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姫街道(ひめかいどう)とは、江戸時代以前の徒歩時代における、主要街道の別ルート(脇街道)の一部に対する呼び名。
本街道に峠道・川越えなどの難所、厳しい関所などの面倒があった場合に、それらを避けるための別ルートが選ばれる場合があった。また、本街道と比べると人通りが少なく、犯罪に巻き込まれる可能性が少ない・警備が楽、といった事情もあった模様である。女性旅行者がこれらの理由から選ぶ道というイメージがあったことから、それらの別ルートが「姫街道」「女街道」と呼ばれることがあった[要検証 ]。
規模はさまざまであり、特定の難所だけを大回りして迂回する小規模なものから、大きく別ルートを取るケース、さらには(東海道と比べて距離は長いが安全で難所が少ないとされていた)中山道全体を呼んだような大規模なものまであった。寺社の参道で勾配がきつい坂を「男坂」、大回りするが勾配がゆるやかな坂を「女坂」と呼んだ事例も多く見られるが、それと同様の発想による命名であるとも言える[要検証 ]。
数箇所の険しい峠道はあったものの、東海道のような長期にわたる川止めがないことがメリットであった。また、嫁入りに際しては縁起の良い地名が多いことも影響した[要出典]。また、中山道は、「姫街道」とも呼ばれており、京都の宮中から将軍家に嫁ぐ際、通行していた[1]。京都から江戸の徳川家に和宮が嫁つぐ際、その嫁入り行列に中山道を使っており[2]、徳川家定の2番目の正室「寿明姫」は63番目の鳥居本宿にて休憩をしている[1]。
東海道見附宿(静岡県磐田市)と御油宿(愛知県豊川市)を結ぶ東海道の脇街道。浜名湖の北側、本坂峠を越える道で、本坂道、本坂通り、本坂街道とも言う。東海道新居関所の厳しい取締まりを嫌った女性が多く利用したためこの名があるという。[要出典]
中山道の脇往還、別名「下仁田通」[3]。「上州姫街道」などとも呼ばれた。中山道本庄宿(埼玉県本庄市)から分岐し、上州(群馬県)藤岡宿(藤岡市)・吉井宿(高崎市)・福島宿(甘楽郡甘楽町)・富岡宿・一ノ宮宿・宮崎宿(以上富岡市)から小坂坂峠を経て、下仁田宿・本宿宿・初鳥屋宿(以上甘楽郡下仁田町)から鰐坂峠を越え信州(長野県)借宿(北佐久郡軽井沢町)で中山道へと戻る。中山道古道のひとつであるが、別ルートが中山道本道として指定されたことから、脇往還となった。下仁田宿から砥沢宿(甘楽郡南牧村)を経て、信州へ繋がる脇道もあった[要出典]。
名古屋・平針間を結ぶ平針街道と、名古屋と岡崎間を結ぶ岡崎街道(駿河街道)は、姫街道と呼ばれていた[4]。
東海道佐屋廻りとも呼ばれ、松並木の続いた道であった[5]。船に弱い人や、女の人などに多く利用されたからか姫街道とも呼ばれた[6]。
北国街道または中山道の脇道である追分街道[7]。日影街道(香坂通り)を和美峠で越えて初鳥屋に至る追分街道がある[7]。追分街道は、傾斜が緩く人畜の通行に都合が良かったことから、特に女子の通行に利用され、「女街道」あるいは「姫街道」と呼称されていたという[7]。
「本坂通」、「下仁田通」に並び、姫街道と呼ばれていた街道の一つと言われていた[8]。信越の北国街道や北国西街道の脇往還にあたる。新潟県糸魚川から長野県安曇野を経て中山道塩尻宿(塩尻市)に至る道筋で[9]、約120kmの道で、最も長い塩の道とも言われている[10]。特に戦国時代の上杉氏による「敵に塩を送る」の故事となる塩の輸送路として重要視された[10]。
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