、清朝はヨーロッパ諸国を従来の「天下」概念の中で捉えようとしていたと見ることができる。

アヘン戦争後も清朝の外交姿勢が変化しないことを不満としたイギリスは、フランスとともに第2次アヘン戦争をおこして中英天津条約を締結し、その条文内で中国とイギリスをともに「自主の邦」として並列的に位置づけることを明文化することに成功した。この結果、清朝は従来の華夷秩序に基づいてヨーロッパ諸国と外交することが不可能となり、新たに総理衙門を設けて対ヨーロッパ外交をおこなうこととなった。

ヨーロッパ諸国が主導して形成した近代外交体制は、基本的に主権平等主義に基づき、対等国同士の外交という形式を取っていたため、この外交体制の拡大とともに華夷秩序も徐々に変容あるいは解体されることとなった。現実の外交関係においては、日清戦争での敗戦によって朝鮮が冊封関係から離脱し、そのことにより冊封と朝貢に基づく清朝の外交秩序は終焉を迎えた。「天下」概念もこの影響を受けて、従来の華夷秩序に基づくものから変容した。19世紀後半の清の駐英大使であった薛福成は、中華と夷狄を区別する「華夷隔絶」の「天下」から中華と外国が対等に関係を維持する「中外連属」の「天下」へと転換したと述べている[注釈 97]

日本における「天下」

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倭王武と「治天下大王」 、推古朝と「日出処天子」

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前述したように、日本(倭国)における「天下」概念の成立は古墳時代にさかのぼる。5世紀後期の作成とされる江田船山古墳出土の鉄剣銘に「治天下□□□□□大王」とあり、□□□□□の部分は「ワカタケル」と訓ずると推定されており、雄略天皇に比定されている[60][61][62][63][注釈 102]。雄略は中国へ送った文書では「倭王武」と自称していたが、国内向けには治天下大王、すなわち中国とは異なる倭国独自の天下を治める大王、と称していた[71][60][61][62][72][注釈 114]。このことは、当時既に「倭国は中国世界と異なる独自の天下なのだ」という観念が発生したことを如実に物語っている[60][61][62][72]。以後の倭国王たちも治天下大王の称号を代々継承しているが、このことが背景となって、7世紀初頭に倭国王が皇帝への親書に「日出処天子」と自称した事件につながったと考えられている[80][60][61][注釈 120][注釈 121]。またこの時代、早くて継体朝、遅くとも天武朝ごろまで[注釈 124]には、おそらく高句麗や北方騎馬民族の始祖神話の影響の下に天孫降臨神話が成立し、天皇家の出自を天上世界の神(「天津神」)に由来するとし、支配の正統性の根拠とされた[72]。天孫降臨神話は中国的な天命思想の影響を受けながら、従前からある倭王の「天下」概念に接続された[72][81]

律令制と「東夷の小帝国」

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その後、8世紀初頭における律令制の移入と時を同じくして、中国風の天下概念が導入されることとなった[注釈 125]。この場合の天下はどちらかといえば実際の律令国家の支配が及んだ範囲という意味で、今日の日本列島における本州四国九州などにあてはまると思われるが、決して律令国家の直接支配の及んだ地域という意味ではなく、蝦夷など直接支配に含まれない異民族も内包しており、陸奥国出羽国など実効支配が出来ていない地域も支配地域として認識されていた[88][注釈 127][注釈 128]。すなわち中国王朝の天下思想と同じように「天下」の中心に律令国家の中心を設定し、天皇を主宰者とした秩序の及ぶ範囲で、周囲には「夷」に対応する異民族が配されているという小中華主義的な色彩を強くしていた。この「天下」概念は律令国家の崩壊、王朝国家・中世国家の進展によって徐々に希薄化したと考えられている。

上記のような古代日本における「天下」の意味については、見解が分かれている[91][63][92][93]。一方の立場は、民族・地域を越えて同心円状に、・蕃国を含むその周辺域へと広がる世界秩序的、帝国的な概念とするもので、この立場では列島内だけでなく周辺国に一定の従属と朝貢を求める「小帝国」として、中華王朝的な帝国型国家類型で日本の「天下」概念を捉えることとなる[91][63][92][93][注釈 129]。もう一方の立場は、天下を国家の統治領域を指すものとする見方で、畿内王権を中心とした列島の支配従属関係を中華的な「天下」概念に接続し、「食国天下=大八洲」と考え[注釈 130]天皇を中心とした王権による実効支配領域に「天下」は限定されていたとする見解がある[91][63][92][93]。後者の立場の一部には国民国家型国家類型に接近させて日本の「天下」を捉える説もある[63]

源頼朝と「天下の草創」

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源頼朝は幕府の創立にあたり、「天下の草創」と称したと九条兼実の日記『玉葉』に見えている。この天下概念は上述の律令制における天下概念をふまえながらも、全く新しい国家・法制・秩序の場として創出されるものと観念されている[注釈 131]。しかし頼朝がこのような意識をもっていようと、この時期の天下概念はいまだ現実の天皇の王朝支配を克服しきれておらず、天下の主宰者としては天皇(あるいは天皇家の家督者としての治天の君)が期待されている事例が多かった。鎌倉時代が終わった直後の建武期では、二条河原の落書で「天下一統メツラシヤ」と当時の建武の新政を表現していた他、足利尊氏が定めた建武式目では、北条義時が承久期に天下を「併呑」したと記していた[96]北畠親房が著した神皇正統記では、源頼朝が天下を「掌」にしたと記していた[97]。 (治天の君承久の乱建武の新政、『神皇正統記』参照)

足利義満と「室町の王権」

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義堂周信の日記『空華日用工夫集』によれば、足利義満は義堂との議論において、しばしば自身の政の対象として「天下」「天下之人」を問題としており、このことは室町時代のころには徐々に将軍あるいは室町殿こそが天下の主宰者であるという意識が生まれてきていたとも考えられている。たとえば川岡勉は院政期以降、国家権力を代表する王権と実際に国政を主導する権力が分離したとし、後者を天下成敗権と名付け、室町時代は武家権力――具体的には将軍足利家の家長である室町殿――が「天下の政道」すなわち天下成敗権を掌握していた[注釈 133]という見方を提示している[98]

また、義満は相国寺大塔造営を「天下之大事」として進めたが、これは白河院法勝寺大塔を越えるもの[注釈 137]として計画され、延暦寺を含めた宗教勢力を従えた[注釈 138]義満の天下を象徴する事業であった[7]早島大祐によれば、中世において天下の語が頻出するのは「天下祈禱」という表現においてであり、中世における「天下」とは、京都を中心とする寺社において、安全を祈禱する対象を指した[7]。つまり、義満をはじめ中世の政治権力者は天下の中心の京都にいながらにして、天下の隅々まで支配していたのであり、その文脈において「天下」の語が京都とその周辺を指すことは当然であった[7]。早島大祐によれば、足利義満が相国寺大塔で法勝寺大塔を超越することを構想したように、こうした中世の為政者の天下観念は高さを志向することに特徴を見いだせるという[7][105]。しかし、応仁の乱の混乱の中で相国寺大塔が焼亡したことで、こうした垂直軸的な「天下=高さ」という観念を支える物質的根拠が失われ、戦国時代の展開とともに水平面的な「天下=広さ」という観念へと変容していったという[7][105][注釈 139]

日明貿易と「日本国王」

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15世紀初め、日本の実質的な最高権力者であった足利義満はから「日本国王」に冊封され、日本は東アジアの天下秩序に参画することとなった[106][107][注釈 140]

足利義満
南北朝を合一して天下を統一し、准三后、太政大臣と征夷大将軍となって公家と武家の位階を極め、対外的には「日本国王」を名乗り、死後は「太上天皇」の尊号を朝廷から提案されるなど、超越的な支配者として振る舞った。北山第で振るわれた権力は天皇家の家長である「治天の君」をも凌駕し、その権力の在り方は他の「室町殿」と区別され、「北山殿」と特別に呼ばれている[109][注釈 141]

1368年に建国された明は東シナ海沿岸地域で暴れる倭寇に悩まされていた[106]。倭寇の跋扈の背景には、13世紀以降14世紀にかけての東アジアでの海域や国境を越えた人流と物流の増大によって、民衆レベルにまで交流が活発化したことがあり、一方で同時期、日本は南北朝時代を迎え、大陸では元明交替期にあたり、両国の内乱状況が海賊行為を野放しにすることとなっていた[106]。明の洪武帝は日本に外交文書を送り、中華の正統を継承したことを報告するとともに、倭寇の取り締まりを要請し、取り締まりが行われない場合は兵を送って国王を捕縛すると脅した[106]。明は当時、方国珍張士誠の残党勢力が沿岸にまだ潜んでいる状況下にあって、これらと倭寇が結びつく危険を恐れて海禁政策を進めており、倭寇問題は内政と直結していた[106][注釈 144][注釈 145]

中国王朝に対する日本の伝統的な外交窓口となっていた大宰府は当時、南朝懐良親王率いる征西府によって掌握されていたが、親王は当初、日本の伝統的外交観に基づいて明の要求を拒絶していた[106]。大宰府に到達した最初の明使は元寇の先例に遵って斬罪に処せられた[111]。しかし、親王はやがて臣従の使節を明に送り、1371年に洪武帝から日本国王に封じられた[106][注釈 146]。だが、征西府は1372年今川了俊によって太宰府を奪われ、没落し、冊封のために来訪した明使は冊封儀礼を完遂することはできなかった[106]。そこで明使は交渉相手を北朝に切り替え、京都に至り、足利義満も明に使節を送って1374年国交開始を望んだ[106]。しかし、明側は義満が九州を掌握しきれていないことや、明が「日本国王」と認める「良懐」(懐良親王のこと)の公式な文書を携えていないことから義満に外交の資格なしと考え、1379年に義満が再度使者を送ったときも通交の望みを拒絶した[106][111]

明は懐良親王を正式な日本国王として認め続けたが、1380年に胡惟庸の獄が始まると、その6年後に胡惟庸の謀反勢力が日本国王を陰謀に荷担させようとしていた陰謀が明るみになり(林賢事件)、明は日本との国交を断った[106]。一方、九州では今川了俊とそれと協力した大内義弘が征西府との戦いを通じて勢力を伸張させ、高麗と協力して倭寇を朝鮮半島にまで討伐しに行くなど、独自の外交主体として振る舞い、周辺国と関係を構築する動きを見せ始めたため、義満の警戒を呼び起こし、義満は1395年に今川了俊を九州探題から罷免し、1399年には応永の乱で大内義弘を討伐して、その勢力を削いだ[106]。義満はこうして九州をより直接的に掌握することに成功しつつ、1392年には南北朝の合一も達成しており(明徳の和約)、この時点で日本列島内で外交上競合する勢力を排除していた[106]。また義満は1394年太政大臣になって官位を上り詰めたあと、翌年にはそれを辞して出家し、当時の朝廷の官職体系から離脱して、明から陪臣と見られる可能性のない立場に身を置いた[106][注釈 147]。こうして準備を整えた上で、1401年義満は正使を時宗僧・祖阿、副使を博多の商人・肥富とする通交の使者を三たび明に派遣した[106][116]

一方の明では1398年に洪武帝が崩御すると、嫡孫の建文帝が即位したが、北平に燕王として封じられていた洪武帝の四男・朱棣(のちの永楽帝)が挙兵し、南北で争う内乱状態に陥った(靖難の変[106]。義満の使者は建文帝の宮廷に受け入れられ、1402年2月には義満を「日本国王」として冊封する使節が日本に派遣された[106]。同年6月に建文帝が滅ぼされて永楽帝が即位した後、8月には義満の使者が明を訪れ、永楽帝はただちに義満を「日本国王」として冊封した[106][注釈 148]。永楽帝は勅使に誥命冠服金印と永楽勘合100道を持たせて義満のもとに送った[106]。こうして1404年日本と明の間で勘合貿易が開始された[106]。「日本国王」に冊封された義満は律令国家においては天皇が主体となっていた対中国皇帝関係を再構築することに成功し、「日本国」の対外代表としては天皇に取って代わることに成功した[111]

足利義満の日本国王冊封の目的はまず第一に日明貿易の独占にあった[117][注釈 149]。日明貿易は義満にとって、北山第造営などの大規模事業の財源となったという指摘もある[117]。「日本国王」号の使用は天皇を超える王権を義満が志向したものではなく[注釈 150]、日明通交で新たに生じた室町殿の武家外交権は天皇の持つ伝統的な外交権に対して配慮し、「日本国王」という称号も天皇を「皇帝」とする日本国内の漢文脈の世界観にも整合的であった[117][注釈 152]。「日本国王」称号は外交用として使用され、国内向けではなかったと考えられている[107][117][111][115][注釈 153]。義満の「日本国王」冊封は日本を取り囲む政治世界の構造に関わっており、とくに九州の地政学的位置づけが大きく影響した出来事であった[111]。室町幕府は東アジア外交秩序の中では日本の代表として「日本国王」を名乗ったが、国内的には「征夷大将軍」、より正確には「室町殿」の名義を使っていた[117]。幕府周辺では義満の「日本国王」冊封と朝貢形式の外交を屈辱と考え、否定的な評価が強かった[117][107]。当時の日本の貴族層には中華王朝と日本の朝廷は対等であるという意識が強かったため、義満が明に臣従の姿勢を示したことは、そうした自尊意識を傷つけ、批判の対象となった[106]。また、伝統的な華夷秩序においては冊封を受けた側は皇帝の「正朔を奉じる」、つまり元号を国内で使用することが礼儀であったが、室町幕府は明の年号を外交的に使用しても国内的に使用したことはなかった[106]。義満期の遣明船については史料的制約が多く、実態はよくわからない[117]。『宋朝僧捧返牒記』に記録された1402年の「日本国王」冊封儀礼は北山第の閉鎖的な空間で極めて限定的な側近だけ参加し、密室で行われ、公的に宣伝されることはなかった[112][117][119][118][99][注釈 155]。また同史料によれば、義満は明の賓礼規定を遵守せず、明使より先に昇殿して明使に対して北座南面し、庭上の明使から国書や賜物を「献上」される形式で行われた[106][117][119][118][注釈 157]。室町殿は膨大な唐物のコレクションを収蔵していたが、それが日本国内では「皇帝の絵画」として室町殿自身の権威付けとなっていた[117][112][注釈 158]

「天下人」と「天下一統」

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豊臣秀吉
日本の「天下」を統一した豊臣秀吉は、「唐(明王朝)」「南蛮国(ヨーロッパ諸国)」をも支配下におき、「天下」の拡大を望んで朝鮮に出兵した(文禄・慶長の役

室町幕府の支配が衰えると、前代までの天下概念を支える公権力が衰え、自力救済を原則とする下克上の社会に移行した。やがてこのような実力主義社会から地方的な公権力として戦国大名が各地に大名領国を形成して独自の支配を及ぼし、限られた範囲内での「公儀」=公権力を形成した。日本列島の各地に形成されたこのような地域国家的な公儀を「天下の公儀」として形成しようとしたのが織豊政権の特徴である。通説的な一般的理解では、日本の近世国家の前提とされる「天下統一」という「中央集権化」が、戦国大名領国制の深化、つまり日本列島の「地域分権化」の延長線上に捉えられてきた[121]。しかし、実際の天下統一事業はこうした戦国大名領国に対し、当初は室町幕府をはじめとする伝統的権威を利用し、地域統合を進める形で、やがて最終的には軍事的にそれら大名と対峙し、それらを凌駕することを目的とするものへ変化していった[121]。この過程で天下統一事業の推進者は足利将軍を中核とする室町時代の権威構造そのものと対立することとなった[121][注釈 159]

これに伴って、新しい秩序を主宰する主体としての統一者として「天下人」の概念が登場したが、戦国時代当初の「天下」は天皇王権を擁する室町将軍が管轄する京都と畿内近国など周辺の地域を意味することが多かった[注釈 160][126]畿内・近国の戦国時代を参照)。また室町将軍は「天下」領域を支配する地域領主としての役割と、戦国大名などの地方勢力の紛争などを調停する役割を担った。戦国大名はほとんど将軍に依存せずに領国支配を遂行できたが、内政や外交の危機を克服する際に将軍の権威が利用された[127]山田康弘は当時の日本列島全体を大名領国が外交関係を結ぶ国際社会としての「天下」の次元として捉えると、将軍権力は今日における国際機関の役割と類似していると指摘している[127]

室町幕府の身分秩序を利用せず、足利将軍を擁立しないで実力で畿内を支配した近世的「天下人」の先駆としては三好長慶が挙げられる[128]三好政権)。東山霊山城の戦いののち、当時の将軍足利義輝に従っていた将軍直臣が離反し、長慶はそれを収容して、京都支配を強化した[127]1556年に明使鄭舜功が来日した際には、長慶は後奈良天皇の朝廷とともに対応したと考えられており、従来足利将軍家の専権事項であった外交権に関わった[128]。また1558年2月26日には、美濃国の大名斎藤高政治部大輔への補任に関わり、足利将軍の官位奏請権を揺るがした[128]。室町時代には事実上足利将軍が独占的に関与し、将軍権力の正統性の根拠となっていた改元においても、1558年永禄改元は義輝不在のまま朝廷と長慶の協力で行われ、これに対して義輝は旧年号を使い続けて対抗する事態となった[128]。一方で、長慶が将軍権力に依存しない京都支配を進めた結果、戦国大名の間に将軍権力の弱体化に対する懸念が発生し、長慶は戦国大名の、将軍を中心とする政治秩序に回帰しようとする意識と対峙することともなった[128]1558年長慶が義輝と和睦し、義輝が京都復帰するに伴い、翌1559年には織田信長、斎藤高政、長尾景虎をはじめ諸大名が相次いで上洛し、将軍への支持を示した[128]。これらの大名は台頭したばかりで国主としての地位が不安定であり、将軍の公認を得ることで領国支配の安定を図ろうとしていた[128]。このことは、この頃までまだ、戦国大名の権力が足利将軍家の権威によって保たれていたことを示唆しているとも考えられている[128]。それに対し、長慶の領国拡大は旧来の守護職などに基づく領国支配の由緒とは無縁に進められ、永続的な領国支配を目指しており、全く新しい傾向を伴っていた[128]。長慶は小笠原氏土岐氏石橋氏など源氏一門を庇護したことでも知られているが、このことに足利義晴以降源氏長者としての地位を失っていた足利将軍家に代わり、自らを源氏の棟梁として位置づけようとしていたと見る向きもある[128]。長慶死後に行われた三好政権による足利義輝殺害(永禄の変)はそれ以前の「御所巻」とは異なり、三好義継の家督継承に伴う三好一族の結束を回復するとともに、三好家が将軍家に成り代わる目的で行われたという見解もある[128]。しかしながら、三好家は長慶時代に義輝と協力することで一門に高い栄典を獲得し、御相伴衆に任じられ[注釈 161]桐御紋を拝領し[注釈 162]、他大名から抜きん出た、将軍家並みの家格を獲得したという経緯もあり、依然として将軍権力と相互補完するところもあった[128][127][注釈 163]。長慶は将軍家(義澄流と義稙流)と細川高国流と澄元流)・畠山政長流と義就流)両管領家の分裂を解消し、これらに統一をもたらした[128]。京都を中心に八カ国をその支配下に収めた長慶の時代を契機として、畿内は統合へと転換したといえる[131]

各地に成立した戦国大名家の中で、尾張国の織田信長は将軍足利義昭を擁し、間接的に天下人としての役割を担い、「天下一統」(この用語自体は南北朝時代から散見される)を実施した。1568年に足利義昭を奉じて京を目指した信長はすぐには洛中に入らず、三好氏の政権基盤であった芥川城に入ることと義昭の対抗馬である足利義栄のいた摂津富田を焼くことを優先した[128]。このことにより信長は自らによる三好氏の地位の継承と義栄の将軍権力が崩壊したことを喧伝した[128]。同年10月18日に義昭と信長は上洛を果たし、義昭は将軍に任官され、信長は准管領とされて桐御紋を下賜された[128]。義昭が再興した幕府は120人にも及ぶ規模を有し、幕府本来の機能をかなり回復していたと思われ、信長権力と幕府は一定程度並立していたと考えられているが、一方で和田惟政細川藤孝池田勝正三淵藤英といった幕府内の有力者は同時に信長の家臣としても組織されていたため、一体として機能したと評価すべきという見解もある[121]。またこの段階の義昭の幕府は三好義継や松永久秀といった三好政権の実力者も引き続き参加しており、信長が軍事力において突出していたものの、織田氏と三好氏の関係は対等に近く、いまだ連合政権の様相を呈していた[128]。信長が幕府内で明確に三好氏より高い権限を持つようになるのは、1570年の「五ヶ条の条書」以後のことで、これにより明確に信長のみが義昭の命令を承る立場となり、三好氏らに対して上位と規定された[128][注釈 164]

信長が幕府を大名連合政権から信長優位の体制に変える構想を示すと、越前国朝倉義景などに反発を生み出し、またこの頃信長と対立する三好三人衆の反攻も始まっていた[128]。同年信長が対朝倉のため越前に出兵すると六角氏野洲河原の戦い)や浅井氏ら近江の大名が反信長の狼煙を上げた[128]。この反信長の動きに続々と勢力が参加し、信長に対する包囲網が結成された(「第一次信長包囲網」)。信長は姉川の戦いで勝利を得るなど徐々に劣勢を挽回し始めたが、本願寺が包囲網に参加すると守勢一方の状況となった[127]。信長は各勢力と個別に和睦していくことでこの包囲網を乗り切ることになったが、この成功を支えたのは足利義昭であり、彼は信長不在の京都を防衛し、敵対者と和睦する契機を提供することで信長を補完した[127]。この時点での義昭と信長はお互いを補完し合う関係にあり、どちらが優位というわけではなく、バランスを保っていたと考えられる[127][134]。すなわち、信長が義昭に対して軍事・警察力を提供し、義昭は信長に対し、将軍権威に基づいて「正当性」の根拠を提供したり、外交交渉の契機を提供することで、互いに利用価値を認め補完しており、信長が一方的に義昭を統御していたというような関係ではなかった[127][134]。第一次信長包囲網の反信長勢力に義昭が何らかの関与をしていたという見方も近年はほぼ否定されている[121]。この段階での信長は明確に義昭を頂点とする体制内にあり、義昭を主君として臣従していた[134]

義昭と信長の関係が明瞭に変化するのは1572年武田信玄の西進(いわゆる「西上作戦」)以後である[132][128][127]。武田軍は三方原で信長の同盟者である徳川家康と会戦(三方ヶ原の戦い)し、これを打ち破ると、勢いに乗って信長の本拠地である美濃・尾張へと侵攻する動きを見せた[127]。武田軍の捷報に接すると、畿内近国の三好義継や松永久秀、六角義賢らは武田軍に呼応して義昭と信長を挟撃する構えを整えていった[128]。一方の信長は大規模で精強な武田軍に対処するため、畿内近国に展開していた兵力を東へ移動させる必要に迫られた[127]。しかし、このときすでに信長は朝倉氏や浅井氏、本願寺らと再び戦争状態に入り始めており、信長が畿内から兵を動かせば、その軍事・警察力によって守られていた京都は反信長派によって脅かされ、義昭の幕府も危機に陥る可能性があった[127]1573年2月13日、義昭は反信長派に鞍替えした[135][127]。当時周囲を敵に包囲されていた(いわゆる「第二次信長包囲網」)信長は、義昭の離反によって、彼によって支えられていた政権の正当性も危機に陥っており、配下や同盟勢力が離反し、瓦解しかねない窮地にあった[127]。信長は義昭との和解を急ぐ一方で、それ以前から義昭を糾弾する「異見十七ヶ条」を公表して、自らの立場を擁護、喧伝していた[127]。「異見十七ヶ条」では、朝廷から改元の勅命が下ったにもかかわらず、その実現に協力しない義昭の怠慢を諫め、勅命に従わない場合はたとえ将軍であっても批判の対象としていた[121][注釈 165]。この間、義昭はすでに信長と敵対関係にあった三好義継や朝倉義景に挙兵を伝えるだけでなく、毛利輝元浦上宗景らにも挙兵を呼びかけ、幕府を信長優位の体制から大名連合政権に回帰させる構想を示した[128]。しかし、直後に武田信玄の病状が悪化し、武田軍の動きが鈍ると、反信長派は足並みの乱れを露わにし始めた[127]。信長は馬首を返して西に向かい、京都二条御所の義昭を攻めた(二条御所の戦い[127]。義昭と信長はいったん和睦したものの、義昭は再び挙兵して要害の槇島城に籠もり、反信長勢力の支援に期待したが、うまく連携できなかった[127]。信長が大軍でこれを囲む(槇島城の戦い)と、義昭は信長に降伏して1573年7月19日に京都を退去した[127]。このとき義昭は人質として息子の義尋を信長に差し出した[128]

信長は将軍義昭を追放した後、天下人としての地位を継承した。信長は毛利輝元に宛てた書状で、「いわんや天下棄て置かれるうえは、信長上洛せしめ取り静め候」と自らが足利義昭から天下人としての地位を継承した旨を記したが、この段階の「天下」もまだ京都を明確に指し示していた[136]。この年、信長の申し出により元号は元亀から天正に改められたが、「天正」の出典は『老子』の一節「清浄なるは天下の正と為る」からとられ、この出来事は信長が京都の支配者となったことを象徴していた[136][125]。一方で、こうした信長の行動は義尋を擁することで正当化されており、1574年には諸将に正月の挨拶を義尋に対して行うよう要求するなど、彼を足利将軍家の当主とし、幕府を再建する意向も示していた[132][121][128]。したがって、信長はこの時点でもなお幕府体制を完全に否定することはできておらず、室町時代の権威秩序は依然として、「天下人」を意識していた信長を苦しめていた[121]。「天正」の元号は長く使用され、秀吉が信長死後に、その菩提を弔う寺院を計画したときにその名を「天正寺」とするほど、信長の人生と分かちがたく結びついてイメージされることになるものの、この改元自体に信長が積極的に関わったとすれば、それは「異見十七ヶ条」で自らが述べた武家の義務を果たしたという側面が大きく、これをもって「『天下』を制した者の宣言」が行われたとか、朝廷から織田政権に対して正当性の付与がなされたというような大きな政治的意義を持たせるべきではないといえる[133]。一方で、以前から求めていた改元を迅速に遂行した信長に対して、朝廷は信長に不在の将軍に代わる天下人としての期待を寄せるようになるが、信長自身は義昭の帰洛交渉を行うなど、この時期まだ室町幕府体制を葬り去ろうとはしていなかった[132][133]。この段階においての信長は室町幕府の伝統的秩序を否定していなかったと考えられる[137]。義昭の京都追放後も信長は義昭との君臣関係を強調している[132][注釈 166]。信長は特定の幕府役職に就くことはなかったが、しかし形式的には室町幕府の枠組みをはみ出すことなく、義昭から「天下」を委任されたとし、京都支配を続け、幕府を盛り立てる姿勢を堅持した[125]

同年12月、信長は朝廷に正親町天皇の嫡子誠仁親王への譲位を申し入れた[132][133]。これにより中世以来の上皇が「治天の君」として政務を行う院政の復活が実現する可能性があり、正親町天皇はこの申し出をいたく喜んだ[133]。室町時代以来譲位の儀式は足利将軍家によって行われてきたという背景を考えると、譲位の提案は天皇への圧力ではなく、天正改元時と同様、信長側から「天下人」の義務として能動的に行われたと見られる[132]。ただし、この譲位はおそらくその後多発した軍事行動による経済負担の増加と信長自身の多忙によって沙汰止みとなった[133]

信長の統一政策により「天下」の地理概念はかなり明確化されていき、信長死後に天下人としての地位を継承した豊臣秀吉により統一事業は完成され、「天下」領域はほぼ今日の日本列島と変わらない領域として認識されるようになった。秀吉は天皇の政治を代行する関白としての立場を利用して天下統一を本格化させた[121](戦国時代 (日本)参照)。

幕藩体制と「鎖国」「日本型華夷秩序」

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江戸幕府は「天下人=将軍」、「天下の公儀=幕府法」と位置づけ、そのもとに「地方的な公儀=藩法」として大きく二元的な法社会を形成した。このようにして成立した幕藩制国家は、対外関係を華夷秩序に擬制して編成し、具体的には海禁政策をとった。このことは日本における「天下」概念をますます固有の地理概念である日本列島に近づけたと考えられる。江戸時代の対外関係のあり方は従来鎖国体制として理解されてきたが、実際には四つの口を通じて日本は対外関係を構築しており、従来の鎖国の見方は一新され、現在では「日本型華夷秩序」と呼ぶ枠組みが想定されている[138][注釈 168]

