小山 いと子 | |
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『女性教養』1956年1月号より | |
誕生 |
池本 イト 1901年7月13日 日本 高知県長岡郡大篠村(現・南国市)篠原 |
死没 | 1989年7月25日(88歳没) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
最終学歴 | 九州高等女学校 |
活動期間 | 1933年 - 1989年 |
ジャンル | 中間小説、大衆小説 |
代表作 | 『執行猶予』(1950年) |
主な受賞歴 | 直木三十五賞(1950年) |
デビュー作 | 『海門橋』(1933年) |
配偶者 | 離婚2回 |
影響を受けたもの
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小山 いと子(こやま いとこ、1901年7月13日 - 1989年7月25日)は日本の作家。高知県長岡郡大篠村(現・南国市)篠原出身[1]。出生名は池本 イト、結婚後は小山 イト[2]。綿密な調査に基づき社会問題を扱った作品が多く、清純なヒューマニズムと社会性が特徴である[3]。「執行猶予」で第23回直木三十五賞を受賞した。『読売新聞』紙上の人生相談「人生案内」回答者を務め[2]、皇太子妃美智子に関する小説連載中止騒動に巻き込まれたことでも知られる[4]。
福岡女子師範学校(現・福岡教育大学)を卒業[2]。在学中に歌人の橋田東聲の門下生となる。1920年(大正9年)、19歳で父親により結婚を強要されるが、相手を好きになれず、男性に対する反逆心を持ち始める[1]。橋田の主宰する短歌雑誌『覇王樹』グループの一人で妻子ある島根県警察特高課の男性と恋愛をし、後年その経験を自伝的小説『海は満つることなし』に書いた[1]。1928年からは『火の鳥』同人となる[2]。1941年(昭和16年)、40歳で離婚[1]。戦争中の従軍をはさんで1945年(昭和20年)に同じ男性と再婚するが、1954年(昭和29年)ふたたび離婚した[2]。
処女作は1933年の小説「海門橋」で[1]、『婦人公論』の懸賞に当選した。1950年に「執行猶予」(中央公論2月号)で第23回直木賞を受賞した(受賞時49歳1か月)[1][2]。
『執行猶予』ほかいくつかの作品は映画化されている[6]。
ハンガリー動乱では「日本ハンガリー救援会」の中心人物として活躍、オーストリアへ趣きハンガリー難民に対しての慰問活動を行った。林光や中野重治はこれに対して批判的な文章を書いている。
後半生は東京都杉並区和泉町に自宅を構え、40年ほどを過ごした[1]。88歳没[1]。
1961年1月号から、雑誌『平凡』に小説「美智子さま」を連載していたが、1963年3月11日に宮内庁は発行元の平凡出版に対してこの小説「美智子さま」に対して「興味本位で、世間に誤った印象を与え、好ましくない」として連載中止を申し入れた[4]。「(1)興味本位の実名小説で私生活に対する侵害である」「(2)事実と小説との間があいまいで、国民に誤解されるおそれがある」「(3)事実に相違することも部分的にある」の3点について問題があるとし、宮内庁の伊藤総務課長より平凡出版の清水専務に対してその旨の要望が伝えられた。
具体的な問題点は秩父宮妃、高松宮妃、伊勢神宮祭主北白川房子が美智子妃に対し好意的でないと書かれた件、皇太子夫妻の初夜の描写が事実と違いプライバシーに反するという件だったとされる[4]。
最終的には平凡出版はこの要望を受け入れて五月号で連載を中止[7]したが、その後美智子妃がストレスとは無関係ながら流産し長期静養に追い込まれたため、この件と関連付けて全国紙からのバッシングを受けた[4]。小山は実際には皇室尊崇の立場にあって、小説の内容に関しては東宮御所筋に問い合わせて行っており、連載中止に対し悔しい思いをしたと語った[4]。元宮内庁記者板垣恭介は圧力をかけたのは当時の東宮側と対立する宮内庁筋と推察している[4]。