安住 淳 あずみ じゅん | |
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生年月日 | 1962年1月17日(63歳) |
出生地 |
日本 宮城県牡鹿郡牡鹿町 (現・石巻市) |
出身校 | 早稲田大学社会科学部卒業 |
前職 | 日本放送協会(NHK)報道記者 |
所属政党 |
(無所属→) (新党さきがけ→) (旧民主党→) (民主党→) (民進党(前原G)→) (無所属→) (旧立憲民主党(野田G)→) 立憲民主党 |
称号 | 社会科学士(早稲田大学・1985年) |
親族 | 父・安住重彦(元牡鹿町長) |
公式サイト | 安住淳 公式サイト |
第15代 財務大臣 | |
内閣 |
野田内閣 野田第1次改造内閣 野田第2次改造内閣 |
在任期間 | 2011年9月2日 - 2012年10月1日 |
選挙区 |
(宮城県第5区→) 宮城県第4区 |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1996年10月21日 - 現職 |
その他の職歴 | |
初・第3代 立憲民主党国会対策委員長 (2020年9月15日 - 2021年12月2日) (2022年8月26日 - 2024年9月24日) |
安住 淳(あずみ じゅん、1962年〈昭和37年〉1月17日 - )は、日本の政治家。立憲民主党所属の衆議院議員(10期)、衆議院予算委員長、立憲民主党宮城県連代表[1]。
衆議院懲罰委員長、財務大臣(第15代)、政府税制調査会長(第11代)、衆議院安全保障委員長、民主党選挙対策委員長、防衛副大臣(菅直人第1次改造内閣)、民主党国会対策委員長(第15代)、民主党幹事長代行(第2代)、民主党宮城県連代表、民進党国会対策委員長(初代)、民進党代表代行(第2代)、旧立憲民主党国会対策委員長(第2代)、立憲民主党国会対策委員長(初代・第3代)等を歴任した。
宮城県牡鹿郡牡鹿町(現・石巻市)生まれ。父は牡鹿町長を務めた安住重彦。
宮城県石巻高等学校を卒業後、一浪して早稲田大学社会科学部に入学。早大在学中は雄弁会、国際貿易論を専門とした大畑弥七のゼミに所属していた。早大卒業後、日本放送協会に報道記者として入局(大越健介、小池英夫は政治部記者の同期)。 秋田支局に配属。地方の警察担当で、扱う事件は強盗殺人、汚職、窃盗、マル暴、放火だったという[2]。その後、東京報道局政治部記者となる[3]。自由民主党を担当し、園田博之内閣官房副長官の番記者を務めた経験がある[4]。当時の上司に影山日出夫がおり、安住が政界入りする際は「よく大変な世界に入るよな」と励まされたという[5]。1993年にNHKを退職。
同年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党・新党さきがけの推薦を受け、無所属で旧宮城2区から出馬したが、落選。その後新党さきがけに入党するが、1996年に離党し、さきがけの幹部だった鳩山由紀夫や菅直人らが中心になって結党した旧民主党に参加する。
1996年の第41回衆議院議員総選挙では宮城5区から出馬し、初当選。元々、宮城5区を含む旧宮城2区は社会民主党から民主党結党に参加し、選挙前まで第1次橋本内閣の郵政大臣だった日野市朗の地盤であったが、この選挙では安住が宮城5区、日野が比例東北ブロック単独で出馬して共に当選している。2000年の第42回衆議院議員総選挙ではコスタリカ方式により安住が比例区、日野が選挙区で出馬する予定だったが、選挙前に候補者が差し替えられ、前回同様安住が宮城5区、日野が比例単独で出馬した。2000年11月、衆議院外務委員会理事に就任。
2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では、自民党が大勝する中、宮城県内で唯一民主党の議席を死守した。9月12日、党代表の岡田克也は引責辞任を表明[6]。岡田の辞任に伴う代表選挙(9月17日実施)では前原誠司の推薦人に名を連ねた[7]。前原は2票差で菅直人を破り代表に選出。民主党選挙対策委員長に就任。
2008年大阪府知事選挙ではガソリン値下げ隊36名を率いて熊谷貞俊候補を支援するが、熊谷は橋下徹に敗北した[8]。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では宮城5区で5選。総選挙後、衆議院安全保障委員長に就任。2010年6月、鳩山由紀夫首相が辞任し、後任の菅直人首相の下で再び民主党選挙対策委員長に就任。
第22回参議院議員通常選挙では民主党幹事長の枝野幸男と共に陣頭指揮を執るが、菅首相の消費税増税をめぐる発言のブレ等により、民主党は大敗を喫した。党内からは枝野幹事長、安住選挙対策委員長の責任論も噴出したが、菅首相は9月に民主党代表選挙で再選されるまで両名を続投させた。9月の民主党代表選挙では現職の菅直人への支持を表明し[9]、2010年9月に発足した菅直人第1次改造内閣では北澤俊美防衛大臣の下で副大臣に任命される。翌2011年1月、菅直人第2次改造内閣発足に伴う党役員人事で民主党国会対策委員長に就任した。5月12日、人権擁護法案を次期臨時国会で提出を目指す方針を示した[10]。