外交儀礼の上では、徳川体制下の日本においては、外国の使節に対して、世界の中心である「中国」としての態度で接することが幕府の基本姿勢であった[114]。琉球使節は将軍に九拝させられたが、これは中国の三跪九拝の儀礼に基づいていた[114]。日朝関係は表面上対等であったが、日本側は朝鮮通信使を「朝貢」と見なし、一方の朝鮮側は通信使を国王名代の「巡視」であるとすることで、お互いが相手を見下していることを知りながら、相手方に対し上位の外交的立場にいるという体面を保ち、安定的な関係を維持していた[114]。長崎のオランダ出島商館長は定期的に江戸参府を求められたが、彼らは外国使節としては扱われず、商人と見なされていた[114]。清朝とは琉球を介して間接的な外交経路が維持されていたが、公的には江戸時代を通じて直接の外交関係が存在しなかった[114][注釈 169]。この時代、東アジアでは今日的な永続的で一義的な対等国家間外交とは異なる、表向き清朝を上位とした形で放射状に繋がれた多層構造を持つ、不平等で多義的な国際秩序が展開されていた[114][注釈 170]

18世紀後半からヨーロッパ諸国の外洋船が日本列島近海に姿を現すようになると、鎖国が幕府の伝統的な法であるとする「鎖国祖法」観が形成され、とくに1792年ラクスマン来航以後は、幕府の外交方針において、朝鮮・琉球との通信関係、中国・オランダとの通商関係に通交を限定すべきという認識が支配的となった[141]

明治国家と東アジアの「天下秩序」

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第2次アヘン戦争後の清国の洋務運動を通じて、東アジアの外交秩序は変容を余儀なくされたが、対馬沖縄といった従来の東アジアの外交秩序では両属性を持つ地域は、近代的な領土支配に置き換えられる過程で帰属問題が浮上した[138]。日本は1871年廃藩置県対馬藩の日朝両属状態の解消)や1879年にいたる琉球処分琉球王国の日清両属状態の解消)[注釈 174]を通じて、近代的領土を確立し、従来の東アジア的華夷秩序に代わり、ヨーロッパ的な近代的外交体制を選択していくことになった[138]

台湾出兵
日本は台湾出兵で国際法体系の論理を持ち出し、清朝の天下秩序に挑戦した。佐藤信淵混同秘策』、野本白岩海防論』、吉田松陰幽囚録』など幕末の書物ですでに台湾領有論が主張されていたが、台湾出兵前後から、台湾領有は明治国家の政策方針として具体的に検討されるようになっていく。日清戦争後、台湾は下関条約で日本に割譲されることとなる

1874年台湾出兵では近代的国際法に基づく日本の論理と伝統的な東アジアの国際秩序に基づく清朝の論理が直接対決することとなった[144][145][注釈 175]1871年暴風で遭難した当時の琉球・宮古島の島民が台湾の現地民であるパイワン族に殺害される事件(宮古島島民遭難事件)が発生した[144][145][注釈 181]。また1873年にも小田県の住民4名が台湾で略奪される事件が生じた[145]。この間1872年10月16日に琉球王は日本の「藩王」として冊封され、10月30日には琉球の外交権が外務省に移管された[144][149][148][注釈 182]。こうした状況下で1873年4月から6月にかけ、日清修好条規[注釈 183]の批准交換のため、外務卿副島種臣が特命全権大使として中国を訪問した[144][注釈 184]6月21日、副島は随員の一等書記官柳原前光総理衙門に派遣して会談を設けたが、その際台湾での事件についても、日清両国間で簡潔な意見交換がされた[144]。その席上清国はパイワン族は生蕃であり[注釈 185]、「化外」の民であると返答したと日本側の記録にある[144][149][注釈 186]。日本は清国側の発言を清国が台湾を統治外(国際法上の「無主地」)だということを明言したと見なした[144]。そのため、日本は台湾での事件の責任を負う国家や政府は存在しないと考え、日本が自ら責任を問うことができると判断した[144][注釈 187]。日本は1874年5月に台湾に日本軍3600名を上陸させ、翌月にはパイワン族の本拠地を攻略した[144][注釈 188][注釈 189](台湾出兵)。この派兵は清朝に大きな衝撃を与えることになった[144][145]

同年9月、大久保利通は小牧昌業高崎正風ボアソナードらを従えて北京に渡り、日清間で台湾出兵が協議されることとなった[154]。また、遅れて井上毅もこれに合流した[155]。清朝の側は台湾出兵を日清修好条規第1条で「両国はお互いに所属する邦土に対して不可侵とする[注釈 190]」とあるのに違反し、「清朝所属の邦土」である台湾に日本が武力侵攻したと考えていた[144][注釈 193]。清朝側の条文理解は従来の華夷秩序に基づいており、「属国自主」の朝鮮や「化外」の生蕃も「清朝所属の邦土」に含まれる[注釈 194]という考えであったが、日本は当時の欧米の国際法に基づいて、清朝自身が実質的に統治(実効支配)していないと認めている「化外」の地域は「無主地」と見なすべきであるという考えを通した[144][注釈 199][注釈 200][注釈 201]。すなわち、総理衙門は国際法(万国公法)に精通していないことを自ら認めつつ、両国の懸案は日清修好条規によって解決されるべきであり、台湾出兵も日清間の領土上の問題である以上、これに基づいて交渉されるべきことを主張したが、日本は台湾が清の領土であることが国際法に基づけば立証されない点を指摘し、したがって台湾出兵では日清修好条規が適用されないことを論じた[156]。従来の伝統的東アジア国際秩序(華夷秩序)にこだわり国際法に消極的な清と、国際法を積極的に活用しようとする日本の姿勢が、ここにおいて明瞭に対照的な形で現れることとなった[150][36][157]

台湾出兵で清朝に琉球人を「日本国属民」と清国に認めさせたと考えた日本政府は、1875年7月、琉球に清朝との朝貢・冊封関係の廃止、明治年号の使用などの命令を一方的に押しつけた[144][153][注釈 202][注釈 203]。そして1878年10月7日に清が琉球の朝貢を停止させていることを日本に強く抗議すると[注釈 204][注釈 208]、日本は1879年3月に首里城を接収して琉球藩の廃止を琉球に通告し、4月には県令を派遣して沖縄県を設置した[144][153][注釈 209](琉球処分)。日本の琉球処分は清国にとって、恐れていた「属国」の滅亡が現実となった衝撃的な事件で、清の安全保障政策が深刻な危機に直面していることを意識させ、1880年代以降、清国に従来の外交方針を見直させ、「属国」との関係を再編させるとともに、軍備増強に向かわせる契機となる[144][153][注釈 210]1870年代に、日本が東アジアで台頭することによって東アジアの外交秩序は大きな転換点を迎えることになった[144][153][150]

朝鮮における「天下」

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朝鮮における「天下」概念はまず高句麗において成立した。高句麗は自国を中華とし、周辺諸民族を夷狄視する小中華的天下観を持っていたが、それは同時に天や河に対する独自の信仰形式を内包していた。広開土王碑には「永楽」という独自の年号が記載されている。百済新羅もそれぞれ独自の「天下」概念を有していたと考えられている。一方で中国思想の影響の下に周の封建国としての箕子朝鮮神話が形成されており、儒教の教えが古くからこの地に根付いていたという認識も存在し、このことは中国の天下概念の中に朝鮮を位置づけようとする傾向を持っていた。

高麗時代には仏教・道教・シャーマニズムをよりどころとしながらも、朝鮮独自の天下概念を展開する壇君神話が成立した。新羅は唐の太宗に国内で独自の年号を用いていることを咎められて以降唐の正朔を守っていたが、高麗前期には中国王朝の年号と高麗独自の年号を交互に使用していた。国内では王は「」と自称し、死後は廟号を贈られ、王の命令を「制」「詔」などと記していたが、これは中国の華夷思想によると中国王朝の皇帝にしか許されないことであった。さらに当時の宮廷の頌歌では「海東天子」や「南蛮北狄自ら来朝す」といった表現があり、当時の金石文には「皇帝陛下詔して曰く」と刻しているもの[181]もある。天子の特権である祀天も行われ、都であった開城は「皇都」と呼ばれた。

一方高麗時代の中国的「天下」概念では、中国内部に宋・遼、宋・金が並び立つ情勢のなか、宋を南朝、遼・金を北朝として両属する形を維持していた。しかし、理念上は南朝を重視する傾向にあり、両朝の年号を併記する場合は南朝を先とすることが一般的であり、宋によりその忠実さを「小中華」と称えられた。中国に元王朝が成立すると、元は高麗に従来以上の服属を要求し、朕という自称や廟号、制・詔といった用語も廃され、高麗国王は自称を「不穀」(穀は善の意で、不穀とは不善という意味で謙った自称)と改めた。またこのころ朱子学が流入し、名分論が盛んとなった。

李氏朝鮮の時代には、明の冊封を受け国号を「朝鮮」としたこともあって、「明=李氏朝鮮」関係を「周=箕子朝鮮」関係と同一視する中華的な「天下」概念があった一方、世宗時代には女真・日本・対馬・壱岐・松浦・琉球などを自国に朝貢する対象と主観する「天下」概念も存在し、祀天もおこなわれた。また明では陽明学が流行していたが、朝鮮ではこれを儒教の堕落とみる風潮があった。清の時代には冊封を受け、服属しながらも知識人の間では明の崇禎紀元が好んで使用された。これは中国が清という夷狄の王朝に支配されているため、朝鮮こそが中華の本流であるという意識に基づいている。

ベトナムにおける「天下」

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前述したように、ベトナムにおける「天下」概念の成立は13世紀にモンゴル軍撃退後の国威発揚に伴って顕著に確認される。陳朝で成立した『大越史記ベトナム語版中国語版英語版』(: Đại Việt sử ký)においては、秦漢時代に今日の広東からベトナム北部に存在した南越国をベトナム最初の正統王朝とし、この地域を対象とする「天下」概念が形成された[注釈 211]。この「天下」概念の実例としては、1428年に大越が明から独立した際、この時代を代表する文人であるグエン・チャイが「自趙丁李陳之肇造、我国与漢唐宋元而各帝一方」(趙佗の南越国・丁部領丁朝李朝・陳朝以来、我が国は中国の漢・唐・宋・元などの王朝と同じく帝を称して天下の一方に君臨してきた)と述べていることがあげられる。ここに明らかなように、ベトナムの「天下」は中国の「天下」と同列なものとして主観されている。このような「天下」概念の下では、従来の仏教・道教の神々にかわり、ベトナム土着の神々が尊重され、対外戦争に勝利するたびベトナムの土着神に対して加封(神々に対し新たに称号を加えること)がなされた。このことはベトナムの「天下」概念において、皇帝はベトナム土着の神々より上位に位置していることとともに、民族固有の信仰がこのような「天下」概念を側面から支えていたことを示している。

15世紀末頃からこのような「天下」概念に若干の変化が起こった。ベトナムの正史において南越国が徐々に本紀から外され、ベトナム独自の神話や伝承に基づく涇陽王・貉龍君・雄王などが正史における地位を向上させた。それとともに中国領内にある嶺南地方をベトナムと一体として考える思想が衰退し、18世紀末には正史において南越国は正統から外された。このころ現実のベトナムは黎朝の名目的皇帝のもとに北に「トンキン」と呼ばれた鄭氏政権、南に「コーチシナ」と呼ばれた阮氏政権が実質的に支配を二分している状況にあった。このころの「天下」は黎朝の皇帝の下に成立しているトンキン・コーチシナを中心とした世界であったと考えられている。19世紀に成立した阮朝では、中国向けには「越南」を名乗り[注釈 212]ながらも自称国号においては「大南」を称し、中華世界とは区別された独自の領域としてのベトナム世界が規定されるに至った。

北方アジアの遊牧民における「天下」

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チンギス・ハーン
モンゴルのハーンの命令文には、しばしば「とこしえの天の力において(monka denri-yin kucun-dur)」という表現が見られる

アジアの遊牧民における天下に類似する概念の歴史は、匈奴の時代にまで遡ることができる。「天」にあたる概念としては「テングリ」という言葉が知られ、中国側の史料に「撐犁」と音写される。匈奴の君主である単于は『漢書』によるとその正式名称は「撐犁孤塗単于」といい、「撐犁」は「天」を指し、「孤塗」は「子」を指し、「単于」はその有様が天のごとく広大であることを言うとされている[182][183][注釈 213]。すなわち、「撐犁」はトルコ語モンゴル語の「テングリ tengri」に、「孤塗」は「子」を指すツングース語の「クト quto」に当たるとするのが一般的であり、「天の子たる単于」とするのが一般的である[182]。別説として「孤塗」をトルコ語の「幸福」あるいは「神聖なる幸福」を意味する「クト qut」あるいは「イディクト idiqut」とし、「撐犁孤塗単于」は「天の福を受けたる単于」とする解釈もある[182]老上単于は漢への外交文書を「天地の生むところ、日月の置くところの匈奴大単于」[注釈 214]と書き出したことが知られるが、「撐犁孤塗単于」を称したのは冒頓単于・老上単于の時代からであると考えられている[182]。冒頓の父、頭曼単于の名はトルコ語やモンゴル語で「万人長」を意味する「トゥマン tüman」を音写したとも考えられるからである[182]。また、頭曼については古テュルク語で「万」を意味する「テュメン tümän」に基づく可能性もあるが、「テュメン」の使用が遡れるのは8世紀突厥碑文までであり、匈奴時代まで通用するかは不明である[183]

単于称号に込められた意味とその神格化を踏まえると、単于は匈奴族の単なる首長にとどまらず、天神と配下の諸部族をも含めた匈奴のすべての民を結ぶ媒体であり、全匈奴社会の統一体の具現化であり、単于称号は単于による部族支配の理念を内外に明確に示したものであると考えられる[182]。単于の権威は突厥の君主などと同様、天に認められることで成立していた[183][184]。「単于天降(単于がテングリから降りてきた)」[185]「天所立匈奴大単于(テングリによって立つ大単于)」[注釈 215]と中国側の史料で表現されている[184][注釈 216]。ここに明らかなように、テングリは天界であるとともに、天神として人格神を指すこともある[184]。これは中国における「天」概念と非常に類似しており、両者の関連性がしばしば指摘されている[注釈 218]が、どちらのほうが起源として古いかは明らかにされていない[184]。この「テングリ」概念はウイグルなどのトルコ系遊牧民やモンゴル系遊牧民にも共通しており、一貫して二面的に使用されている[184]。また人格神としての「テングリ」はモンゴルの宇宙創造神話において「テングリ・ハイラハン」という地上を作った創造神として現れる[184]

単于の権威はこのように神聖化されていたが、隷属部族に対する単于の家系たる攣鞮氏の優位を示すもので、単于個人の絶対権力を意味したわけではなかった[182]。実際は単于の母閼氏が高く尊崇されていたほか、亡き先代単于の意志(神託)が現実の政策に強い影響を与えていた[182][注釈 219]。単于は祖先神を尊重してそれに従属し、それを通じて初めて権威を示し現実政治を機能させることができたと考えられている[182]。したがって、単于の地位は神性を付与された先代の単于の霊を、匈奴社会の守護霊として祀り、それが共同体祭祀と結合することにより発展してきたと考えられ、先代単于の霊は当代単于の祖霊というよりも遊牧社会全体の守護霊として匈奴の構成民すべてに意識されていたと考えられている[182]。すなわち、単于権は個人による専制支配の段階には達していなかった[182]。閼氏は匈奴社会の有力氏族から迎えられ、後継単于の母となると出身氏族とともにその後ろ盾になった[182]。これら有力氏族の他には、漢から嫁いできた公主が閼氏となることができた[183]

チベットでは、7世紀ソンツェン・ガンポによって、吐蕃帝国が成立した[188]。吐蕃の君主は「ツェンポ(天から降り立った者)」号を名乗ったが、吐蕃と唐の外交では皇帝とツェンポは対等とされていたことが、『旧唐書』や「唐蕃会盟碑」から確認できる[191][192]。『旧唐書』では吐蕃は唐に朝貢しているように書かれているものの、たとえば文成公主の例が有名であるが、吐蕃の朝貢はその都度、唐に対する要求を伴っており、実質的には唐が吐蕃の要求を受け入れる関係にあった[192]。唐は吐蕃使に魚袋を授けることで名目的に服従させようとしたが、吐蕃使がその都度魚袋の拝領を拒否したことも『旧唐書』に書かれている[192]。さらに古チベット語の史料である『吐蕃賛普伝記』に基づくと、唐は吐蕃に朝貢していた可能性がある[192]706年から822年に7つの条約が唐と吐蕃の間に締結されたが、『冊府元亀』に収録されているこれらの協定の文面の変遷からは、当初は唐は吐蕃に対して上位の立場を取っていたようであるものの、821年の「唐蕃会盟碑」の頃には対等といえるものに変化していたことがわかる[192]。「唐蕃会盟碑」の漢語文言では、唐の皇帝と吐蕃のツェンポが「二聖」として一括りに神聖性を伴って言及されている[192]。「唐蕃会盟碑」に見られる「甥舅」関係(吐蕃が甥、唐が舅)は、文成公主そして金城公主が吐蕃に嫁した歴史的事実に基づいている[191][192]。これは唐の側からは吐蕃に対する優位性の証明と見なされた一方、吐蕃には唐と姻戚となったことで対等性が証明されたものと見なされた[192]。「唐蕃会盟碑」のチベット語文言を確認すれば、「甥舅」関係とは両者の血縁関係だけを言うのではなく、両国の政治的関係を意味していることがわかる[191][192]ティデ・ソンツェンの墓碑に「四周八方にまで権力を及ぼす」と記された自らの世界観[注釈 220]を、吐蕃のツェンポは対唐関係で貫徹しようという意志を示していた[192][注釈 221]。帝国滅亡後もツェンポの子孫は、西チベットや青海方面で一定の権威を保ち続けた[195][注釈 222]

西突厥から分かれたハザール汗国[注釈 224]は、ユダヤ教国教化された国としても知られているが、そこでは「大可汗 al-khāqān al-kabīr[注釈 225]」と軍事的君主による特徴的な二重王権が展開されていた[197][198][190][199][注釈 226]。ハザール汗国では突厥と異なり、東西に可汗の権威と権力を分立させるのではなく、大可汗をシャーマン王としてタブー視して祭り上げる存在とし、儀式的に隔離していた[197]。大可汗は国家の「幸福 qut」の守護者とされ、宇宙の秩序に責任を負っていた[197]。その結果として、大可汗は積極的な支配者としてではなく、純粋な「掟の王」とされ、戦争のような血の穢れから遠ざけられた[197]。日常的な政務を担当するのは「イシャド isad」「ベグ beg」、あるいは「ハーカーン・バフ khāqān bah」などと呼ばれた軍事的君主の役割であり、近隣の勢力が服属していたのはこの軍事的君主に対してであった[190][198][199]。大可汗の地位は太陽崇拝に基づいており、その任期が終わると、血を流さずに絞殺され、生け贄として捧げられたという[197]。大可汗の任命権は軍事的君主にあったが、大可汗の地位は軍事的君主より上位に置かれていた[198][199]。軍事的君主を含め限られた者しか大可汗に謁見することは許されず、25人の妻からなるハーレムを持ち、大可汗が外出するときは、すべての軍隊が可汗と距離を取りながら随行し、ハザールの民は大可汗に会うと平伏して通り過ぎるまで頭を上げなかった[198][199]

ハザール汗国によく似た二重王権をハンガリー王国建国前のマジャール人も形成していたと考えられており、通説では、宗教的首長の「ケンデ kende[注釈 227]」と軍事的首長の「ジュラ gyula」が権威と権力を分有していたと考えられている[201][202][注釈 228]。しかし、初期ハンガリーがハザール汗国の影響を受けて二重王権をなしていたという見方には最近疑義が提出されている[200][注釈 229]

モンゴル帝国の時代には歴代ハーンの外交文書のなかで、テングリの名の下に地上の支配を託された者としてハーンを位置づける声明が確認される[184]。「耳の聞きうる限りの土地、馬でたどりつきうる限りの土地」「日出ずるところより日没するところまで」ハーンの支配に服することが表明されており、そこには基本的に地理的限定はない[184]。最近の研究ではそもそもモンゴル帝国の国号としての「モンゴル・ウルス」そのものが本来的に「モンゴルの人々の集合体」というような意味合いで、地理的概念を含むものではないと指摘されている。アジアの遊牧民の地上世界観にも、一定の秩序原理に基づき地理的限定を含まないという意味で「天下」概念と類似した構造を見ることができる。

