尾崎 行雄 おざき ゆきお | |
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生年月日 |
1858年12月24日 (安政5年11月20日) |
出生地 | 相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野) |
没年月日 | 1954年10月6日(95歳没) |
死没地 | 東京都新宿区 |
出身校 |
慶應義塾中退 (現・慶應義塾大学) 工学寮中退 (現・東京大学) |
所属政党 |
(立憲改進党→) (進歩党→) (憲政党→) (憲政本党→) (政友会→) (猶興会→) (政友会→) (中正会→) (憲政会→) (革新倶楽部→) 無所属 |
称号 |
正三位(1946年返上) 勲一等旭日大綬章(1946年返上) 衆議院名誉議員 東京都名誉都民 世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)初代会長 |
配偶者 |
前妻・尾崎繁子[1] 後妻・尾崎テオドラ |
子女 |
四男・尾崎行輝 三女・相馬雪香 |
第20代 司法大臣 | |
内閣 | 第2次大隈内閣 |
在任期間 | 1914年4月16日 - 1916年10月9日 |
第14代 文部大臣 | |
内閣 | 第1次大隈内閣 |
在任期間 | 1898年6月30日 - 1898年10月27日 |
選挙区 |
(三重県第5区→) (三重県郡部→) (三重県第8区→) (三重県第2区→) (三重県選挙区→) 三重県第2区 |
当選回数 | 25回(史上最多) |
在任期間 | 1890年7月2日 - 1953年3月14日 |
尾崎 行雄(おざき ゆきお、1858年12月24日〈安政5年[注釈 1]11月20日〉- 1954年〈昭和29年〉10月6日)は、日本の政治家、教育者。号は咢堂(がくどう。最初は学堂、愕堂を経て咢堂)。
日本の議会政治の黎明期から第二次世界大戦後に至るまで衆議院議員を務め、当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有し、「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。政友会時代を除き、政権与党に属したことはなかった。東京市長時代の1912年(明治45年)にアメリカ・ワシントンD.C.のポトマック河畔に桜(ソメイヨシノ)の苗木を寄贈したことでも知られ、返礼として日本に初めてハナミズキをもたらした[2]。
聖公会信徒[2][3]。正三位勲一等(1946年5月4日付返上)[4]。称号は衆議院名誉議員、東京都名誉都民。伊勢神宮内宮前の饗土橋姫神社左隣の参道の奥に鎮座する合格神社の祭神[5]。世界連邦建設同盟(現・世界連邦運動協会)初代会長。
安政5年11月20日(1858年12月24日)、相模国津久井郡[注釈 2]又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)生まれ。幼名は彦太郎。
行雄の父・尾崎行正の生家は漢方医を業とし、漢学者・藤森弘庵の私塾に桂小五郎(木戸孝允)の先輩として学んだ。尾崎家の先祖は今川義元の家来で、武田信玄に攻め立てられて没落した。尾崎家は天正18年(1590年)に後北条氏が滅びてから又野に移り、累世相続いて里長となる。掃部頭行永以前の尾崎家先祖が住んでいたといわれる伏馬田城というのは現在の相模原市緑区牧野(まぎの)にあったが、その城跡一帯は現在尾崎ヶ原といわれている。
父・行正(彦四郎)は、戊辰戦争の際、官軍土佐藩迅衝隊総督の板垣退助の徳を慕って馳参じ、隊長・美正貫一郎の率いる断金隊(旧武田家臣の子孫たちで構成された部隊)に加わって会津戦争を戦い抜き、貫一郎の討死後は断金隊の2代目隊長に任ぜられた。明治維新後は弾正台の役人となった。
