うかじ たかし 宇梶 剛士 | |
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ウポポイオープニングイベントにて(2020年) | |
別名義 | 津村 浩 |
生年月日 | 1962年8月15日(62歳) |
出生地 | 日本・東京都新宿区[1] |
身長 | 188 cm[2] |
血液型 | B型 |
職業 | 俳優、タレント、レポーター |
ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台 |
活動期間 | 1981年 - |
配偶者 | 既婚 |
著名な家族 |
宇梶静江(母) 浦川治造(叔父) |
公式サイト | Takashi Ukaji |
主な作品 | |
テレビドラマ 『ウルトラマンガイア』 『任侠ヘルパー』 『仮面ライダーオーズ/OOO』 『ストロベリーナイト』 映画 『お父さんのバックドロップ』 |
宇梶 剛士(うかじ たかし、1962年8月15日[3] - )は、日本の俳優、タレント。東京都出身[3]。オフィス33所属。劇団PATHOS PACK主宰者。既婚。
1962年、東京都新宿区西大久保1丁目(現:歌舞伎町2丁目)の「東京都立大久保病院」で生まれる[1]。出生時は身長57cm[4]で体重が5,000gもあり、都の健康優良児の表彰を受けている[1]。3歳から5歳までは東京都小平市に、それから小学2年時までは広島県安芸郡府中町で育ち[1][5]、その後東京都国立市に転居、国立市立国立第七小学校・国立市立国立第一中学校を卒業[1]。拓殖大学第一高等学校では野球部に所属し、大柄だったこともあり「将来の有望選手」としてプロ球団のスカウトが宇梶を見に何回か足を運びに来たほどの実力であった。
高校時代に部活内でのいじめやシゴキを告発したことにより、逆に学校側からは事実関係を隠蔽され、2ヶ月間野球をすることを許されずグラウンドの端に監視付きで立たされていたが、その当時の担任や他の大人が誰一人として声をかけてこなかったことにより、大人を信用できなくなる[6][7]。このことがきっかけで外で暴力事件を起こして逮捕され、少年鑑別所に入所[4]。出所後に高校を中退し[4]、しばらく叔父のいる北海道浦河郡浦河町や二海郡八雲町で労働機会を得るも更生できず、東京家庭裁判所からの呼び出しを口実に帰京[1]。その後は暴走族に加わり、当時の日本最大組織とされたブラックエンペラーの三多摩地区のヘッドから後に7代目名誉総長となり、この時代に得た一生の友のことをテレビ番組でたびたび熱く語っている。同じく元暴走族のヒロミは「僕らがガキだったころ、とんでもなく有名だった人」とコメントしている。[要出典]また国立市に隣接する立川市出身で長年在住する2歳年下の作家・ゲッツ板谷の著書に、「伝説的存在だった」との記述がある。そして暴走族同士の抗争で再び逮捕。家庭裁判所へ送致され、茨城県の少年院へ収容[注 1]。
少年院での生活において改心。この時に読んだチャーリー・チャップリンの伝記が俳優を志すきっかけとなる[5]と同時に高校復学のための勉強に励み、その後明治大学付属中野高等学校定時制を卒業、同級生には近藤真彦、野村義男、野々村真、つちやかおり、佐久間レイ、藤慎一郎(神力裕)他多数のアイドル芸能人がいた。パパイヤ鈴木、布川敏和らは後輩。
当時、出演したドラマの『ザ・ハングマン』は犯人役であったが、同回の誘拐される少女役の横田ひとみも同級生であった。
にしきのあきらの付き人をしていた18歳の時[8]、事務所の使いで藤映像コーポレーションを訪問したところ、そこに居合わせた菅原文太から「お前、何者だ。歌い手か」と呼び止められ、「いえ、俳優になりたいんですが、どうやったらなれるのかわからないので、にしきのさんのところでお手伝いをしています」と答えた[4]。すると菅原はすぐにしきのの事務所に電話をかけ「おたくのところのでかいの、もらっていいか」と言って電話を切り、彼から「ということでいいな」と言われてそのまま付き人となった[4]。以降、菅原をオヤジと呼んで慕っており[4]、菅原の死去後にはマスコミに追悼コメントを語っている。