混一疆理歴代国都之図

また遊牧民の世界観の開放的な性質も指摘されている。それは元朝治下に製作された原図を基にしていると思われる『混一疆理歴代国都之図』によく表されている。「混一」という言葉はモンゴル帝国時代に用いられ始めた用語であることが指摘されているが、その意味は当時知られていた世界としてのアフロユーラシア大陸が境界なく渾然一体となっているという世界観を表しているという[203]。これは中国的な華夷を区別する世界観とは異なり、非常に開かれたものであった[203]。この地図は中国や朝鮮が大きく描かれているという点では東アジア本位の構図になっているが、ユーラシア・サイズに広がるモンゴル時代の世界認識が雄渾に表現されている[203]。同様にイランイル・ハン国で編集された『集史』においては、世界中の歴史資料を総合し編纂し直して、世界の歴史像としての「世界史」を編もうという意図が看取されている。モンゴル帝国にいずれは組み込まれる歴史であるという意味でモンゴル帝国中心ではあるけれども、主要地域の歴史をそれぞれ自立した形で並列的に扱っており、同時代までの中国歴代王朝の正史やヨーロッパ側の歴史書とは大きく異なっている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 西嶋定生は1962年に発表した「六―八世紀の東アジア」で、中国王朝を中心とする政治体制により東アジアの国際関係が動かされていたことを論証し、東アジア諸国の国際関係を規定している秩序として「冊封関係」があることを明らかにした[5]。西嶋によれば、「東アジア世界」が歴史的に自己完結的な世界として存在したことの前提として「冊封体制」の構造があったとされる[5]。「冊封」とは、元来は封建制の基本理念であり、封土を分かち与えてその地域の君長に任命するという辞令書を授与することで、本来は中国の国内秩序を示していた[5]。しかし、漢王朝以降、中国の国内秩序の外延として、周辺諸国に中国王朝の皇帝から、王侯に封ずる冊書とその名称を刻んだ印章が賜与され、その支配地が中国王朝の皇帝からの封土と見なされた[5]。こうして周辺諸国の君長が理念的に皇帝と君臣関係を結ぶことによって、皇帝と周辺諸国の君長との間に中国国内の君臣関係の論理が適用される関係によって成り立つ国際秩序体制が「冊封体制」である[5]。周辺国は冊封によって中国皇帝の権威を借りて国内的権威を確立し、周辺国との外交においても有利に立つことができ、中国皇帝の側は外国の冊封によって国内の君臣関係の秩序維持が補強され、さらに冊封国の出兵要請などを受け入れることで、中国王朝の権威を冊封国以外にも示すことができた[5]。こうして中国王朝と周辺諸国が官爵の授受を通じて結ばれることで、そこに発生する文化の伝播も含めて「冊封体制」として論じられた[5]1970年の「総説」では世界史の構成要素として「東アジア世界」を設定し、前近代の日本を包含する「東アジア世界」を中国文化圏として完結したものとして提示し、その共通文化の要素は「漢字文化」「儒教」「律令制」「中国化した仏教」の4つとされ、中国を中心に朝鮮・日本・ベトナムという地域が主として該当するとされた[5]。こうした「東アジア世界」の形成については、中国の中央集権化と周縁への拡大、および周辺民族の一定の発展が前提に必要になるが、中国側の支配論理としては華夷思想と封建制の成立が特に重要とされた[5]。西嶋は漢代の儒教の国教化と周辺諸国への郡国制の拡大により、冊封体制が成立し、隋唐時代にその政治的・文化的一体性が完成されるが、唐王朝の滅亡後にいったん「東アジア世界」は崩壊し、東アジアでは民族ごとの独自文化が叢生し、冊封体制は解体されるものの、東アジア交易圏ともいうべき経済的国際関係が形成されたとする[5]1973年の「東アジア世界」では、華夷思想王化思想について関係性が論じられ、華夷思想は礼の有無により中華と夷狄を差別する思想であり、王化思想は逆に差別したものを結合させる思想で、礼を知らない遠方の夷狄が天子の朝廷(天朝)に徳を慕って来朝すること(慕化来朝)が、人民を感化させ(徳治主義)、権威の源泉となるとする考え方とされた[5]
  2. ^ 1949年松本新八郎が日本の律令国家を「世界帝国」的性格を有するとする「世界帝国」論を提起すると、石母田正はこれに対し、1962年、「日本古代における国際意識について」を発表し、4世紀末から10世紀の日本は、一方で朝鮮諸国を自らに朝貢させ、服属させようとしつつ、一方で中国王朝には蕃夷の一国として朝貢するという複合的な支配・被支配の関係の中にあったと位置づけた[5]。石母田によれば、4世紀末以来、倭は「任那」を直轄領として植民地支配を行い、百済・新羅に対しては朝貢国として服属させ、中国の南朝に対しては朝貢することで、「大国」としての国際的地位の確立、すなわち「東夷の小帝国」として国際的に承認される政策をとったとし、6世紀の「任那」滅亡によりこの小帝国は事実上解体し、推古朝以後、朝鮮諸国に対する支配は形式的・名目的なものとなり、奈良時代末期の新羅の朝貢停止、すなわち小帝国からの離脱により「遺産」と化したとする[5]。つまり、この段階での「小帝国」論はあくまで列島の支配層の対外意識として論じられていた[5]1963年の「天皇と『諸蕃』―大宝令制定の意義に関連して」では、「東夷の小帝国」を維持するために制定された大宝律令により、唐を「隣国」、朝鮮諸国・渤海を「蕃国」、蝦夷・隼人を「夷狄」とする「化外」の三区分が法的に固定化されたこと、そして、大宝遣唐使の使命が唐に対して「東夷の小帝国」=「日本国」の承認を得ることにあったとした[5]。石母田は天皇の称号は中国の「皇帝」に代位するもので、諸蕃の上位に位置し、従属せしめる日本の王権の国際的地位と権威を標示する意図を含む称号であったとしている[5]。石母田は1971年の『日本の古代国家』以後、「東夷の小帝国」という用語を「東夷の大国」という用語で置き換え、「小帝国」を使わなくなる[5]
  3. ^ 東アジアと呼ばれる地域を一体として考える「東アジア世界」論における構造的理解の枠組みとしては西嶋定生の「冊封体制」論[注釈 1]石母田正の「東夷の小帝国」論[注釈 2]が国際関係の構造理解を規定してきた[5]
  4. ^ たとえばずっと真夜中でいいのに。の「あいつら全員同窓会」の中国語訳タイトルは「那些家伙们的校友会」である。
  5. ^ 日中歴史共同研究での中国側委員の見解に基づくと、古代中華文化の発展過程および中華民族の形成過程で、内在する自己意識は絶えず向上し、さらに不断に純化して主体精神を形成したという[6]。古代の、根本的に地球と世界の事実を知るすべを持たない状態においては、当時地球上に存在していたどの民族もすべて、自らの生活上で目にするものの範囲を、「世界」や「天下」と見なした[6]大航海時代以前のあらゆる民族は自らの生存域の地球上における相対的位置など判断しようがなかったと考えられるのであるから、自らの生存域を世界の中心とする観念から免れることができたわけがない[6]。今の世代の研究者は現代の知識で構築された世界観や宇宙観によって、中国の先人たちの天下観を責め、彼らがただ自己の天下を知るのみで世界があることを知らなかったことを責めるが、純粋に理性的で学術的な態度に則って歴史と照らし合わせる側からすれば、それは明らかに歴史文化の文脈を見失ってなされた判断であるという[6]
    さらに中国側委員は華夷の弁別について歴史言語学に基づいたという意見を表明しており、それによれば、古代の華夏人は、自己の文化の精髄を「」と呼んだが、それは「夏」が漢民族の始祖王朝であったからであり、文化心理上の祖先回帰というべきものだという[6]。「華」は「夏」の美称で、光と輝きの意を表す[6]。華夷の弁別の本質的な意義は、華夏文化と非華夏文化との区別を求めることにあるが、この範疇で「華夏」の対立軸となる「夷」とは、「等輩」「儕輩」のような平等的な意味であり、俗語の「那些家伙(あの連中、あいつら)[注釈 4]」という他者意識の意味を含んでいる[6]。つまり、古代の華夏人(漢族)に対して、華夷の弁別によって自己の天下観を構築したことを理由にして絶えず拷問し、華夏人が春秋時代以来、所謂「五千里内皆王事に供す」という「大中国」観を持っていたことを責めることは、理論的な根拠を失っているという[6]
  6. ^ ただし、殷代甲骨文に現れるこれら「四土」「四方」は領域の汎称ではなく、祭祀の対象となる神格の汎称である可能性があることには注意が必要である[13]。西周金文においても大豊𣪘保卣保尊に現れる「三方」「四方」は祭祀の対象を指しており、神格を表していると思われる[13]。吉本道雅によれば、領域概念としての「四方」は周人の発明であり、殷人の間にそれに相当するものは、少なくとも形式的には存在しなかった[13]
  7. ^ 吉永慎二郎によれば、殷代の卜辞において「天」は「大」の意味で使われており、殷代には上天・天神に使われた用例はない[16]。そして、殷代に見られる「上帝」は、そこに現れたる「上」を「上天」の意味として解釈する見方が多いが、殷代の「下上」が「帝」と置き換え可能な語として使用されている実態を考えると、実際にはここでいう「上」は「諸神の上」の意と解釈すべきであって、しかも帝の常態は他の祖神と同様、地下世界として観念されている「あの世」に存在するものと考えられるという[16]。吉永は、殷人がしばしば「土」を祀っていることなど愛着を示していることや死人を地下深くに埋葬し、封土を盛らない殷墟の墓葬からも、殷人の他界観は地下世界を観念するものとして形成されており、周人の天上世界を重視する他界観とは異なっていたとする[16]。殷代の卜辞および図象記号から窺える「天」の観念は、白川静がかつて論じたように「顛」すわなち人頭の意味であるか、あるいは林巳奈夫が論じたように女性型天候神であり、帝の配下にある多神教的な神の一つに過ぎないと考えられる[16]。したがって、ここには周以降のように「天」を一神教的な主宰神として見たり、「上天」を聖なる場所として考える思考は存在しない[16]
  8. ^ 帝あるいは上帝は殷代に最高神として信じられていた存在で、その最大の能力は自然神に命令して降雨を発生させ、穀物の実りを左右することであった[15][14][注釈 7]。帝は自然神や祖先神よりも優位にあり、人間は直接祀ることすらできない至高の存在と考えられていたため、甲骨文字では帝に対する直接の祭祀儀礼はなく、「帝雲」や「帝臣」などを通して祀っている[14]
  9. ^
    太保乃以庶邦塚君出取幣,乃復入錫周公。曰:「拜手稽首,旅王若公誥告庶殷越自乃御事:嗚呼!皇天上帝,改厥元子茲大國殷之命。惟王受命,無疆惟休,亦無疆惟恤。嗚呼!曷其奈何弗敬?天既遐終大邦殷之命,茲殷多先哲王在天,越厥後王后民,茲服厥命。厥終,智藏瘝在。夫知保抱攜持厥婦子,以哀籲天,徂厥亡,出執。嗚呼!天亦哀于四方民,其眷命用懋。王其疾敬德!相古先民有夏,天迪從子保,面稽天若;今時既墜厥命。今相有殷,天迪格保,面稽天若;今時既墜厥命。今沖子嗣,則無遺壽耇,曰其稽我古人之德,矧曰其有能稽謀自天?嗚呼!有王雖小,元子哉。其丕能諴于小民。今休:王不敢後,用顧畏于民碞;王來紹上帝,自服于土中。」(『尚書』周書 召誥)[16]
  10. ^ 吉永慎二郎によれば、殷周革命に伴う「天」の観念の論理が体系的に確認できるのは『尚書』召誥である[16][注釈 9]。ここに現れる「皇天上帝」の語は上帝を天に存在するものとして規定するとともに、「皇天」の下位概念として位置づけてもいる[16]。ここには殷人のかつての「哲王」も天命を受けた存在であったとし、その霊が天上に安んじていることを説き、しかも「哲王」に該当しない他の王は天上にいないことが示唆されている[16]。召誥において周人は殷人の親しんだ「上帝」や「先王」を自らの天上型世界観に適合的なものに変質させつつ、その権威を利用して殷人の支配に当たるとともに、周の天上型他界観を殷人に受け入れさせようとしていたことが推察されるという[16]。吉永は召誥の後半部のテキストは前半部より後代の成立である可能性も指摘しつつ、後半部のテキストは「天」の観念を最高神格として明示し、王権の正統性の法源として措定されるに至っていると考えている[16]。つまり召誥のテキスト全体を見ると、そこには前代の多神教の最高神である上帝の権威を利用しつつ提示された「天」が、やがて一神教的な主宰神・最高神格として確立されていくメカニズムが反映されているといえ、それには殷人から周人への王権の交替に伴って、殷の地下型他界観が周の天上型他界観に置き換わり、天命による王権の正統性の論理(受命思想)の確立という構造が表されている[16]。こうした周の天上型他界観は、ユーラシア大陸ステップ地帯に広く分布する遊牧系諸民族の世界観との共通性が想定されるが、そのことは、クルガン文化説に代表される近年の考古学および文化人類学知見とも整合的だという[16]
  11. ^
  12. ^ 内山俊彦によれば、「天」という文字は通常「天空、大空」を意味するが、周代には「天」はただ天空を指すのみでなく、天にある最高の神を意味する宗教的信仰のまつわる概念であった[18]。最高神としての「天」は、地上すべての事象を主宰し、とくに王朝に「天命」を与えるものとされ、地上で「天」の意志を代表するのは政治指導者である王とされ、それゆえに王は「天子」と称されて、天を祀る祭祀は、王の特権とされた[18]。春秋末期、前6世紀の宰相であった公孫喬は「天道は遠く、人道は近い[注釈 11]」という言葉を残しているが、これは「天」に働きかける手段として呪術を用いることに否定的な見解が表明されているものである[18]。中国最初の刑法の制定者ともいわれる公孫喬にとって、「天」の信仰に結びついた呪術より、現実に密着した政治が重視されているとともに、「天道」を人知によって予測することは不可能とする思想が表れている[18]。公孫喬よりやや後代に属する孔子にとっては、「天」とは神であるよりもむしろ「宇宙人法を支配する理法」として解されていると見なすことができ、孟子もこれをほぼ継承している[18]。『孟子』によれば、「天」とは人間の才能・運命や事業の成否、天下の治乱を決定する理法、さまざまな現象の背後にあってそれらをそうあらしめるものとして、説かれている[18]。孔子と孟子の見地は、「天」に理法を見出し、したがって、「天」や自然を人間の理性によって認識されうるものと考えるものであり、春秋以来の、合理的・非呪術的な思考が受け継がれている[18]。一方で、孟子の同時代人と思われる荘子は、「天」を理性を越えた万物を決定する絶対の力と考えていたようである[18]。荘子における「天」は、宇宙のなかにある超越的・絶対的で不可知な支配力というべきものとして、非理性的にとらえられており、この「天」という支配力のはたらきが、これも荘子によって説かれている「道」である[18]。この立場にあっては、宇宙のすべての現象も、かかる超越的な「天」ないし「道」を原因とするゆえに、人間の理性がそれらの真の姿を認識することは不可能、とされる[18]。荀子は、荘子の超越的な「天」の理解から、「天」は人間の認識の対象とならないという思想を受け継ぎつつ、「天」を理法とする孔子・孟子の考えを発展させ、自然現象において人知の及ばない部分については思慮・能力・洞察を加えようとしないという立場を取った(天人の分[18]
  13. ^ 浅野裕一によれば、上天・天帝は、ユダヤ教のヤハヴェキリスト教の神、イスラム教アッラーとなど同じく、感情や意志のみを持ち、身体・形象を持たない形而上的神格で、あくまでも人間を模したものであった[17]。一方で道家に代表される古代天道思想における「」「太一」「」は、天と同じく宇宙を主宰する存在と考えられてはいても、人間の似姿としての性質を全く持たない物質的な観念だった[17]。たとえば荘子は殷の遺民国家であるの出身であるせいもあるのか、その思想に上帝・上天信仰が全く見られない[17]。また同じく宋の出身で荘子の友人であった恵施の思想にも同様に上天信仰は確認できない[17][注釈 12]
  14. ^ ただし、「四方」は抽象的な汎称であり、少なくとも西周当初は実体を伴った「国」の単なる集積ではなかった[13]。西周後期以降、宗周鐘毛公鼎に「四国」の語彙が出現する[13]
  15. ^ 周王朝では「克殷」以前すでに「王」号を称しており、西周時代を通じて「王」号は周の君主の正式な称号として使用され続けたが、一方で「天子」号は西周中期の共王時代以降、周の現君主に対する独占的な称号として使用され始めた[19]。「天子」号そのものの機能は「王」と異なり、文王の受命神話を中心とした天命思想に関わるものであった[20]。すわなち、「王」号が王畿内から「四方」へという水平面における君主の権威を象徴したのに対し、「天子」号は上方にある天上世界と下方にある地上世界という垂直軸における権威を象徴していた[20]。なお、吉本道雅によると、のちの「天下」観念に通じる、天と対置される「下或(国)」「下土」という表現が西周後期後半に現れる[13]
  16. ^ 050《金文講座》063 榮[借字]𣪘一を読む - YouTube
  17. ^ 榮𣪘(邢侯簋・周公𣪘・周公簋)を読んでみます。これ、美文字で、派手ですから、是非臨書にトライして。是非! - YouTube
  18. ^ 042《金文講座》051 獻𣪘を読む - YouTube
  19. ^ 献𣪘〔けんき〕(獻𣪘、献簋、獻𣪘)、さあ、読んでみましょ‼書く前には、しっかり内容把握ですよ‼ - YouTube
  20. ^ 053《金文講座》066 麥尊を読む - YouTube
  21. ^ 高島敏夫によれば、そもそも「天子」は西周前期において必ずしも周王に限って使用された用語ではない[22]。「周公𣪘[注釈 16][注釈 17]」「獻𣪘[注釈 18][注釈 19]」「麥方尊[注釈 20]」において、周王以外が「天子」として言及されている[22]。これらでは周王の宗教的権威を受けた周王以外の君主を「天子」として言及している[22]。しかし、西周中期以降は天の思想の浸透とともに、「天子」は周王のみを指すようになる[22]
  22. ^ 高島敏夫によれば、王号は実際には西周の全時期において、周王以外に少なからぬ数存在しており、「王」号は周王の独占物でなかったと考えられる[21]
  23. ^ 高島敏夫によれば、「天子」とは「天の御子」を意味し、超越神である「天」の存在を前提とした用語である[21][注釈 21]。殷代には甲骨文にも金文にも「天子」の語が現れないが、それは殷王朝では宗教的秩序における至高神は「帝」であって、「天」ではなかったからである[21]。そして「天子」という語はこうした天との関係を前提とした宗教的権威に関わる用語であって、王朝という政治共同体の代表者を意味する「王」と同列に語れるような称号ではない[21]。「天子」は祭祀の場において使われる特別な用語であった[21][注釈 22]。「天子」とは「天」の思想に基づく宗教的秩序を背景とした周王の宗教的権威に関わる用語であって、政治的権力とは区別された概念であり、したがって東周時代に周王の政治的権力が衰えた後も、天子として宗教的秩序を支える権威の役割を期待された[21]。斉の桓公や晋の文公が周王から任命を受けてはじめて覇者として承認されたのは、かかる宗教的権威性が天子である周王に存在したからである[21]
  24. ^ 佐藤信弥によれば、西周前期の大盂鼎においてすでに、文王受命の説話は語られており、武王は文王を継承して「四方を敷有」したという言説が見られる[24]。文王受命と武王による四方領有の説話は同時代の金文に広く見られることから、西周前期にはこの説話は広く受け入れられていたと想定される[24]。しかし、時代が下り、西周後半期の師克盨になると、文王と武王が天命を受け、四方を領有したという言説が現れ、文王と武王の事績が区別にされずに言及される傾向が見られるようになった[24]
  25. ^ 董作賓によれば、周人は元来、武王即位を「受命」の年とするのが一般的であり、後世の「文王受命」は「武王受命」の誤りだという[23]。「受命」とは本来、周の君主が殷王の命を受けたことを指し、上帝の命を受けることを指してはいなかった[23]。周人が天下を取ると受命の史実が神秘化され、天命思想と結びついて「文王受命」の説話が成立したとする[23][注釈 24]
  26. ^ 先秦時代には「中華」の成語は確認されない[13]ため、「中国」「夏」「諸夏」「華」「諸華」「華夏」など後の「中華」概念と密接に関係する先秦時代の語彙の総体を便宜上《中華》として記号化して表す。
  27. ^ 「夷」とは本来「尸」に作り、蹲る人を象形したもので、周人が東方・南方の異文化集団を呼称したものであった[26]。「夷」は周王朝の政治構造を構成する「諸侯」「百姓」からは区別されていたが、西周金文によれば「夷」の中には周人と同様に「邦」を為していたものもあり、「夷」は周の支配領域である「四方」の内側におり、西周中期以降、周は「夷」支配を積極的に試みた[26]。東方・南方の「夷」に対して、西方・北方の異民族としては「鬼方」「玁狁」が記録されている[26]。このうち「玁狁」は都邑のような定住集落が見られないことから、おそらく遊牧民であったと推定される[26]。西周史料中に確認される「夷」や「戎」といった「他者」は決して周代の《中華》[注釈 26]から排除されていたわけでなく、周王朝を構成する「諸侯」「百姓」からただ単に区別されていた[26]。すなわち西周の「中国」は「夷」に対して開かれた周の統治秩序の中心地を意味していた[26]。同様に、春秋時代の「夷狄」の区別は後世と異なり、「礼」や「文化」の有無で区別されてはいなかった[26]。たとえば『春秋』にしばしば現れる近郊の国は紛れもなく夷狄と当時考えられていたが、周系諸侯国と恒常的に通交していた[26]。「夷狄」の国と見なされていた長江流域のも春秋時代には周系諸侯国と会盟・通交を頻繁に行っている[26]。春秋後期に「華夷思想」が明確化してきて後も、《中華》と「夷狄」はなお二者択一的な枠組みではなく、「中国」や「諸夏」の内部に「夷狄」が含まれている場合が認められる[26]。実際の史実においても、漢代以降の「中華」帝国の支配領域内に「夷狄」が常に存在していたことは記憶されてよい[26]こちらも参照。
  28. ^
  29. ^ 春秋時代後期になると、たとえば曾侯與鐘に「天下」の語が現れている[27][28]
  30. ^
  31. ^
  32. ^ 黄婕と連清吉によれば、周の成周造営には周が天下にそれをもって徳治を示す意図があり[注釈 30]、占いによって慎重に位置を定め、九鼎の居所として建設された[30][注釈 31]。その場所は天道に合わせる場所で、中心であることが意図的に強調されていた[30]。成周造営は周の領土拡大の政治志向の表れの一つであり、中原および四方に対する統治を強化するため、その中央的な地理位置が有利な地勢として意識され、利用されたという[30]。周の政治構造において「四方」は「中心」を取り囲み、守備的な存在であることも、成周の都市建設に映し出されている[30]楊寛の考察によると、成周城は『周礼・考工記』に「匠人、国を営むに方九里」とあるのと一致する[30]。天然の山川を人工的に連結して作られたものとして、より小さい城の外により大きな郭と連結して都城を形作る構造は、成周から始まったと考えられるという[30]。成周の所在地は天下の中心の地域と考えられ、建設内容は礼制に合わせたものであったので、この都市の誕生当初から正統性と正当性が意識的に与えられた[30]。これは後世の王城のモデルにもなった[30]
  33. ^ 西周初期の「中国」や「夏」は、必ずしも夏・殷・周王朝の「民族」や「国家」、あるいは中原全体を呼んだものではなかった[26]。春秋時代にはより拡大した「中国」や「華夏」といった語が確認できるものの、それは中原地域全体を指した呼称ではなく、一定の諸侯国が構成した「国際」的な同盟秩序を呼んだものであった[26]。そして戦国時代においても「中国」の指示する範囲は一定していない[26]。渡邉英幸によれば、西周史料に現れる「中国」は王朝統治の中心地を意味する言葉であり、国家の総称ではないし、「夏」も同様に王朝の中心地や、周王朝の文化・秩序を指した呼称であり、これら《中華》に当たる用語は民族的な「自称」としては使われていない[26]。これらの用語は周王朝の支配階層が有していた統治論・文明論的な「中心性」とそれに関連した「関係性」を表した用語であった[26]。同様に「夷狄」も周人が異文化集団に用いた、自称を伴わない他者認識の呼称であった[26]
  34. ^
    作新大邑于東國洛(『尚書』周書 康誥)[13]
  35. ^ 吉本道雅によれば、何尊に現れる「中国」は成周を中心とした王畿を指し、「国」字の原義から周王朝の防衛すべき勢力圏を指すものと想定されるという[13]。ただし、西周初期における「中国」の金文事例は何尊以外なく、吉本道雅は「中国」の語彙は西周金文で定着した用語とはならなかった可能性が高いとしている[13]。その理由を吉本道雅は『尚書』で周人が自らの本拠地を何度も「西土」と呼んでいること、『尚書』康誥に現れたる「東国」の語彙[注釈 34]、何尊に現れる「遷宅」という語彙に注目しつつ、当時の周人にとって成周付近は東方の新領土であり、周人の「中国」に対する帰属感の希薄さ、むしろ周人が他者意識さえ抱いていることを指摘している[13]
  36. ^
    惠此中國、以綏四方。(『詩経』大雅 生民之什 民勞)
  37. ^ このような文化的優劣関係に基づく「華夷思想」がいつ形成されていったかについての見解には大きく二つの潮流が存在する[26]。一つは、春秋時代を扱う文献が戦国時代以降に編纂されたことを重視し、その内容には戦国時代以降の価値観が色濃く反映されていると考え、これら春秋時代を記録する文献に現れる「華夷思想」は戦国時代以降のものとする立場である[26]小倉芳彦平勢隆郎高津純也らがこの立場に立つ[26]。いま一方は、これら文献資料が戦国時代以降に編纂されたとしても、その内部に春秋時代の時代感覚や歴史認識を含んでいるとし、「華夷思想」の成立を春秋時代以前とする立場である[26]顧頡剛王樹民堀敏一陳致吉本道雅がこの立場である[26]
  38. ^
    德以柔中國,刑以威四夷(『春秋左氏伝』僖公二十五年)
  39. ^
    中国に莅みて、四夷を撫んず(『孟子』 梁恵王上)[25]
  40. ^ 浅野裕一にしたがって、『春秋』についての平勢隆郎の説をまとめると、
    1. 戦国中期には周王と十王(斉・魏・秦・韓・趙・燕・中山・宋・楚・越)の十一王が並び立ったが、いずれも自らを唯一の天子だと考えて正統性を主張し合い、相互に正統抗争を繰り返した。その手段として、ある王国が自己の正統性を主張すべく史書を作れば、他の王国はその史書を否定し変形すべく、別の史書や書物を作り出して対抗せんとする状況が存在した
    2. 前338年、斉の威宣王が称王するとともに、それまでの立年称元法に代わり、斉で初めて踰年称元法が採用された
    3. 『春秋』には踰年称元法が採用されており、早くても初めて踰年称元法が採用された前338年以降、威宣王が斉の朝廷で『春秋』を作った。『春秋』の意図は、斉王のみが唯一の王(天子)であり、正統な王権であると主張する点にあった
    4. 『春秋』成書後、『公羊伝』が斉で作られた。『公羊』は戦国期の斉、すなわち田斉を唯一正統な王権だと主張する、『春秋』のサブテキストとして作られた
    5. 前326年に韓の宣恵王が称王して以降、韓の朝廷で『左氏伝』が作られた。『左伝』の意図は、特別に韓宣子を称揚したり、韓氏が韓王となる予言を込める手段により、斉を正統とする『春秋』や『公羊』に対抗して、韓を唯一正統な王権だと主張する点にあった
    6. 前323年ごろ、中山王・管が初めて王号を称した。中山の称王後、先行する『春秋』『公羊』や『左伝』に対抗すべく、鮮虞が建国した中山こそが中国であり、唯一正統な王権だと主張する目的で、『穀梁伝』が中山の朝廷で作られた
    7. 『春秋』と三伝は、前338年以降、中山王国が滅亡する前296年までの短期間に、斉・韓・中山の王権正統化理論として相次いで作られたのであり、本来は儒家とは無関係な書物である
    8. 『春秋』と『公羊』は、前漢武帝期に再解釈されて、漢の正統性を支える理論に転換された。『左伝』は前漢末から王恭期にかけて再解釈されて、王非の正統観を支える理論に転換された。再解釈の際の増補・改変はほとんどなかったか、あったとしても僅かであった。伝世の『春秋』及び三伝には、戦国中期の王権正統化理論としての原初の痕跡は、全く存在しない
    というのがその骨子となる[31]
  41. ^ 渡邉英幸によると、『公羊伝』の「中国」論の特徴としては、
    1. 「中国」と「夷狄」の両属性を併存させている諸侯国がある。は「夷狄」の国とされていたが、「中国」としても言及される。は「中国」とされていたが、に従属したため、「夷狄」に転落したとされる
    2. 楚やなどの長江流域の国を「夷狄」扱いし、排撃する
    3. 「中国」を必ずしも礼儀や文化に優れた国々として肯定しておらず、その疲弊や弱体ぶりを認めている
    といった点が看守される[26]。『公羊伝』の「中国」「夷狄」論は、必ずしも文化を基準としておらず、周王朝の政治構造から離反した国を「夷狄」とし、道義上の優劣により華夷を峻別している[26]。『公羊伝』では「諸夏」の語も「中国」と同じく、諸侯の会盟に基づいた同一の対象を指していると考えられる[26]。一方で、『公羊伝』に現れる「中国」を斉の支配領域を指すとし、「諸夏」は「中国」から一段劣った斉の東方諸国を指すという平勢隆郎や高津純也の説があるが、渡邉によれば、おそらく成立しがたい[26][注釈 40]
  42. ^
    夷狄を許すは、一にして足らざるなり(『春秋公羊伝』 文公九年)[25]
  43. ^ 佐藤信弥によれば、呉は太伯仲雍を祖とする祖先伝承を持っていたが、これはおそらく呉がの祖先伝承(虞仲)を流用して自分たちに都合の良いように政治的に作られた系譜であったと考えられる[24]。しかし、諸侯間の外交の場では呉の祖先伝承が虚構であったとしても、その虚構性は問題とされず、承認されていた可能性がある[24]前482年黄池の会では呉王夫差は晋に対し、自らが古公亶父の長男である太伯の子孫であり、末子の季歴の家系である晋より上位にあることを主張し、盟主の座を争った[24]。呉は蛮夷の国ではあったが、その地に中原の文化が流入し、その支配層が「中国」の道徳と教養を身につけるようになると、中原諸国は呉が太伯の後裔であることを認め、兄弟の国としてともに敵国である楚と対峙することを望んだ[24]。同様に『史記』でが夏王朝の後裔とされたり、楚や秦が顓頊の後裔とされたのも、中原の人々が「失われた祖先の後裔」を「蛮夷」の中に見出す歴史認識が存在したと想定される[24]こちらも参照。
  44. ^ 春秋史料からはこの時代、《中華》と「夷狄」には重層的関係が存在していたことがわかる[26]。諸侯を中心とした周的秩序としての《中華》にも、《中華》諸侯と「夷狄」の別、血統出自に基づく「兄弟甥舅」諸侯と「蛮夷」「小国」諸侯の別、《中華》の同盟諸侯と同盟外勢力の別、という三層の差異観念が存在し、「夷狄」視する基準としても、言語・習俗・血統出自・王朝秩序・礼儀道徳など様々な観点が存在した[26][注釈 43]。こうして《中華》は観念的には「夷狄」をも包含しうる枠組みとして拡大したが、それにより内部に「夷狄」との明瞭な対立の構図が生じ、華夷思想が成立することとなった[26]
  45. ^
  46. ^ 渡辺信一郎によれば、戦国時代から漢代にかけての礼論の体系化には3つの頂点が認められる[34]
    その第一は荀子による礼的秩序としての国家論の構築である[34]。荀子は戦国末期の諸国家を国王を頂点とし、官僚制によって編戸百姓を支配する体制であるとし、精神労働を行う官僚層(君臣上下の区分がある)と肉体労働に従事する百姓(士農工商の分業が存在する)との間に社会的分業を措定し、戦国時代の国家社会が社会的分業の上に成立していたと想定した[34]。そして荀子はその社会区分と分業によって成り立つ国家の頂点に礼制の最高の実践者として聖人・天子を位置づけ、それにより調和が実現され、統合されている社会を想定した[34]。荀子は礼による統治を王道、法による統治を覇道と捉え、法治を礼治に次ぐ統治形態として並立的に論じたが、歴代王朝による現実の統治においては法治と礼治は併用されていた[34]
    第二は、おそらく荀子以後に成立したと思われる『儀礼』の体系化で、家―郷―邦国―王朝というように段階的に上昇していく国制全体を包括し、冠・婚・葬・祭、射・郷、朝・聘という8つの礼をそれぞれ夫婦・父子・長幼・君臣関係の4つの人倫に配合して社会秩序を安定させることを企図し、礼儀の在り方の体系化がはかられた[34]
    第三としては、『周礼』による王朝礼を基軸とした礼の体系化で、邦国と天子の関係を中心にして、祭祀・軍事などにおける天子の主権の範囲が体系化されている[34]。『周礼』による五礼分類は礼の基本的な分類体系として、歴代正史の礼儀志や『通典』などの政書、『大唐開元礼』など儀礼書の構成に引き継がれることとなる[34]
  47. ^
  48. ^ 『左伝』昭公九年(故事成語「抜本塞源」の由来としても知られる)には「中国」と「天下」を等置し、認知可能な世界の全てを表す語として使用されている用例が見える[13][注釈 47]
  49. ^ 吉永慎二郎によれば、孔子が天を絶対的主宰神として把握していたことは明らかである[16]。そのうえで重要なのは孔子が周王権の正統性の法源としての「天」を、道徳の法源として位置づける新たな思想的地平を開いたことにあり、周初においては天との関係は周王との関係を一義として語られていたのに対し、孔子においては天が人の実存と対峙するという関係で語られるという、天の観念の普遍化、汎用化という様相が窺えるという[16]
  50. ^ 「天下」は戦国時代的な用語であり、周的秩序と結びついた「四方」に対し、周徳の衰微とともに「四方」に取って代わって現れた新たな領域概念であるとする指摘もある[35]
  51. ^
  52. ^ 戦国時代には「方千里」(『孟子』)「方三千里」(『呂氏春秋』)など明確に範囲が定数化された「天下」観念が成立する[26]。『呂氏春秋』ではこの「天下」領域は共通の文化圏として礼制・交通・言語を共有している地域と見なし、その外側を未開地域とする言説が見られるようになる[26][注釈 51]
  53. ^ 張啓雄によれば、畿服(五服)説は清朝の「属国自主(属邦自主、あるいは以不治治之論)」の起源と考えられる[36]。『国語』周語上に、「夫先王之制,邦內甸服,邦外侯服,侯衛賓服,夷蛮要服,戎翟荒服」とある[36]。「服」は邦內と邦外、すなわち天下が、各々天下秩序を共に遵行する最大公約数であり、鄭玄の「服」字に対する注釈には、「服,服事天子也」とある[36]。つまり、天子が天下を統治する時、「服制」の親疎が異なるため,臣が天子につかえる服属の程度にもそれぞれ区別が存在した[36]。逆に言えば、天子は地理的遠近によって異なる「服制」を定め、「服制」の区分によって、統治者が採用する統治方式も各々異なることになる[36]。これが古典経伝中にいわゆる臣が天子につかえる服事の体制の要点である[36]
