おはら のりこ 小原 乃梨子 | |
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プロフィール | |
本名 | 戸部 法子(とべ のりこ)[1][2][3][4][5](旧姓:小原[4]) |
愛称 | ノッコ[6] |
性別 | 女性 |
出身地 | 日本・東京府東京市豊島区池袋(現:東京都豊島区池袋)[4][5] |
生年月日 | 1935年10月2日 |
没年月日 | 2024年7月12日(88歳没) |
血液型 | O型[2][7][8] |
職業 | 声優、女優、ナレーター |
事務所 | 81プロデュース(最終所属)[9] |
配偶者 | 戸部信一 |
著名な家族 |
小原栄次(父親) 戸部敦夫(息子) |
公式サイト | 小原乃梨子 - 81プロデュースの公式サイト |
公称サイズ(時期不明)[10] | |
身長 / 体重 | 162 cm / 48 kg |
声優活動 | |
活動期間 | 1950年代 - 2024年 |
ジャンル | アニメ、吹き替え、ゲーム、ナレーション |
デビュー作 | 『ポパイ』アテレコでのアニメデビュー[5] |
女優活動 | |
活動期間 | 1955年 - 2024年 |
ジャンル | テレビドラマ、舞台 |
デビュー作 | 『日真名氏飛び出す』 |
朗読家活動 | |
活動期間 | 1988年頃[11] - 2024年 |
ジャンル | 朗読 |
小原 乃梨子(おはら のりこ、1935年〈昭和10年〉10月2日[2][3][4][12] - 2024年〈令和6年〉7月12日[13])は、日本の声優、女優、ナレーター、朗読家。夫は演出家の戸部信一。息子はアニメーターの戸部敦夫。東京府東京市豊島区池袋(現:東京都豊島区池袋)出身[4][5]。81プロデュース最終所属[13]。
弁護士の小原栄次(鹿児島県士族)の次女[注 1]として生まれる[2][14][15][16]。父・栄次は明治生まれのハイカラで舶来が好きで、舶来のスーツを着こなし、ベッドに寝て、舶来のオーデコロンを愛用してふりかけていた[3][4]。また父は芸が好きで、端唄や小唄をうなり、寄席通いが好きで、六法全書の隣に落語全集がおいてあった[3][16]。父に連れられて柳橋に行き、色々な芸事にも触れてきたという[16]。3人姉妹で、父は姉に花柳流、小原に藤間流、妹に坂東流を習わせ、同じ曲を3人一緒に踊らせて見るのを楽しむ超粋人だった[3]。父は戦時中の時点では父兄会の会長をしていた[17]。母はカトリック教徒で、敬虔なクリスチャンだった[2][4]。毎週日曜日には家族揃って教会に出かけ、小原も礼拝を欠かさなかったという[4]。中学3年生か高校1年生位の頃、日曜学校に行き、クリスマスの聖誕劇の時はオルガンを弾いて子供たちに聞かせたり、青年部の人物のためにトルストイの『人は何のために生きるのか』を脚色したりしていた[18]。父から日本の、母から洋風の文化を受け継いだという感じであったという[16]。
兄、姉[16]、妹がいる[3]。父は、「本はいくらでも買っていい」という方針であったこともあり、兄、姉が買った『少年倶楽部』などの本も読ませてくれたという[16]。
小学生の頃はとても体が弱く、腺病質な女の子だった[3]。入院記録は13回で、テレビも無い病室で本ばかり読んでいたことからお話が好きになり、読むだけでなく、自分でやりたくなってしまったという[3]。
戦時中、小学3年生の時に小学6年生だった姉と一緒に東京から長野県上高井郡須坂町(現:長野県須坂市)に行き、長野県に最年少で集団疎開[17]するも、食べ物の好き嫌いが激しかったために半年で親元へ帰される。縁故疎開先の埼玉県所沢市で敗戦を迎える[4]。
小学5年生の時に近所の友人に誘われて、児童合唱団「虹の橋」に入団[4][7][19][20]。父は反対していたが、芸事が好きだった母が、父に内緒で通わせてくれたという[19]。子役として舞台、NHKの子供番組などに出演[4][19]。同じ小学校の3級下に池田昌子がいる[16][19]。仕事で新橋まで通っていたが、そこで耳にしていた曲『ドリームズ・カム・トゥルー』が一生のテーマ曲になったという[16]。
本を読むことや作文を書くことが好きだったため、当時は物書きになろうと考えており、村岡花子のような少女小説家に憧れていた[19]。中学時代に好きだったルイーザ・メイ・オルコットの『若草物語』が映画化され、母に連れて行ってもらい、ジョーを演じていたジューン・アリスンを見て、「女優ってすごい!! 女優になりたい」と女優を目指した[19][20]。後に映画『若草物語』の日本語吹き替え版でジョー役を演じた[20][21]。その時は嬉しく、「役者になって良かったなあ」と思ったという[18]。
