孝賢純皇后 | |
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清朝皇后 | |
『孝賢純皇后朝服像』 | |
在位 |
乾隆2年12月4日 - 乾隆13年3月11日 (1738年1月23日 - 1748年4月8日) |
別称 | 孝賢誠正敦穆仁恵徽恭康順補天昌聖純皇后 |
出生 |
康熙51年2月22日 (1712年3月28日) |
死去 |
乾隆13年3月11日 (1748年4月8日) 徳州 |
埋葬 | 裕陵 |
配偶者 | 乾隆帝 |
子女 |
端慧皇太子永璉 固倫和敬公主 哲親王永琮 |
氏族 | フチャ氏(富察氏) |
父親 | リルンバオ(李栄保) |
母親 | ギョロ(覚羅)氏 |
孝賢純皇后(こうけんじゅんこうごう、満州語:ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
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ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ 転写:hiyoošungga erdemungge yongkiyangga hūwangheo)は、清の乾隆帝の皇后。満洲鑲黄旗の出身。姓は富察(フチャ)氏(Fuca hala)。チャハル総管の李栄保(リルンバオ)の娘。乾隆帝の最年少の妃嬪である晋妃富察氏は従孫娘にあたる。また、弟の傅恒は武将として活躍した。
雍正5年(1727年)、宝親王の弘暦(後の乾隆帝)に嫁ぎ、嫡福晋(正室)となった。夫婦仲は良く、乾隆帝との間には雍正6年(1728年)に長女、雍正8年(1730年)に次男の永璉を出産するが、いずれも夭折した。雍正9年(1731年)、三女の固倫和敬公主を出産する。
乾隆帝が即位すると、皇后に立てられた。乾隆11年(1746年)に乾隆帝の皇七子の永琮を出産するが翌年に夭折した。皇后は嘆き悲しみ、皇太后(孝聖憲皇后)に同行して泰山へ行幸したが、その際に病気になり、乾隆13年(1748年)に亡くなった。皇太后・皇帝とともに北京へ還御する途上、山東省の徳州あたりの舟の中で息を引き取った。裕陵に最初に葬された。
乾隆帝は皇后の死を悲しみ、「早知失子兼亡母 何必当初盼夢熊(母子二人が亡くなったことを知っていたら、当初は男の子とは期待していなかった)」と詠んだ。
倹約家であり、宝石や玉を好わずに絨花を装飾品とする。
生前、高佳氏に「慧賢皇貴妃」の諡号を与えた乾隆帝にねだって「孝賢」の諡号を約束させた。