安田財閥(やすだざいばつ)は、富山県出身の安田善次郎が設立した財閥である。日本の四大財閥の一つ。金融部門の絶対的な優位性を持つことから「金融財閥」とも呼ばれる。安田財閥の金融資本は他の財閥の追随を許さず、日本で最大の規模を誇っていた。
20歳で奉公人として江戸に出た安田善次郎が、26歳の1866年(慶応2年)に両替専業の安田商店を日本橋小舟町に開業。幕府の御用両替を軸に巨利を得る[1]。
明治維新に至ると、当時まだ信頼を得ていない額面割れした明治政府の太政官札に対する正金貸付業務を積極的に行い、大量の太政官札を収集。1869年(明治2年)に至り正金金札等価通用布告がなされ、額面引き換えにより更なる巨万の利益を得ることになる[2][3]。1876年(明治9年)に第三国立銀行を設立し、安田商店と並立させ金融業務の覇権を担う別組織として設置、1880年(明治13年)には安田商店を安田銀行(後の富士銀行、現・みずほ銀行)に改組する[4]。安田銀行は、諸官庁の両替及び金銀取り扱いの御用達となり、無利子で官金を引き受け運用し業務を拡大した[1]。
1887年(明治20年)に安田保善社(現安田不動産)を設立して財閥の要とし、銀行業以外への拡張を開始、釧路硫黄山(鉱山)と釧路鉄道、函館倉庫にまで手を広げた[5]。とくに硫黄は火薬の原料として海外に向けて輸出しその資金が財閥の基礎を築くに至る。1893年(明治26年)に帝国海上保険を設立し[5]、損保業務の充実をはかり、翌1894年(明治27年)に共済五百名社を共済生命保険に改組し生保業務も盤石を期した。同年には海運会社安田運搬事務所を設立している。1896年(明治29年)には不動産業務の東京建物を設立し、翌1897年(明治30年)に国産の洋釘を製造するために安田製釘所(現安田工業)を設立した[6]。同年、後の太平洋興発(三井財閥傍系)の前身となる安田炭鉱を釧路に設置した。1899年(明治32年)には拡大した事業を統括するために安田商事を設立し統率をとり、同年紡績業務として西成紡績所を設置した[7]。
1904年(明治37年)、関西の松本財閥破綻処理を政府に要請されるも、不採算と判断し拒絶するが、「天皇の意向」と政府に言い含められ、強引に引き受けさせられる。 松本財閥の基幹銀行である百三十銀行の建て直しに際しては、日本銀行の特別貸付600万円を受けたため国民の非難を受けたが[8]、元利そろえて返済したところ、安田財閥には、27万円の損害が残った。(『富の活動』第四編)
1909年(明治42年)、安田善次郎が一線を退き、番頭であり次女の婿である安田善三郎(伊臣貞太郎)が経営を主導する。そして1911年(明治44年)に安田銀行と安田商事を合併、株式会社安田銀行とし、銀行の近代化を図る。しかし、1919年(大正8年)に善次郎と善三郎の経営に対する確執(日本鋼管に対する支配強化を主張する善三郎と、浅野総一郎を尊重する善次郎)から、安田善三郎が安田家を去る[11]。事態の収拾をはかるため善次郎が安田家内で理事職を分担し、集団指導体制を敷く。
1921年(大正10年)に安田善次郎が凶刃に倒れ、安田家に混乱が起こるが、長男の安田善之助が二代目善次郎を襲名し、番頭に日本銀行大阪支店の結城豊太郎を抜擢。結城は安田財閥の組織変革と人材の刷新を断行し安田銀行とその傘下15行を揺るぎない組織に仕立てたが、1929年(昭和4年)にまたもや安田家との確執から結城が解任され、元台湾銀行頭取の森広蔵を番頭に抜擢する[12][13]。1936年(昭和11年)に二代目善次郎が急死し、その長男である安田一が安田保善社総長に就く。そして、1940年(昭和15年)に、森は安田銀行副頭取から退き、安田財閥は徐々に安田一を中心とする体制へと移行するが、程なく終戦を迎える[14]。
戦後の1945年(昭和20年)10月15日、理事会で安田保善社の解散が決定されていたものの[15]、最終的には1946年(昭和21年)、GHQによる「財閥解体」により安田保善社が財閥本社に認定されたことで解散。安田家に対しては財閥家族として認定し、資産凍結とともに持ち株の放出を命じ、更に関連会社役員への就職制限までも行われた[16]。
しかし、日本の主権回復後、安田家は安田関連会社への就職制限を解かれ、安田銀行の後身である富士銀行を中核として、芙蓉グループを形成した。安田財閥は企業集団としての復活はみたが、同族経営による支配体制ではなくなった[17][18]。
安田診療所を1926年(大正15年)9月、現在の千代田区大手町に設立。(現:一般財団法人 松翁会)[32]