    「服制」の区別に基づき、天子の統治領域は、「化內」より「化外」に向かって拡大し、また「王化」の力が絶えず拡大するにつれてさらに無限に拡大していくが、最終的には政令が及ばないところに至る状況を免れない、ということになる[36]。そうした君主の統治力の限界と「服制」の不同により「統治方式」も各々異なるということになり、その管轄概念も次第に「治」より「不治」への観念拡大に変じていく[36]。「治」より「不治」へと変わることは統治作用が逓減するというよりは、「統治領域」が不断に拡大することにつれて、統治の力が及ばない現象をもたらし、そこから「統治作用」が相対的に逓減する現象が起こると表現した方が妥当であると言える[36]。しかし、「化内」か「化外」であるか、言い換えれば「治」か「不治」であるかとは、いずれも礼制や習俗の違いに根差した便宜上の措置に過ぎない[36]。理論上は、これらはいずれも「天子統治天下」の「天朝定制論」の中に収まり、また「王者無外」の前提のもと、「王者不治夷狄(公羊伝隠公二年春、何休注)」の思想を生み、「不治」の概念はやがて、「直接統治しない」という消極的意味から、「民族の自治」や「藩国の自治」という積極的意味へと次第に転換していった[36]。要するに、政治の関係において王畿内からの距離が近ければ近いほど親しく遠ければ遠いほど疎く、親しければ親しいほど「治め」、疎いほど「治めない」という統治方針である[36]。「親疎、遠近」の距離概念から、「礼法」と「臣従」の適用程度を表し、図式をもってその宗藩関係の要点を示せば、親近=法治=內臣、疎遠=礼治=外臣、極疎遠=礼治=客臣、完全疎遠=不治=不臣となる[36]。これがまさに清代の「以不治治之論」の根源となった[36]
    「天子」が統治する「天下」は、理論上では限りがない[36]。管轄の作用の強弱も遠近、親疎が外へ拡散することに伴って差が生じ、強い作用が次第に弱くなり、甚だしくは完全に無になってしまう[36]。中華王朝の世界観の原理である「以不治治之論」は、このような「有」から「弱」へ転換し、さらに「無」に変わってしまう過程で生じる、「統治」(郡県)から「半治」(理藩院)を経て、「不治」(礼部)に至る現象として捉えられる[36]
  54. ^ 「九州」説とは黄河・長江流域を九つの「州」の集合として、完結した地域として論ずる世界観であり、のちに「九州」は「中国」の領域と結びつき、後代には王朝の直轄地である郡県領域が「九州」と呼称された[26]。「九州」にはいくつかバリエーションがあり、その範囲は固定されたものではなかったが、「九州」の外側は「夷」の領域とされた[26]。ただし、このことは「九州」内部から「夷狄」が排除されていたことを意味せず、「九州」内部にも「夷狄」が分散居住しており、これら内部の「夷狄」は外部の「夷狄」とは区別され、統治の対象として考えられていた[26]。一方の「畿服」説は王都から周辺地域に向かって距離に応じた複数の地域を想定するもので、同心方形の「天下」を構想するプランである[13][26]。こちらもいくつかバリエーションがあるが、代表例として『禹貢』のものを挙げれば、その「天下」は王都から五百里ごとに「甸服」「侯服」「綏服」「要服」「荒服」とされ、このうち「要服」と「荒服」が蛮夷の土地とされていた[13][26][注釈 53]
  55. ^ 渡辺信一郎によれば、「帝国オイコス」とは、中華皇帝の祭祀・儀礼を中心とする中央政府の公的政治生活部門における機能的・物理的諸需要が、主として政治的従属関係にある地方政府や羈縻州・諸外国からの貢納物などによって自己生産・自己消費される在り方を示す概念である[34]。「帝国オイコス」は皇帝の家計家産制的支配とは区別されており、帝国の国家支配の根幹を表す概念ではない[34]。「帝国オイコス」の生産素材は帝国が直接支配する国家領域を越えて政治的影響が及ぶ全帝国領域から貢納されてくる貢献物を主たる基礎とし、その生産物は、皇帝を中心とする帝国中央政府の政治的身体を荘厳し、再生産するものである[34]。渡辺信一郎は「帝国オイコス」によって規定される帝国構造の典型を唐に想定しているが、「帝国オイコス」そのものは唐王朝によって創始されたものではなく、その概念自体は『禹貢』の成立時期ごろ、すなわち戦国時代末期から漢代にはすでに成立しており、その起源は貢納物を媒介とした政治秩序を形成していた西周・春秋時代前期に遡ると述べている[34]。渡辺によれば、歴代中国王朝は「帝国オイコス」を基本属性とする伝統的政治支配のうえに、国家による人民―小経営農民支配、軍事・行政的支配などが重層した形で専制国家が形成されたという基本理解が想定される[34]
  56. ^ 渡辺信一郎によれば、『禹貢』には威信財システム(「帝国オイコス」[注釈 55])に基づく貢献物と租税としての田・賦の区別が見られる[34]。すなわち、春秋時代までは中央(大国)と諸侯・夷狄との間の政治的秩序は貢納によって成り立っていたが、『禹貢』の成立した頃になると、九州のみに賦課される田・賦といった租税と中国と夷狄に共通して課される貢納とが分離し、租税と貢納とが重層的構造をなした政治秩序が生まれ、租税に重点が置かれるようになっていく[34]。『禹貢』に表現された租税される直轄支配領域としての中国=九州と、貢納によって九州のみならず臣従を示す周辺諸民族をも包含した重層構造からなる帝国的構造は歴代王朝に引き継がれ、とくに後者は中心から周辺へと無限に拡大しうる政治的統合原理となりえるものであった[34]
  57. ^
    丞相綰ら言えらく、「諸侯初めて破れて、燕、斉、荊の地は遠く、為に王を置かざれば、以って之を填むるなし、諸子を立てんことを請う、ただ上幸いに許せ。」と。始皇其の議を群臣に下し、群臣は皆以って便となす。廷尉李斯議して曰く「周の文・武の封ずるところの子弟・同姓は甚だ衆し、然れども後属疏遠にして、相攻撃すること仇讐の如し。諸侯更ごも相誅伐するも、周の天子禁止することあたわず。今海内は陛下の神霊に頼り一統せられ、皆郡県となる。諸子功臣は公賦税を以って重く之に賞賜すれば、甚だ足りて制し易し。天下に異意なきは、則ち安寧の術なり、諸侯を置くは便ならず。」と。始皇曰く「天下の共に戦闘に苦しみて休んぜざるは、侯王有るを以ってなり、宗廟に頼り、天下初めて定まる。又復び国を立てるは、是れ兵を樹つるなり。而るに其の寧息を求むるは、豈に難からざるや。廷尉の議、是なり。」と。(『史記』 秦始皇本紀)[38]
  58. ^ 宮宅潔によると、昭襄王は周を亡ぼしたのち、前254年に天下の諸侯を自国に朝貢させ、雍で「上帝」を祀っているが、これは周の天子に成り代わり、周の封建制の枠組みの下で諸国を服属させようとしていた表れだという[33]。この傾向は秦王政の呂不韋執政時代後まで続き、前237年に斉王と趙王が秦都に来朝している頃までは維持されていたという[33]。同様に、鶴間和幸は呂不韋は「天下は一人の天下に非ず」(『呂氏春秋』孟春紀 貴公)と考えており、彼が最後まで秦の政治を主導していた場合、戦国国家の枠組みを維持したまま、秦を中心とした国家連合が成立しえたと述べている[37]。また、秦王政は呂不韋を文信侯に、嫪毐を長信侯に封じており、即位後二十数年間は封建制を実施していた[15]。『史記』によれば、六国の郡県化は既定路線ではなく、統一後の前221年の段階ですら、遠国については封建制を選ぶべきという王綰らに対し、郡県制支配を主張したのは李斯のみだった[37][15][38][注釈 57]。この時の王綰の議論は後世の儒教的理想に基づく封建制論とは異なり、当時の現実的政治状況を踏まえたものであると考えられるため、当時の中国に封建制を支持する一定の社会基盤が実際に存在したと考えられる[15][38]
  59. ^ 「皇帝」の称号の由来として 「煌々たる上帝」のことで「宇宙の絶対神である上帝を示す」とする西嶋定生による説がとりわけ有名であるが、史料的制約が多すぎてその原義はよくわからないとするのが一般的であろう[35]
  60. ^
    六合之內,皇帝之土。西涉流沙,南盡北戶。東有東海,北過大夏。人跡所至,無不臣者。功蓋五帝,澤及牛馬。莫不受德,各安其宇。維秦王兼有天下,立名為皇帝,乃撫東土,至于瑯邪。列侯武城侯王離、列侯通武侯王賁、倫侯建成侯趙亥、倫侯昌武侯成、倫侯武信侯馮毋擇、丞相隗林、丞相王綰、卿李斯、卿王戊、五大夫趙嬰、五大夫楊樛從,與議於海上。曰:「古之帝者,地不過千里,諸侯各守其封域,或朝或否,相侵暴亂,殘伐不止,猶刻金石,以自為紀。古之五帝三王,知教不同,法度不明,假威鬼神,以欺遠方,實不稱名,故不久長。其身未歿,諸侯倍叛,法令不行。今皇帝并一海內,以為郡縣,天下和平。」(『史記』 秦始皇本紀)[35][39]
  61. ^
    其身未歿,諸侯倍叛。(『史記』 秦始皇本紀)[39]
  62. ^
    平定天下,海內為郡縣。(『史記』 秦始皇本紀)[39]
  63. ^
    其身未歿,諸侯倍叛,法令不行。(『史記』 秦始皇本紀)[39]
  64. ^
  65. ^
    昔者五帝地方千里。(『史記』 秦始皇本紀)[39]
    古之帝者,地不過千里。(『史記』 秦始皇本紀)[39]
    假威鬼神,以欺遠方。(『史記』 秦始皇本紀)[39]
  66. ^
    人跡所至,無不臣者。(『史記』 秦始皇本紀)[39]
  67. ^ 瑯琊台刻石では「古の帝者」と「皇帝」とが対比して提示されており、前者は諸侯の存在を前提にしているが、後者は封建制を否定し、「天下」を郡県制で一律に統治する者としての意味が込められているという[35][39][注釈 60]。浅野裕一によれば、新たに創出された「皇帝」と古の伝説的な聖君主である三皇五帝とを分かち、皇帝の優位が決定的であった基準は
    1. 封建制か郡県制か。封建制では諸侯を制御することができず、天下を安定させることができなかった[注釈 61]が、郡県制を敷くことで天下は安定した[注釈 62]とする
    2. 法治の貫徹度の違い。古代の三皇五帝は天下の全土に法治を貫徹できなかった[注釈 63]が、皇帝は法の一律施行を実現した[注釈 64]
    3. 支配領域の広狭。古代の三皇五帝は封建制を施行したために、天子の直轄支配領域は極めて狭小で、夷狄の地には実効支配を及ぼすことができなかった[注釈 65]が、皇帝は郡県制によって海内全土を直轄支配するのみならず、大規模な外征によって世界の果てまで支配力を及ぼしている[注釈 66]にあった[39]。ただし、『史記』によると「皇帝」号が定まった後に封建制と郡県制の議論が行われる流れになっているため、議論の順序が『史記』の通りであるならば、皇帝号制定の当初においては、郡県制が前提とされた称号ではなく、郡県制による中華の一元統治の実績が皇帝号に特別な意味を後付けした可能性がある[35]
  68. ^
  69. ^ 度量衡の統一には経済的意味だけでなく、秦が全土を統一した法治国家であることを象徴する意味も多分に含まれていた[33][40]。統一された度量衡を通じて支配者が誰か、天下の隅々まで知らしめられたと考えられる[33]
  70. ^ この時代の武器は青銅製であった[40]。なお、古代中国では「金」は現代で言うゴールドとしてのだけでなく、金銀銅などの金属を指して言った[41][42]
  71. ^
  72. ^
    索隱按:二十六年,有長人見于臨洮,故銷兵器,鑄而象之。謝承後漢書「銅人,翁仲,翁仲其名也」。三輔舊事「銅人十二,各重三十四萬斤。漢代在長樂宮門前」。董卓壞其十為錢,餘二猶在。石季龍徙之鄴,苻堅又徙長安而銷之也。正義漢書五行志云:「二十六年,有大人長五丈,足履六尺,皆夷狄服,凡十二人,見于臨洮,故銷兵器,鑄而象之。」謝承後漢書云:「銅人,翁仲其名也。」三輔舊事云:「聚天下兵器,鑄銅人十二,各重二十四萬斤。漢世在長樂宮門。」魏志董卓傳云:「椎破銅人十及鍾鐻,以鑄小錢。」關中記云:「董卓壞銅人,餘二枚,徙清門裹。魏明帝欲將詣洛,載到霸城,重不可致。後石季龍徙之鄴,苻堅又徙入長安而銷之。」英雄記云:「昔大人見臨洮而銅人鑄,至董卓而銅人毀也。」(『史記』 秦始皇本紀)
  73. ^ 始皇帝は海内全土で民間での武器の所有を禁止し、武器を徴集した[40]。それは猟師からも仕事上必要な弓を没収するほどの徹底ぶりだったという[40]。集められた武器は鋳つぶされて、鐘鐻と金人(銅人[注釈 70])12体が作られ、宮廷に並べられたとされている[40][注釈 71]。金人は後漢末に董卓によって10体が破壊され、残り2体は五胡十六国時代に前秦苻堅によって溶かされたという[40][注釈 72]
  74. ^
  75. ^
  76. ^ 阿房宮は始皇帝死後も建設工事が進められたが、秦の滅亡とともに阿房宮造営計画は頓挫した[40]。しかし、阿房宮は項羽によって焼き払われたと考えられてきた[注釈 75]が、漢王朝でも用いられた可能性がある[40][45]
  77. ^
    秦王初并天下,令丞相、御史曰:「異日韓王納地效璽,請為藩臣,已而倍約,與趙、魏合從畔秦,故興兵誅之,虜其王。寡人以為善,庶幾息兵革。趙王使其相李牧來約盟,故歸其質子。已而倍盟,反我太原,故興兵誅之,得其王。趙公子嘉乃自立為代王,故舉兵擊滅之。魏王始約服入秦,已而與韓、趙謀襲秦,秦兵吏誅,遂破之。荊王獻青陽以西,已而畔約,擊我南郡,故發兵誅,得其王,遂定其荊地。燕王昏亂,其太子丹乃陰令荊軻為賊,兵吏誅,滅其國。齊王用后勝計,絕秦使,欲為亂,兵吏誅,虜其王,平齊地。寡人以眇眇之身,興兵誅暴亂,賴宗廟之靈,六王咸伏其辜,天下大定。今名號不更,無以稱成功,傳後世。其議帝號。」丞相綰、御史大夫劫、廷尉斯等皆曰:「昔者五帝地方千里,其外侯服夷服諸侯或朝或否,天子不能制。今陛下興義兵,誅殘賊,平定天下,海內為郡縣,法令由一統,自上古以來未嘗有,五帝所不及。臣等謹與博士議曰:『古有天皇,有地皇,有泰皇,泰皇最貴。』臣等昧死上尊號,王為『泰皇』。命為『制』,令為『詔』,天子自稱曰『朕』。」(『史記』秦始皇本紀)[46]
  78. ^
  79. ^
    前漢初期の斉の郡国の境界を示した図。紀元前195年(上)、紀元前155年(中)、紀元前110年(下)。景帝による王国削減策と、武帝による推恩の令の後、諸侯王国の領域・実力は、大幅に減少した
    呉楚七国の乱が周亜夫の活躍によりわずか3ヶ月で鎮圧されると、乱後の前147年、王国の御史大夫が廃止され、前145年には諸侯王の統治権が剥奪されたうえ、相国を相と改称し、廷尉少府などが廃止され、その他の官も大幅に定員を削減した上で全て中央派遣とされた[47]前122年には王朝官吏の王国出仕を禁じた左官の律、諸侯王への利益供与を禁じた附益の法、相などに諸侯王の犯罪報告を義務づけた阿党の法を制定し、諸侯王統制は強化された[47]。こうした過酷な処置により、諸侯王が困窮したので、武帝は諸侯王への礼を厚くし、また推恩の令によって諸侯王がその子全員を列侯に封建することを許したが、推恩の令によって立てられた列侯の封地は郡県所属とされたため、諸侯王国の領土が縮小することとなった[47]。こうして武帝期以降、諸侯王は領地から上がる租税を受け取るだけの存在となり、諸侯王国は事実上郡県と変わらなくなった[47]
  80. ^ たとえば渡辺信一郎によれば、郡国制とは賦を貢納する漢朝直轄の郡県制と貢献制を媒介とする諸侯王国・侯国の封建制とが複合した統治体制で、郡国制のもとでは諸侯の名乗る「王」号は王権の称号ではなく、単なる爵位になったという形で、郡国制が理解される[49]
  81. ^
  82. ^
  83. ^ 郡国制については、通説的には高祖期の政治事情が反映されて郡県制を一元的に施行せず、封建制を折衷した郡国制が採用され、それが漢帝国の中央集権化に伴って武帝期に実質的に郡県制へと推移したという理解が一般的である[注釈 80]が、郡国制を効率的な広域統治方式として漢帝国によって積極的に選択されたものとする見方もある[38][50][51][46][52]
    鷹取祐司によれば、当時の諸侯王国領は漢帝国全体の2/3を占めており、朝廷の規模でも王国は王朝の中央政府とほぼ等しい規模の宮殿・百官を備えていた[47]。王国は「某王某年」という独自の紀年を用いたが、これは諸侯王国の独立性の証左と考えられる[47]。漢代当時の認識としては、戦国的な諸侯分立体制が当たり前で、秦の郡県直轄支配が例外的状況と認識されていたとする[47]。漢初の裁判記録には王国の人民が王朝直轄領の女性を娶って王国に戻ろうとしたことが罪とされている事例があり、王朝は諸侯王国を外国と見なしていたと考えられるという[47]。したがって、漢代の郡国制とは、漢皇帝を首長とする諸侯の連合王国体制と考えるのが実態に近いという[47]
    阿部幸信は前漢初期の諸侯王国を前漢の「国内体制」に位置づけること自体に疑義を呈し、漢帝国による統一・中央集権化を前提とした「郡国制」という用語そのものを使用すべきでないとした[51][46]。阿部によれば、そもそも「郡国」という用語は漢初において「諸侯」と区別されて使われており、この場合の「国」とは漢朝内部の列侯国を指す[46][注釈 81]。武帝期に「天下の郡国」という用語が現れてのち、諸侯王国も含まれるようになったという[46][注釈 82]。したがって、阿部の見解では、武帝期中期までは「諸侯」と「郡国」は明確に区別されていた[46]。阿部によれば、漢王朝と諸侯王国の関係は「外」に対して政権を「共同所有」するものであり、「連合体」としての性質を帯びていた[51][46]。阿部は、この前漢初期において漢王朝と諸侯王国が共有していた政治秩序を「天下秩序」と呼んだ[51][46]
    松島隆真の説に基づいて漢王朝と諸侯王国の関係を子細に検討すると、まず諸侯王国は漢王朝とは異なる独自の紀年を有していたことが知られる[51]。武帝期の太初暦の施行によって諸侯王国の紀年は廃止されたという見方もあるが、おそらく武帝期以降も諸侯王は行政実務において、漢の紀年を使用する必要はなかったと考えられている[51]。人事面でも諸侯王国は漢王朝から自立していたが、相国丞相)や太傅は漢王朝によって任命されていた[51]。呉楚七国後の景帝期の王国官制改革、すなわち景帝中5年(前145年)、諸侯王の官僚制度が大幅に改められ、御史大夫や九卿の一部官職が廃止され、丞相が相と改称されたあとも、諸侯王の人事面における自立性は維持されたようである[51]。財政面では諸侯王国は自ら賦税を徴収していた[51]。漢では国家財政のほかに山林叢沢からの収入に基づく帝室財政が存在していたと考えられているが、諸侯王も同様の財源を持っていた[51]。諸侯王国は漢王朝に対して献費が義務づけられていたものの、制度面における財政的自立性は維持されていた[51]。爵制においても、武帝期以降まで諸侯王は吏民に関内侯以下の爵を賦与することができた[51]。漢王朝と諸侯王国は一体性を有しながらも、皇帝と諸侯王が君主として有した権能に本質的な差異はなく、皇帝は諸侯王らに対して相対的に強力であったに過ぎないといえる[51]。皇帝は漢王朝と諸侯王国からなる「天下」の統合者として振る舞い、各郡国に立てられた郡国廟が統合の羈絆となっていた[51]
    一方で、諸侯王国を漢から完全に自立した「外国」と考えることもまた不適切と言える[52]。諸侯王国は法令発布権を有していたものの、それに優越する漢法の遵守は義務づけられていたと考えられており、独自の徴兵権は持っていたが、出兵権は制限されていて、漢朝への定期的な入朝など様々な義務を課されていた[52]
    なお松島隆真によれば、「郡国制」という用語の考案者は西嶋定生である[51]。西嶋定生以後、郡国制についてはは論争が生じ、郡県制的要素を重視する布目潮渢の見解、諸侯の自立性を重視する大庭脩の見解が示されてきた[46]
  84. ^ ただし史実としては春秋時代から行われている。
  85. ^ 『孟子』や『礼記』に現れる五等爵については、郭沫若がその存在に疑義を表して以来、その内容についての研究が蓄積されてきた[53]。今日では、五等爵制の位級の成立は早くとも春秋時代以後、諸侯の会盟に伴って出現したと考えられており、西周時代の封建制に五等爵制の位級は存在しなかったとするのが有力である[54][55][56]。西周時代に見られる外服の「諸侯」に対する爵位としては「侯」「甸」「男」が知られ、侯爵号がほとんどである[27]。「公」位は王室出身者など特定の重臣クラスに限られる[27][56]
  86. ^
  87. ^ 儒学者は周王朝の君主は封建した諸侯を「公」「侯」「伯」「子」「男」の五等級にランク付けしたとし、諸侯の家臣も「上大夫」「下大夫」「上士」「中士」「下士」の五等級に分けたと考えていた[17][注釈 86]
  88. ^ 武帝期の11の年号はほとんど「吉祥の出現」によって改元が行われており、そのほかは祈念によるものである[57]
  89. ^
    王道之三綱,可求於天。(『春秋繁露』基義)
  90. ^ 鄧紅によれば、武帝期の儒者の代表である董仲舒のいう「天」には以下の特徴があるという[58][59]
    1. 天は万事万物を主宰し創造する力を備えた最高至上の人格神である
    2. 天は意識的に人間社会に干渉し参与する
    3. 天の人間社会に対する干渉参与は儒教理念に基づく
    4. 天と儒教理念とは一体化している
    つまり、董仲舒の儒教思想全体において、「天」は最高至上の神祇であるとともに哲学本体の役割を果たしており、董仲舒においては政治倫理思想である「人道」は「天道」を中心にして構築されていることを意味するという[58][59]。すなわち、董仲舒は「王道の三綱、天に求むべし[注釈 89]」と規定しているように、人倫道徳を「王道」とし、その淵源を天の摂理に直接に結びつけた[58][59]。これは孔子や孟子、荀子といった先行する儒者とは異なる立場であり、これら先秦の儒者は人倫と天とを直接に結びつけていない[59]。唐紅によれば、中国古代思想における天思想の展開は概ね2つの潮流に分けることができ、その1つは、天が超越性をもち、所謂「天神」となり、宇宙、人間社会を主宰するという考えである[59]。もう1つの潮流は、天を非人格化して捉えるもので、これは天を人間に付属させ、「天命」と「天性」の形で、人間を内外両面から構成し制約していくという考え方である[59]。これら2つの天思想は完全に別々の方向に二分されていたわけではなく、むしろときには諸子の思想の中で混淆する形で存在していた[59]。鄧紅によれば、先秦時代の儒家の主流は天を非人格神と見なすものであった[59]。鄧紅によれば、董仲舒はその初期において先秦儒家とほとんど変わらない思想傾向にあったようであるが、武帝の儒学奨励を契機として、董仲舒の天は万事万物を主宰し創造する力を具えた最高至上の人格神として論じられるようになり、天が意識的に人間社会に干渉参与するという説が唱えられるようになる[59]。すなわち、君主は人間社会においての「天」の代表とされ、徳を尊び民を保つことを通じて、天に乞い、「天命」を保つ必要があるとされる[59]。もし徳治が不十分であった場合、天は災害怪異をもって君主の「失道」に警告を発する(災異説[59]。鄧紅によれば、こうした董仲舒の天の人格神化の傾向は儒家思想によって非人格化されてきた歴史を逆流するように見えるが、けっして周初の天信仰に戻る過程ではない[59]。董仲舒の天思想は、天を人格神に復帰させることから始まったが、それは周初とは異なり、陰陽五行を明らかにすることで、天道を究明しようとするものであり、その天道を儒家理念と直接結びつけて、儒家理念を単なる人間社会の社会現象を超えた、天の性質、意志、働きそのものであることを論じたことに新しさがあった[59]。鄧紅によれば、先秦儒家の天論の理論目的は、自然天地の理法の恒久かつ神秘さをもって儒家思想に恒久かつ神秘性を付与しようとしたことにあったが、董仲舒の場合は天神の神聖かつ超越性をもって、支配思想になった儒教思想に神聖かつ絶対性を付与しようとした点にあるという[59]
    鄧紅によれば、董仲舒はこうした思想的背景のもとに、従来の「天人感応」の説を変容させて、「天人合一」の理論を生み出した[58]。すなわち、董仲舒以前、天と人との関係は、神秘的な天人感応の思想に頼っていたが、この天人感応説では、人と天は同次元の地位とは考えられておらず、その感応も不平等感応といえるものであった[58]。つまり、天は最高至上の人格神であり、人は天神の奴僕に過ぎないとされ、君主は天の人間社会での管理人であり、天と人を不同の価値体系に置き、その関係を説いていた[58]。この天人感応説では、天と人との間の感応の媒介がはっきりしないため、最終的に人が天について知る方法は、人々の宗教的感情によるしかなかった[58]。一方、董仲舒はまず天と人とを不同とする考えを改め、天と人を「同類」と見なした[58]。そのため、董仲舒によれば、天と人とは言行において基本原則を共有しており、天と人倫(儒教理念)とは一体化していることになる[58]。したがって、董仲舒の「天人合一」では、人の言葉と行動が儒教倫理道徳に一致すれば、それは天意に適い、天意を実践することを意味するとされた[58]
    鄧紅によれば、董仲舒の「天人合一」説は以下のようにまとめることができる[58]
    1. 人は天に象ってできたものであって、肉体と主体的な思惟とをもつ神祇である。つまり、人は小さな天である
    2. 天とは、実は人が人間の姿と精神に象って作り上げたものであって、肉体をもたない霊魂であり、人間精神の外化したものである。つまり、天は大きな人である
    3. 天と人とは実質的には同じものの不同なる表現形式であるから、天と人との交流は平等かつ公平に遂行することができる。つまり、天と人間とは、同じ理念に基づいて行動する。この理念は儒教倫理道徳そのものであり、「天道」と名付けられる
    4. 「天子」は、人間社会における天の代理人である。天子の権力は天から授けられたものである。天子は、「天に法り」「天に因り」て、「道」を立てるべきであり、つまり「天道」によって国家を治理する基本法則と政策を作らなければならない
    5. 「法天」「因天」は天命を受け、天命を維持していく方法である
    鄧紅によれば、この「天人合一」理論は、漢王朝の政治支配、「大一統」政治体制の確立には、重要な実践意義を有するとみられる[58]。董仲舒以前の「天人感応」論と災異論の欠陥は、天と人とは違う価値体系に属するとするところにあった[58]。そこには、天と人との間に、「なぜ互いに交流できるか」、「何に基づいて感応するか」、あるいは「天の人間社会に対する干渉参与はどんな媒介を通じて行うか」などについて、知性的ないし理性的な説明と論証が欠けていた[58]。そのため、天と人との交流感応は、人間の「天」に対する原始的な宗教崇拝及び「天命」に対する心理的な依頼に基づくしがなかった[58]。董仲舒の「天人合一」説は天の人間社会に対する参与と干渉は儒教理念に基づくという基本原則を確立することで、人間の側が儒教理念に従うことで、人が天に対して主体的に行動できる余地を生み出した[58]。この観点から董仲舒は君主の権力は天から授けられたものとする「君権神授」の理論を説き、その天の摂理、すなわち「天道」が君主の権力の来源とされており、また、君主の政治は「天道」によって行われるべきとされるが、「天道」と「人事」とは一致しているのであるから、「天道」に基づく政治とは畢竟、儒教倫理道徳に基づいて「人事」を行うことを意味する[58]
    鄧紅によれば、こうした董仲舒の「天人合一」説は、黄老思想に基づく漢初以来の「無為」の政治から、「天子」である皇帝が積極的に儒教理念に基づいて徳治を行う「有為」の政治、すなわち君主として積極的に民に教化を施すことを己の責任とする政治思想への転換をもたらしたという[58]
  91. ^
  92. ^
  93. ^ 鄭吉雄によれば、たとえば『尚書』武成における「一月」の表記は周が克殷前には殷暦を用いており、克殷後に周暦に改めたことを反映している[23][注釈 92]。すなわち1月を「正月」とせずに「一月」と表記することで周暦のまだ行われていないことを含意したという[23]
  94. ^ 鄭吉雄によれば、古代中国において、天命の観念、暦法の施行、年号の制定はいずれも天文天象の観測に密接に関わっていた[23]。「正」とは年の始め、「朔」は月の始めであり、たとえば夏殷交替に「正朔が改め」られたことが『逸周書』において確認できる[23][注釈 91]。古代中国では、暦法の施行は純粋に実用によるだけでなく、政治的宣伝の役割も含まれていた[23][注釈 93]。董作賓がかつて指摘したように、客観的には春秋時代、諸侯の暦法は一定しておらず、民間でも前代の正朔が使用されていたが、それでも統治者の主観において天象の秩序と規律を表す暦法は極めて大きな政治的意義を持っていた[23]。古代の中国人は天の運行が長期的には安定しており、天地の秩序においては整然とした天上の秩序が地上の秩序を決めると考えていた[23](天道)。そのため、「天」によって人事の「命」が確定されるという考え方が成立し、「天命」が絶対であって信頼できるとする基盤のもとに、自然と人事とが相互に対応するという「天人合一」(天人相関説)の思想を形成した[23]。上古の帝王は、「天」の権威を借りて、人々に向けて天子が政権を獲得したことの正当性を示したのであり、それが新たな王朝の成立に必要なプロセスであった[23]
  95. ^ 唐の時代にはすでに遊牧民族の君主号は「可汗」称号が一般的であった。しかし匈奴時代は「単于」称号が一般的で「可汗」称号は存在していない。「可汗」称号は鮮卑族の間で用いられはじめたとされているが、北魏が漢化すると鮮卑族の北魏皇帝は使用しなくなった。ただし唐朝は鮮卑系であるという説もある。
  96. ^ ただし元朝自体の「天下」概念は華夷秩序に基づく中国の「天下」概念とは異なるものであった。詳しくは後述。
  97. ^ なお、このような華夷秩序に基づく東アジア外交体制の歴史学的モデルは「冊封体制」あるいは「朝貢体制」などと呼ばれ、その最終的な消滅時期については活発な議論が行われている。従来の「西洋の衝撃(Western Impact)」によりこの体制が崩壊したとする考え方においては、アヘン戦争とそれに続く洋務運動を契機として捉える傾向にあった。しかし濱下武志ウォーラーステイン世界システム論に影響されて「朝貢システム論」を提唱し、主に経済史的側面から東アジア地域独自の交易システムは「西洋の衝撃」以後もヨーロッパ的な交易システムにただちに編入されることはなく維持されていたと述べた。つまり、従来西洋の経済システムにアジアの経済システムが組み込まれていく過程として理解されてきた東アジア近代史を批判して、むしろ東アジアの経済システム内に西洋諸国が参加してくる過程として捉えるべきであるとした。そして中国側は20世紀初頭に「滅満興漢」に代表される漢民族ナショナリズムの勃興に至るまで華夷秩序観を維持しており、少なくともこの時期までは中国側の認識においても朝貢体制は本質的な変化をしていなかったと指摘した。また思想史の分野では溝口雄三が「中国基体説」を提唱した。これは「洋務→変法→革命」と捉えてきた従来の中国近代思想史を批判するもので、明清時代以降ヨーロッパとの接触、その受容過程を通じて中国が自己改革していく時期として捉えるべきであると述べた。このように歴史像としての華夷秩序・東アジア外交体制に対する大幅な修正が提起されている一方、歴史事実としての華夷秩序・東アジア外交体制、つまり歴史的な冊封関係の終焉は日清戦争によって朝鮮が清との冊封関係を解消した1895年であるとする見方が一般的である。ただし漢代の「天下」概念図と清代の「天下」概念図を比較すればわかるように、前近代の東アジア外交体制を「冊封体制」あるいは「朝貢体制」と呼んだとしても、「冊封国」と「朝貢国」が歴史的に同一であったわけではない。したがって近代においてはほぼ同義であるとはいえ、時代を遡っていけば「朝貢体制」と「冊封体制」に概念上若干の相違が存在することになる。そのため「冊封体制」「朝貢体制」といった、冊封関係・朝貢関係を中心とした東アジア世界の把握に対して堀敏一は批判を加え、中国の対外政策を「羈縻」という歴史モデルで総合化し、従来別個に把握されていた「羈縻政策」「冊封」「朝貢」などを連結した形で華夷秩序あるいは東アジア世界像を描くべきだと述べている。(冊封朝貢羈縻政策参照)
  98. ^ 記紀によれば、允恭天皇の時、葛城の玉田宿禰が先帝である反正天皇の殯宮に仕えず、無礼であったことにより誅殺されている[69][62]。雄略天皇は安康天皇を弑逆した眉輪王を匿った円大臣を焼き殺した[69][62]。円大臣の説話は『古事記』と『日本書紀』で出所が異なる伝承によって書かれていると考えられるため、葛城氏衰退の過程は歴史的事実と考えられる[69]
  99. ^ 3世紀後半から4世紀にかけて成立してくるヤマト政権は、奈良盆地の勢力を中心に列島各地の地域的集団から成り立っていたが、その首長(5世紀の国際社会では「倭王」、5世紀末以降の国内では「大王」と呼ばれた)は本来、連合体のリーダーに過ぎなかった[67]。連合体の盟主である倭王には、優れた政治的・軍事的資質が求められたが、その地位継承には明確なルールがなかったと考えられるため、倭王の代替わりごとに王位を主張する複数の王族が各地の有力地方勢力と個別に結びつきながら、熾烈な王位争いを繰り広げたと考えられている[67]
    宋書』倭国伝では、倭王は兄弟、・武は父子とされているが、珍と済の間の系統的なつながりは記載されていないため、2つの王統が存在した可能性が示されている[62][68][69]。また、『宋書』では中国皇帝に対して、倭王珍は倭隋ら13人に将軍号の除正を、済も23人に将軍号と郡太守号の徐正を願っているが、珍(安東将軍に任ぜられた)と倭隋(平西将軍に任ぜられた)の将軍号はともに三品であり、位階としてはわずか1階の差しかなく、倭姓を共有しているところから見ても、倭隋は珍にとって無視できない、おそらく王とほとんど拮抗する勢威を持っていたと考えられている[70][68]。こうしたことから河内春人は5世紀の古墳群が大きく古市と百舌鳥の2群に分かれて形成されていることも考え合わせ、倭王の王統には倭讃・倭珍の系統と倭隋に連なる倭済・倭興・倭武の系統が存在したと考えている[68]森公章は、この時代の大王の和風諡号に注目し、応神はホンダワケ、履中はイザホワケ、反正はミヅハワケと、「ワケ」を共有するのに対し、允恭安康雄略にはそれが見られないこと、そしてこの時代に多く見られる記紀の王族争いの記事の中でも、允恭治世から大王家と葛城氏との関係に変化が生じていること[注釈 98]が窺えることに注目し、2つの王統の存在に関連して、この頃王権の在り方に大きな変化が生じたとする[62]
