小和田 恆 おわだ ひさし | |
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生年月日 | 1932年9月18日(92歳) |
出生地 | 日本 新潟県 |
出身校 |
東京大学 ケンブリッジ大学 |
称号 |
教養学士(東京大学・1955年) イギリス法学士(LL.B.)(ケンブリッジ大学・1956年) 名誉博士(法学)(敬和学園大学・2000年) 名誉博士(法学)(バーナラス・ヒンズー大学・2001年) 名誉博士(法学)(早稲田大学・2004年) 名誉博士(法学)(フローニンゲン大学・2009年) 名誉博士(法学)(ケンブリッジ大学・2015年) 名誉博士(法学)(広島大学・2016年) 名誉博士(二松学舎大学・2019年) |
配偶者 | 小和田優美子 |
子女 |
皇后雅子 池田礼子 渋谷節子 |
第22代 国際司法裁判所所長 | |
在任期間 | 2009年2月6日 - 2012年2月5日 |
在任期間 | 2003年2月6日 - 2018年6月7日 |
在任期間 | 1997年 - 1998年10月 |
在任期間 | 1994年4月 - 1998年10月23日 |
在任期間 | 1991年8月2日 - 1993年8月1日 |
その他の職歴 | |
外務審議官(政務担当) (1989年8月18日 - 1991年8月1日) |
小和田 恆(小和田 恒、おわだ ひさし、1932年〈昭和7年〉9月18日 - )は、日本の外交官、国際法学者。第22代国際司法裁判所(ICJ)所長。
国連大使・外務事務次官などを歴任。皇后雅子の実父。愛子内親王の母方の祖父。
1932年(昭和7年)、新潟県北蒲原郡新発田町(現:新発田市)に生まれる[1]。小和田毅夫・静夫妻の次男で、8人きょうだいの4番目にあたる[2]。父・毅夫は新潟県立高校長を務めた[3]。生家の跡地は現在清水園の駐車場となっている[4]。本籍地は新潟県村上市。
旧制新潟県立柏崎中学校(現:新潟県立柏崎高等学校)2年のとき、父の転勤により旧制新潟県立高田中学校に転校した[2]。高田中学校在学中の学制改革を経て新潟県立高田高等学校を卒業し、東京大学教養学部教養学科(国際関係論分科[5])に進み、在学中の1954年(昭和29年)に外交官領事官試験に合格、翌年の1955年 (昭和30年)に大学を卒業して(教養学士)、外務省に入省した。
外務省入省後に英ケンブリッジ大学に留学し、1956年(昭和31年)にイギリス法学士(LL.B.)を取得[6]。外務省条約局法規課(1959年〈昭和34年〉 - 1963年〈昭和38年〉)[6]。在ソ連日本国大使館一等書記官に就任する。ロシア語に堪能であるため北方領土問題、漁業交渉、サハリン残留韓国人の帰国問題などを担当した[7]。1963年(昭和38年)、東京大学法学部の非常勤講師に就任し(在外勤務中を除く)、1988年まで国際法、国際機関論の講義にあたる。以降国際連合日本政府代表部一等書記官などを経て、1971年(昭和46年)に欧亜局大洋州課長、外務大臣秘書官事務取扱、1972年(昭和47年)に国際連合局政治課長、1974年(昭和49年)に条約局条約課長。
1976年(昭和51年)に 第67代福田赳夫内閣総理大臣秘書官に就任し日中平和友好条約の作成に参加する。同秘書官には他に福田康夫、保田博、棚橋祐治らがいる。1979年(昭和54年)には在米大使館公使、6年前からの招聘にようやく応えハーバード大学ロー・スクール客員教授に就任し一家で渡米する。日本電信電話公社(現:NTT)の物資調達解放をめぐる日米交渉で、ストラウス合衆国通商代表から交渉の根回し役に指名されたのが小和田で、大筋合意する立役者となった。在ソ連大使館公使、1984年(昭和59年)に条約局長、1987年(昭和62年)に外務大臣官房長、1988年(昭和63年)に経済協力開発機構(OECD)政府代表部(特命全権大使)、1989年(平成元年)に外務審議官(政務担当)、1991年(平成3年)に外務事務次官、1994年(平成6年)に国連大使などを歴任する。外務事務次官であった1991年(平成3年)の湾岸戦争の際には、自衛隊の派遣に反対の立場をとった。同じく外務事務次官時代に起こった慰安婦問題に関しては法的には解決済みである事実をあえて無視して謝罪と賠償の方針を決め当時の宮沢喜一首相に進言して「河野談話」のきっかけを作った[8]。
1992年(平成4年)の天皇明仁による初の天皇訪中は小和田恆事務次官が主導していたことが2023年の外交文書公開で明らかになった[9]。
1993年(平成5年)、長女の雅子が皇室に入内したため、同年7月に外務省を退官し外務省顧問に就任する。任期2年の外務事務次官退任後は駐米日本大使に就任するのが既定のコースであったが、人員上就任せず翌年まで顧問を務める。
