南京での降伏受諾式。小林浅三郎(左)と何応欽 | |
生誕 |
1891年4月1日 日本 兵庫県 |
死没 | 1974年3月7日(82歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1946年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
小林 浅三郎(こばやし あささぶろう、1891年(明治24年)4月1日 - 1974年(昭和49年)3月7日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
兵庫県出身。農業・小林荘助の三男として生れる。鳳鳴中学校卒を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し歩兵第70連隊付となる。陸士生徒隊付などを経て1922年(大正11年)11月、陸軍大学校(34期)を卒業。
1923年(大正12年)1月、歩兵第70連隊中隊長に就任。陸軍歩兵学校教官を経て、1927年(昭和2年)3月から1929年(昭和4年)6月までイギリスに駐在。この間、1927年12月、歩兵少佐に昇進した。1929年8月、歩兵学校教官となり、教育総監部課員に転じ、1931年(昭和6年)8月、歩兵中佐に進級。1933年(昭和8年)8月、秩父宮雍仁親王付武官に就任。1935年(昭和10年)8月、歩兵大佐に昇進し歩兵学校教官となる。1936年(昭和11年)8月、近衛師団参謀長に発令され、歩兵第3連隊長を経て、1938年(昭和13年)11月、陸軍少将に進級し第12軍参謀長に着任、日中戦争に出征。
1939年(昭和14年)12月、教育総監部第1部長に転じ、歩兵学校長、第4軍参謀長を歴任。1941年(昭和16年)8月、陸軍中将に進み、同年12月、防衛総参謀長に就任し太平洋戦争を迎えた。1943年(昭和18年)6月、第30師団長に親補され平壌に赴任。1944年(昭和19年)3月、防衛総参謀長に再任。1945年(昭和20年)2月、支那派遣軍総参謀長に異動し南京で終戦を迎えた。1946年(昭和21年)7月に復員。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。