  100. ^ 3世紀奈良県箸墓古墳が定型化した最初の巨大前方後円墳として作られ、それを頂点として大小各種の墳丘墓が一定の秩序をもって列島の広域に築かれるという関係が成立した[66]
    朝鮮半島から伝わった墳丘墓は、まず九州よりも近畿や中部で積極的に受け入れられ、関東にも定着し、とくに墳丘墓の普遍化、単葬による中心埋葬の明確化、および葬送の場である頂上へ至る墓道の発生・発達・象徴化といった古墳の基本要素も、とくに東海と関東を主舞台として整った[66]。それら地域を起点として、これらの基本要素を有する前方後方形の墳丘墓(およびそれを核とする墳丘墓郡)が古墳の基層として、北は東北から、西は近畿にまで分布を拡大し、3世紀後半までには北部九州に至った[66]
    一方、前方後方形については、紀元後2世紀後葉になって現れ、瀬戸内東部から大阪平野北部に多く見られるようになり、奈良盆地にも現れるようになる。このように前方後円形の発生は、基層的でより広域に広がっていた前方後方形に比べて、二次的で極限的であり、両者は二項対立的な関係として出てきたわけではない[66]。その初期において前方後円形墳丘墓は前方後方形の一類型にすぎなかったわけであるが、2世紀末に纒向型前方後円墳を前段階として、3世紀に箸墓古墳とそれを基本形とする「定型化された前方後円墳」が出現し、その規模は最大墳丘長300メートル近くに達する巨大なものとなった[66]。質・量ともに大きく飛躍した箸墓古墳以後を「古墳」と考えるのが有力である[66]。その飛躍の内実となった竪穴式石室埴輪段築葺石などは吉備を含めた瀬戸内中~東部と近畿中央部など列島の西側地域に由来し、そこで発達した要素であることは注目されるべきである[66]
    巨大前方後円墳を頂点として各種の形と規模の古墳が築かれた背景を、「秩序」や「体制」として捉える考え方が1980年代から1990年代にかけて盛んであったが、2000年代以降は列島に古墳が広がった背景に地域多様性を認める考えが優勢となっており、まず習俗としての前方後方形の古墳が東海や関東など東の弥生社会で形成されたのち、それに上乗せして政治的表象として造営される同形の古墳が瀬戸内や近畿などで発達し、最終的にそこから前方後円墳が派生していったと考えられる[66]
    全体を俯瞰すると、倭の古墳文化の発達は東西の弥生社会の深い相互関係の中から時間をかけて形成されたと考えられ、北部九州や近畿などの「先進」地域を舞台としてのみ発達したのではなく、外面的な要素の集約プロセスに一元化したり、単葬になっていく過程のみに矮小化する論調に限定することなく、その成立過程はこの時期の列島内の社会変革との関連として長期的かつ多面的に捉える必要がある[66]
    また、東アジア墳墓文化の中で倭の古墳を位置づけて考える場合、松木武彦によれば、その特質を前方後円形に求めるのは適切ではなく、截頭型立面の整備こそ倭の古墳を東アジア他地域の古墳と分かつ最大の特質である[66]。それに加え、倭の古墳では段築・埴輪・葺石などによる見た目の入念化により「埋葬儀礼の場を支える舞台」の演出要素が取り入れられ、巨大化の傾向を示したが、これらは被葬者の死を契機として、被葬者を超自然的存在(神)として位置づける装置であったからと考えられる[66]。単なる墓を離れた儀礼的性質を強く帯びたことが区画墓から古墳へと飛躍したその本質をなしており、東アジア墳墓文化の中で倭の古墳を際立たせている性質である[66]。さらに、「前方後円」「前方後方」「円」「方」という4種類の基本形の墳丘が、さまざまな規模で長期間にわたって併存する古代日本の状況は東アジア墳墓文化の中では随一で、かつてはその背後に精妙な秩序体系を想定することが盛んであった[66]。しかし、これらは実際には弥生時代からの地域多様性や系統の多様性に発しており、秩序として創出されたものと考えるのは妥当ではない[66]。規模と形で相対的格差を示し合うことが倭の古墳の本質であるが、それが早くに明確化するのは東海や関東など列島の東に位置する弥生社会でのことであった[66]。こうした相互格差の表示を旨とする墓群が列島の広い範囲で並行して展開されたのは、地域間の交流によって同じ習俗が共有された結果であると考えられる[66]。人類学の知見に基づけば、その習俗とは、血縁関係による出自の共通性を謳って結びついた人間集団、つまりリネージクランが、墓地を集団的儀礼の場と定め、メンバーの葬送を機会に祖霊を天上の祖霊世界に位置づけて祀る行為であったと類推できる[66]。王権との関連性で考えれば、箸墓を含む奈良盆地の「オオヤマト古墳群」は、3世紀から4世紀前半にかけての列島における最大の古墳群であるが、詳しく見ると「萱生」「柳本」「箸中」の3つの古墳群に分かれており、それぞれが大型の前方後円墳を核として中小の前方後円墳・前方後方墳・方墳が階層的に群在している構造になっている[66]。その規模から、これら3つの古墳群はそれぞれが複数のリネージが集まったクランの墓域であると想定され、「オオヤマト古墳群」全体でこれら3つのクランが結合したトライブの墓域として理解できる[66]。こうしたリネージからクランを経て、トライブへという造営主体の統合を起因として古墳群が大規模化したり階層性を増していく動きは4世紀後半から5世紀前半になると、近畿の別の場所や近畿外の他地域へも拡大した[66]。こうして各地で進行したトライブへの統合の中心になったのは「百舌鳥」と「古市」の2大トライブであったと考えられる[66]。文献史学では、記紀や中国史書の記述などからこの時期の「大王」の地位は2系統の王統によって争奪されたことが想定されており(2つの王統説[注釈 99])、2大トライブの存在はそれを裏付けるとも言えるが、古墳の規模や形態は、一義的には出自集団(リネージ・クラン・トライブ)でのランクや出自の表示であると考えられるため、倭の「王権」という別次元の組織形態を古墳がじかに反映しているという保証はないということになる[66]
  101. ^ 「前方後円墳体制」とは、都出比呂志が1989年に「日本古代国家形成論序説―前方後円墳体制論の提唱」で提示した概念である[65]。都出は古墳の墳形と規模との二重規定によるランキングの差により、首長の系譜と実力の差を相互承認する政治秩序とし、前方後円墳を頂点とする政治体制の成立が、列島の国家形成において重要な役割を果たしたという視点を提示した[65][注釈 100]考古学的な事象でもって国家の形成を跡づける視点に立った研究である[65]
  102. ^ 水林彪によれば、狭矮な範囲を対象としてそれ自身で権威も十全に維持されうる家父長制的権力を除き、全ての権力ないし権力秩序は、他の何者かによって権威づけられることによって、正統な権力ないし権力秩序となりうるという[64]。このことはこの時期のヤマト政権の〈中央盟主―在地首長―村落首長―共同態成員〉という権力秩序構造にも当てはまると考えられるという[64]。そしてこの時代のヤマト政権にとってその権力秩序を正当化しうる権威とは、中国から学んだ「天」であった[64]。水林がそのように推測する理由は3つである。
    1. 前方後円墳体制[注釈 101]そのものが中国からの外圧をうけて早熟的に形成された政治秩序であると推測されることから、その政治体制を権威づける観念体系も中国の影響が認められるのではないかということ
    2. 当時の中国における権威・権力秩序は、〈天―天子・皇帝〉であったこと
    3. 前方後円墳体制は文字通り、「方」形と「円」形の盛土の結合であるが、その「方」と「円」とは、中国において、それぞれ「地」と「天」のシンボルであった。3世紀中葉に始まるヤマト政権の形成とともに出現する前方後円墳体制をその前代の前方後方墳との差異に注目してその新形式の意義を考えると、その基盤にヤマト政権体制を全体として正当化する新しい世界観の形成があったと推測することが合理的であり、それは中国から継受された「天地」の観念であったと考えられる
    つまり、ヤマト政権では中央盟主の上位に天を戴く〈天―盟主〉の権威・権力秩序が形成されていたと考えられるが、ここにおける〈天―盟主〉は『古事記』で体系的に叙述されている〈天神―天皇〉の関係とは似て非なるものであった[64]。『古事記』では天神と天皇の間に血統上の系譜関係が観念されることになるが、前方後円墳体制においては、歴代の盟主の間にさえ血統上の系譜関係は観念されていないのであるから、天(天上の超越者)と盟主の間に血統上の系譜関係が観念されたとは考えづらいからである[64]
  103. ^ 工藤雅樹によれば、「エミシ」の語の厳密な原義は詳細不明といわざるをえないが、『日本書紀』神武天皇紀に収められた歌謡に基づけば、「エミシ」の語には「強く、恐ろしく、かつ畏敬すべき人々」と考えられていたことが窺え、飛鳥時代や奈良時代の中央の有力者にも蘇我毛人小野毛人佐伯今毛人などが存在していることから、「エミシ」の語は中央貴族の名前にもふさわしい語義だったと推測され、元来「エミシ」は蔑称ではなかったと思われる[74]
  104. ^ 永田英明によれば、エミシについて歴史学・考古学・人類学など様々な視点の研究が提示されてきたが、それらを理解する前提として踏まえるべきは、そもそも「エミシ」という言葉はヤマト政権の側が列島北部の多様な集団・人々を一括して呼んだ政治的性格を持つ他者性の強い概念である[注釈 103]という認識で、文献史料に現れるエミシの姿は虚構であるとは言えないまでも、考古学調査から見られる、時代によっても地域によっても一様でない、古代東北人の多様な生活文化を十分に反映しているとは言えないという[75]
  105. ^ 5世紀後半から6世紀初頭にかけて、ヤマト政権は内政と外交両面に渡る政治的危機を克服しながら、部民制ミヤケ制国造制などの支配組織を整えていったが、このような動きと連動して東北地方の人々を「エミシ(毛人)」と呼び、大王への服属を強いるようになる[75]。『日本書紀』敏達天皇紀には毛人の族長綾糟が、大和政権の守護神である三輪山の神に向かって服属の誓約を行ったという、毛人の朝貢記事が見られるため、遅くとも6世紀後半頃には、毛人の族長と大王の間でこのような服属儀礼が始まっていたと考えられている[75]。ヤマト政権による「毛人」観の成立は国造制の施行と関連しており、各地の有力首長とその管轄領域がヤマト政権の支配に組み入れられる中、その支配地の北方にいる人々が「毛人」として一括りに認識されるようになったと考えられている[75]
  106. ^ こうした高句麗の動きは先行する五胡十六国胡族国家に触発されたものである[71]
  107. ^ 川本芳昭によれば、4世紀から5世紀には、中国王朝外の周辺領域にある国家が自国を「中華」と自称する動きが見られるようになるが、その嚆矢は高句麗である[71][注釈 106]。高句麗はその支配領域に元漢の楽浪郡の漢人を含み、君主は「太王」を名乗って、独自に年号を立てた[71]。高句麗は自らを「天帝の子」と称したが、それは完全に中国の受命思想と一致していたわけではなく、高句麗独自の神話的世界に基づいていた[71]。しかし一方で、高句麗独自の神話世界が、「天」や「天帝」といった中国の用語で表現されたことには注目が必要で、ここには高句麗自体が中国文化を受容し、中国思想のフィルターを通して自らの神話世界を語っているという屈折した側面が表れている[71]。また高句麗は好太王碑にあるように、百済や新羅を属国視し、自らに朝貢し、太王に跪く(「跪王」)する存在であると表明している[71]。当時の高句麗に対する朝貢が、中国王朝に対する朝貢と全く同じものであったとは考えられないが、高句麗王が百済や新羅の服属関係を「朝貢」関係と表現・認識していることには注意を向ける必要がある[71]。当時の高句麗は百済や新羅に「跪王」という独自の服属儀礼を課していたと思われるが、その関係全体は中国思想を用いて「朝貢」という用語によって表現されるものと同質であると認識したのである[71]。高句麗は新羅を「東夷」とも呼んでいる事実も考え合わせると、この時代の高句麗は年号の使用、「朝貢」の採用、「天下」の認識を備えていたと考えられ、高句麗は当時の倭国に先んじて「中華」意識を形成し始めていたと考えられる[71]。こうした「中華」意識の芽生えは高句麗だけでなく、百済や新羅にも見られる[71]
  108. ^ 鈴木靖民によれば、倭王武が中国とは別に独自の「天下」を構想したことや、宋に対し、高句麗に匹敵する「開府儀同三司」の地位を求めたことは、従来高句麗との対抗関係を主要因として考えられており、それ以前の倭王の外交との継続性の中で捉えられてきた[78]。しかし、当時倭はむしろ百済に対する国際的上位に立とうとしていたという熊谷公男の説を考慮すると、5世紀後半の北魏による宋への圧迫の強化、北魏と結ぶ百済への高句麗の攻勢といった、宋、百済の劣勢が477年の宋への入朝につながったと考えられ、倭国の「天下」構想にも影響しており、倭の外交は5世紀中葉に転機を見るべきで、5世紀後半の倭の外交はそれ以前とは区別されるべきではないかという見方を示している[78]
  109. ^ 水林彪によれば、倭王の王権はその盟主的地位を中国的「天」観念によって正当化していたが、その盟主は4・5世紀になると、自らを「王」に上昇・昇華させようとしたときに、新たに中国皇帝による権威づけを必要としたという[64]。しかし、倭王武は中国皇帝と外交交渉で決裂したために、大王は中国皇帝に依存しない権威・権力秩序を構築することを余儀なくされ、それが大王を「治天下大王」とする観念につながったという[64]
  110. ^ 河内春人は倭王武が朝貢をしなくなった5世紀末から6世紀前半の朝鮮半島の対立軸が、以前の高句麗・百済・倭国の鼎立から、高句麗対百済・新羅という形勢に変化したことに注目し、東アジアでの倭国のプレゼンスの低下を想定し、さらに『古事記』に雄略前後の天皇の没年が書かれていない事実も鑑み、中国外交の停滞は継体天皇即位前後の倭国内の政治混乱が反映されているとした[68]
  111. ^ 河上麻由子は倭国が武以降中国南朝に朝貢しなくなった理由を、河内春人にしたがって倭国内部の混乱に求めている[63][注釈 110]
  112. ^ 通説では5世紀以降、倭王権は自らの支配領域を「天下」と認識し、中国を中心とした国際秩序からの自立を進め、「東夷の小帝国」として朝鮮諸国や隋唐帝国との国際関係を維持したと考えられている[73]。通説的な理解は、倭王武の南朝宋への上表文中に現れる「天下」の語を、同一人物と比定されるワカタケル大王に言及する同時期の稲荷山古墳鉄剣銘などの金石文に見られる「治天下大王」の「天下」と関連づけ、「中国的天下」と区別された独自の「倭的天下」観念が倭王権周辺で形成・共有されていたとする西嶋定生・鈴木靖民らの説に基づく[73]。この説に基づけば、倭王武の上表文中に見られる「毛人」は東北地方の住民であった「蝦夷」と同一実体と見なされるが、これは当時の列島の歴史的実態にも即して構築されている[73]石母田正は律令法規定を基礎として「東夷の小帝国」論を展開したが、この説はその枠組みを5世紀にまで遡らせるものとして接続されて理解されてきた[73]。この説の難点としては、武の上表文に見られる毛人に関する記述と六国史など日本側史料に基づく蝦夷に関する記述の間に齟齬があり、両者を同一とするのが困難なところである[73][注釈 104]。また、田中聡によれば、こうした「小帝国」的な理解は、国家・王権を主語として文明的に均質な倭人社会が存在したかのような考え方を前提としがちで、倭人社会が周辺社会を一方的に包摂していくといった、静態的な古代文明史論に陥る可能性があるという[73]。近年は蝦夷や琉球人などの自立性や独自性に注目する研究も増えており、そこでは倭王権の一方的な対外膨張とは異なった、列島周辺の民族集団間の対立や国家間の戦争による大量移住などの大規模な地政学的変動によって引き起こされる支配領域の不安定化に対応するため、東アジア各王朝や主要な民族集団が一時的な介入行動をとり、その都度調整を行って安定を維持するという動態的な状況が把握されつつある[73]。田中によれば、自らが史料を遺すことのなかった「夷狄」とされた周辺民の視点に立って、「帝国」や「天下」を見直すとき、古代国家の形成や変遷のみでは把握しきれなかった個々の地域社会独自の展開や地域間の関わりに関する自他認識の変容が把握できる可能性があるという[73]
    網野善彦によれば、「日本国」は「蛮夷」を服属させる「中華」として自らを位置づけ、「文明的」と自任して国制を周囲の「夷狄」に押し広げようとした[76]。すなわち7世紀中葉、「日本国」を名乗る以前にすでに倭国は北陸や東北の「蝦夷」と呼んだ人々や列島北方にいる「粛慎」と呼んだ人々を征服し、彼らから一応「朝貢」を受ける立場となっていた[76][注釈 105]。8世紀初頭に「日本国」を名乗るようになると、東北地方から九州南部までを軍事力によって服属させ、国郡制をこれらの辺境地域にまで及ぼすことになった[76]。しかし、「隼人」と呼ばれた九州の人々や「蝦夷」といった人々はこうした日本国の支配に頑強に抵抗し、たやすく屈服しなかった[76]
    吉田孝によれば、ワカタケルは「倭王」として南朝宋に朝貢し、その上表文でも「宋の天下」への貢献を強調している一方で、国内的には「天下」を治める「大王」であることを強調した[77]。これはとくに当時朝鮮半島で倭と抗争していた高句麗の「大王」の天下に対抗するためであった可能性が高いという[77][注釈 107][注釈 108]
    檀上寛によれば、倭王武以降倭国が中国の南朝に朝貢しなかったのは中国中心の冊封体制からの離脱の動きであり、中国の権威を必要としなくなったからに他ならない[4][注釈 109][注釈 111]。それを象徴的に示すのが倭国独自の「天下」観の成立である[4]。埼玉県稲荷山古墳で発見された鉄剣と熊本県江田船山古墳で発見された鉄刀のいずれにも銘文に「天下」の語が刻まれており、ここに刻まれた天下は中国中心の天下とは異なる、治天下大王の統治する領域を指している[4]。倭王武の上表文に倭国が周辺諸国を平定したことが述べられているが、そこに海を渡った先の朝鮮半島の国々が含まれているのであるから、「治天下大王」にいう「天下」とは、ヤマト王権の実効的支配領域とその周辺地域・諸国を含んだ日本独自の天下観であったことが理解できるという[4]
  113. ^ 神野志隆光によれば、『日本書紀』には朝鮮に対する大国的関係を歴史的に確認するかたちで「日本」の価値を確立するという意図が見られ、「日本」の国号を中国が受け入れたことで、国際的に認知された大国「日本」を主張し、価値中立的な「倭」とは異なり、世界関係に基づく帝国像として「日本」の称を提示しているという[79]
  114. ^ 河上麻由子は従来、ワカタケル大王が中国とは異なる帝国的支配観を持っていたという通説的理解[注釈 112]に疑義を呈し、ここでいう「天下」とは大王の実効支配領域、すなわち具体的には後世「大八洲」とされた地域を指し、渤海や新羅までその天下に含めてはいなかったとする[63][注釈 113]
  115. ^ 当時、推古朝は朝鮮半島南部の任那再興を目指していた[80]。一方の朝鮮半島では高句麗百済だけでなく、594年には新羅も隋に朝貢して「上開府楽浪郡公」に封ぜられており、隋の冊封体制が朝鮮半島に及んでいる状況下にあった[80]598年隋の高句麗討伐が起こっているが、このころ高句麗は倭に僧侶を送っており、そのなかには聖徳太子の師となった慧慈も含まれる[80]。おそらく推古朝のこの時期の外交政策は高句麗と連携していた[80]
  116. ^ 古有天皇,有地皇,有泰皇,泰皇最貴。」(『史記』始皇本紀)[77]
  117. ^ 倭王の称号は「大王=オオキミ」号から直接「天皇=スメラミコト」号へと移行したというのが通説的理解であるが、「大王」号と「天皇」号の間に移行期の称号として「帝」号(渡辺茂説)や「天王」号(角林文雄説)が用いられたのではないかという見解が唱えられたこともある[81]。しかし、現在ではいずれもほぼ否定されている[81]
  118. ^ 吉田孝によれば、701年の大宝律令の規定(儀制令1条 (PDF) )では、「天皇」は「天子」「皇帝」と並立して記載されており、「王」号より上位とされている[77]。この「王」を超越し、「皇帝」「天子」と並ぶ点に「天皇」号の最大の意義があった[77]。律令の規定では「天皇」号は詔書に用いることになっているが、実際にははるかに広く使用された[77]。大宝律令の示す詔書の書式は「蕃国」宛の詔書のものであり、吉田孝によれば、「天皇」号の最大の目的は、唐から「王」に冊封されている渤海・新羅に対して「王」から超越した「天皇」号を称することにあった[77]。一方の隋唐帝国に対しては、「天皇」号は定着せず、「日本国王主明楽美御徳」号を用いるのを専らとした[77]。吉田孝によれば、平安中ごろになると、遣唐使を派遣しなくなったこともあり、日本の支配層の国際意識は大きく変容し、「天皇」号に対する関心も次第に希薄になり、「王」号との区別が曖昧になっていくという[77]。徐々に「天皇」号の使用頻度が下がり、「天子」号がこれに代わるようになるが、「天子」と「王」の区別も曖昧になっていった[77]。江戸時代の後期に「天皇」号の使用が復活してくるが、一般的でなく、明治憲法の成立過程においても「皇帝」号を用いる草案がたくさん作られている[77]。吉田孝によれば、日本の君主号が正式に「天皇」とされたのは、明治憲法が最初であり、それ以前は「天子」のほうが一般的であったという[77]
  119. ^ 「使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。」(『隋書』東夷伝)。
  120. ^ 大津透によれば、日本は隋に朝貢しているのであるから、日本側の「天子」呼称は対等関係を主張するものであったが、実情としては対等外交ではなかった[80]。大津透によれば、日本側はこの頃、朝鮮に影響力を及ぼす[注釈 115]ため、隋との国際関係を構築する必要があった[80]。そこで600年の遣隋使では「阿輩雞弥」(オホキミあるいはアメキミ)と和名を名乗ったが、このとき、倭王の政治が未開であると隋皇帝に見なされ、訓戒されることとなった[80]。そのため、二度目の遣隋使ではこれを「天子」と改めたが、皇帝と対等を主張したと見なされ、これも無礼とされたため、日本は対等外交方針を放棄し、「皇帝」号と競合せず、「大王」号に優越しうる「天皇」号を外交的に使用することになったと考えられる[80]。しかし、隋とそれを継承した唐は「倭王」あるいは「日本国王」を使用し、天皇号は対中外交においては定着しなかった[80]。奈良時代には日本は唐に対して「天皇」号を用いず、「主明楽美御徳(スメラミコト)」号を名乗り、ごまかしていたと考えられる[80]。大津透は「天皇」称号の由来は天津神の子孫として天から降ったものであるとする日本の古伝承に適合する漢語として借用されたものとする下出積与の説を紹介しつつ、吉田孝の『史記』始皇本紀から「天皇」号が選ばれたとする説を示す[80][注釈 116]。吉田によれば、倭国は「倭王」でない「天皇」という君主号を主張したことにより、隋から冊封を受けない独自の立場で東アジアの国際秩序に参加した[80]。このことが日本古代国家の歴史に大きな影響を与えることとなった[80][注釈 117][注釈 118]
    檀上寛によれば、600年遣隋使の際、倭は隋に宛てた最初の国書で自らが天を兄とし、日を弟とする存在と述べた[注釈 119]が、これは中国皇帝が「天子」だと自称しているのに対し、自らが天との尊属関係で上位だという自尊意識の表れだという[4]。隋はこれを全く無礼としたが、607年に再度隋に来朝した倭国の使者は今度は自らを「日出ずる処の天子」として隋との対等関係を主張する国書を提出した[4]。この国書を檀上寛は、おそらく倭国にとっては譲歩の表明だっただろうとしつつ、倭国が自らの天下観にこだわる姿勢を見出している[4]
    河上麻由子は607年遣隋使国書中の「日出処天子」の文言を『大智度論』を参照したものだとする東野治之の説を承けて、倭国の使者が隋皇帝を「菩薩天子」と呼んでいることに注目し、ここで述べられている「天子」は受命思想に基づく天子のことではなく、『金光明経』に現れるような、人王として天に守護され、三十三天から徳を分与された国王という仏教用語としての「天子」として捉えるべきであるとしている[63]。さらに「書を致す」という文面を考えると、607年のこの国書とされるものは、実際には公的な書簡ではなく、私信であった可能性があるという[63]
  121. ^ 長らく中国王朝との外交関係を途絶していた倭国がこの時期、中国と通交するに至った理由は、そもそも日本側にこの最初の朝貢に関する記事がないこともあり、当時の東アジア情勢が反映されたという大枠はあっても、詳細は必ずしも明瞭ではないが、600年の倭の遣使目的は直接的には、朝鮮南部地方を巡って対立していた新羅への対抗であると考える説がある[82][83]。倭は任那復興を掲げて、591年から595年602年から603年の、二度にわたって筑紫に兵を送り、新羅に対し示威行為を行っている[82][83]。新羅は唐の冊封を受けていたので、倭は対新羅関係を有利に進めるため、隋に朝貢したと考えられている[82][83][84]
    一方で、598年の隋の高句麗遠征を契機とするという見方も有力である[85][82]。607年遣隋使について平田陽一郎は、隋側の思惑として日隋外交で倭と高句麗を引き離そうとする意図があったとする[86]廣瀬憲雄はこれに対し、600年や607年の遣隋使の時点では、隋が高句麗へ対抗するために重視したのは東突厥との関係であり、それによって成立していた「隋―東突厥―高句麗」という外交世界は、朝鮮半島南部を舞台に展開された「倭―百済―新羅」の外交世界とは基本的に切り離されていたという[82]
  122. ^ 山尾幸久は、欽明天皇において初めて現れる「天(アメ)」を含む和風諡号(天国排開広庭天皇=あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)の存在、『隋書』に見える倭国独自の「天」観念、そして推古朝期の統治体制や政治思想に見られる濃厚な朝鮮三国の影響の痕跡、朝鮮三国がいずれも天孫降臨の始祖神話を持つことを根拠に、継体朝ごろから倭国独自の「天」観念を踏まえて大王家の始祖説話としての天孫降臨神話の原形が形成されていき、推古朝において、天孫降臨説話が伴造の奉仕由来譜として大王即位儀礼などで誦唱され、宮廷神話として体系化・固定化されていくなかで、「アメタリシヒコ」の語が現れ、それは降臨した天孫を意味する「あまくだられたおかた」というほどの意味をもつ語として成立したと考えた[81]
  123. ^ 上宮聖徳法王帝説』には「右五天皇、無雑他人治天下也」という文言があるが、文中の「五天皇」は欽明天皇敏達天皇用明天皇崇峻天皇推古天皇を指している。舟久保はこの文意を「欽明天皇の血統以外の天皇が混ざらずに」の意味だと解釈し、欽明朝に天皇家の血統主義が高まり、世襲王権が意識された証左としている[72]。また岡田精司による古代宮廷の祭儀の復元の検討によれば、倭王権の祭祀は5世紀までは水平的な世界観であるが、6世紀になると垂直的世界観に変化するという[72]
  124. ^ 舟久保大輔によれば、600年の隋書の遣隋使記事中に倭王の自称として登場する「阿毎多利思比弧(アメタリシヒコ)」は「あまくだられたおかた」の意と解釈するのが適当である[注釈 122]ため、遅くともこの時までに天孫降臨神話が成立していたと考えるべきだという[72]。一方で舟久保は、少なくとも倭の五王の時代には倭王権はまだ単一の王統として確立していなかった可能性はかなり高く、血統主義が確立されていなかった可能性が高いため、血統主義に基づく天孫降臨神話は未成立であったとする[72]。欽明朝以降は王統が一つに固定されるようになった[注釈 123]ため、舟久保によれば欽明朝に天孫降臨神話の成立を比定するのが自然だという[72]。舟久保によれば、天孫降臨神話とは、
    1. 世襲王権の成立に伴う王統の神聖化
    2. 直系継承の正統化
    3. 前大王の意志正統化
    のために、6世紀の欽明朝で形成された神話となる[72]
  125. ^ 従来7世紀から9世紀にいたる時代は「律令国家」の時代と把握されてきた[87]。しかし、日本の律令法受容は曖昧なままで、8世紀の法の実施状況を見ても律に反する裁定がなされており、令にも空文が多く、律令の理解は定着していない[87]。こうした文脈で従来の法治国家的な律令国家像は反省され、律令はむしろ「文化」として輸入された側面が見られることが認識された[87]。一方、この時期の国家像に関して近年研究が進んだのが「天皇」という君主号および「日本」という国号に関する分野である[87]。「天皇」号については唐の高宗の「天皇」号を借用した可能性が示唆され、「日本」号も時期をほぼ同じくして導入されたと考えられているが、これらの号が他称ではなく自称であることに注意が向けられた[87]吉田一彦によれば、これを単なる名称変更とするか、政治制度そのものが変容した「天皇制度」という国家体制の成立として見るかという論点が学界で浮上しており、「天皇制度」の成立として理解するならば、従来の法制度の変化に偏った古代国家理解とは異なる、中国の皇帝制度を改変・導入したものと見ることができ、皇帝による空間・時間支配という中華的統治観念の影響、法・経済制度における統治の変化など、政治制度全体の変化として捉えられる可能性があるという[87]
  126. ^ 律令国家の画期となる藤原京造営を経た8世紀になると、東国、とくに陸奥国で瓦葺された官衙・寺院群が他地域に比べて多く建造された[89]眞保昌弘によれば、これは西日本の隼人に比べ、東日本の蝦夷がより強固に朝廷支配に抵抗した史実を反映しており、朝廷が蝦夷を頻繁に討伐する一方、儒教的な王化思想と仏教の教化思想に基づいて、これら中国式の瓦葺を採用した建造物による文化的威光を示すことで異民族を徳化しようとしたことを示しているという[89]。すなわち律令の受容と前後して、朝廷が建造物においても中国様式を積極的に受容し、それを異民族教化に積極的に利用していることは、この時代王権が儒教的な礼秩序による徳治の完成を理想としていることを現しているものと考えられるという[89]
  127. ^ 熊田亮介によれば、天武朝は日本で本格的に律令制が受容された時期であるが、隋・唐の律令とはいわば「帝国法」であった[88]。天命思想に基づき、有徳の天子が徳を以て天下を統治し、その徳治を世界に拡大するという帝国の論理がそこには存在していた[88]。この法体系の下では王化・教化の及ぶ範囲を「化内」、その外側を「化外」と分けるが、「化内」とはすなわち「華夏」「中国」のことである[88]。日本の律令制度は「化外」を「諸蕃」と「夷狄」に分類するが、このうち「諸蕃」とは日本と朝貢関係を持つ国、すなわち具体的には唐・新羅・渤海などを指すと考えられている[88]。「夷狄」には王化された外国人である「帰化人」も含まれるが、王化の及んでいない「夷狄」としては、「蝦夷」「隼人」「阿麻弥人」などがあった[88]。熊田亮介によれば、大宝律令は、これら中国(華夏)と諸蕃・夷狄の上に天皇が君臨するという、帝国型国家の構造を法制化したものだという[88]。しかし、この帝国型国家の構造には無理があった[88]。まず、諸蕃のうち唐は実際には日本が朝貢する宗主国であり、たとえば光仁天皇が来日した唐の使節に御座を降りて蕃国の礼をとったように、蕃国として扱うことはできず、朝廷は唐を日本と対等の国、隣国として実態を糊塗していた[88]。新羅は高句麗・百済が滅亡した情勢下、唐に対する危機意識があって、668年以降連年のように朝貢していたが、唐と新羅の関係が修復されると、732年には朝貢の間隔を緩めたいと希望した[88]。これに対し、朝廷はすぐさま新羅征討の構えに入った[88]。これは帝国の秩序維持のために戦争を辞さないという国家意志の表れであるが、帝国の基盤自体が脆弱であったことも意味していた[88]674年には百済の王族善光が百済王とされ、703年には高麗若光に王姓を与えて高麗王若光と名乗らせ、百済・高句麗両国王権の継承集団が天皇の支配下にあることをアピールしたが、これらは傀儡政権であって対外的にも承認されなかった[88]。また、隼人と異なって蝦夷は帰化の対象とされなかった[88]。これは夷狄を教化の対象とする本来の王化思想に反するものであった[88][注釈 126]。古代日本が構想した帝国型国家は壮大な理念を掲げた一方で、内実は十分整っていなかった[88]
  128. ^ 659年の遣唐使では男女4人の蝦夷が使節に同行して高宗に謁見した[75]。倭国はこれによって自らが「蝦夷国」の朝貢を受けていることをアピールするとともに、「蝦夷国」の唐への入朝を仲介することで唐の歓心を買おうとした[75]。この時期、現実の蝦夷は「国」として政治的に統合されていたわけではなかったので、これは倭国が唐に対して自らの「小帝国」を演出した場面であった[75]。8世紀になると太平洋側と日本海側の東北地方でそれぞれ朝廷の支配領域の拡大が試みられ、とくに渤海との関係など外交的理由から日本海側は積極的な北進策がとられた[90]多賀城造営の頃から朝廷は自らに服属した蝦夷を「蝦夷」と「俘囚」とに区分するようになり、前者は元来の部族性・集団性を維持しながら国家に服属した集団であった[90]。一方の「俘囚」は部族性を喪失した個人や家族単位で服属した人々と考えられている[90]
  129. ^ 河上麻由子によれば、2019年現在、有力なのはこちらの説だという[63]
  130. ^ 「食国天下」は『古事記』と『続日本紀宣命記事に現れる語である[94]渡辺信一郎によれば、この語は鉄剣銘文に現れる「左治天下」「治天下」と同義ないし類義語と考えられる[91]岡田精司は「食国天下」の統治は大化前代以来の服属儀礼としての食物供献に由来し、「食国」の実態は服属する国々から供献された神聖な食事を高御座に坐した天皇が食べることにあるとした[91]。そして、稲を主体とする供献食物を食することによって生じる天皇の国土統治を「食国天下」と呼び、列島で自生的に展開してきた支配従属関係を中国由来の天下概念に接合して作り上げた日本独自の支配イデオロギーであると論じられた[91]。この考え方によれば「食国天下」は国郡制編戸制とを通じて実効的に百姓・公民を支配する限定された領域、「大八洲」で、夷狄の存在を不可欠とする中華的な「天下」概念とは異なると見なされた[91]。渡辺信一郎は岡田精司や鎌田元一の理解を承けて、古代日本を「天下型国家」と定義し、その天下が大八洲に限られている実態を鑑み、帝国型国家類型として見るのを拒否しつつ、日本がこの時代に自らの国土を「天下」と称した独自性に注目した[91]。律令国家は唐との対等性を意識しつつ、新羅・渤海を蕃国と位置づけてそれに対する優越的な権力行使を志向したとする[91]。すなわち、渡辺によれば古代日本の「天下」の語は、対外関係における自立性の主張に結びついていたという[91]
