小野道風(伝頼寿筆、鎌倉時代、三の丸尚蔵館所蔵) | |
時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛平6年(894年)[注 1] |
死没 | 康保3年12月27日(967年2月9日) |
官位 | 正四位下・内蔵頭 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇 |
氏族 | 小野氏 |
父母 | 父:小野葛絃 |
兄弟 | 好古、道風 |
子 | 奉時、長範、奉忠、奉明、公時 |
特記 事項 | 一説には小野小町の従弟 |
小野 道風(おの の みちかぜ/とうふう[注 2])は、平安時代前期から中期にかけての貴族・能書家。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の三男。官位は正四位下・内蔵頭。
それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。
小野葛紘が尾張国春日井郡上条(現在の愛知県春日井市松河戸)に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる[1]。史実としては確認できない、あくまで伝承の類であるが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていた。
醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会の屏風の色紙形を書く[2]。延喜20年(920年)能書の撰により非蔵人に補されると、翌延喜21年(921年)右兵衛少尉に任ぜられる。延長3年(925年)少内記となるが、同年に勧修寺で行われた醍醐天皇の生母である贈皇太后・藤原胤子の法要において、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢される。以後道風の宮廷内における能書活動が活発になっていく[3]。延長4年(926年)興福寺の寛建が入唐するにあたって、当時の日本の文士文筆を唐に対して誇示するために、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書・草書各一巻を携行しており[3]、既に日本を代表する能書家になっていた様子が窺われる。のち、醍醐朝では書家として以下の活動がある。
朱雀朝では従五位下に叙爵され、内蔵権助や右衛門佐を務めた。朱雀朝での活動には以下がある。
村上朝に入ると、天慶9年(946年)右衛門府の官人が職務を怠り会昌門を開かなかったとして処罰され、右衛門佐であった道風は贖銅2斤の刑に処される。さらに、翌天暦元年(947年)には障りの由を伝えないまま荷前使の差遣に参加しなかったため解官の憂き目に遭った。その後は以下の活動を行っている。
天徳2年(958年)正月に道風は山城守への任官、あるいは近江権守の兼帯を請う奏状を村上天皇に奉じる。その願いは叶わなかった一方で、その文章は平安時代の代表的な詩文集を集めた『本朝文粋』に収められている[9]。同年3月に新たに乾元大宝が鋳造されることになったが、眼病(老人性白内障か)の進行により細字を書くことが困難になっていたため、銭文の土代(字様)を書くことができなかった[10]。しかし、第一の能書としての評判は変わらず、翌天徳3年(959年)5月に藻壁門の額字を揮毫。さらに、8月に清涼殿で行われた詩合において、慣例であれば左右の各10首の清書は別人が書くべきところ、村上天皇は両方の清書を道風が行うことを望む。そこで、左方は勅令により道風が清書し、右方は右兵衛督・源延光の邸宅に強引に連れ込まれて酒でもてなされたあげく道風が清書させられている。しかしこの時の清書も「能書之妙」「義之再生」と絶賛された[11]。
天徳4年(960年)9月に内裏が火災によって焼亡する[12]。村上天皇は道風が書いた橘直幹の申文を大切にしており、この火災においても「直幹が申文は取り出でたりや」と発言したという。まもなく内裏再建計画が立てられ、道風は木土頭の官職にあったものの、健康不良により急遽発生した激務には耐えられず、10月初旬には内蔵権頭に遷った[13]。応和元年(961年)再建された内裏の承明門額や殿舎の額を揮毫している[13]。
康保3年(966年)12月27日卒去。享年73。最終官位は正四位下行内蔵権頭。
能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている[14]。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。
空海筆の額字について「美福門は田広し、朱雀門は米雀門、大極殿は火極殿」と非難したという[15]。これは、空海が筆力・筆勢を重んじたのに対して、道風は字形の整斉・調和を重要視したという書に対する姿勢の違いや、道風の書が天皇や貴族に愛好され、尊重していた自負によるものと想定される[16]。
晩年は健康を壊して随分と苦しんだ[17]。中風に苦しんでいたらしく、65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。
勅撰歌人として『後撰和歌集』に5首の和歌作品が採録されている[18]。
道風の作品は、雄渾豊麗、温雅で優れ、草書は爽快で絶妙を極め、その筆跡を「野跡」という。醍醐天皇は深くその書を愛好され、醍醐寺の榜や行草法帖各一巻を書かせた。
古来、道風を伝承筆者とするが、疑問視されているもの
道風が、自分の才能が足りないことを悩んで、書道をあきらめかけていた時のことである。ある雨の日のこと、道風が散歩に出かけると、柳に蛙が飛びつこうと、繰りかえし飛びはねている姿を見た。道風は「柳は離れたところにある。蛙は柳に飛びつけるわけがない」と思っていた。すると、たまたま吹いた風が柳をしならせ、蛙はうまく飛び移った。道風は「自分はこの蛙の努力をしていない」と目を覚まして、書道をやり直すきっかけを得たという。ただし、この逸話は史実かどうか不明で、広まったのは江戸時代中期の浄瑠璃『小野道風青柳硯』(おののとうふうあおやぎすずり : 宝暦4年〈1754年〉初演)からと見られる[注 3]。その後、第二次世界大戦以前の日本の国定教科書にもこの逸話が載せられて多くの人に広まり、知名度は高かった[注 4]。
この逸話は多くの絵画の題材とされ、花札の札の一つである「柳に小野道風」の絵柄もこの逸話を題材としている[注 5]。また現在では東名高速道路・名古屋第二環状自動車道上での春日井市のカントリーサインの絵柄にこの絵が採用されている。
道風を祭神として祀る神社がいくつか存在する。
中圭子「小野道風」による[3]。