1995年(平成7年)国会の場で昭和62年の外務大臣官房長時代に創価学会の池田大作一行が香港並びにタイ、マレーシア、シンガポールを訪問する際に便宜を図った疑惑を追及された。(第134回国会 参議院 宗教法人等に関する特別委員会 第3号 平成7年11月27日)。
1994年(平成6年)、国連大使と国連日本政府常駐代表(特命全権大使)に就任する。外務省には慣例通り駐米大使への就任論が強かったが、皇太子妃の実父という立場で困難な日米交渉に関与し「傷がつく」ことを懸念し、当時の河野洋平外相、宮澤喜一首相らが同意しなかったとされる[10]。
一方で当時の日本は常任理事国入り(G4諸国)という難題を抱えており、「エース格」を国連に送り込んだという意味合いもあった[11]。1998年10月まで務め、同時に米国のコロンビア大学、ニューヨーク大学・ロー・スクール客員教授に就任し国際法の教授にあたった[12]。
入省以来、外務省外では国際連合総会第6委員会、国連友好関係特別委員会、国連宇宙空間平和利用委員会、深海底平和利用委員会等の代表において、国際法分野で一貫して活動してきた。その他に参加した主要な国際法分野における国際法会議としては、第二次国連海洋法会議(UNCLOS・1960年)、国連条約法会議(1968年 - 1969年)、第三次国連海洋法会議(1979年 - 1982年)、コペンハーゲン社会開発サミット(1994年)、第49回国連総会(1994年 - 1995年)、アフリカ統一機構総会(1995年 - 1997年)、第4回北京世界女性会議(1995年)、米州機構会議(1996年)、非同盟諸国首脳会議(1997年 - 1998年)及び国際刑事裁判所設立外交会議(1998年)などがある。
1997年(平成9年)1月と1998年(平成10年)4月に国際連合安全保障理事会(UNSC)の議長を務める[13]。1998年(平成10年)、財団法人日本国際問題研究所理事長[14]、世界銀行総裁特別顧問に就任する[15][16]。1999年(平成11年)、オランダ王国ハーグ市の平和宮にあるハーグ国際法アカデミー教授に就任する[17]。
国内では、2000年から早稲田大学大学院アジア太平洋研究科客員教授(国際機構論)[18][19]、大阪大学大学院国際公共政策研究科(OSIPP)客員教授[20]、放送大学教授(国際関係論)[21]、ハーバード・ロー・スクール客員教授[22](Mitsubishi Visiting Professor、三菱客員教授[注釈 1])にそれぞれ就任する。さらに民間外交推進協会(FEC)評議員会議長就任[23]。日本国際問題研究所理事長[24](1999年3月 - 2003年1月)。外務省顧問、世界銀行総裁上級顧問、2002年(平成14年)からは広島大学の学術顧問も兼任し[25]、「ひろしま平和貢献構想策定」平和政策研究会・ワーキンググループ研究顧問に就任する[26]。
2003年(平成15年)に国際司法裁判所(ICJ、オランダ・ハーグ)判事に任命された[27]。前任は、小田滋(1976年 - 2003年まで3期27年間)[28]。2009年(平成21年)国際司法裁判所所長に国際選挙の互選で選出された。ICJの所長に日本人が就任するのは初めて[29]。所長任期は3年で、2012年(平成24年)2月に退任した[30]。所長選挙は、15人の判事による互選方式で実施された。中曽根弘文外務大臣は「小和田氏の今後のさらなる活躍を期待する。日本は、今後も国際社会における法の支配の推進に積極的に貢献していきたい」という談話を発表した。2010年(平成22年)7月22日にセルビアからのコソボの独立の是非に関して、国際法違反には当たらないとの判断を下した(コソボ#コソボの独立も参照)。所長退任後は判事を継続。2007年(平成19年)、広島大学大学院総合科学研究科顧問教授、オランダのライデン大学名誉教授、国際法協会日本支部理事[31]、日本国際法学会名誉理事[32]、アジア国際法学会会長[33]、アメリカ国際法学会名誉会員、万国国際法学会(Institut de Droit International)正会員(アソシエイト)[34]、常設仲裁裁判所国別裁判官団判事に就任する[35][36]。2018年(平成30年)、核脅威イニシアティブ(NTI)名誉役員に就任する[37]。同年6月7日付で国際司法裁判所判事を退任[38]。中学生の時の敗戦体験がキャリアの出発点になった旨、法の支配の実現を目的とする仕事に人生を通じて就くことができ、幸せであるという旨を語った[38]。国際司法裁判所判事の後任は岩沢雄司(任期は2021年2月まで)[39]。
愛子内親王の系譜 |
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