東日本大震災では実家も被災。与党民主党の東日本大震災対策副本部長・渡辺周が、物資不足への対応策を問われ、ガソリンを現地に運んでも貯蔵するところが無い。学校のプールに貯蔵できないか、と国会の司令塔・安住国対委員長が検討したことを語っている。なお、安住自身はそんな話はしたことがないと否定している[11]。
菅直人内閣の東日本大震災対応に批判が高まると「誰が総理大臣やってもとてつもない難問で、菅さんが全部悪いというのは乱暴だ」と反論し[12]、菅総理大臣の在日韓国人違法献金問題についても「日本名での献金で認識がなかった。不注意だったと思うが、故意ではないので心配していない。これからも丁寧に説明すればいい」と述べ[13]、菅内閣への退陣要求を牽制した。
2011年(平成23年)6月に自由民主党と公明党が、菅直人内閣の東日本大震災の対応などについて内閣不信任案を提出。民主党執行部に不信を募らせた民主党議員たちが同調の動きを見せたことに対し、「与党の責任を果たすため、大差で否決しないといけない。賛成者は誰であっても、何人であっても除名になる」と述べた。また自民党の逢沢一郎国対委員長に対して、7月上旬に菅直人内閣が退陣し民主党代表選挙を実施する意向を伝え、公債発行特例法案の早期成立に理解を求めた[14]。
2011年9月、野田内閣に財務大臣として初入閣。過去に財政政策関連のポストとは無縁だったため、財務相就任には本人も含め驚きの声が上がった[15]。安住は、衆院安全保障委員長、防衛副大臣など安全保障政策のポストを多く経験してきたため、防衛大臣への就任を予期して防衛白書を読んで準備していたという[16]。野田は岡田克也、川端達夫などに打診したものの辞退されていたが、財務省幹部から安住を推薦する声が上がったとされ、国対委員長としての折衝を通じて財務省の評価が高かったという[17]。同様に、消費税引き上げを最大課題とする野田が、国対委員長として野党対策に当たった手腕を見込んだとも言われる[18]。旧大蔵大臣時代を含めても、初入閣で財務大臣に就任するのは比較的異例であり(前任の財務大臣だった野田佳彦も、財務副大臣から昇格する形で財務大臣として初入閣している)、40代での財務大臣就任は史上初(大蔵大臣時代を含めても池田勇人、田中角栄の両首相経験者に次ぎ3人目)であった。野田第1次改造内閣、野田第2次改造内閣においても再任。2012年9月10日の松下忠洋金融担当大臣の死去に伴い、同日より金融担当大臣事務代理を兼務する[19]。
2012年9月28日、民主党幹事長代行並びに民主党政治改革推進本部長[20]に就任し、同年10月1日の野田第3次改造内閣発足に伴い財務大臣、金融担当大臣(事務代理)を退任した。
11月16日に衆議院解散されると、参議院議員である輿石東幹事長に代わり、党の衆院選対策を事実上取り仕切る立場で奔走する。「党の顔」の一人として「TV番組はすべて俺が出る」などと意欲を見せた[21]。
第46回衆議院議員総選挙では、現職閣僚や党幹部が軒並み苦戦し、その多くが落選する中、自民党の新人で同じNHK出身の元キャスターである大久保三代をダブルスコアで破り、6選を決める。なお宮城5区では第41回衆議院議員総選挙以降、次点以下の候補が比例復活した例がなかったが、この総選挙では、安住は初当選以来初めて、対立候補の比例復活を許している。
2013年1月25日の宮城県連大会において、民主党宮城県連代表に就任した。同年7月の第23回参議院議員通常選挙では、宮城県選挙区選出の岡崎トミ子元国家公安委員会委員長の選挙対策本部長を務めるが、岡崎は自民党の愛知治郎、みんなの党の和田政宗に次ぐ得票数3位で落選し、1997年の補欠選挙で岡崎が当選して以来、守ってきた民主党の議席を失った[22]。
2013年9月の党役員人事において、民主党東日本大震災復旧・復興推進本部長に就任[23]。
2013年10月15日に召集された第185回国会にて沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任。2014年、民主党国会対策委員長代理に起用される[24]。同年の第47回衆議院議員総選挙では、前回破った自民党の大久保が党の公認を得られず、代わって比例北海道ブロックから鞍替えした勝沼栄明が宮城5区から出馬したが、安住が勝沼を大差で破り、7選。2015年1月の民主党代表選挙では、元代表の岡田克也の推薦人に名を連ねた[25]。岡田代表の下で、民主党国会対策委員長代理に再任。
2016年3月27日、民主党・維新の党の合併により結党された民進党に参加し、国会対策委員長代理から昇格する形で初代民進党国会対策委員長に起用された[26][27]。2016年民進党代表選挙では蓮舫代表代行(当時)を支持し、自身は蓮舫代表の下での幹事長就任に強い意欲を見せていたが[28]、代表に選出された蓮舫の下で民進党代表代行に起用された[29]。