行雄は11歳まで又野村で過ごした後、父・行正に従い明治元年(1868年)に番町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学び、次いで明治4年(1871年)に高崎に引越し、地元の英学校にて英語を学ぶ。その後、明治5年(1872年)に度会県山田(現・三重県宇治山田)に居を移す。行雄も宮崎文庫英学校に入学した。父は熊本転任が予定されていたため、東京遊学を許し、行雄に弟を同行させて慶應義塾へ向かわせた。
明治7年(1874年)に弟と共に上京し、当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾童子局[6]に入学するやいなや塾長の福澤諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となる。福澤諭吉は慶應義塾の英語教師を務める聖公会のカナダ人宣教師のA・C・ショーに塾生に対するキリスト教教育の機会も与え、信仰を持った尾崎は、明治8年(1875年)のクリスマスにショーよりキリスト教の洗礼を受ける。この時、8人の日本人がショーから洗礼を受けたが、そのうちの3人は尾崎を含む慶應義塾に学ぶ生徒だった[3][7]。 また、当時慶應義塾で学んでいた尾崎は工学寮(のちの工部大学校、現・東京大学工学部)に転じようと決意したとき、ショーについて英語と高等数学を学んだ[8]。 その後、直ちに世の中で役に立つ学問を求めた尾崎は、反駁する論文を執筆して慶應義塾を退学し、福澤の友人で工学寮(のちの工部大学校)の校長ダイヤーと大鳥圭介に紹介文を書いてもらい、染物屋になるため明治9年(1876年)に工学寮に再入学した。しかし、学風の違いや理化学への嫌気から『曙新聞』などに薩摩藩閥の横暴を批判する投書を始め、それがいずれも好評を博したため、一年足らずで退学。その後、慶應義塾に戻り、朝吹英二が経営した『民間雑誌』の編集に携わり、共勧義塾で英国史を論じたり、三田演説館で演壇に立ったりするなどした[9]。 明治12年(1879年)には福澤諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。
当時、海軍省の長谷川貞雄相手に講演した強兵論『尚歩論』が機縁となり、矢野文雄に誘われ、明治14年(1881年)に統計院権少書記官という官職に就任する。しかし明治十四年の政変でわずか2か月あまりで下野した。
明治15年(1882年)、『報知新聞』の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加するが、大隈重信の奇妙な脱党に不信感を覚えた。翌年、東京府会の改選で日本橋から推薦されて最年少で府会議員となり、常置委員に選出される。政府の条約改正案に対して強い反対運動が起こると、尾崎は反欧化主義の急先鋒となり、後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めた。相談した結果、後藤を正装させて、宮内省に向かわせたが明治天皇と会うことは許されず、クーデターを計画し始めた尾崎は、明治20年(1887年)、保安条例により東京からの退去処分を受けた[10]。尾崎は「道理が引っ込む時勢を愕く」と言い、号を学堂から愕堂に変えた(後に心身の衰えを感じて“愕”のりっしんべんを取り咢堂とした)[注釈 3]。星亨や林有造らの土佐派と友好を結び、知己の間を廻った。
父が神風連の乱で九死に一生を得て伊勢で余生を楽しんでいた縁故をたどり、明治23年(1890年)の第1回衆議院議員総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。伊勢では投票用紙に「尾崎行雄」としか書いたことのない選挙人が2代・3代にわたって少なくない。この時代の選挙はまさに戦争同然であり、尾崎も何度も刺客に襲われそうになっているが、地元の猪狩の鉄砲隊を組織してこれを追い返すなどしている。
第1次松方内閣の第3議会における軍艦製造費削除問題などで活躍し、『朝野新聞』などから絶賛される。