小学校卒業後、跡見学園中学校・高等学校[10]に進学し、芸能活動を休止していたが[16]、同高校時代は演劇部の活動に熱中していた[4]。高校時代、学生演劇のコンクールで小原が通っていた高校としては初めて最終審査に残った[18]。その頃は東京都立九段高等学校が会場であったという[18]。高校時代は文芸部にも所属しており、生徒会長もしていた[22]。
同高校を卒業すると、自分と同じ法曹界に進ませたいという父親の期待に反して芸能界に入り、劇団の先輩の紹介でプロダクションに所属し、草創期の民放で女学生役でテレビドラマの仕事を始める[7][19][23][24]。所属事務所は、劇団女優座[4][25]、テアトル・ジェンヌ[3]、プレーヤーズ・センター[25]、東京プロ[25]、りんどうプロ[26]、高松事務所[25]、青二プロダクション[25]の所属を経て、2018年4月30日をもって創業時から所属していたぷろだくしょんバオバブを退所、同年6月3日付けで81プロデュースへ移籍した[27]。当初は女優としてテレビドラマ、ラジオドラマに出演していた[7]。新劇を続けるつもりだったが、「テレビドラマも面白そう」と感じていた[23]。同時期には生放送時代で始まったばかりの吹き替えの仕事にも参加[19][20][23]。
1957年、TBSのテレビドラマ『キンピラ先生青春記』で女学生役で出演し、初レギュラーでもあるアメリカのテレビドラマ『ソニー号空飛ぶ冒険』に、小林恭治、城達也と一緒にレギュラー出演していた[18][19]。当時は生放送で、ヘリコプター会社の秘書役を演じたが、「こちらヘレン、応答どうぞ」と言うセリフの時には、スイッチの効果音まで入れていた[19]。その時は生放送だけにトラブルも多かったが、元々映画好きだったことから、吹き替えの仕事が面白くて仕方がなかったという[19]。結婚後、家庭を持つと子育ての時間のやりくりができる声優業に専念することになった[16][23]。好きだった映画の主人公を声で演じられるのが嬉しく、声優の仕事にのめり込んで行ったという[19]。
1950年代 - 1960年代は洋画の吹き替えに出演していたが、1960年代後半から、洋画と並行してアニメの仕事も増えていったという[28]。アテレコをしていた最初のアニメは『ポパイ』[5]。
『チキチキマシン猛レース』、『未来少年コナン』、『アルプスの少女ハイジ』、「タイムボカンシリーズ」など、多くの人気作品でレギュラーキャラクターを担当[9][28]。
1979年からは『ドラえもん』で野比のび太を演じることとなり、2005年にリニューアルされるまでの約26年間、のび太役を務めあげた[28]。後任は大原めぐみ。
1988年頃より講演活動と童話の朗読活動を開始[11][24]。1998年からは『小原乃梨子の読み聞かせ講座』として全国展開した[23]。朗読の指導や読み聞かせの研究会に力を入れている[24][29]。
2005年、第14回日本映画批評家大賞で、『ドラえもん』(テレビ朝日版)のオリジナルレギュラー陣(大山のぶ代、野村道子、たてかべ和也、肝付兼太の4人)とともに田山力哉賞を受賞[24]。さらに2006年11月、第11回アニメーション神戸で、同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに特別賞を受賞[24]。2007年3月には東京国際アニメフェア2007で、同じくオリジナルレギュラー陣4人とともに第3回功労賞を受賞[24]。
2007年3月3日、第1回声優アワード功労賞を受賞[24][30]。
2013年3月2日、第7回声優アワードで森功至、大平透、岡本茉利と共に「シナジー賞(タツノコプロ50周年)」を受賞[31]。
2024年7月12日に死去[13]。88歳没。同年3月には知人のイベントに参加、4月と6月には山田栄子らとも対面をしていて元気な様子を見せていたが、野村によればここ数年闘病をしており、施設にも入っていたという[32][33]。訃報は同年7月23日に81プロデュースにより発表された[13]。同年7月27日放送分の『ドラえもん(テレビ朝日版第2期)』では番組の最後に小原が演じたのび太の映像と共に追悼のテロップが流れた。藤子・F・不二雄ミュージアムや水田わさびなども哀悼の意を表した[34][35]。
2024年10月30日に「小原乃梨子 お別れの会」が開かれ、戸部敦夫が発起人代表を務めた[36]。また、野村、水田、かかずゆみ、羽佐間道夫、水島裕らが参列した[37][38][39]。冒頭では『ドラえもん』をはじめとする数作品の映像と同作のテーマソングが流れ、献花が行われた[40]。
趣味・特技は美術、クラシック音楽、バレエ鑑賞、ボールルームダンス、フルート、ハープ[9]、ゴルフ、バラ作り、読書、英会話[41][42]。
