威穆帝 黎誼 | |
---|---|
後黎朝 | |
第8代皇帝 | |
王朝 | 後黎朝 |
在位期間 | 1505年 - 1510年 |
姓・諱 | 黎誼(黎濬) |
諡号 | 威穆皇帝 |
生年 |
洪徳19年5月5日 (1488年6月14日) |
没年 |
端慶5年12月1日 (1510年1月10日) |
父 | 憲宗 |
母 | 昭仁皇后 |
陵墓 | 安陵 |
元号 | 端慶 : 1505年 - 1509年 |
威穆帝(いぼくてい、ベトナム語: Uy Mục Đế)は、後黎朝大越の第8代皇帝(在位:1505年 - 1510年)。名は黎 誼(れい ぎ、ベトナム語: Lê Nghị)または黎 濬(れい しゅん、ベトナム語: Lê Tuấn)。
憲宗の次男。弟の粛宗の死後即位したが、酒色に溺れて暴政をほしいままにした。母の昭仁皇后の兄弟である阮種・阮伯勝を重用して自身の即位に反対した祖母の徽嘉皇太后や朝臣・宗族を多く殺した。明から冊封使として訪れた許天錫は威穆帝を「鬼王」と評した。
威穆帝の残忍な統治は多くの人心に反感を引き起こした。威穆帝に投獄されていた従弟の簡修公黎晭(聖宗の子の建王黎鑌の子)は獄吏に賄賂を渡して脱獄、清化に逃走し、そこで兵を挙げた。端慶5年(1509年)11月に反乱軍は都昇龍に迫ると、威穆帝は逃亡した。その後黎晭に捕まり鴆毒を飲んで死んだとも(『大越史記全書』)、逃亡中に殺されたとも言われている。威穆帝に一族を殺されていた黎晭は大砲でその屍を粉々にし、愍厲公に落とした。
清化出身の軍人の支持を得た黎晭(襄翼帝)が代わって即位した。
|
|