学習院女子大学 | |
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![]() | |
![]() 戸山キャンパス 正門(重要文化財) | |
大学設置 | 1998年 |
創立 | 1847年 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人学習院 |
本部所在地 |
東京都新宿区戸山3-20-1 北緯35度42分27秒 東経139度42分43.6秒 / 北緯35.70750度 東経139.712111度座標: 北緯35度42分27秒 東経139度42分43.6秒 / 北緯35.70750度 東経139.712111度 |
学生数 | 1,698 |
キャンパス | 戸山(東京都新宿区) |
学部 | 国際文化交流学部 |
研究科 | 国際文化交流研究科 |
ウェブサイト | https://www.gwc.gakushuin.ac.jp/ |
学習院女子大学(がくしゅういんじょしだいがく、英語: Gakushuin Women's College)は、東京都新宿区戸山3-20-1に本部を置く日本の私立大学。1847年創立、1998年大学設置。大学の略称は学女(がくじょ)。
1847年(弘化4年)、仁孝天皇によって設けられた学習所の女子教科が起源である。明治政府はそれまでの大名・公家を華族と呼び、その教育に力を入れた。1877年(明治10年)には、華族のための学校として学習院が設立された。女子教科は1885年(明治18年)に華族女学校に改組されたのち、1906年(明治39年)に学習院に吸収され、その学習院女学部となった。
女学部は1918年(大正7年)、女子学習院として分離・独立した。女子学習院は初め永田町の御料地に設置されたが火災にあい、青山練兵場の跡地を借り入れて、そこに1918年(大正7年)、新校舎を竣工し[1]、同年8月12日に移転[2]。同年11月14日、貞明皇后が臨席して開院式を挙行した[3]。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期の1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって校舎が焼失した[1]。
日本敗戦後の1947年(昭和22年)、根拠法である学習院・女子学習院学制の廃止に伴い、学習院と再度合併して「財団法人学習院」となり、宮内省管轄下の官立学校から私立学校に改められることとなった。空襲によって焼失した旧・女子学習院の校地は、現在の秩父宮ラグビー場の場所にあった[1]。
1889年、学習院全生徒の学生活動のための機関として「輔仁会」(ほじんかい)が設けられ、以後現在まで学習院全体の課外活動の中心機関となっている。同会は幼稚園から大学、更に学校法人学習院本部までの役員・教職員・学生・生徒・児童・園児が会員となる。会長は学習院長が兼務し、会員は毎年輔仁会費(他大で言うところの自治会費ではない)を納入する。学習院に在学する皇族と特別な功労者は名誉会員(会費徴収なし)となる。本部の下に各学校ごとの支部組織がある。
学習院の運動部、文化部、自治会等すべての課外活動は、輔仁会の事業の一端として位置づけられ、輔仁会の予算から経済的支援を受けている。学習院女子大学における輔仁会の支部は「学習院輔仁会女子大学支部」であり、支部長は女子大学学生部長が兼務する。運動部会(他大で言うところの体育会)・文化部会・独立団体があり、輔仁会に公認されている各部は「学習院輔仁会女子大学支部運動部会○○部」「学習院輔仁会女子大学支部文化部会○○部」等と称する。また学習院女子大学は小規模であるため、学習院大学の団体と合同で活動している部もある。会歌として「学習院輔仁会会歌(新)」 ·「学習院輔仁会会歌(旧)」がある。また機関誌として『学習院輔仁会雑誌』がある。このほか輔仁会女子大学支部に属さず自主的に運営される同好会・非公認サークル等もある。