ならおか ともこ 奈良岡 朋子 | |||||||||||||||
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本名 | 奈良岡 朋子[1] | ||||||||||||||
生年月日 | 1929年12月1日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2023年3月23日(93歳没) | ||||||||||||||
出身地 |
日本・東京府東京市本郷区駒込 (現:東京都文京区) | ||||||||||||||
死没地 | 日本・東京都 | ||||||||||||||
民族 | 日本人 | ||||||||||||||
血液型 | AB型 | ||||||||||||||
職業 | 女優、声優、ナレーター | ||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ・舞台・テレビアニメ | ||||||||||||||
活動期間 | 1948年 - 2023年 | ||||||||||||||
配偶者 | 独身 | ||||||||||||||
著名な家族 | 奈良岡正夫(父)、丹野郁弓(姪) | ||||||||||||||
事務所 | 劇団民藝 | ||||||||||||||
公式サイト | 奈良岡朋子 | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
テレビドラマ 『太陽にほえろ!PART2』 『おしん』 『いのち』 『春日局』 映画 『どですかでん』 『はなれ瞽女おりん』 『夜叉』 『釣りバカ日誌』シリーズ(9 - 20) 『鉄道員』 『半落ち』 『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』 | |||||||||||||||
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奈良岡 朋子(ならおか ともこ、1929年〈昭和4年〉12月1日[2] - 2023年〈令和5年〉3月23日[3])は、日本の女優、声優、ナレーター。劇団民藝の代表を務めた。父は洋画家の奈良岡正夫[4]。
東京府東京市本郷区駒込(現:東京都文京区)で生まれる。東京府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高等学校・附属中学校)在学中の1945年に父の故郷である青森県弘前市へ疎開し、青森県立弘前中央高等学校を卒業。
1951年、女子美術大学洋画科を卒業する[5]。「女優にならなければ医者になろう、と学生時代は考えていた」と『人生は三百六十五歩のマーチ』(BSフジ、2020年3月7日放送)のゲストトーク内で話している[出典無効]。
大学在学中[5]の1948年、民衆芸術劇場付属俳優養成所に1期生で入所し、同年の『女子寮記』の寮生役が初舞台となる。
1950年、劇団民藝創設に参加し、旗揚げ公演の『かもめ』に小間使役で出演[6]。
1954年の『煉瓦女工』で初めて主役を演じ、『イルクーツク物語』のワーリャ役、『奇跡の人』のサリバン役などに出演し、劇団の中堅女優として活躍した。
宇野重吉、滝沢修の死後は大滝秀治と劇団共同代表を務め、法人の代表権は大滝が持ち奈良岡は取締役を担った。大滝の没後は劇団と法人の代表を務めていた。
2005年から2006年にかけ、『ドライビング・ミス・デイジー』で無名塾の仲代達矢と共演を果たした。
舞台の他、「舞台の合間に受けられる仕事なら」との条件でテレビドラマや映画にも出演。橋田壽賀子脚本作品にはナレーターとして頻繁に起用されていた(『おんな太閤記』『渡る世間は鬼ばかり』などの例外もある)。また、橋田の盟友である石井ふく子プロデュース作品にも演者・ナレーターとして起用されていた。
洋画吹替えでは、ジャンヌ・モローやキャサリン・ヘプバーンを担当した。
父の影響で幼い時から絵筆に親しんでいた[7]。しかし、大学在籍中の奈良岡が民衆芸術劇場付属俳優養成所を受験して合格したことに対して、父は快く思わず「役者を目指すと宣言した時、愛用の絵の具を父親に取り上げられた。趣味で絵をやるのはオレが許さんという訳だったのでしょう」とスポーツニッポンの取材に明かしたこともあった。[要出典]愛煙家でもあり、大好きなパチンコが趣味でもあった。
晩年は、原爆投下後の広島を描いた井伏鱒二作『黒い雨』の朗読劇をライフワークとした[4]。
2023年3月23日午後10時50分、肺炎のため、東京都内の病院で死去[3][8]。93歳没。生涯独身だった[4]。葬儀は同月26日に近親者のみで執り行われ、姪で劇団民芸演出家である丹野郁弓が喪主を務めた。なお、故人の意向によりお別れの会は執り行われなかった。
