土佐藩主時代の山内豊信 | |
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 文政10年10月9日(1827年11月27日) |
死没 | 明治5年6月21日(1872年7月26日)(44歳没) |
改名 | 輝衛(幼名)→豊信→忍堂→容堂 |
別名 | 鯨海酔侯 |
墓所 | 大井公園 |
官位 | 従四位下土佐守、侍従、参預、従四位上左近衛権少将、議定、内国事務総裁、従二位権中納言、議事体裁取調方総裁、制度寮総裁、学校知事、上局議長、麝香間祗候、正二位、贈従一位 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定→家茂 |
藩 | 土佐藩主 |
氏族 | 山内氏 |
父母 |
父:山内豊著 母:瀬代(平石氏) 養父:山内豊惇 |
兄弟 | 遊稀(伊賀氏理室)、容堂、豊盈 |
妻 | 正室:三条正子(烏丸光政女・三条実万養女) |
子 |
豊尹、光子(北白川宮能久親王妃)、八重子(小松宮依仁親王妃のち秋元興朝継室) 養子:豊範 |
山内 容堂 / 山内 豊信(豊茂)(やまうち ようどう / やまうち(やまのうち) とよしげ[注釈 1]、文政10年10月9日〈1827年11月27日〉[2] - 明治5年6月21日〈1872年7月26日〉[2])は、幕末の外様大名、明治初期の華族。土佐藩15代藩主。位階は従一位[3]。諱は豊信[要出典]。隠居後の号は容堂[4]。土佐藩連枝の南邸山内家当主・山内豊著(12代藩主・山内豊資の弟)の長男[2]。母は側室の平石氏。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」や「酔翁」と称した[5]。藩政改革を断行し、幕末の四賢侯の一人として評価される一方で、尊王家でありながら佐幕派でもあり、一見中途半端な態度をとったことから、「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄されることがあった[6]。
文政10年10月9日(1827年11月27日)に土佐藩の分家であった南屋敷(南邸)に山内豊著と潮江村石立の下士平石子の女(名は瀬代)の長子として生まれる[7]。幼名は輝衛(てるえ)[8]。輝衛の生家である南邸山内家は石高1500石の分家で、連枝五家の中での序列は一番下であった[要出典]。通常、藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、輝衛は分家の出であったため高知城下で生まれ育った[要出典]。弘化3年3月7日、父豊著の隠居に伴い、輝衛改め豊信は南屋敷の家督を嗣ぎ、1500石の蔵米を受ける身となった[8]。
嘉永元年(1848年)の7月に江戸で13代藩主・山内豊熈が死去する[9]。豊熈には嗣子がなかったため、実弟の山内豊惇が跡を継ぐが、9月18日に藩主在職わずか10日余りで急死し、山内家は御家断絶(お取り潰し)の危機に瀕した[9]。豊惇の後継としてまず候補に挙げられたのは長男寛三郎であったが、病気のため擁立が見送られることとなった[9]。次に候補に挙げられた豊惇の実弟豊範(後の16代藩主・山内豊範)も、まだ3歳と幼少であったため擁立は見送られ、最終的に、南屋敷で部屋住の生活を送っていたころから英名が噂されていた豊信が、後継者として指名された[10]。豊信の家督相続において土佐藩は豊惇の死を隠蔽し[注釈 2]、まず豊惇が豊信を養嗣に迎える形をとり、そののちに豊惇の隠居と、豊信の相続を幕府に申し出た[12]。この工作の際には、薩摩藩主島津斉彬や筑前福岡藩主黒田斉溥、伊勢津藩主藤堂高猷、伊予宇和島藩主伊達宗城の周旋があった[11]。とくに豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実兄薩摩藩主島津斉彬は当時幕府の実権を握っていた老中首座阿部正弘と親交があり、幕府も裏工作を黙認した[13]。候姫の親族関係者たちによる格別の推挙と幕閣への働きかけ、それに応えた将軍家の温情による藩主就任が、その後の容堂の倒幕的行動を制限したとも言われる[14]。嘉永元年(1848年)12月27日、豊信は高知を出発し、翌月21日に江戸に到着、同26日に家督の相続を幕府から許可された[11]。翌年1月8日には豊範を豊信の養子とし[注釈 3]、嘉永3年9月11日に右大臣三条実万の養女正姫(なおひめ)と結婚した[16]。同年豊信は従四位下土佐守に任じられ、翌年には侍従に昇任した[16]。
藩主就任当時、隠居していた豊資は健在で、藩の保守的な重臣たちは豊信の日常に対して監視を怠らず、藩政においても豊信は自らが中心となって施策を行うことができない状況だった[17]。したがって、藩主就任から数年の間、豊信は思い通りに行動できずに酒に溺れ、詩作に思いをぶつける日々を送った[17]。
嘉永6年6月3日にペリーが浦賀に来港すると、幕府はペリーから受け取った国書の写しを全国の諸大名に配布し、対応の意見を求めた[18]。当時高知にいた豊信は、この知らせを受けて城に重臣を招集し、意見書の作成をおこなった[19]。この意見書を起草したのは、当時学識において評判の高かった吉田東洋であった[18]。作成された意見書はこの年の8月21日に江戸に向けて発送され、10月付けで幕府に提出された[18]。