ウィンナ・ワルツを好んで聴き、しばしばウィーンを訪れるほどである。NHKの『N響アワー』にゲスト出演したこともあり(1999年7月11日放送)、司会の池辺晋一郎とは『未来少年コナン』で共演(小原は主人公のコナンを演じ、池辺が音楽を手がけた)している。
「声優の仕事は体力と気力」とのことで、男の子役を演じるになってからは「筋力も大事だ」と思っていた[28]。しかし多忙の時期には食事を抜くなど、ガス欠の状態で仕事をしていたため、目眩がしてフラフラしており、「しっかり食べなきゃ動けない」、「1日24時間しかない」という当たり前のことがわからず、ハードなペースで動いていたため、結局事務所や周囲の皆に迷惑をかけてしまったという[28]。その後は栄養管理も含めてしっかり食事のことを考えるようになったが、2013年時点では「今日はたくさん仕事をしたから、早く寝なきゃ」と思い、家に帰っても、ビデオを見たり本を読んだりして寝不足になってしまうという[28]。
好きな言葉は「人は女に生まれない、女になるのだ」[2]。
テレビドラマ出演の傍ら、洋画吹き替え、アニメなど声優としても活躍している[16]。
演じる役柄は様々だが、声を変えようという明確な意識は無く、気持ちを変えるとその声になるという[20]。プロデューサー、ディレクターからオファーのある役には「なぜ?」と疑問に思うものもあるが、自分の中にある何かを誰かが見つけたり、演じている自分自身に驚いたりと、演じることが楽しいという[20]。映画版『クラッシャージョウ』では、クラッシャージョウチームの機関士リッキーを演じたが、原作者の高千穂遙から「『リッキーの声は小原さんしかいない』と指名があり、キャラクターを見せてもらったらリッキーが可愛いんです」とコメントしている[44]。後のOVA版でもリッキーを演じている。
2005年まで26年にわたり担当した『ドラえもん(テレビ朝日版第1期)』の野比のび太役を筆頭に、少年役を得意とする声優の1人としてアニメ創成期より活躍[20][28]。テレビアニメの最初の少年役は1966年の『ハリスの旋風』のメガネ役[28]。弱っちい男の子のキャラクターを出すために「先輩~ッス」という言い方を考えたという[28]。その後、「弱っちい男の子像」はのび太に繋がっていったが、逆に強い体力満々の役は苦手で貧血を起こすからかもしれないという[28]。『海底少年マリン』、『未来少年コナン』など元気な男の子役の時は「大丈夫かな?」と思っていたが、いざ演じてみると楽しかったという[28]。最初の頃は、男の子役はお手本がなかったため、「どうやったら男の子の声が出るかしら?」と色々試行錯誤していたという[28]。一時期は喉を壊したこともあり、声のことを考えると辛かったという[28]。変わったのは、『アルプスの少女ハイジ』でペーター役を演じていた時で、「無理に男の子の声を作るんじゃくて、男の子の感情や感覚をつかめばいいんだ」と気付いたという[28]。自身の息子や、息子の周囲の子供達を見て参考にしていたという[28]。そのような役作りをするようになってからは、アニメの仕事が大変面白くなったという[28]。一方、『69年版ムーミン』での「おさびし山のガンマン」の無法者の女性親分や、『タイムボカンシリーズ』での三悪の女ボスなど、妙齢のコケティッシュな女性役もこなしている[20][28]。
洋画吹き替えではブリジット・バルドー[20][45]、シャーリー・マクレーン[20]、ジェーン・フォンダ[20][45]、ミレーヌ・ドモンジョ[25]、クラウディア・カルディナーレ[20]、アン・マーグレット、シルビア・クリステルなどを持ち役としている。
吹き替えが始まった頃から、出てくるなり「ハアハア」言うような色っぽい役が多かった[19]。ロマンスやラブシーンも多く、吹き替え草創期のほとんどのヒロイン役を演じていたという[19]。
太字はメインキャラクター。
野比のび太の声で担当
その他の声で担当
ドロンジョの声で出演
野比のび太の声で出演
その他の声で出演
小原の高齢に伴う降板後、持ち役を引き継いだ人物は以下の通り。
後任 | 役名 | 概要作品 | 後任の初担当作品 |
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鶴ひろみ | ルビーナ | 『UFOロボ グレンダイザー』 | 『スーパーロボット大戦A PORTABLE』 |
テラル | 『宇宙大帝ゴッドシグマ』 | 『スーパーロボット大戦Z』 | |
喜多村英梨 | 三悪の女ボス | 「タイムボカンシリーズ」 | 『CRヤッターマン』[注 2] |
高島雅羅 | 氷の女王 | 『それいけ!アンパンマン』 | 2020年12月25日放送回 |
平野文 | 黒バラ女王 | 第1545話Bパート | |
摩味 | ペーター[105] | 『教えて!トライさん』 | 2023年以降のシリーズ |