    しかし、たとえば村上麻佑子は「食国」とは本来漢語由来の言葉であり、その意味は君主によって委任された土地で臣下が統治を行うという内容であったとする[94]。それによれば、「食国天下」の「天下」とは天皇が部分統治する「世界」のことで、さらにその上位に「高天原」という全体的な世界が存在することを想起した用語であり、古代日本で使われる「食国」も、その本来の漢語表現の構造を外れるものではないという[94]。この文脈では「食国天下」とは、自らが天津神の御子であることを根拠に天皇が天津神から委任されて間接統治者として天下(高天原の下)を統治している在り方を意味しているということになる[94]
  131. ^ 森新之介によれば、「草創」には二つの意があり、「創始」の意味と「草率(乱雑、いい加減)」の意味がある[95]黒田俊雄丸山眞男は『玉葉』の「草創」を「創始」の意味に取り、そこに頼朝の気概や日本史上の画期を見出したが、それ以前の用法や『玉葉』の文脈を吟味すると、ここにおける「天下之草創」の語義は後者の「草率」の意味で用いられていると考えるのが妥当で、「天下草創」にこめた頼朝の意は当時の世の中が乱雑不整であった状況を指して言ったと考えられるという[95]。一方で『吾妻鏡』には、建仁元(1201)年に佐々木経高頼家宛款状で「関東草創最初」と述べ、北条政子承久三(1221)年の承久の乱時に頼朝が「関東を草創」したと述べるなど、当時の鎌倉に頼朝が東国政権を創始したという意識は明確に存在していたが、天下を創始したという意識とは隔絶があると見るべきという[95]
  132. ^ 小川剛生によれば、「武家昇晋年譜」においては、「室町殿」の権力の源泉となる官職としては「内大臣」と「右近衛大将」が重視されていたようであり、征夷大将軍が空席であっても室町殿が政務を行っている義持時代の事例がある[99]。したがって、中世の武家権力で最も重視された経歴は征夷大将軍ではなく、内大臣と右近衛大将であったと考えられる[99]
  133. ^ 川岡によれば、足利義教時代には天下成敗権の根拠を将軍宣下に求め、天下成敗の主体を宣下を受けた正式な将軍に限るという言説が登場するが、これは関東公方に天下成敗権を主張させないための建前論で、史実に基づけば天下成敗権を掌握したのは将軍だけではなく、実際には足利家の家長である室町殿が掌握していたとみるべきであるという[98][注釈 132]。また川岡によれば、足利義満の権力を天皇の王権を掌握したものとして「室町の王権」と表現するのは適切ではなく、実際には天皇家の家長である治天に成り代わって「天下成敗権」を掌握したとみるべきであるという[98]
  134. ^ 後三条天皇即位とともに貞仁親王(のちの白河天皇)が東宮にたてられたが、後三条は寵愛した源基子との間に儲けた第二皇子・実仁親王に皇位を継承することを望み、1072年に貞仁親王に譲位した際、実仁親王を東宮とした[102]。美川圭によると、後三条には白河天皇の子孫に皇位を継承するつもりはなかったと考えられるという[102]。後三条天皇は白河天皇の次に実仁親王を即位させ、その後は実仁の同母弟である輔仁親王への皇位継承を考えていたという[102]1085年に実仁親王が疱瘡で急死してのち、白河天皇は1086年に自らの実子である善仁親王(堀河天皇)に電撃的に譲位するが、その後も輔仁親王即位の可能性はいまだに残されていたため、自らの子孫に皇統を安定させるため、白河上皇は自ら政治力を発揮し続ける必要があった[103][102]
  135. ^ 黒羽亮太によれば、四円寺は円融の皇統を継承するという一貫した意図が見られ、円宗寺に他の三円寺と異なる性格を想定するのは難しく、白河天皇が当初、円宗寺を廃れるに任せたのも、彼が中継ぎの立場で円融皇統の正統でなかったせいであると考えられるという[101][注釈 134]1107年になると、堀河天皇が若くして崩御する事態に、白河は後三条天皇の祟りを恐れ、円宗寺に改修を施した[101]。つまり、円宗寺についての考察においては、白河による改修によって、願主であった後三条天皇の本来の意図が改変されている可能性に注意する必要がある[101]。また、六勝寺の「国家的」性格についても、六勝寺に天皇との人格的結びつきを象徴する俗別当が置かれており、円融寺の案件も俗別当が処理した官符が存在する[101]。俗別当の性格は10世紀頃より変容し、多くは上卿―弁を基軸とする太政官の下に統括されるようになったと指摘する先行研究がある[101]。六勝寺の仏事が太政官の公役定により奉仕者決めが行われている点も注目されるが、当時の公役定はすでに形骸化していた可能性があるため、六勝寺の「国家的」な性格についても再検討の余地があるという[101]
  136. ^ 983年、洛西の花園に建立された円融天皇の御願寺、円融寺以降、円教一条の御願寺)・円乗後朱雀の御願寺)・円宗(後三条の御願寺)のいわゆる「四円寺」が相次いで建立された[101]。これに対し1077年白河天皇が藤原師実より献上された別業白河殿を改修して創建したのが法勝寺で、その八角九重の大塔は当時の京都で最も巨大な高層建築であった[101]。数多の荘園が施入され、法勝寺大乗会の舞台となったなど、その「国家的」性格が評価された[101]。以来、院政期を通じて「勝」を通字とする5つの寺院が建立され、法勝寺を含めて「六勝寺」と一括されている[101]
    摂関期に造営された四円寺と院政期に造営された六勝寺はまず立地が異なり、四円寺が仁和寺を中心とした地域に造営されたのに対し、六勝寺は白河地域を中心としていた[101]。また、規模の上でも六勝寺に比べて、四円寺は小さく、そこで実施されていた法会も願主の追善を主としており、造営自体も後院蔵人所が担っている(六勝寺は上卿が担った)など、私的である点が、「国家的」性格を持つとされた六勝寺と対照的と認識されてきた[101]
    四円寺と六勝寺の以上のような相違点は従来、摂関期と院政期の差異と捉えられてきたのであるが、上島享により、円宗寺には法勝寺につながる要素があり、さらに藤原道長造営の法成寺が、円宗寺と法勝寺に影響を与えたとする指摘がなされ、摂関期から院政期への政治過程と関連して論じられるようになった[101][注釈 135]
  137. ^ 上島享によれば、法勝寺は法成寺円宗寺の構想を受け継ぎ、願主が国王として鎮護国家・仏法興隆を担い、国王としての往生が祈念され、追善される場であった[100]。すなわち、円宗寺は後三条天皇が、法勝寺は白河上皇が、法成寺を建立した藤原道長の「王権」を継承・発展したという歴史的展開と軸を一にしたものと上島は考えている[100][注釈 136]
    上島によれば、晩年の道長は従来の摂関政治とは異なる権力体制を目指しており、それは1022年落慶した法成寺に明示される[104]。法成寺を造営するために、道長は自らの家司受領に加え、貴族各層にも広く役負担を命じ、自らの権力を目に見える形で示し、完成した法成寺には鎮護国家を祈る金堂・講堂を中心に阿弥陀堂や五大堂など道長の来世往生や摂関家の護持を祈る場を配置した[104]。公的な国家安泰や仏法興隆とともに私的な往生を祈る法成寺の構成に道長の「王」としての姿が象徴されていた[104]。道長は天皇とは異なる人的編成を行い、当時の天皇も造ることができなかった大伽藍を完成させ、新たな権力の形を世に示した[104]
    しかし道長が晩年に到達したこのような権力形態は、天皇を中心とした国政や国家財政の埒外にあったため、王権分裂の可能性が存在していた[104]。この道長の実現した権力形態を国制に位置づけたのが白河上皇で、院政は晩年の道長の政治の多くを継承しながら、天皇権威と接続されていた[104]。すなわち、
    1. 道長と家司受領との主従性的な関係を継承した院司
    2. 道長の段階では私的な奉仕であった家司受領の役務は受領成功という形で国家財政に組み込まれた
    3. 寺院造営をはじめとする宗教文化の覇権掌握を重視する政治
    といった道長政権からの連続性が認められるという[104]。こうして、王権が天皇・治天の君(院権力)・摂関家によって相互補完的に分掌され、権門の頂点に立って国政を主導するという国制の完成により、中世王権秩序と権門体制が確立し、中世的な政治秩序が形成されたと上島は考えている[104]
  138. ^ 周知のように白河院は「天下三不如意」の一つとして山法師、すなわち延暦寺を挙げていた[7]
  139. ^ 早島大祐は、戦国時代における天下観の変化の根源を文明史論的に論じることは難しいとしつつ、「下克上」という言葉に代表される戦国時代の在り方を想定し、従来の日本社会の主流であった天皇家や公家、僧侶、武家といった支配層とは異なる出自の人々が歴史の表舞台に上がったことで、政治の考え方やルールが現代社会と同質に近い形へと変容した可能性を示唆している[105]
  140. ^ 古代の律令国家形成や日本の近代化において、対外的なインパクトは非常に重要で決定的なファクターとなり、近世史においても幕藩体制における対外交流の国家的規制は幕藩体制と不可分として見られてきた一方、日本の中世史においては元寇などを例外として、対外関係史は重視されてこなかった[108]。これは中世において対外関係が希薄であったわけでも、その影響が小さかったわけでも決してないが、日本における対外関係史の研究が国家史と関連付けられて研究される傾向があったためである[108]。中世においてはそもそも対外関係における国家のプレゼンスが小さく、商人・僧侶・海賊・地域権力などが重要な役割を担っており、国家史に収斂されない広がりのある交流が行われていた[108]
    榎本渉によれば、明が日本との自由な往来を禁じ、一貫して日本人の長期留学を認めず、明の僧侶が幕府の招きに応じて渡来することもなかったため、この時代に、日本では徐々に中国大陸と同質の空間を意識する志向が後退し、文化の受容にあたっては、受容者側の要請に応じて、選択・変更が加えられる傾向が強まった[108]。舶来品も御物・名物といった日本独自の価値観で分類され、中国大陸における価値判断から切り離されて受容されるようになった[108]
  141. ^ 北山殿で政務を取り仕切るようになった義満は、「治天の君」である後円融上皇を棚上げし、二条良基と協力して公家政治を主導し、上皇に代わり朝政を事実上決済する立場となり、さらにそれに公家社会が追従することで天皇・院と並ぶ格式を持つようになった[110]。正室の日野康子女院号が宣賜されたり、死後に「太上天皇」追号が朝廷で検討されるなど、出家後の義満の権力は上皇類似のものとなる[110]。こうした義満の絶大な影響力が、天皇家への圧迫と捉えられ、いわゆる「皇位簒奪論」を発想させてきた[110]。だが、家永遵嗣は後円融上皇死後に崇光上皇による院政が行われないよう、義満が上皇権力を代行していたとする見解を示している[110]
  142. ^ 桃崎有一郎によれば、日明外交は朝廷・幕府の体制によって運営されていた日本国内の政治とは自覚的に切断され、両者が連動せずに、同時並行で進行する二重構造をなしており、「日本国王」と将軍の地位は「本質的に次元の異なる問題」だったとする[112]。義満は日明外交を個人的に勝手に行っており、「日本国王」とは日本国内の現実政治とは切り離された、意図して虚構的に創出されたペルソナ(たとえばハンドルネームのようなもの)であり、虚構的に「日本国王」のふりをすることで、本来整合しない明の冊封論理と国内の政治秩序を両立させ、外交のためだけに現実の国内政府とは異なった国家の姿を対外的に演出していたという見方を提示している[112]
  143. ^ 室町幕府が直接支配・管轄していた「室町殿御分国=近国」と呼ばれる近畿・中部・中国・四国地方とは異なり、九州は九州探題を通じた間接支配にとどまっていた[113]。室町幕府は全国一律に支配権を及ぼしていたのではなく、「室町幕府―守護体制」が通用しえた「近国」とその外部に存在した関東・奥羽・九州などの「遠国」という2つの異なる領域からなる統治体制で成り立っていた[113]
  144. ^ 新田一郎によれば、東アジアの伝統的な「国家」に包摂されない、民間レベルでの交流の活発化は、これら従来の「国家」が捕捉対象としていなかった存在に明の注意を向けさせ、秩序の空隙を意識させた[111]。明はそのため、冊封の機能を拡張し、周辺諸国の「王」たちに秩序の空隙を埋める役割を割り振ることで、東アジアの国際秩序を再構築した[111]。この新しい秩序体制の中では、冊封された東アジアの諸「王」はそれぞれの構造を領域的に切り分けることとなり、明確に分節されない世界であった東アジアの国際社会に、「日本」や「朝鮮」といった各権力体の輪郭が描き出されることとなる[111]。一方で明との関係で与えられる対外的な輪郭は、京都を中心とする当時の日本国内の内的な政治構造とは同一ではなかった[111]。とくに京都から遠隔で、島津氏大内氏など朝鮮や明国と独自の外交を試みた大名の多かった九州では国際関係の作用が大きく、「日本国王」号に象徴される対明関係が大きな効用を及ぼした可能性を新田は指摘している[111]。新田一郎によれば、室町時代の日本の政治世界では、明との通交で用いられるべき政治言語と日本内部で用いられるべき政治言語が意図的に切断されており、内部において用いるべき「天皇」の記号と、外部において用いられるべき「日本国王」の記号が作動する別々の政治領域が分節化されて機能していた[111][注釈 142]守護在京原則が適用されず、京都を中心とする求心構造に完全に包摂されていなかった九州[注釈 143]に対しては京都を中心とする日本の国内秩序から離脱してしまうのではないかという懸念が存在し、「日本国王」号が外部からのこの地域への影響を遮断し、この地域の勢力に京都との政治的関係に対する需要を惹起する効果を及ぼしたと考えられる[111]。ここで生み出される国境の内と外との差異を意識させる政治力学は、長期的なスパンで考えると、従来とは質的に異なる国境を備えた近代的「国家」形成への萌芽と見なすこともできる[111]。一方で、こうした状況は周辺諸国の側でも同様であり、また「日本国王」の統制が額面通りにこの地域に及んだというわけでもない[111]。たとえば朝鮮が対馬を根拠とする倭寇の取り締まりを求めても室町幕府は実効性のある統制を対馬に容易に及ぼすことができず、朝鮮が対馬に対して直接武力侵攻する事件が生じ、対馬が朝鮮の版図に組み入れられる可能性を生じたりもした(応永の外寇[111]。この時代の国際関係の力学が「国境」を次第に明らかにし、境界領域で活動する人々の在り方の条件付けを変え、「国家」と関係づける方向に向かわせていたとしても、境界領域の事情を室町幕府が把握する仕組みは整えられていなかった[111]。新田一郎によれば、織豊政権を経て徳川政権期に至ると、「鎖国」と俗称される内外通交管理体制によって、特定の開口部のみを通すことで交流が制御され、内と外を分け、内部の同一性を維持するメカニズムが働くようになるが、それでもなお近世の「日本」の内部には内か外かを明確にしがたい領域が依然として残存しており、近代にいたってそれらが近代的「国家」として完成されるまで長い道程を歩むことになる[111]
  145. ^ 三谷博によれば、この時期「日本」の国家アイデンティティは、史上最も弛緩した時期にあった[114]。九州を拠点とする勢力がシナ海を舞台に多重エスニック海賊集団である「倭寇」をなして跳梁した[114]。建国直後の明は日本にその禁圧を求めたが、京都の公武二重政権には地方勢力を制御する能力はなくなっていた[114]。義満の「日本国王」冊封は後継者に継承されなかったので、「天皇」と「日本」の在り方自体が挑戦を受けることはなかったが、「日本」の国家的枠組みは弛緩し、日本国内に地方軍事政権が割拠する状態となった[114]。16世紀の末期に「日本」は織豊政権によって再度政治統合体として復活したが、その国家は中央が地方を直接統治する形をとらず、中央の権力が盟主となって地方軍事政権の連邦を作る形で成立した[114]。徳川期日本は単一に集権化されていたわけではなく、2つの中心と200以上の地方軍事政権から成る「双頭・連邦国家」であり、大名の家来にとって第一義的な「国家」はその仕える大名の統治組織であり、日本はその上位で列島を覆う傘のような概念であった[114]。一方で、徳川「公儀」の役人にとっては「国家」は日本以外になく、京都の公家も同様であった[114]。徳川期を通じて国家が多義的であったにも関わらず、これが維持されたのは国際関係が希薄だったからである[114]。この時代の対外関係もまた国内体制と同じく複合的であったが、江戸の公儀と「四つの口」の担い手との交渉によって対外関係は管理された[114]。キリシタンの禁制は結果として日本の神仏融合の秩序になじまない異物の排除と「日本人」の「日本」内部への閉じ込めとして機能した[114]。18世紀末に西欧の勢力が日本近海で再度盛んに活動するようになると、公儀は一段と閉鎖的な政策を追求し、「近代」直前の日本は政策と心性の両面で、最も閉鎖的となっていた[114]
  146. ^ 村井章介によれば、懐良親王が明の冊封体制に組み込まれた結果、その勢力が南朝からも自立して独立国家の様相を呈し始め、義満はそのために明との関係に注意を向けざるを得なかった[115]
  147. ^ 明側は義満が「持明」(持明院統天皇)の臣に過ぎないことも冊封しない理由に挙げていた[111]
  148. ^ この使節は冊封の謝恩使として明使の帰国に随行したものだが、義満は永楽帝即位の可能性も考えて建文帝宛てと永楽帝宛ての二通の表文を使者に持たせ、使者は永楽帝の即位を知ると慶賀使として謁見した[106][116]
  149. ^ 近年では室町殿の武家外交権を通商権と定義し、日明貿易における勘合、日朝貿易における牙符といった「符験」を通商権の具体的中身とし、この符験の集中と管理を室町殿の外交管理として把握する「符験外交体制」という形で理解する論が橋本雄から提起されている[117]。符験体制論では通商権を符験を通じて賦与し、それによって諸勢力を惹きつけようとする将軍権力と、おのおのの思惑から符験を求めて将軍権力に接近する諸勢力の間に生じる力学とそれらの動向という形でこの時代の政治情勢が描かれる[117]
  150. ^ 従来「室町殿=覇王・国王」説の根拠として大きく注目されてきた『満済准后日記永享6年6月15日記事であるが、橋本雄によれば、覇王の話題が出てくる直前の「只今被改鹿苑院殿(足利義満)御沙汰之条、一向彼御非虚ヲ可相当被仰顕異朝歟、旁如本日本国王ト可被遊遣云々」の文意をよく汲むと、「義満が『日本国王』と名乗っていたのを今改めると、明に義満の『御非虚(虚偽、事実無根)』が露呈し、問題になるのではないか」という懸念の表明であり、そういう事態になるよりは「日本国王」を採用すべきだという後ろ向きのレトリックであったと考えられるという[118]満済自身、たとえば直前に当たる同日記永享6年6月3日記事では、将軍を「日本大臣」として明使接見の儀式における拝礼回数を決定していた[118]。つまり、満済自身は「室町殿」を「日本国王」と考えていたわけではないようで、満済の言い分は明皇帝が歴代の室町殿を「日本国王」として考えているだけなのでそれに応じるというものであり、満済の本音は「日本国王=天皇」であったという[118]
  151. ^ ほかには「日本国王」冊封によって明皇帝の権威を利用するだけでなく、明銭輸入管理によって日本国内の事実上の貨幣発行権を握ることも目論んだという佐藤進一の論がある[117]。また小島毅は同時期の「朝鮮国王」冊封によって高麗の王権を朝鮮が簒奪した史実との関連を説いている[116]
  152. ^ 今谷明『室町の王権』で展開されたものがとくに有名であるが、義満のいわゆる「皇位簒奪計画」のために明国の権威を頼ったとする考え[注釈 151]は最近の研究では基本的に支持されていない[117][115]。その根拠は、後述するように、「日本国王」冊封には幕府内や貴族層からの反発が強かったため、むしろ権威の低下として見られ、政権の不安定要因となったことである[106][115]
  153. ^ 「日本国王」号が国内政治に直接影響を与えることはなかったというのが学界の共通理解である[115]
  154. ^ 9世紀末頃から宇多天皇の遺戒に基づき、朝廷では天皇と外国人の直接的な対面がタブー視されていた[120]1170年、後白河法皇が平清盛の仲介で宋人と接見したが、それに対し九条兼実は自らの日記『玉葉』に「天魔の所為」と憤嘆の言葉を書き入れた[120]。後白河は出家した身であり、天皇という立場から自由になっていたが、一方で「治天の君」として天皇家の家長の立場にあったため、王権を担う者と意識されたと思われる[120]。九条兼実の憤りには武家の身でありながら国政の中枢に深く関与する平清盛に対する不満や嫉妬もあったと考えられる[120]
  155. ^ この史料によって明らかにされた参列者に見当たらない人物の中で、動向が注目されている一人が尊道法親王である[99]。天皇の護持僧であり、義満と個人的に親しかった親王はこの明使接見には参加していない[99][119]。橋本雄は、義満の冊封儀礼がごく内輪での儀礼であったこともあり、天皇家の護持僧であった尊道を招くことによって生じかねない天皇家との摩擦を避けたとする[119]。小川剛生は皇族は蕃夷の客には直接会わないという伝統を重視して、尊道の参加を遠慮し、義満が天皇家の禁忌に配慮していた可能性を指摘する[99][注釈 154]
  156. ^ 善法律寺公式ホームページ
  157. ^ 橋本雄によれば、『宋朝僧捧返牒記』などから明らかになる義満の明使接見での外交儀礼の要点は以下のようになる[118]
    1. 義満が寝殿中央の曲彔に着して南面し、そこで明使から国書や「進物」(実際は下賜品)を受け取った。これは明使や国書よりも義満が北側に位置していたことを意味し、義満をこれらより高位に位置づけるものであった。明使や国書が蕃王より北側に位置するという明側の規定から大きく逸脱し、尊大なものと考えられる
    2. 明の国書に対する義満の拝礼はおそらく3回のみである。明の規定によれば、鞠躬した上で四拝することとなっており、合計5回の拝礼が要求されていた。ただし、義満がおこなった焼香・三拝という所作は、仏教的には菩薩や法皇への敬礼に相当する
    3. 明の規定では国書は明使が開封し、読み上げることとされていたが、義満はおそらく直に国書に手を触れ、覗き見た
    4. 1407年に下賜品として「唐輿」を受け取った義満は、その秋、輿に乗って紅葉狩りに出かけたが、その際輿を担いでいたのは「宋人」であり、おそらく明使の従者であった
    義満は明に対し、上記に見られる尊大な態度を示す一方で、以下のような丁重な姿勢もとっている[118]
    1. 1402年の最初の明使接見の際、義満は当時の僧侶としては最上級の正装と考えられていた法服・平袈裟を纏って儀式に臨んだ
    2. 義満は仁和寺の隣接地域にある北山法住寺に明使を逗留させた。仁和寺は天皇家とゆかりの深い門跡寺院であり、北山の一帯は義満にとって重要な空間であった
    3. 1402年の明使一行は法住寺に入る前に、将軍家の氏神である石清水八幡宮にあり、義満自身縁の深い善法寺[注釈 156]にて「点心」の接待にあずかっている
    4. 1402年の明使一行を北山殿主人である義満自身が四脚門まで出向いて出迎えており、これは当時の貴族社会では最敬礼に当たる。同様に明使に対する送礼も庭まで降りて行う極めて礼の厚いものであった
    橋本雄によれば、こうした義満の尊大さと丁寧さを兼ね備えた外交儀礼の展開は、当時の日本の国内世論にあった冊封という臣従礼への否定的雰囲気に基づく批判をかわしつつ、明使に対しては大国明の体面を汚すことのない、義満の絶妙の配慮によって成り立っていた[118]
  158. ^ 畑靖紀によって唐物コレクションが室町殿と明皇帝との関係を明示する装置として日本国王の地位を強調し、権威付けとなったとする「皇帝の絵画」論が提起され、橋本雄はそれを室町殿自身を皇帝に見立て、権威付けとするものと修正した見方を提示している[117]
  159. ^ 谷口雄太によれば、戦国大名に対して権力の上で有力とはいえなかった足利氏が戦国時代に存続した理由は、その存在が戦国社会に求められたからである[122]。従来戦国期における足利氏の存続理由は「権威」という言葉で片付けられがちであるが、その内実を検討すると、具体的には足利将軍家の存在に当時の戦国大名たちは「共通利益」と「共通価値」を見いだしていたと考えられる[122]。戦国大名が足利将軍家から享受した「共通利益」は「対内」的利益と「対外」的利益に分けられる[122]
    このうち「対内」的利益とは、
    1. 権力の二分化を防ぐ
    2. 家中内対立を処理する
    3. 幕府法の助言を得る
    であり、
    「対外」的利益とは、
    1. 栄典獲得競争の有利な展開
    2. 情報を得る
    3. 敵の策謀を封じ込める
    4. 交渉の契機を得る
    5. 他大名と連携する契機を得る
    6. 内外から合力を得る
    7. 敵対大名を牽制する
    8. 正統化(正当化)根拠の調達
    9. 敵対勢力を「御敵」にする
    10. 面子を保つ
    11. 周囲からの非難を回避する
    12. 日明貿易の独占
    が挙げられる[122]
    一方で、足利将軍家の担っていた「共通価値」とはその血統と貴種性に由来するもので、足利家が当時の武家における最高の貴種であり、その存在が大名たちにとって唯一無二で代替不可能だとする価値観で、足利氏の血統者が武家の序列意識の頂点に立ち、武家秩序そのものを象徴していたものである[122]。谷口はこれを「足利的秩序」と呼称する[122]。この「足利的秩序」は京都の足利将軍家を中心とする「西国」と関東の足利公方家を中心とする「東国」という二つの領域を形成しつつ、日本列島全体を覆い、「足利氏の天下」を形成していた[122]。こうした「足利的秩序」の背景の一つには、鎌倉時代の実際の家格を歪め、足利氏と新田氏を同格に「武家の棟梁」の家格とする『太平記』の歴史像が指摘されている[123][124]。田中大喜によれば、「足利的秩序」は徳川氏による新田氏の名跡継承により、近世社会の政治秩序に接続している[123][124]。なお、谷口自身は少なくとも2021年に出された『〈武家の王〉足利氏』には田中大喜の著作が巻末参考文献になく、本文中でも徳川氏の貴種性の由緒を義重流新田氏の継承にではなく、為義吉見氏の継承に見ているため、2021年時点ではおそらく田中の所見を知らないか、無視している[122]
  160. ^ 信長の用いる「天下」については2000年代以前の研究では、新たな支配・統合論理としての革新性や、「天道」思想によって将軍や朝廷を相対化しようとしたというもの、中世的「公儀」の否定としての「天下」など、さまざまな見方が提唱されてきた[125]。しかし、近年の研究では少なくとも信長上洛期までは「天下」は将軍によって秩序維持が図られている領域を指すとか、当初は五畿内の意味で使われており、本願寺降伏の頃から全国を指して使うようになったなどと言われている[125]
  161. ^ 相伴衆足利義教時代に成立した家柄・身分で、幕府内では基本的に最高位と考えられた格であり、その地位は吉良石橋渋川といった足利御一家に次ぐものであった[129]。本来の職務は将軍外出時に随行し、食事・宴会の場で相伴することにあったが、応仁の乱以後は形骸化して名誉的称号として機能するようになった[129]
  162. ^ 室町期の足利将軍家は初代尊氏が朝廷から下賜された桐紋を二引両紋より好んで使った[129]。将軍から桐紋を賜ることは足利一門に列することを意味するだけでなく、その中でもとくに特別扱いされた「御紋の衆」となることを意味した[129]
  163. ^ 一般に戦国期の室町将軍が補任に関与していると認められる「禁裏大工職」について、足利義輝が三好氏に京を追われ、朽木に退去していた天文20(1551)年時点でも、三好氏は関与しておらず、補任と勅許の裁決は義輝の下知によって行われており、三好氏が将軍権力のすべてを代替していたわけではないことがわかる[130]
  164. ^ 「五ヶ条の条書」には「天下の事」は信長に任されているということが主張されており、これによって信長が実権を握り、将軍を掣肘している印象を与えるが、これらはおそらく同日に出された上洛令(『二条宴乗日記』元亀元年二月一五日条)に関わる特定の問題についての具体的取り決めの可能性が高く、この段階の信長には義昭の将軍権威が必要であった[132]。実際、「五ヶ条の条書」後も義昭は将軍として諸大名に向けて御内書を出し、独自の政務を行っているため、これによって義昭が政務執行を妨げられた痕跡はない[121]。信長は「五ヶ条の条書」では表面上義昭を「天下」の主宰者として認めており、信長の側にはこれによって義昭の政治権力全般を奪う意図はおそらくなく、「五ヶ条の条書」時点では信長は将軍を支える一大名という戦国期室町幕府の政治的枠組みから逸脱しようとはしていなかった[133]。また、のちの「異見十七ヶ条」と異なり、「五ヶ条の条書」はおそらく公表されるような文書ではなく、義昭・信長の二者間における内密の取り決めであった可能性が高いという指摘がある[133]
  165. ^ 藤田達生は「異見十七ヶ条」において、信長は朝廷を中心とした「天下」を主張し、将軍権力を掣肘して天下の実権を狙う意向を示しているとする[121]
  166. ^ なお、天正元年室町幕府滅亡説の嚆矢は藤田達生によれば、田中義成である[121]。田中義成は天正改元に信長が足利氏に取って代わった革命的意義を込めたと考えていた[121]
  167. ^ なお、類似の用語として朝尾直弘の用いる「日本型華夷意識」という用語もあるが、朝尾の用語は兵の農に対する支配を裏付ける「武威」に基づいた華夷意識のことであり、荒野の「日本型華夷秩序」とは別物である[139]
  168. ^ 木土博成によれば、2000年代以前、国を閉ざしていたかのような印象を与える「鎖国」という言葉で捉えられてきた江戸時代の対外関係は、1980年代以降批判検討され、主に荒野泰典によって「四つの口」を通じて周辺諸国に開かれていた点が見直された[139]。荒野は近世対外関係を国家が外交を独占し、人民の海外渡航や貿易を制限する海禁政策と、国家が自国を中心に諸外国との関係を制限する華夷秩序(「日本型華夷秩序」[注釈 167])の2つの次元で論じ、前者はこの時代東アジア諸国に共通して広く見られた事象であるとし、後者はとくに日本の場合、天皇を戴く武威の国としての自意識が顕著であった点を指摘した[139]。しかし、「鎖国」は本来完全に国を閉ざす意味ではなく、対外関係を限定する意味だとする山本博文らの反論もあり、「鎖国」の語の有効性は完全に失われているとはいえず、2022年現在においても「鎖国」と括弧付きで根強く使われ続けている[139]。木土によれば、荒野と山本の主張の差は、要するに、「四つの口」が開かれていた点を重視するか、「四つの口」しか開かれていなかった点を重視するかの違いである[139]。歴史的に見れば、1630年代から1640年代寛永期にキリシタン禁制が強化されるのと並行して、日本人の異国往来の禁止・貿易統制・武具の輸出禁止が強化され、ポルトガル勢力が追放されたのは事実であるが、2022年現在において、文書の様式・機能上の研究に基づけば、これらの政策を「鎖国令」として理解するのは不適切であるというのが通説である[139]。一方で、明清の対外政策を指す「海禁」という用語を日本史に援用することにも批判があり、徳川体制前期においてはキリシタン禁制に従属する形で往来や貿易が制限されていった点に注意を向ける必要がある[139]松方冬子は江戸前期のキリシタン禁制を主目的とする対外関係に対する制限を「寛永鎖国」という用語で呼び、一方で幕府が公式に対外関係を「四つの口」に制限することを明言したのは江戸後期で、それは外国船が頻繁に日本近海に現れ、とくにロシアの南下に対応する中で初めて幕初からの祖法として捉え返されたことが明らかにされ、藤田覚はこれを「鎖国祖法」観と名付け、松方は「寛永鎖国」と対比して「幕末鎖国」と呼んだ[139]。「寛永鎖国」と「幕末鎖国」は時期も政策目的も異なっている点には注意が必要である[139]
  169. ^ 日清両国はそれぞれ、鎖国体制、海禁体制と言われる、管理された海外貿易体制を取っていたが、実際には公的な外交関係がないにも拘わらず、長崎を窓口に、通訳および貿易管理を務めた唐通事らを媒介した日中貿易は円滑に進められていた[140]。また、付勇によれば、清朝は日本国漂流民を手厚く扱ったが、これは清朝が従来王朝以上に華夷秩序の理念を重視し、かつ華夷思想を柔軟に運用したからで、王化思想に基づく「懐柔遠人」の理想の下、徳川体制に対し朝貢を強要することもせず、朝貢国でない日本の漂流民にもその徳を施す態度を示した[140]
  170. ^ 三谷博によれば、朝鮮が清朝に朝貢しつつ、国内では清朝の正統性を必ずしも肯定せず、またベトナムが「南国」と称し、清朝を「北国」として対等性を誇示し、さらに日本の徳川幕府が世界の「中国」として他国に接しようとしたように、実際には各国は自らを「中国」と位置づけ、外交関係において双方が自国を世界の中心に置く世界観を共有しながら、相手国の解釈に無関心の態度に徹したことにより、安定的な関係が維持されていた[114]。三谷博によれば、この体制はペリー来航以前の19世紀初頭にはすでに変容を始めており、1811年の最後の朝鮮通信使において応接場所を江戸から対馬に改められたこと、そしてその後通信使が派遣されなかった事実によって、少なくとも日本人はこの時期には東アジアの伝統的な外交スタイルを放棄し始め、東アジアの国際秩序から離脱を始めていたという[114]。三谷博の観点では、お互いの相手国への無関心によって成り立つ、近代以前のこのような東アジアの国際秩序は、関係国が希薄で最小限の関係を持つときのみに維持されずに過ぎず、密接で永続的な国際関係に基づく近代的な国際社会が到来すると、変容を余儀なくされるものであった[114]
  171. ^ 1871年廃藩置県後も琉球王国の管理は鹿児島県に委ねられていた[143]
  172. ^ 1873年、外務省は琉球が幕末に諸外国と締結した条約の原本提出を命じ、琉球の外交権を接収した[143]。しかし、この時点での外交権接収は対欧米諸国関係にとどまり、清への朝貢は禁止されず、琉球には従来通りの対清関係が許されていた[143]。これは当時の副島種臣外務卿期の外務省が清との紛争を招くことを忌避していたためと考えられている[143]
    琉球国ノ両属セルヲ以テ名義不正トナシ今若シ之ヲ正シ我カ一方ニ属セントスレハ清ト争端ヲ闢クニ至ラン(中略)其ノ手数紛紜ニシテ無益ニ帰セン