第2次伊藤内閣では第6議会で、民党六派は内閣弾劾上奏文を提出し、尾崎がその説明に当たった。第一に政府の不当解散、第二に政府の軟弱外交、第三に政府の議会軽視、第四に伊藤博文の事ごとに袞竜の袖に隠れる行為を批判し、伊藤博文は顔色を変えたといわれる。この採決は149対144というわずか5票の差で否決された。
日清戦争が始まると、東亜の大計を立てるべきとの論文を次々に執筆し、世論の指導に努めた。日清戦争後の第4回総選挙後は各派とも従来の恩怨を忘れ、挙国一致して外敵に抗する議決を広島の大本営で可決した。伊藤博文が後に幾多の障害を排して自ら政党の組織に乗り出し、立憲政友会を創ったのは、日清戦争における各派の協力ぶりを見て政党敵視の観念を放棄したからだといわれている。三国干渉に伊藤が屈すると対外強硬派の先頭に立ち、政友有志会を組織して演説した。
この間、尾崎は進歩党に属した。時局便乗派の徳富蘇峰の『国民新聞』などが松方正義と大隈重信の近接が最上の時局救治策であるとの主張を盛んに唱導したこともあってか、第2次松方内閣が成立すると、その外務大臣に就任した大隈の推挙で外務参事官に就任するが、「二十六世紀事件」や樺山資紀の食言などで、尾崎自身も倒閣に動いた。しかし、勅任官でありながら進歩党の会議に出席し、内閣を攻撃したことで懲戒免職処分となった[11]。大隈はその後10月31日に辞表を提出し、進歩党系の官僚も政府から去った[12]。
明治31年(1898年)6月21日、進歩党と自由党が合同して憲政党が結成された。大隈と板垣に大命が降下し、第1次大隈内閣(が成立した。尾崎は40歳の若さで文部大臣として入閣した。この際、大隈の保証によって明治天皇が懲戒を免除する裁可を行っている[11]。そのうちに第6回総選挙は同年8月14日に行われ、憲政党は圧倒的に勝利したが内部抗争や猟官運動が露骨となり、星亨が大隈を攻撃するなど内閣は大揺れに揺れた。8月22日、尾崎は帝国教育会からの依頼により神田一ツ橋の同会で演説したが、大隈内閣の外相候補でもあった伊東巳代治の経営する『東京日日新聞』に言葉尻をとらえられて攻撃された(共和演説事件)[注釈 4]。倒閣を目指していた星亨ら自由党派閥による尾崎攻撃は10月頃から激しさを増し、10月21日、板垣が尾崎の罷免を上奏した。これを受けた天皇は大隈と尾崎に不信感を持っていたこともあり、首相である大隈に是非を問うこともなく辞職を求めた[13]。10月24日、尾崎は病気を理由に文相を辞任し[11]、後任に星亨と江原素六を挙げていたが、その後任を巡って憲政党は分裂、隈板内閣も総辞職した。
第2次山縣内閣が発足すると、憲政本党の最高幹部に属していたが、伊藤博文を訪問して義和団の乱以来のロシア帝国との関係を話し合って意気投合。立憲政友会の創立に参加して憲政本党を離脱、政友会の総務委員の一人となり、尾崎は星亨と共に院内総務を任じられた。桂内閣が発足すると党務執行の常務委員の5人に選ばれた(尾崎、原敬、星亨、片岡健吉、大岡育造)が、まもなく星が暗殺され、党務の中心は尾崎と松田正久の2名に命じられた。しかし、その後に伊藤とも対立して離党。片岡健吉や加藤高明もこれに倣い、同志研究会を組織し、その後は猶興会などを経て政友会に復党と、めまぐるしく所属政党を変遷する。
明治36年(1903年)から同45年(1912年)まで東京市長に就任。尾崎の東京市長在任中に、東京市が東京鉄道を買収し、東京市電気局を設置した。夫人の逝去を受けて外交官の尾崎三良の娘・テオドラ(日本名は英子。尾崎三良と彼が下宿していたモリソン家の当主で英語教師のウイリアム・モリソンの娘パディアとの間に生まれた)と再婚したが[14]、ハーフの英子との結婚は尾崎に対する種々の誤解を生じさせたようである。結婚後は英子の勧めもあって駐日英国公使館員ジョン・ガビンズから軽井沢の土地を購入し別邸「莫哀山荘」(莫哀は「哀しみのない」という意味)を設け[15]、莫哀山荘は軽井沢の名所とさえなった(後述)。
