子母澤 寛 しもざわ かん | |
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誕生 |
梅谷 松太郎 1892年2月1日 日本 北海道厚田郡厚田村(現・石狩市) |
死没 |
1968年7月19日(76歳没) 日本 神奈川県藤沢市 |
墓地 | 鎌倉霊園 |
職業 | 小説家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 明治大学専門部法科 |
活動期間 | 1928年 - 1967年 |
ジャンル | 時代小説 |
代表作 |
『新選組始末記』 『父子鷹』 『勝海舟』 『座頭市物語』 『駿河遊侠伝』 |
主な受賞歴 | 菊池寛賞(1962年) |
デビュー作 | 『新選組始末記』 |
親族 | 三岸好太郎(異父弟) |
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子母澤 寛 (しもざわ かん、1892年2月1日 - 1968年7月19日)は、日本の小説家。北海道厚田郡厚田村(現・石狩市)出身。本名・梅谷 松太郎。洋画家の三岸好太郎は異父弟にあたる。第10回菊池寛賞受賞。
祖父の梅谷十次郎(通称、斉藤鉄太郎又は鉄五郎)は、江戸幕府から切り米20俵の家禄を受けていた御家人で彰義隊に参加し、箱館戦争に敗れて捕虜となった。釈放され、札幌へ移り開墾に従事するが成功せず、札幌から10里ほど離れた石狩の漁村・厚田で漁場を持った。この祖父は網元で、旅館と料理屋を兼ねた「角鉄」も経営した村の顔役だった。御家人崩れのやくざ風な人柄であったとされる。創価学会第2代会長戸田城聖と同郷で、少年期よりの知己である。後に子母澤の出版を戸田の会社が受け持っており、相当数の著作を発表している。子母澤寛も厚田に生まれ、早くに実母と別れ、祖父に溺愛されて育った。
祖父の勧めにより函館庁立商業学校(現・北海道函館商業高等学校)に進学するが、1907年の函館大火で学校が焼けてしまったために退学し、祖父とともに札幌に夜逃げする。旧制北海中学校(現・北海高等学校)を経て1914年、明治大学専門部法科卒業[1]。
初めは弁護士志望だったが、帰郷して材木会社に勤めた。1918年に再び上京し、電気商に勤め、翌1919年に読売新聞社へ入社。さらに1926年に東京日日新聞に移り、新聞記者をするかたわらで、尾佐竹猛らの指導で旧幕臣の聞き書きをまとめ、1928年『新選組始末記』を出す。その後、『新選組遺聞』『新選組物語』の「新選組三部作」を出版し、その後の作家ら(司馬遼太郎・池波正太郎など)に引用される。1962年第10回菊池寛賞。1968年7月19日、心筋梗塞のため神奈川県藤沢市鵠沼の自宅で死去。戒名は慧光院文宗日寛居士[2]。
代表作に、小説『勝海舟』(大河ドラマ『勝海舟』原作)や『国定忠治』、随筆『ふところ手帖』(『座頭市』の原案)がある。
筆名は居住地の東京市大森区新井宿(現在の東京都大田区中央四丁目)子母沢より。「寛」は語呂がよかったからだという。