美輪明宏に見出され、『青森県のせむし男』(寺山修司作)にて初舞台を踏み、美輪から紹介された渡辺えりなどの元で舞台経験を積む。若いころはスリムで美男であり、18歳から2年間ほど、同じ事務所に所属していた鶴田浩二から名前をとって「津村 浩」の芸名で活動をしていた。長らく無名で下積みの時代が続き、売れない時期は、芸能以外の仕事をして食いつないだり、もっぱら映画を鑑賞して過ごした。当時鑑賞した作品が現在の芸能活動の糧になっていると発言している。
1980年代後半になり多数のトレンディドラマに脇役で出演するようになると、徐々に知名度が上昇し、1997年に『ひとつ屋根の下2』(フジテレビ)のピカリン(前園俊雄)役でブレイク[9]、以降多数のテレビドラマや映画で活躍。一方で舞台出身であることから『打打芝居』(1990年結成)、『damim』(1999年10月結成)といった演劇ユニットを主宰し、自らプロデュース公演の形で舞台を制作してきた。2007年には「劇団」という形でしか表現できない舞台作りを追求したいとの思いから、金井良信・平野貴大らと共に『劇団PATHOS PACK』(パトスパック)を結成[10]。活動を続けていたが、2021年7月の北海道公演を最後に一区切りした[11]。
2015年、7月公開の映画『未来シャッター』高橋和勧監督作に、菅原文太が内諾していたナレーターには宇梶が遺志を引き継いで出演している[12]。
2019年4月24日、『みみよりライブ 5up!』(広島ホームテレビ)に出演し、手づくり工房ごーあっぷホーム 古民家をDIYで大人の隠れ家を作ろう プロジェクトリーダーに就任。広島で1年かけて活動していく。
建築会社で働く一級建築士の父、母、2つ上の姉の4人家族として育つ。一時は、自宅に母方の叔父と従兄も同居していた[4]。運動好きな活発な子供で、広島に住んでいたころに父親に広島市民球場で行われた野球観戦に時々連れて行ってもらっていた[4]。国立市の団地に転居してからは、地元のリトルリーグに入団して野球三昧の日々を過ごした[4]。
しかし、国立市で暮らし始めたころから家庭内が少しずつギクシャクし始める。父親は仕事で、母親はアイヌをはじめとするマイノリティの人々の権利獲得活動で、それぞれ忙しくなった[4]。また、母は出先で困窮した人に出会うと、力になりたい一心からその人たちを時々自宅に呼び寄せてはしばらくの間住まわせた[4]。宇梶が小学校高学年のころには、両親がほとんどいない家で、姉と2人ほどの他人[注 2]と暮らすという環境になった[4]。
中学1年生のころ、この生活を知った学校の先輩にからかわれるようになり、ある日母親に不満をぶつけたが取り合ってもらえなかった[注 3]。家を飛び出して近所のアパートで暮らし始め、学校に通いながら新聞配達や八百屋のバイトで生計を立てた[4]。そんな状況でも野球は続け、中学の軟式野球部と地元の硬式野球チーム「国立リトルシニア」で活動した[4]。
高校は野球の強豪校に進学したが、先述の先輩からのシゴキが2年生になっても続いた[4]。シゴキに耐えかねて同級生たちと練習をボイコットすると、監督から“宇梶がボイコットの首謀者”との濡れ衣を着せられた[注 4]。先述の通り以後練習への参加を禁止されたが、当時本人にとって野球はただの部活ではなく、生きていく上で心の拠り所だったため耐え難いことだった[4]。
この投げやりになった時期に、中学時代の仲間が地元で他人とトラブルを抱えていることをたまたま知る[4]。体格が良くて力も強かったこともあり、そのトラブルの相手に対し暴力で解決しようとして警察に連行され、少年鑑別所に入ることになった[4]。出所後は夢も目標も失ったことで流されるまま暴走族に入り、ほどなくして特攻隊長になり、さらに17歳で総長(当時2,000人が所属していた)になった[4]。