2017年7月末、野田佳彦の幹事長辞任により、蓮舫執行部は幹事長の人選ができず辞任に追い込まれた。このとき安住自身は代表代行の立場として、蓮舫を支えきれなかったことに申し訳ない気持ちでいっぱいだと語った[30]。
同年9月28日、民進党は希望の党への合流を決定[31]。9月29日、希望の党代表の小池百合子は「リベラル派排除」を宣言。記者団に「全員を受け入れるということはさらさらありません」と語る姿、記者会見でにこやかに「排除されない、ということはございませんで、排除いたします」と答える姿が何度もテレビに流れた[32][33]。安住は同日、民進党県連代表として立候補予定者を集めて対応を協議。自身は希望の党へ公認申請を出すことを考えていたが[34]、9月30日、民進党の前職、元職計15人の「排除リスト」が出回る。その中には見事に安住の名前もあった[注 1]。10月1日夜、党執行部に、希望の党からも立憲民主党からも公認を受けない無所属で立候補する意向を伝える。そして10月2日、石巻市で記者会見を開き、無所属出馬を正式に表明した[37]。
同年10月22日投票の第48回衆議院議員総選挙で再び勝沼を比例復活を許さぬ大差で破り、8選[38]。
10月26日に岡田克也が代表を務める院内会派・無所属の会の結成メンバーとなった[39]。
2018年5月1日、民進党と希望の党の合流による新党「国民民主党」について「小さな政党の離合集散に付き合う気になれない」と述べ、民進党に離党届を提出した[40]。
2019年1月15日には無所属の会から立憲民主党会派に入会した。
その後、同年9月19日に立憲民主党に入党、同日付で党国対委員長に就任した[41]。
2020年9月19日に(旧)立憲民主党と(旧)国民民主党が合流して結成した新「立憲民主党」に参加し、党国対委員長に就任した[42]。
2021年10月の第49回衆議院議員総選挙においては、立憲民主党から宮城5区に出馬し、小選挙区で当選した[注 2]。12月2日、立憲民主党の新執行部の発足に伴い、国対委員長を退いた(後任は馬淵澄夫)[43]。
2022年8月26日、立憲民主党の新執行部が発足し、安住は再び党国対委員長に就任した[44]。
同年11月18日、衆議院選挙区の新しい区割りである「10増10減」の改正公職選挙法案が参議院で可決され[45]、宮城県内の選挙区は6から5に削減され、各選挙区の区域が変更された[46]。同年12月13日、立憲民主党は常任幹事会を開き、次期衆院選公認候補69人を内定した。安住は(新)宮城4区(石巻市、塩竈市、多賀城市、東松島市、富谷市、宮城郡、黒川郡、牡鹿郡)からの出馬が内定した[47]。
2024年10月15日、第50回衆議院議員総選挙が公示され、新宮城4区からは安住、自民党現職の伊藤信太郎、日本維新の会新人の元石巻市議会議員の佐藤雄一、れいわ新選組新人の元釜石市議会議員の大林正英の4人が立候補した[48]。自民党は裏金問題や統一教会問題、10月23日に発覚した非公認候補への2000万円支給問題などで逆風が吹き荒れた[49][50][51][52]。10月27日、総選挙執行。安住自身にも不記載があったが、投票締め切りの20時直後には朝日新聞は安住の当選確実を報じ[53]、安住は10期目の当選を果たした。自民党は比例東北ブロックで5議席を獲得。単独1位の江渡聡徳と単独2位の森下千里を除く残り3議席は惜敗率の高い重複立候補者で占められ、5番目の惜敗率(64.185%)だった伊藤は議席を失った[54][55]。
同年11月13日、予算委員会の委員長に就任。野党議員の予算委員長は30年ぶりの事である[56]。12月5日の第216回国会・衆議院予算委員会にて委員長デビュー[57]。
ジャーナリストの鈴木エイトが作成した「旧統一教会関連団体と関係があった現職国会議員168人」によれば、旧統一教会関連団体との関係について、2010年に教団系メディアの『世界日報』にインタビューが掲載されていたとされる[88]。
2023年12月、自身の資金管理団体の政治資金収支報告書に、2023年4月に行われた30万円分のパーティー券収入を記載していなかったことが明らかになった。同月28日に報告書を訂正したとしたうえで、「先頭に立つ身であり、わかった時点で報告するのが義務と考える。ケアレスミスではあるが、私の責任なので申し訳ない」と陳謝した[89]。
当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 |
政党内比例順位 /政党当選者数 |
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落 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年 7月18日 | 31 | 旧宮城県第2区 | 無所属 | 3万6642票 | 11.79% | 3 | 5/8 | / |