    明治5年6月[143]
  173. ^ 琉球藩の所轄が外務省から内務省へ移されたのは、名目的には琉球藩が藩のままではあるものの、すでに他府県と同様になったにも関わらず、外務省管轄のままだと琉球が日本統治外にあるとの誤解を受け、統治上の不具合が生じる可能性があるという外務省の上申に基づいていた[143]
    琉球藩ノ儀先年内府ノ名義ヲ被正冊王賜封ノ折柄、一時当省管理被仰付当省ヨリ官吏派出即今ニ至ルマテ右事務取扱来居候へ共、一体其君主ハ華族ニ列シ其土地ハ府県ニ比シ何事モ御国内同様御坐候処、其事務ハ却ツテ外務省ノ管理ニ帰シ候事於条理不相立候ノミナラス自然外国ヲ以テ視候姿ニ相当リ、一体ノ御趣意ニヲイテモ不都合被存候ニ付、爾来同藩ノ儀ハ内務省ニテ管理イタシ相当可有之奉存候間、其段早々同省ヘ御達有之度此段上申候也[143]
  174. ^ 戸谷義治によれば、琉球処分の経過について通説的な理解は以下のようになる[142]
    1372年、琉球は明の洪武帝の要請に応じて入貢し、明の朝貢国となった[142]1404年には正式に冊封され、明の冊封体制下に組み込まれた[142]。1609年、島津氏の侵攻を受けて琉球は敗北し、奄美諸島を割譲した上で、島津氏の附庸国(属国)とされ、毎年砂糖などの貢納が義務づけられ、日本に対して島津氏を通じて従属する関係に入ったが、中国王朝への朝貢と中国王朝からの冊封も継続されていた[142]。このような日中への両属体制は江戸時代を通じて継続することとなった[142]1867年大政奉還がなされて1868年に明治新政府が発足すると、明治政府は琉球と直接関係を持つようになる[142][注釈 171]1872年に明治政府は琉球王国に対し、天長節に祝賀書翰と献上品の送付を要求し、琉球は慶賀使として伊江朝直らを派遣するが、このとき明治政府は琉球王国を廃し、琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に冊封し、日本の冊封国とした[142][注釈 172]1874年には清への朝貢を禁じ、琉球諸島における裁判権を内務省出張所に移管するよう命じて、琉球王国の外交権司法権警察権などを剥奪しようと試みた[142][注釈 173]
    琉球藩
    其藩の儀従来隔年朝貢と唱へ清国へ使節を派遣し或は清帝即位の節慶賀使差遣し候例規有之趣に候得共自今被差止候事
    藩王代替の節従前清国より冊封受け来り候趣に候得共自今被差止候事
    右の通可心得此旨相達候事