奈良岡は宇野重吉、杉村春子、石原裕次郎、美空ひばりの故人4人の名を挙げ、生前にメッセージを残していた[8][9][10]。
新たな旅が始まりました。旅好きの私のことです、未知の世界への旅⽴ちは何やら⼼が弾みます。向こうへ着いたらすぐに宇野さん(宇野重吉)を訪ねます。もう⼀度あの厳しい演出を受けたいと⻑い間願ってきました。でもね、宇野さん、私はあなたよりずっと⻑く⽣きて経験を積んできましたからね、昔のデコ(奈良岡の愛称)じゃないですよ。「デコ、お前ちっとましになったな」と⾔われたくてこれまで頑張ってきたんですから。腕が鳴ります。 杉村先⽣(杉村春子)とももう⼀度同じ舞台を踏みたかった。どんな役でもいいからご⼀緒したい。ワクワクします。 両親に挨拶するのは⼆、三本舞台をやって少し落ち着いてからにします。それからは裕ちゃん(石原裕次郎)や和枝さん(美空ひばり)と思いっきり遊びます。これが別れではないですよ。いつかはまたお会いできますからね。
それでは⼀⾜お先に失礼します。皆さまはどうぞごゆっくり…—奈良岡朋子
きっぷのよさから多くの芸能人に慕われ、交友関係が広かった[4][11]。石原裕次郎は「最も尊敬していた女優」として大先輩の奈良岡を挙げ[11]、藤堂俊介係長(ボス)役で出演していた石原が勇退した後の『太陽にほえろ!PART2』で篁朝子係長(ボス)役として出演し、共演もしている(192話「2・8・5・6・3」等)。ほか、木曜スペシャル枠で放送された『石原軍団INハワイ』にも石原軍団と同一待遇で出演している。
宇野重吉に鍛えられ、滝沢修と文学座の杉村春子を師と仰いだ[4]。杉村とは1974年の舞台共演や『おんなの家』シリーズでの共演が縁となり、生涯にわたって実妹のようにとても可愛がってもらった。奈良岡は「杉村先生は文学座、私は劇団民藝と別の劇団でありながら、文学座の方たちに申し訳ないと思うくらい手取り足取り教えていただきました」と述べている[11][12]。杉村の生前時には「私のことは春ちゃんと呼んでいいのよ」とよく言われていたが、「恐れ多くも杉村先生に対してそのようなことは言えなかった」と語っていた[出典無効]。
美空ひばりとは美空の母公認の仲であり、愛称の「御嬢」ではなく、敬称を付けずに本名の「和枝」と呼べた唯一の大親友であった[11]。プライベートでも特に親交が深かったそうで、岸本加世子をひばりに引き合わせたのが太地喜和子と奈良岡である。1986年にTBS系(中部日本放送制作)のトーク番組だった『すばらしき仲間』の対談収録後に、奈良岡の自宅へ太地と岸本が訪問して、飲食前にサイドボードにひばりの千社札を貼った焼酎を見つけた太地が奈良岡に「御嬢へ連絡して今から会えないって誘ってみようよ」と話し、奈良岡がひばりの自宅に電話をかけて呼び出した後に、奈良岡と太地の元へ訪れたのがきっかけだった。その後、奈良岡と二人でひばりの楽屋へ訪問して交流が始まると、ひばりは岸本に『お姉ちゃん』と呼ばせて実妹のように亡くなるまで可愛がっていた。岸本自身も「ひばりさんには奈良岡さんの自宅で初めてお会いした日からお亡くなりになるまでの3年間の間、個人的に気に入られて大変可愛がっていただいた」とNHKのひばり特集の番組内や2023年7月のmagacolインタビューなどでたびたび語っている。
奈良岡とひばりが親友になったきっかけは、ひばりの出演番組に奈良岡がナレーションで参加後、ひばりの元へ花束を持って駆けつけたところ、お互い初対面だったがひばりが奈良岡の自宅へ今から訪問したいと言い出し、奈良岡が了承して当日の深夜まで自宅で飲食を楽しんだのが始まりだった。「泊まりたい」とひばりが言った後に「今日は帰宅しなさい」と奈良岡が注意して帰宅後の翌日にひばりの母親がお礼の電話をかけてきた会話内で「御嬢があなたのことを非常に気に入ったそうで御嬢を注意してくれる人も周りにはいないので、是非とも友達になってもらえないか。」と言われたが、奈良岡は「天下の美空ひばりとではなく一個人の加藤和枝とならお付き合いします。」との返事がきっかけとなりその後ひばりが亡くなるまで長年の交流になった[11]。
見込んだ相手と本音で付き合うことから広がり、八千草薫、池内淳子、草笛光子とはプライベートで「女の会」というグループを結成[11]。若尾文子、加藤治子、赤木春恵、乙羽信子、麻生美代子、山岡久乃、森光子との親交も深かった[11]。NHK連続テレビ小説『水色の時』で共演した大竹しのぶは実の娘のように接した[11]。
田宮二郎は実姉のように慕っており、自殺の際に奈良岡宛てに遺書を残している。
黒柳徹子ともデビュー時より長期間親交が深く[11]、定期的に『徹子の部屋』にも出演しているほか、父の作品を進呈したこともある。奈良岡が没した2023年7月31日放送分の『徹子の部屋』には劇団民藝の後輩の日色ともゑが出演し、先述の生前メッセージを朗読するなど奈良岡を追悼した[13]。