明治37年(1904年)2月、日露戦争の開戦後に第1次西園寺内閣が発足。西園寺公望が桂太郎の反撃を受けて総辞職し、第2次桂内閣が発足すると、明治41年(1908年)12月21日、尾崎は猶興会を改組して紅葉館で河野広中らと又新会を成立させるが、自身は総裁・西園寺の下で再び政友会に復帰する。他方、犬養毅や大石らは立憲国民党を結成した。この時、幸徳秋水らの大逆事件と南北正閏問題が起こり、桂内閣は西園寺を推薦して総辞職した。
西園寺公望が二個師団増設案から陸軍大臣・上原勇作の声明・辞任で退陣に追い込まれ、長州軍閥によって内務大臣となっていた桂が擁立されて桂園時代が終わると、桂太郎が宮中・府中の別を乱るものと難じ全国的な国民運動が巻き起こった。大正元年(1912年)の憲政擁護運動では立憲政友会を代表して質問を行い、「玉座を胸壁とし詔勅を弾丸とするもの」と首相・桂を糾弾する演説を行って大正政変のきっかけとなった。これらの集会は全国で行われ、各地に咢堂会が生まれ、尾崎が壇上に立つと聴衆からは「脱帽々々」と喝采が鳴り止まず、しばしば口を開かせなかった。
第3次桂内閣退陣後、山本権兵衛が組閣すると、政変後に自党の利益を優先しようとする政友会の方針に反発して政友会を離党。以後、政友倶楽部、亦楽会、中正会、憲政会、革新倶楽部と移る。
また、この時期に日本の若年層の、より一層の教育レベルの向上を目標として河野正義に請われ、「大日本国民中学会」の会長を務める。当時レベルが玉石混淆であった「講義本」をシステム化し、日本最高の教授陣を集めてこの再編纂にあたらせた。また自らも教科書の執筆をし、全国の中学生の学力向上に尽力した。国民中学会の「講義本」は日本最高レベルと評され、通教生が続々と有名公立中学校へ編入するなど実力が証明された。また支部を甲種中学校に格上げ創立するなど全国的な教育改革に邁進した。(⇒「大日本国国民中学会」参照)
第1次山本内閣がシーメンス事件で総辞職し、清浦奎吾が首相就任に失敗すると、大隈重信に再びお鉢が回り(第2次大隈内閣)、尾崎は中正会を代表して司法大臣として入閣した。部下には平沼騏一郎や鈴木喜三郎を置き、蔵相・若槻禮次郎、外相・加藤高明、海相・八代六郎辞職後の内閣改造で活躍する。加藤高明を党首に担ぎ出して憲政会を結成、最高幹部に就任する。
大隈重信が疲労などから辞職し、後を受けた寺内内閣がシベリア出兵問題で早々に終焉するとついに原内閣が誕生した。尾崎はこれを好意に思い、1919年、第一次世界大戦後のヨーロッパ(欧州)諸国視察の外遊に出る。当初は対外硬派として知られたタカ派であったが、このヨーロッパ視察で戦争の悲惨さを見聞して以後は、態度を変化させ一貫した軍縮論者となった。既に欧州の主流は反軍国主義であり、日本はこれに逆行しようとしていたからである。
また、ポピュリズム化を危惧して普通選挙の早期施行には消極的であったが、大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動に参加。同時に、次第に活発化していた婦人参政権運動を支持し、新婦人協会による治安警察法改正運動などを支援した。また軍縮推進運動、治安維持法反対運動など一貫して軍国化に抵抗する姿勢や、西尾末広と反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に反対の意思を示す(棄権など)など議会制民主主義を擁護する姿勢を示したが、政界では次第に孤立していった[注釈 5]。
憲政会を離党すると、ついに無所属議員となり、のち30年あまりを無所属で通した。無所属になったことは政界での尾崎の出世の妨げとなり、閣僚経験は2度の大隈内閣で経験したのみに止まり、総理大臣はおろか衆議院議長・副議長、戦後国会での常任委員長になることは終に無かった。
国家主義・国民主義的な観点から軍縮論者となっていた尾崎は、全国遊説の旅に出る。大正13年(1924年)、超然内閣である清浦内閣が成立すると、これに反対する第二次護憲運動が始まる。護憲三派が成立し衆議院総選挙の結果、護憲三派が勝利し、加藤高明内閣が成立する。