    明治8年5月29日 太政大臣三条実美[142]
    琉球藩
    其藩治の内裁判の儀自今其地に在る内務省出張所に被附右規則左の通被定候条此旨可心得事
    一 藩内人民相互の間に起る刑事は藩庁之を鞠訊し内務省出張所の裁判を求むべし
    一 藩内人民相互の間に起る民事及び藩内人民と他の府県人民(兵員と普通人民とを論ぜず)との間に相関する刑事民事は直ちに内務省出張所に訴へしむべし

    明治9年5月17日[142]
    しかし、琉球側はこれらの命令の多くを無視し、従来方針を維持しており、以後も清朝に隔年朝貢し、藩内での警察権や裁判権も行使し続けたため、明治政府は松田道之琉球処分官として派遣し、1879年に琉球処分を断行した[142]
    すなわち、琉球処分は
    1. 明治政府の琉球冊封による疑似君臣関係の構築
    2. 明治政府が琉球の外交権と裁判権の接収を命令
    3. 琉球による命令無視
    4. 懲罰的な命令としての琉球処分(国権剥奪)

    という流れで進められた[142]

  175. ^ 松永正義によれば、台湾出兵の目的は、
    1. 不平士族の不満を外征にそらすこと、特に薩摩士族をなだめ、西郷隆盛の中央への復帰の一助とすること
    2. 琉球処分との関係。出兵の直接の目的が琉球帰属問題の解決にあったとはいえないが、琉球の帰属問題が出兵と密接な関わりを持っていたため、出兵は琉球問題と大きく関わることになる
    3. 出兵の背景として台湾領有の企図
    が挙げられる[146]
  176. ^ なお、この公信中で柳原は台湾を「清国領地」と明記している[148]
  177. ^ この公信から琉球藩王冊封までの間にあたる7月5日には井上馨が「琉球国の版籍を収めしむる儀」(つまり、琉球に版籍奉還を実施する案)についての建議書を政府に提出しているが、そこでは台湾出兵計画には言及されていない[148]。そして、台湾出兵論には大蔵省は強硬に反対した[148]。したがって、波平恒男によれば、この段階で台湾出兵と琉球政策は関連していなかったと考えられる[148]。また、結局のところ琉球には最後まで版籍奉還が実施されていない[148]。波平恒男はこの段階の明治政府は琉球の内地化を将来の漸進的な目標としつつも、必ずしもそれを急速に進めようとはしておらず、従来の東アジア的華夷秩序に基づいて「冊封」体制の中で琉球を従属させようとしていたとする[148]
  178. ^ 清初、明の遺臣である鄭成功ゼーランディア城の守将に対し、「台湾者中国之土地也,久為貴国所踞,今余既来索,則地当帰我(台湾は中国の領土であるが、長い間貴国に占領されてきた。今、我々がそれを取り戻しに来たのだから、この土地は我々のもとに返されるべきである)」と述べている[36]。ここには中華思想において化外の地と扱われる土地であっても、それは中国王朝の領土の一部であるとする考え方が示されているとともに、少なくとも鄭成功にとっては、台湾が明確に明の領土として認識されていたことが看守される[36]
  179. ^ 台湾の先住民と見なされていたパイワン族(高山族・高砂族)は旧マレーインドネシア種に属し、元々は南方の島嶼を通じて個別に渡来したもので、原住民ではなかった[36]。パイワン族には当時統一的な政治権力は存在しておらず、村落共同体ごとに独立して台湾に居住しており、これら村落同士では言語も互いに通じないような状況であった[36]。西洋近代国際法の秩序原理ではこのような統一政治権力が不在の土地は、先住民の意志に関わらず、その土地を編入しうる「無主地」と考えられ、いずれの国家でもこれを先占して領有できる可能性があった[36]
    清朝はパイワン族について、文化も人種も漢族とは異なるため、清朝の天下に属し統治対象と見なしながらも、台湾東部を「生蕃」地域として台湾西部の漢人地域と区別しており、事実上「化外の土地」とし、「不治を以て治む」=「以不治治之論」に基づいて部族自治を認めており、台湾東部にパイワン族の事実上の「独立王国」が点在している状況にあった[36]。清朝は台湾の中央山脈を境界軸として、台湾西部は「華」の領域、すなわち清朝の直轄支配領域(「化内」)として扱い、台湾東部は「夷」の領域、すなわち「化外の地」として認識していた[36]
    清朝の視点から台湾全体を俯瞰すると、そこは漢族とパイワン族とが混住する「華夷雑居」の地であり、漢化(内地化)が進行しているフロンティアで、漢化が完全には行われていないため、表面的には依然として「化外の地」であったが、実際は中央政府の直轄統治地域の一部として扱っていた[36]。清朝の公式見解は台湾は「化外の地」ではあるが、「生蕃の土地は中国に隷属する」というものであった[36]。その意は、清朝は生蕃であるパイワン族に法律を施行したり、郡県を設けて直轄地化したりはしていないし、その風俗を漢化しようとはせずに自治に任せているが、その居住地域は確かに中国の土地であり、領土と見なされるべき地域であるというものである[36][注釈 178]
  180. ^ これまでの琉球処分についての研究は一貫して明治政府の琉球政策の進展に台湾出兵が大きな影響を及ぼしたとしている[151]
  181. ^ 1871年12月17日、琉球人(宮古島人)の船が漂流して台湾南端にたどり着いた[147]。台湾に上陸した66名のうち54名が、現地先住民パイワン族に殺害された[147]。難を逃れた12人は清国に保護され、翌72年7月に那覇に帰還した[147]。この事件はまず5月19日旧暦4月13日)付の公信で柳原前光から外務省に報告されていた[148][注釈 176][注釈 177]。さらに、当時那覇に滞在していた伊地知貞馨がこの事件を知り、事情調査を行い、鹿児島に帰還すると参事の大山綱良に顛末を報告した[147][148]。大山は8月31日、琉球人殺害の罪を問うため、鹿児島県が台湾へ派兵するので軍艦を借りたいという政府宛の建議書を作成し、伊地知に託して上京させた[147]。一方で、鎮西探題第二分営分営長であった樺山資紀も大山から事件を聞くと、陸軍省に報告するため、伊地知よりも一足早く上京していた[147]。これらを受けた外務省では外務卿副島種臣を中心として対策が練られた[147]。同年10月アメリカ公使デロングとアモイ駐在アメリカ領事リジェンドルと会談した副島は台湾を領有したい意向を示しつつ、台湾の事情について聞き出したが、それに対するデロングの返答は台湾は清国の「管轄」下にあるが、命令が行き届いていない「無主地」であるため、清国との交渉次第ではあるが、無主地先占を主張できる可能性があるという見解を示すものであった[147][149][150][注釈 179]。同席していたリジェンドルは1867年に米国人が台湾で殺害される事件が発生した際に、清国と交渉し、清国兵を参加させて台湾に派兵した実績があった[145]。席上リジェンドルは2000の兵がいれば容易に台湾を制圧できるという発言をし、副島は当時持ち上がっていた不平士族対策も念頭に入れながら、台湾出兵を検討することになる[147]。副島はリジェンドルを政府顧問として採用するよう太政大臣三条実美に要請し、リジェンドルは12月に外務省准二等官として雇用された[147]。11月には問罪と台湾南東部領有を目的とする征台(台湾出兵)が外務省から提案されたが、明治政府内の反対論が根強く、12月になって、露骨な領有方針を撤回し、琉球民を日本国民としたうえで清国に補償と再発防止を要求する平和交渉を第一とし、出兵は第二とする政府方針が決定された[147]。こうしてこの遭難事件は琉球に対する日本の主権問題と密接に結びつくこととなった[147][注釈 180]
  182. ^ これを「琉球藩設置」と見なすことが一般的であるが、波平恒男によると、「藩王」に「冊封」された事実を重視すべきで、「琉球藩を設置する」という法令は確認できず、明治政府も琉球を藩王に冊封したので、「琉球藩」と呼んでいるに過ぎず、正確には「藩王冊封」というべきだと主張している[148]。波平恒男は従来の「琉球藩設置」という用語の持つ問題として、
    1. 「冊封」の歴史的意義を見失わせること
    2. まるでこの時点で日本の国家主権が琉球に及んでいたかのような誤解を招くこと
    の2つを挙げている[148]
  183. ^ 日清修好条規の締結交渉は終始清側のペースで進行した[152][153]。日清修好条規の締結交渉そのものは日本側の強い意向によって始まった[152]。しかし清側にとってこの条約交渉は、江戸期以来の通商のみで政府間に恒常的な外交関係を構築しない関係を続けようとし、条約締結を不要としていた総理衙門が、日本側の柳原前光の積極的な外交姿勢への対応に窮し、押し切られる形で始まったというのが実情であった[152]。そして、実際の条約交渉が始まると清側の強硬な姿勢により、日本側は清朝の用意した草案をベースに交渉させられることを余儀なくされた[152]。清朝側はこの条約により日本による朝鮮侵攻を阻止しようし、同時に日本と連合して西洋諸国に対抗する意図を込めていた[152][153]。一方の日本側はこの頃から対英米協調を重視する姿勢に傾いていき、日清関係よりも対欧米関係を重視するようになっていた[152][153]。そのため、日清修好条規第2条を日清同盟の約定ではないかと警戒する英米の懸念が持ち上がると、第2条の削除を清に要請し、結果、削除は実現しなかったものの、清から第2条は軍事同盟ではないという補足説明を引き出し、英米の反発を終息させた[152][153]
    岡本隆司によれば、日清修好条規は成立からして、日清両国の間の矛盾を内包しており、締結後に日清の相互不信が増大し、対立が絶えなくなるのも必然的な帰結であったといえるという[153]
  184. ^ 川畑恵は、このときの副島渡清の目的を
    1. 日清修好条規の批准
    2. 台湾出兵に際して清国の不干渉の保証を取り付けること
    3. 各国公使に日本の報復出兵の立場を知らしめること
    にあったとする[149]。川畑によれば、日本は当事者である清国だけでなく欧米列強の動向も意識していた[149]
  185. ^ 漢民族と少数民族の住民が雑居している台湾では、少数民族のうち、漢化・文明化されている人々を「熟蕃(平埔族)」、未開で文明化されていない人々を「生蕃(高山族)」「土蕃」と清国は呼んでいた[145]
  186. ^ このときについての清国側の記録は1874年の総理衙門の上奏に見られるが、そこには具体的な発言内容は記されていない[144]
  187. ^ 一方で清国側は「化外」の生蕃には「政教」が及んでいないので清朝が責任を負うことはなく、琉球について、清国の朝貢国で「藩属」であるとする、従来の華夷秩序に基づく論理を展開し、台湾での琉球国民の遭難は日本国民とは関係がない事件だという見解を示した[147]
  188. ^ 台湾出兵には明治六年政変後も収まらない征韓論が求めていた軍事行動の機会を提供するという側面もあった[147][150]坂本純煕国分友諒ら征韓派士族は政変後も三条実美や岩倉具視西郷隆盛らの政権復帰と征韓の実行をしきりに求めており、三条はこれに対し、台湾出兵を約束していた[147]
  189. ^ 明治政府は1874年2月6日台湾蕃地処分要略」を閣議決定し、台湾出兵によって琉球人殺害の「報復」を実行するとともに、琉球の日本帰属の確定を企図とした[147]。外務省の原案には「台湾の植民地化」の方針も含まれていたが、大久保利通は台湾領有論は清国との武力衝突を招く可能性が高いと判断し、清国との衝突を最大限避ける事前工作を含めた慎重な方針に変更した[147]。しかし、大久保が佐賀の乱鎮圧のために東京を離れていた間に、大隈重信西郷従道によって出兵方針が転換され、領有論が復活した[147]。政府顧問リジェンドルは大隈に問罪を表面上の理由とし、日本による台湾領有を「眼目」とする出兵論を提出し、西郷にも出兵・占領計画を提出した[147]。一方、西郷のもとには坂本純煕が訪れて台湾出兵の強行を要請し、西郷は台湾蕃地事務都督に志願して、鹿児島県士族を中心とする動員計画を志向した[147]。これに対し、大久保利通は琉球両属問題の解決を出兵の主目的として示しつつ、台湾領有論を最後まで否定し続けた[147]
  190. ^ 「両国所属邦土、不可稍有侵越」(『日清修好条規 (PDF) 』)[144]
  191. ^ ここでは最新に近い小野聡子の記述に基づいたが、台湾出兵に対する列強の態度については研究途上にあり、従来研究の書き換えが進んでいる段階にある[145]。たとえば、洪偉翔によれば、イギリスは強硬に出兵に反対し、イタリア・ロシア・スペインは局外中立を取り、またイギリスは出兵を支持していたアメリカを非難する世論を形成し、アメリカ公使ビンガムの態度を出兵反対へと一変させた[150]
  192. ^ リジェンドルは明治政府にアメリカ海軍少佐カッセルと前アメリカ陸軍大尉ワッソンを紹介し、彼らは西郷従道の顧問として台湾出兵に従軍する予定であった[147]。しかし、デロングの後任のアメリカ公使ビンガムはアメリカは台湾全土を清国領土と認めているので、通告なしの出兵は清国に対する敵対行為と見なすとし、リジェンドルらを含むアメリカ人が台湾出兵に関与することを禁止した[147]。リジェンドルらは出兵強行をなおも主張し、ビンガムに翻意を促す書簡を送ったが、明治政府はアメリカの意向を受けてリジェンドルの出兵参加を見送って帰還させ、カッセルとワッソンを解雇した[147]
  193. ^ 列強は日本に対し、「台湾出兵を清国政府が承知しているかどうか」を問い合わせていた[145]。日本は清朝の「化外」認識を根拠に、清朝に連絡する必要はないと返答した[147]。出兵を容認するスペイン、イタリア、反対するロシア、慎重な態度をとったイギリスなど、列強の態度は分かれた[145][注釈 191]。台湾出兵にアメリカ軍人を参加させる計画があり[注釈 192]、日本政府はアメリカが出兵を支持していると考えていたが、最終的にはアメリカはイギリスと歩調を合わせて出兵へのアメリカ人の関与を禁止した[145]。とくに英国公使パークスは清にも問い合わせをし、清は「生蕃の住む地域も清国領であり、出兵について日本政府から事前通告を受けていない」と答えていた[144]。ただし清のパークスへの回答には、「清が日本の出兵を承認するのか、あるいは敵対行為と見なすのか」という点についての回答がなかった[145]。パークスは台湾出兵に関して日清両国で正当性の論理の食い違いがあることも理解していたが、清国の論理が生蕃の住地を自国の領土とする一方で、「化外」の生蕃の行為に対して清の責任は生じないという国際法的には矛盾を抱える論理であったのに対し、生蕃の地が無主地であるという日本の論理は国際法の論理に合致していたため、日本の主張に一定の理解を示した[145]
  194. ^ のちの琉球処分の際、清の李鴻章は清を訪問していたアメリカのグラント前大統領と会談し、「邦」は「属国」のことで、「土」は「内地」の意味だと伝え、日清修好条規の「邦」に朝鮮と琉球が含まれるという見解を示した上で、アメリカが琉球を独立国と認めているのだから、琉球処分に介入すべきだと促した[144]。これに対し、アメリカ側が「その意味は清朝は日本と交渉するときも、琉球を独立国として扱うことを認めても良いという意味なのか」と聞くと、李鴻章は「琉球は確かに独立国だ。だが、完全に正確に言えば、琉球は半独立国というべきである。清朝は琉球に主権を及ぼすことはなかったが、それは清朝がかねてから各省や属国に大きな権限を与えており、皇帝が琉球に主権の行使をしてこなかっただけで、法律・権利の上から言えば、その権限を譲り渡していたわけではない。だから、琉球国王はそれを尊重して朝貢を続けてきていたのである」と答えている[144]。岡本によれば、従来の華夷秩序に基づく李鴻章の論理はアメリカ側にほとんど理解されていなかった[144]
  195. ^ 日本は交渉の席上、琉球の帰属問題を表面に出すことを極力避けた[149]。そうすることで日本側は琉球帰属の問題は既決の事実だという自らの立場を守ろうとし、結果として守り切ることに成功した[149]
  196. ^ 清国は交渉の過程で国際法体系の論理を持ち出す日本側に対し、「万国公法ナル者ハ近来西洋各国ニ於テ編成セシモノニシテ、殊ニ我清国ノ事ハ載スルコト無シ。之ニ因リテ論スルヲ用ヒス」という見解を示している[149]。清国は西洋的な国際法の論理は日清間の交渉では通用しないものと考えていた[147]。清の論理は「蕃地」である台湾先住民の土地が日清修好条規に基づく清国の「邦土」に含まれる以上、日本の行動は内政干渉であるという考えであった[147][149]
  197. ^ 「查台灣一隅,僻處海島,其中生番人等向未繩以法律,故未設立郡縣;即禮記所云不易其俗、不易其宜之意,而地土實系中國所屬。中國邊界地方、似此生番種類者,他省亦有,均在版圖之內,中國亦聽其從俗、從宜而已。」(『同治甲戌日兵侵台始末』巻一)[150]
  198. ^ 台湾出兵は中国の「天下論」(中華秩序)と日本の「万国公法論」が戦われ、日本側が政治支配と文明化という国際法体系に基づいて、台湾が清国の領土でないことを立証した一方、清側は日本側のいう政治支配が台湾で行われていないことを認めたうえで、『礼記』を引用して中国歴代王朝の伝統統治における不干渉主義を論じた[150][注釈 197]
  199. ^ 台湾出兵の解決は駐清イギリス公使ウェードの仲介により「日清両国間互換条款」となって結実した[147]。交渉では、台湾の先住民の土地が清国の領土であるか無主地であるかという原則論は棚上げされ、日本は日本国民の「保護」のために出兵したが、清国が出兵費用を負担すれば撤兵するという申し入れをし、清国は台湾が清国の領土だということを日本側が知らなかったのだからこれを「不是」とはせず、賠償ではなく皇帝の「撫恤」という形であれば資金は提供できると応じた[147][151]。その額をめぐってなお揉めることになったが、最終的に清国は日本側の出兵を「義挙」として認め、「撫恤」金として50万両を支払うということとなった[147]。日本側は前文で被害者を「日本国属民等」と記載させることに成功し、これを根拠として清が琉球民を日本国民として認めたとしたが、清側の見解では、被害者に小田県の日本人が含まれていたので、「小田県民+琉球人=日本国属民等」と考えてこの表記を認めただけで、「琉球人=日本国属民」であるとは考えていなかった[147][注釈 195]。清国の論理ではここでいう「撫恤」とは、宗主国から属国への手当であった[151]。この時期、清朝はあくまで旧来の「互市」関係の一つとして日清修好条規を位置づけていた[注釈 196]のに対し、日本は国際法体系の中で日清修好条規を解釈しており、清朝は日清修好条規を用いることで日本との紛争を解決する主導権を握ろうと考えていたが、日本は西洋諸国に対する配慮の上で国際法を持ち出し、日清修好条規の有効性自体に超越する議論を展開した[144][150][注釈 198]
  200. ^ ヨーロッパで発展してきた近代国際法原理の見解からすれば、多民族国家である中国が台湾との間に中央と地方間の主属的な政治関係を結んでいたとしても、西欧的な近代国家(nation state 即ち民族国家)を創出する以前から、台湾は中国主権の及ばない領域であったため、たとえ漢族が台湾の主要民族であったとしても、いかなる近代国家も台湾を先占しうる可能性があった[36]。すなわち、漢蕃雑居の台湾は全く「無主の地」と見なされていた[36]。そのため、大航海時代以降、台湾は国際政治的に列強の争奪対象となる運命を辿ってきた[36]。このような政治衝突はもともと文化摩擦ではあったが、結局のところ政治紛争に発展し、最後には武力による解決が避けられないような状況に陥っていたのである[36]
  201. ^ 張啓雄によれば、当時の中国王朝は「以不治治之論」に基づいて統治しており、清朝は東洋国家は「東洋の正理」を基準とすべきと考えていた[36]。清朝はいまだに中華世界には中華世界独自の国際秩序原理により国際交渉が行われるべきで、あくまで対西洋国家に対しては国際法の適用もやむなしとするが、日中間のような東洋国家同士の交渉では東洋独自の思想と歴史文化価値に基づいた交渉が行われるべきであるという考えを持っており、それはすなわち、中華世界秩序を「体(原則)」とし、西洋思想と西洋の近代国際法を「用(便宜)」とする「中体西用」的な世界秩序観であった[36]。対して、日本側は中華世界秩序と西洋近代国際法の原理の両方を都合により適用する態度を示した[36]
    張啓雄によれば、このような国際秩序理解における態度の違いは、多民族国家としての清朝にとって中華世界秩序に基づく統治方式が適合的であったからで、一方の日本やヨーロッパのような、単一民族的、国民国家的な国家にとっては近代国際法の民族自決と国境内を一律に直轄支配する実効管轄領有に基づく論理が整合的であったというそれぞれの国情が反映されたものであった[36]。すなわち台湾出兵における日中の対立は一種の文化摩擦であった[36]
  202. ^ 「台湾蕃地処分要略」の翌月、すなわち台湾出兵前の段階で、外務少丞森山茂は「琉球藩改革之議」を上申し、そこでは台湾出兵という明治政府初の海外派兵を通じて、琉球に対する「主国の義務」を果たすことで、明治政府自身の琉球支配の実績を示し、それによって明治政府の琉球支配を担保し、琉球の承認に拠らずとも、琉球の改革が可能になるという論理が展開されていた[151]
  203. ^ 西敦子によれば、台湾出兵を契機として、従来琉球藩からの承認によって支えられていた明治政府の琉球支配の正当性は、日本の「藩属」である琉球人に対する「義務」として実施された出兵によって琉球支配の実権が示されたことで、琉球藩の承認抜きに確立されたと明治政府内で考えられるようになった[151]
  204. ^ 清国は琉球の朝貢停止について当初はほとんど反応しなかった[158][159]。李鴻章は1876年1月25日に駐清公使森有礼に対し、日清修好条規の「所属邦土」という語に「十八省および朝鮮・琉球」と書き込む必要を説明したと記録しているが、森側の記録は異なっている[160]。また、同年11月8日に李鴻章と森は対露関係における日清の提携を論じており、さらに李鴻章自身は琉球の経済的・戦略的価値が高くないと考えていたようであって、この時期日清提携を重視して、その枠内でこの問題を決着させようとしていた[161]。李鴻章は琉球の滅亡を望んでいなかったが、日本との間で事を荒立てることには慎重であった[162]
  205. ^ 何如璋は琉球処分において対日強硬論を展開したため、反日的との印象をされがちであるが、西里喜行によれば、彼はむしろ熱心な日清提携論者であったと判断できるという[164]。西里は何如璋の一見日本に苛烈と見えるような強硬姿勢は、琉球処分を薩摩人(薩摩閥)が主導しているという彼自身の認識に基づいて、明治政府内の日清提携派に働きかけることを企図しており、自分が琉球処分に対して強硬姿勢をとれば、日清修好条規の枠内で琉球問題を解決する方向に日本政府を誘導できるという確信に基づいていたフシがあるという[165]。また総理衙門も1879年8月22日付の駐清公使宍戸璣に宛てた書簡で「惟だ、隣誼を以て論ずれば、中国と貴国は唇歯相依るの勢いあり。区々たる琉球、なんぞ軽重に関せんや。必ず此に因りて邦交を失うに至るは、また殊に計に非ざるなり(ただし、隣国同士の友好関係という観点から論じれば、中国と貴国(日本)は唇と歯のように互いに依存し合う関係にあります。取るに足らない琉球のことが、どうして重要な問題となりましょうか。このことで両国の外交関係を損なうことになるのは、とりわけ賢明ではありません)」と述べている[166]。西里喜行によれば、この時期、実際に清国の最大の仮想敵はロシアであったため、日清提携路線が清側外交の基調路線であることに変化はなかった[167]
  206. ^ 山村健によれば、琉球そのものは李鴻章が「弾丸黒子の地(非常に狭く小さい土地)」と述べているように、その存在自体は政治経済的に清朝にとって取るに足らないものであった[172]。しかし、清朝の華夷秩序は、対外的な進貢国の存在によって中国国内における皇帝の権威が補強されるという構造にあったために、朝貢・冊封体制の維持は帝国にとって重大な関心事であった[173]。つまり、清朝にとって朝貢国の存在は王朝秩序の構造材であったのであり、琉球問題において清朝は己の存亡に関わるほどの危機感を抱いたのである[174]
  207. ^ なお、伝統的な華夷秩序においても、戦国時代には課税と朝貢の間に区別が生じていたと考えられている。つまり、清側が進貢物と租税を区別していなかったわけではないが朝貢関係は歴代中華帝国の体制維持、政治的統合にとって重要であった[注釈 206]。これについてはこちらを参照。
  208. ^ 1877年、李鴻章は駐清公使森有礼に日本の琉球進貢の差止めの理由を尋ねたが、森は「琉球藩ノ儀ハ本邦内務ノ所轄ニシテ外務ノ関係ニハ無之故進貢差留候様ノ儀ハ一向承知不致(琉球藩については、日本の内務省の管轄であって外務省の関係事項ではないため、清国への朝貢を止めさせるような件については、(外務省の所属である森は)事情をまったく把握していない)」と答えた[163]。翌1878年9月3日、駐日清国公使何如璋[注釈 205]寺島宗則外務卿を訪問し、改めてこの問題について問いただしたが、寺島は「其土地ヨリ税ヲ収メ 候者ヲ以テ管轄者トス。公法書類御覧相成候ハハ相分リ可申候(その土地から税金を徴収している者が、その地域の管轄者となります(日本は琉球から税金を徴収しているので琉球を管轄しているのはすなわち日本ということになります)。国際法の文書をご覧になれば、おわかりになるはずです)」と答えた[168]。また華夷秩序に基づく属国論を清が持ち出すことについては、台湾出兵での交渉を提起し、「政教の及ばざる地域」は国際法上領有と認められないという論理を持ち出し、「書籍ニタトヘ昔ハ属国ト載タリト雖モ現在其実政ノ及ハサル処ハ証トスルニ足ラス(たとえ書物に、昔は属国であったと書かれていたとしても、現在実際の統治が及んでいない場所については、それを証拠として認めることはできません)」と返答した[169]。さらに1878年ベルリン会議によってオーストリアボスニアを軍事占領した例を引き、「土地の所属は当該地方国民の意向如何にもかかわらず、実質管轄しているかどうかで決める」というパワーポリティクスの論理を説いた[170]。何如璋は朝貢関係を持ち出して寺島の課税管轄論に対抗しようとしたが、寺島は「貢ト云者ハ礼儀上ヨリ出ル者ニテ収税トハ異ナリ、税ハ実地管轄主ニ非レハ之ヲ収ムル事ヲ得ス。近来各国相交ル総テ公法ニ拠リ、努メテ公法ニ背カサルヲ要ス(朝貢というものは礼儀上の形式から来るものであって、税の徴収とは異なります。税金は、実際にその地域を管轄する者でなければ徴収することはできません。近年は各国が交際するにあたってはすべて国際法に基づくのが通例で、できる限り国際法に違反しないようにすることが重要です)」と説いてこれを斥けた[171][注釈 207]。同年11月、何如璋は改めて琉球の進貢停止について寺島に照会し、日清修好条規第一条と万国公法を持ち出して、「日本ハ堂堂タル大国、諒ルニ肯テ隣交ニ背キ、弱国ヲ欺キ、此不信不義無情無理ノ事ヲ為ササル(日本は堂々とした大国であるのだから、隣国との関係を損なったり、弱い国を欺いたりといった、不信義で無情、理不尽な行為をすべきでしょうか、決してすべきではないでしょう)」といい、「琉球ヲ欺凌シ、擅ニ旧章ヲ改ムル((日本は)琉球を欺いて虐げ、自分勝手に昔からの制度を改めている)」「条約ヲ廃棄シ、小邦ヲ圧制スル(条約を破棄し、小国を圧迫している)」と日本を非難した[175]。これに対し、明治政府は何如璋の文言を無礼とみなして、「暴言」としてこれに強く反発し、以後何如璋との交渉を拒否することとなった[176][177]
    1879年に琉球処分が行われたあと、同年11月から12月にかけて清朝は『ジャパン・ガゼット』に投書して欧米世論に向かって琉球処分の非を訴えようとしたが、日本側は『日日新聞』に反駁文を掲載した[178]アーネスト・サトウやイギリス代理公使ジョン・ゴードン・ケネディをはじめとする欧米側は清が琉球を実効支配したことがないため、その主張に根拠がないことを看破していた[179]。実効支配の既成事実を積み上げ、国際法の論理でそれを正当化していた日本側に対し、清朝に反論の余地はほとんどなかった[180]
  209. ^ 清朝はアメリカ前大統領グラントの仲介による琉球処分直後の4月から6月の和解交渉で、琉球の復活を求めたが、日本側は宮古・八重山を清朝に割譲し、その見返りに日清修好条規の条文を改定するという「分島問題」を提起した[144]。分島は結局実施されず立ち消えとなった[144]
  210. ^ 洪偉翔によれば、西洋諸国が東アジアに勢力を広げようとしていたこの時期、日清両国はともにその脅威に立ち向かおうとしていたが、日本が国際法体系を採用して「脱亜」を優先した国家戦略を採用したのに対し、清は日本と同盟して欧米に対抗し、中華秩序を堅守しようという国家戦略をとっていた[150]。台湾出兵は日本の国家戦略が華夷秩序に挑戦した第一歩であり、清側でなく欧米流の秩序に基づく側に立つことを鮮明にした事件であった[150]
  211. ^ 陳朝では皇太子が成人すると先帝は譲位して上皇となり、政務を後見する上皇政治が行われた。これは日本の院政と類比されるが、対中国王朝の外交は上皇が当たっていることが指摘され、このことはベトナム固有の天下概念に立脚する皇帝の尊厳を害することなく対中外交を推進するためにも必要であったという見方がある。
  212. ^ 阮朝は最初清に「南越」号を求めたが、清は「越南」という国号を与えた。「南越」という国号に阮朝の領土的野心を警戒したという見方もある。
  213. ^ 單于姓攣鞮氏,其國稱之曰『撐犁孤塗單于』。匈奴謂天為『撐犁』,謂子為『孤塗』,單于者,廣大之貌也,言其象天單于然也。」(『漢書』匈奴伝上)[182]
  214. ^ 天地所生日月所置匈奴大單于敬問漢皇帝無恙」(『史記』匈奴列伝)。
  215. ^ 天所立匈奴大單于敬問皇帝無恙。」(『史記』匈奴列伝)。
  216. ^ なお、「単于天降」については「単于和親」と同じく漢と匈奴が和親通好した意味にとる説がある[186]
  217. ^ 吐蕃帝国が成立する以前、チベット高原には十数の小国が分立していた[187][188]。そのうち、プゲル氏の王の称号「ツェンポ」は「天から降り立った者」を意味し、周辺チベット諸国は「ジェ」号を名乗って、ツェンポに敬意を表した[187]。こうして天から降ったとされる初代チベット王ニャティ・ツェンポ以降、現在のラサの南に存在するヤルルン渓谷を中心に王統が続いた[188]。ニャティ・ツェンポの神話は仏教が受容されると、『マハーバーラタ』の影響を受けて、インドの王族との血縁関係が記されたり、仏教的な起源を説く変容したバージョンが流布した[188][189]
  218. ^ たとえば吉永慎二郎は周の「天」信仰に遊牧民の天空信仰の影響がある可能性を説いている[16]。逆にマーク・ウィットウは突厥の支配者は中国王朝や吐蕃の天命[注釈 217]を認めており、政治権力と結びついたテングリ信仰の一部は、中国王朝の支配イデオロギーにルーツを持つのではないかと述べている[190]
    ソーハン・ゲレルト
    1. 古代中国の天。「撐犁」と古代中国の火神「重黎」との関係を論じる
    2. 日本の「高天原」信仰
    3. ポリネシアの「タナガロア
    などをテングリとの関連を論じられてきた概念として紹介している[184]
  219. ^ 貳師在匈奴歲餘,衛律害其寵,會母閼氏病,律飭胡巫言先單于怒,曰:『胡攻時祠兵,常言得貳師以社,今何故不用?』於是收貳師,貳師怒曰:『我死必滅匈奴!』遂屠貳師以祠。會連雨雪數月,畜產死,人民疫病,穀稼不孰,單于恐,為貳師立祠室。」(『漢書』匈奴伝上)。
  220. ^ こうした古代チベット王権の世界観の由来はインド思想に説かれる理想的君主像「転輪王 chakravarti」の思想に求めることができる[193]。初期仏教の代表的論書である「阿毘達磨倶舎論」によれば、転輪王が誕生すると天から輪(日輪)が降臨する[193]。転輪王とは、軍隊車輪)をもって四方を征服し、太陽〈日輪)が万物を育むがごとくに国土を豊かにする理想的な王を意味する[193]。転輪王信仰は仏教に取り入れられ、日輪が仏教の「法輪 dharmachakra」に接続されて考えられるようになり、転輪王とは仏教を興隆することにより国土を安寧に導く聖王という意味が付加されていった[193]。また、石濱裕美子によれば、こうした仏教信仰の影響により、チベットでは王は「菩薩王」として捉えられるようになるが、この菩薩王の思想では理論上は複数の菩薩王が同時に存在することも想定可能である[193]。したがって、チベットの仏教思想では複数の菩薩王がそれぞれの王国に君臨しつつ、全体として一つのまとまりをなす、複眼的な世界像が生み出されており、これは受命思想に基づきただ一人の天子が地上を統治するピラミッド型構造で社会を考える中国的な単眼的世界像と対照的な世界観であるという[193]。石濱裕美子は、こうした菩薩王の史上における具体例として、古代チベットのソンツェンガンポとティソンデツェン、モンゴルのクビライ・カアンアルタン・ハーン朝の康煕帝乾隆帝を挙げている[193]
  221. ^ 『旧唐書』では、南蛮西南蛮列伝・西戎列伝・東夷列伝・北狄列伝と夷狄の列伝が整理されているが、吐蕃は突厥・迴紇とともにそれらの夷狄伝とは独立した伝を立てられている[194]
  222. ^ ラン・ダルマ治世下に、領主化した仏教寺院に対する領主の、あるいは伝統宗教であるボン教の、仏教への危機感によって引き起こされたと考える仏教弾圧運動が起こり、国内の分裂が激しくなり始め、ラン・ダルマの死後に王統が2つに分裂したことにより、その傾向は決定的となった[188]。第一后妃出生のオスンツァン地方を支配し、第二后妃の養子と考えられるユムテンは中央チベットを支配した[188]。オスンの子孫はその後、西チベットに定着し、一部は東北チベットのアムド地方に逃れた[188]。ユムテンの子孫は中央チベットを分割支配し、一部はカム地方に定着した[188]。こうして吐蕃帝国は独立した小国に分裂した[188][187]涼州ではオスンの玄孫ティデが王に迎えられ、これを「唃廝囉(菩薩の意)」と呼んで支配者に戴き、1015年青唐(あるいは宗喀)王国が成立したが、1104年には西夏に滅ぼされた[187]
  223. ^ 「其主初立,近侍重臣等輿之以氈,隨日轉九回,每一回,臣下皆拜。拜訖,乃扶令乘馬,以帛絞其頸,使纔不至絕,然後釋而急問之曰:「你能作幾年可汗?」其主既神情瞀亂,不能詳定多少。」(『周書』異域伝)。
  224. ^ ハザールは言語的にテュルク系であるが、民族的にはウゴル系であるとする説もある[196]。しかし、称号や人名、王権の即位儀礼などから突厥と関係があることが窺える[196]。10世紀アラブの地理学者イスタフリーの記述(あるいはそれを忠実に継承したイブン・ハウカルの地理書)によれば、ハザール人は大可汗を定める際にその首を絹のきれで窒息しそうになるまで首を締めて、「何年その地位に君臨したいか」と聞き、その年限に達したら大可汗は殺されたという[196][197]。これは『周書』異域伝の突厥条に見える、可汗の即位儀礼[注釈 223]に類似している[196]。突厥では予言の即位年を越えても可汗が殺されることはなかったようだが、ハザールでは実際に「王殺し」が行われた可能性がある[196]
  225. ^ ハザールの大可汗は突厥阿史那氏の後裔を称し、テングリ信仰に結びついたカリスマ性を発揮した[190]
  226. ^ ピーター・ベンジャミン・ゴールデンによれば、ハザールの可汗号が突厥の阿史那氏の伝統に拠ることに疑いはないが、この二重王権の伝統は、古代テュルクの伝統から逸脱しており、むしろ古代イランの君主制に似ているが、ササン朝の直接の影響は考えられない[197]。ユダヤ教の影響を考えるのも適切とは思えず、アンドラス・ロナタスが主張するように、テュルクにおける重要な概念「qut(天の幸運、統治に対する天の使命)」を王家が長期的に保持し続けたことによって、神聖化された可能性もあるが、ハザールと同じように可汗が長期にわたって君臨した突厥カラハン朝でそのような変化は見られていない[197]。そのため、ゴールデンによれば、それは当時のホラズム・シャー朝アフリーギッド王朝)の影響である可能性が高いという[197]。この王朝の君主は伝説的な英雄カイ・ホスローの子孫を称し、周辺地域(サマルカンドブハラフェルガナウスルシャナ)の首長はアフリーギッドの君主を尊重して「シャー」号を名乗らなかった[197]。アフリーギッドの君主は「シャー」号を世襲し独占していたが、統治はシャーの一族やその他の一族が行っていたという[197]。ハザールの宮廷にはホラズム出身の衛兵「オルス Ors」が存在していたが、彼らが媒介となってアフリーギッドの神聖王権の考えがハザールに影響したとゴールデンは考えている[197]
  227. ^ ケンデの由来はイブン・ファドラーンの記録に見えるハザールで第三位の権力を持っていたと思われる人物「クンダル(クンドゥル)・ハーカーン」であるとされてきた[200]
  228. ^ これらの二重王権についてはアラブとペルシアの史料による[202]。しかし、9世紀末から10世紀にかけての西欧側の史料ではマジャール人は一人の王(rexあるいはdux)に率いられていたことが記載されており、またビザンツ帝国随一の文人皇帝として知られるコンスタンティノス7世の記録によれば、マジャール人は多数のリーダーに率いられていたようである[202]
  229. ^ バラーシュ・スダールヤーノシュ・B・シャボーによれば、一般的にこの時代のモンゴル・テュルク系民族は称号を共有しているが、ケンデとジュラという称号には他の遊牧君主との共通性がなく、トルコ語の権力用語に類例が見つからないため、トルコ語由来ではないと考えられるという[200]。そして、ケンデとされているクルサーンは、ハザールの可汗と異なり、積極的に軍事に関わっていることが看守される[200]。ケンデとジュラの読みの根拠とされているイブン・ルスタの文献はアラビア語特有の短母音が書かれない問題を抱えており、ケンデは一般的なコンセンサンスでそう読まれているに過ぎず、不確かである[200]。また、現代ではよく使われる名前のジュラから類推されている可能性が高いジュラという語彙は、草原世界では威厳のある称号としては全く登場せず、固有名詞としてもほとんど使われていないという[200]。史料から初期ハンガリーの君主の神聖性に関する記述を見出すのは難しく、そもそも二重王権についても特定できないという[200]

出典

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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