少年院に入所後は農作業や大工仕事で汗を流し、日誌を書いて自分を見つめ直す日々を送った[4]。俳優を志すきっかけとなったチャップリンの自伝本は、母親の差し入れによるものだった[注 5]。
その後、芸能界に入るきっかけを求めたところ、明大中野高校時代に知人を通じてにしきのあきらを紹介してもらい、芸能界の礼儀やルールを習うために“かばん持ち”を始めた[4]。その後出会った美輪明宏からは、「あなたは闇夜の鴉(からす)。暗い道を歩いてきたからこそ純白の白さ(舞台のライト)に感動できるのよ」と告げられた[4]。
渡辺えり主宰の「劇団3○○」で演技指導を受けるにあたり、菅原文太に「菅原一門を辞めさせて下さい」と挨拶に訪れると、「他のところに行ってもお前はずっと一門の仲間だ」と快く送り出された[4]。渡辺の指導は厳しかったが愛情深さを感じ、演技だけでなく「自分に嘘をつかない、自戒の念」など役者としての心得も教わった[4]。30歳を過ぎたころにようやく役者業だけで食べていけるようになった[4]。
その後結成した劇団PATHOS PACKでは、2019年にアイヌをテーマにした作品『永遠ノ矢=トワノアイ』を東京で初演し、脚本と演出を担当した[注 6]。
バラエティ番組でもたびたび暴走族出身という経歴がネタにされている。
不良から立ち直ったという体験から『ジェネジャン』(日本テレビ)パネリストとしては準レギュラーとも言えるほど頻繁に出演していた。現在も講演活動などを積極的に行っている。
2017年、富山県南砺市の井波総合文化センターにて行われた「平成29年度 第1回 南砺市民大学講演会」では、「いじめを受け入れることは『あってはならないことの日常化』であり、恐ろしいところに追い込まれているということ」と、いじめを強く非難し、自らがいじめやシゴキに遭っていた経験から、いじめに対する批判を講演などにて行なっている[6][7]。
暴走族時代、タイマンやステゴロで挑んできた者には喧嘩の後に和解するなどしていたが、闇討ちなどの卑怯な手段で襲い掛かって来た時は容赦しなかったという。金崎浩之が語ったところによると、その時の宇梶は「鬼のように恐ろしい存在」だったという。
父は和人であり、母はアイヌ民族である。2020年に北海道白老町のアイヌ民族文化財団が運営する「ウポポイ」(民族共生象徴空間)PRアンバサダーに就任[13]。母は2022年現在もアイヌ民族を含めた様々なマイノリティの人々に思いを馳せ、アイヌの文化継承活動を続けている[4]。
北海道白老郡白老町にあるアイヌ民族博物館のアイヌ文化紹介VTRに進行役として出演している。また、叔父である浦川治造を追ったドキュメンタリー映画『カムイと生きる』のナレーションも務めている[14]。
本人は後年、「反発した時期もあったけど、母の活動がどれだけ大切なのかが、今は分かります。活動に身を投じてきた母を人生の先輩として尊敬しています」と語っている[4]。
子供のころは、広島カープのプロ野球選手でピッチャーとして活躍する白石静生に憧れた[4]。少年時代から続けてきた野球を生かし、2007年3月に岩手県に本拠地を置く野球クラブチーム『岩手21赤べこ野球軍団』の総監督に就任したが、同年12月に廃部。
1日に何か1つは甘い物を食べないと落ち着かないと公言するほどの甘党である。特にチョコレートと餡が好き。
広島時代の小学校の後輩に吉川晃司・竹原慎二がいる[15][16]。
中学時代に所属した国立リトルシニアには、その後6歳下の木田優夫[注 7]も入団している[4]。入団時期が被っていないため当時接点はなかったが、後年お互いに同チームに所属していた事実を知る。これがきっかけで、木田が日本ハムファイターズ二軍監督となった2022年に、宇梶は彼のユニフォームを着て日ハム戦の始球式に登板した[4]。
プロレスラー新崎人生はリングネームを相談したところ、宇梶の一言『人生はどうだ』で決まった。