当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 34 | 宮城県第5区 | 旧民主党 | 5万4550票 | 40.09% | 1 | 1/5 | / |
当 | 第42回衆議院議員総選挙 | 2000年 6月25日 | 38 | 宮城県第5区 | 民主党 | 6万9459票 | 47.23% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第43回衆議院議員総選挙 | 2003年11月 9日 | 41 | 宮城県第5区 | 民主党 | 7万3135票 | 50.75% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第44回衆議院議員総選挙 | 2005年 9月11日 | 43 | 宮城県第5区 | 民主党 | 7万8205票 | 50.66% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第45回衆議院議員総選挙 | 2009年 8月30日 | 47 | 宮城県第5区 | 民主党 | 8万9484票 | 58.57% | 1 | 1/2 | / |
当 | 第46回衆議院議員総選挙 | 2012年12月16日 | 50 | 宮城県第5区 | 民主党 | 6万2928票 | 57.86% | 1 | 1/5 | / |
当 | 第47回衆議院議員総選挙 | 2014年12月14日 | 52 | 宮城県第5区 | 民主党 | 6万4753票 | 59.51% | 1 | 1/3 | / |
当 | 第48回衆議院議員総選挙 | 2017年10月22日 | 55 | 宮城県第5区 | 無所属 | 8万9423票 | 63.91% | 1 | 1/2 | / |
当 | 第49回衆議院議員総選挙 | 2021年10月31日 | 59 | 宮城県第5区 | 立憲民主党 | 8万1033票 | 56.89% | 1 | 1/2 | / |
当 | 第50回衆議院議員総選挙 | 2024年10月27日 | 62 | 宮城県第4区 | 立憲民主党 | 10万2229票 | 52.07% | 1 | 1/4 | / |
安住淳 | 森下千里 | |
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石巻市 | 36,584 | 28,530 |
東松島市 | 10,415 | 8,479 |
大崎市 | 10,213 | 7,124 |
松島町 | 4,220 | 3,168 |
大郷町 | 2,140 | 1,745 |
涌谷町 | 4,698 | 3,191 |
美里町 | 7,810 | 4,476 |
女川町 | 1,730 | 1,598 |
南三陸町 | 3,223 | 3,099 |
計 | 81,033 | 61,410 |
公職 | ||
---|---|---|
先代 野田佳彦 |
財務大臣 第15代:2011年 - 2012年 |
次代 城島光力 |
先代 野田佳彦 |
政府税制調査会長 第11代:2011年 - 2012年 |
次代 城島光力 |
先代 榛葉賀津也 |
防衛副大臣 2010年 - 2011年 |
次代 小川勝也 |
議会 | ||
先代 伊藤達也 |
衆議院予算委員長 2024年 - |
次代 現職 |
先代 山井和則 |
衆議院懲罰委員長 2021年 - 2022年 |
次代 大串博志 |
先代 川内博史 荒井聰 |
衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長 2006年 - 2007年 2013年 - 2014年 |
次代 藤村修 松原仁 |
先代 今津寛 |
衆議院安全保障委員長 2009年 - 2010年 |
次代 奥田建 |
党職 | ||
先代 (結党) 馬淵澄夫 |
立憲民主党国会対策委員長 初代:2020年 - 2021年 第3代:2022年 - 2024年 |
次代 馬淵澄夫 笠浩史 |
先代 辻元清美 |
旧立憲民主党国会対策委員長 第2代:2019年 - 2020年 |
次代 (解党) |
先代 蓮舫 長妻昭 江田憲司 |
民進党代表代行 細野豪志 江田憲司 →江田憲司と共同 2016年 - 2017年 |
次代 枝野幸男 |
先代 結成 |
民進党国会対策委員長 初代:2016年 |
次代 山井和則 |
先代 樽床伸二 |
民主党幹事長代行 第2代:2012年 |
次代 中川正春 |
先代 鉢呂吉雄 |
民主党国会対策委員長 第16代:2011年 |
次代 平野博文 |
先代 玄葉光一郎 石井一 |
民主党選挙対策委員長 第7代:2005年 - 2006年 第11代:2010年 |
次代 鉢呂吉雄 渡辺周 |