昭和に入り政党内閣が続き、昭和4年(1929年)には「政党内閣の頂点」と言われる立憲民政党の濱口内閣が成立する。だが昭和6年(1931年)に満州事変の勃発後、軍部の政治介入が相次ぎ、政党政治は危機に陥った。昭和7年(1932年)に5・15事件で犬養毅が暗殺されると政党内閣は終焉した。尾崎はこの現状を憂慮して『墓標に代えて』と題して遺言を執筆し、雑誌『改造』に掲載された。
二・二六事件の後の廣田内閣が1年足らずで潰れ、林銑十郎が組閣すると昭和12年(1937年)2月17日、尾崎は議会で登壇し『正成が敵に臨める心もて我れは立つなり演壇の上』なる2時間におよぶ辞世を詠み、新聞は全面を埋めて尾崎の演説を掲げた。近衛内閣が誕生して日中戦争が泥沼化へ入ると、西尾末広の演説に連座した事件で、議院の構内に尾崎の銅像を建設する計画も中止された。大政翼賛会結成、ドイツ、イタリアとの三国同盟を経て東條英機が内閣を組閣すると、尾崎は議会政治に見切りを付け山荘に篭り、もはやあまり上京もしなかった。太平洋戦争開戦後の昭和17年(1942年)に行われた第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)には非推薦出馬で当選。昭和18年(1943年)、前年の総選挙の際に田川大吉郎の応援演説で翼賛選挙批判を行った中に引用した川柳の「売家と唐様で書く三代目」が昭和天皇の治世を揶揄するものであるとされ不敬罪で起訴される(尾崎不敬事件。一審で懲役8か月・執行猶予2年の判決、1944年(昭和19年)に大審院で無罪確定)。
敗戦後には逗子市の山荘・風雲閣は訪問客に溢れ、宮中にも招かれるとともに新憲法案を自ら構想している。
1945年(昭和20年)11月1日に発行された雑誌『新生』に寄稿。この時の原稿料は1枚100円、コメや肉付きという待遇であった[16]。
尾崎は勲一等旭日大綬章を返上(1946年)して政界引退を決意していたが、三重県を中心とした支持者が中心となって無断で推薦し、1946年の総選挙では全県一区でトップ当選。中選挙区制となった1947年の総選挙でも三重2区からトップ当選を果たした。戦後の国会でも活躍して民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力するが、支持層の高齢化に加えて自身の健康も優れず、終に昭和28年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第26回衆議院議員総選挙)で落選した。これを機に政界からの引退を表明し、衆議院から名誉議員の称号を贈られた。94歳まで衆議院議員を務めたのは日本史上最高齢記録であり、当選25回・議員勤続63年も同じく日本記録である。
昭和29年(1954年)10月6日、直腸がんによる栄養障害と老衰のため入院先の慶應病院で死去[17]。享年97(95歳没)。墓所は鎌倉の円覚寺。
尾崎が英子のために東京市長時代の1907年に麻布に建て、その後知人の英文学者が譲り受けて1933年に世田谷区豪徳寺2丁目に移築[44]した木造2階建ての洋館が現存する。2020年6月にその解体予定が明らかになると、漫画家の山下和美らが「旧尾崎行雄邸保存プロジェクト」を立ち上げ、所有者である住宅会社へ保存請願の署名を提出した。世田谷区による内部の調査などを経て、漫画家の笹生那実・新田たつお夫妻が資金協力を申し出たことで購入に成功。老朽化や内部の傷みが進んでいるため、今後はクラウドファンディングなどで資金を集めて耐震改修工事を施す予定[45]。
公職 | ||
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先代 松田秀雄 |
東京市長 第2-3代: 1903年6月29日 - 1912年6月29日 |
次代 阪谷芳郎 |
先代 外山正一 |
文部大臣 第12代:1898年6月30日 - 10月27日 |
次代 犬養毅 |
先代 奥田義人 |
司法大臣 第20代:1914年4月16日 - 1916年10月9日 |
次代 松室致 |