幕府への意見書の作成・提出を終えると、豊信は初めて藩政改革に乗り出す[20]。隠居していた豊資の了解を得て、嘉永6年9月8日に藩政改革における意見を発表した[20]。豊信は藩政改革を進めるにあたって、吉田東洋と小南五郎左衛門を起用する[21]。東洋は嘉永6年(1853年)7月27日、土佐藩の大目付に任じられ[22]、さらに同年11月28日には「仕置役(参政職)」に任じられた[23]。東洋は海防強化・人材の登用・鉄砲事業の奨励・洋式造船技術員、航海員の養成など、藩政改革を進めた[24]。翌安政元年(1854年)6月、東洋は山内家姻戚に当たる旗本・松下嘉兵衛との間にいさかいをおこし失脚、謹慎の身となった[要出典]。しかし3年後の安政4年(1857年)、東洋は再登用され、東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎、福岡孝弟らを起用した[要出典]。一方の小南五郎左衛門は、小浜酒井家の儒臣山口菅山に学び望楠軒の流れを引く尊王家であった[23]。嘉永6年10月20日に豊信の側用役に抜擢され、その後豊信に度々諫言するなど、補佐として仕えた[23]。
豊信は福井藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えた。阿部正弘死去後、大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、豊信ほか四賢侯、水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推していた。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福を推した。井伊は大老の地位を利用し、政敵を排除した。いわゆる安政の大獄である。結局、慶福が14代将軍・家茂となることに決まった。豊信はこれに憤慨し、安政6年(1859年)2月、隠居願いを幕府に提出した。この年の10月には斉昭・慶永・宗城らと共に幕府より謹慎の命が下った。
豊信は前藩主の弟・豊範に藩主の座を譲り、隠居の身となった当初、忍堂と号したが、後に容堂と改めた。容堂は、思想が四賢侯に共通する公武合体派であり、単純ではなかった。藩内の勤皇志士を弾圧する一方、朝廷にも奉仕し、また幕府にも良かれという行動を取った。このため幕末の政局に混乱をもたらし、世間では「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄され、のち政敵となる西郷隆盛から「単純な佐幕派のほうがはるかに始末がいい」とまで言わしめる結果となった[要出典]。
謹慎中に土佐藩では政変が起こった。桜田門外の変以降、全国的に尊王攘夷が主流となった。土佐藩でも武市瑞山を首領とする土佐勤王党が台頭し、容堂の股肱の臣である公武合体派の吉田東洋と対立。遂に文久2年4月8日(1862年5月6日)東洋を暗殺するに至った。その後、瑞山は門閥家老らと結び藩政を掌握した。
文久3年8月18日(1863年9月30日)、京都で会津藩・薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が強行され、長州側が一触即発の事態を回避したため、これ以後しばらく佐幕派による粛清の猛威が復活した。容堂も謹慎を解かれ、土佐に帰国し、藩政を掌握した。以後、隠居の身ながら藩政に影響を与え続けた。容堂は、まず東洋を暗殺した政敵・土佐勤王党の大弾圧に乗り出し、党員を片っ端から捕縛・投獄した。首領の瑞山は切腹を命じられ、他の党員も死罪などに処せられ、逃れることのできた党員は脱藩し、土佐勤王党は壊滅させられた。同年末、容堂は上京し、朝廷から参預に任ぜられ、国政の諮問機関である参預会議に参加するが、容堂自身は病と称して欠席が多く、短期間で崩壊した。
東洋暗殺の直前に脱藩していた土佐の志士たち(坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元)の仲介によって、慶応2年(1866年)1月22日、 薩長同盟が成立した。これによって時代が明治維新へと大きく動き出した。
慶応3年(1867年)5月、薩摩藩主導で設置された四侯会議に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌い、欠席を続ける。結局この会議は短期間で崩壊した。しかし同5月21日には、薩摩藩士の小松帯刀の京都邸において、中岡慎太郎の仲介により土佐藩の乾退助、谷干城と、薩摩藩の西郷隆盛、吉井友実らが武力討幕を議して、薩土密約を締結。翌22日に乾によって密約の内容が報告され、容堂は大坂でアルミニー銃300挺の購入を許可した。その後、容堂は乾を伴って、6月初旬に土佐に帰国。
ところが、容堂や乾と入れ違いに上洛した、坂本龍馬、後藤象二郎らは、薩土密約の締結から約1か月後にあたる6月22日、京都の料亭にて、大久保利通、西郷隆盛と土佐藩の後藤、福岡孝弟、寺村左膳、真辺栄三郎が議して、武力討幕ではなく大政奉還による王政復古を目標に掲げ薩土盟約を締結した。この薩土盟約は約2か月半で早々に瓦解し、乾と西郷が結んだ薩土密約が次第に重視せられ、土佐藩全体も徐々に討幕路線に近付いていくことになる。
容堂は自身を藩主にまで押し上げてくれた幕府に恩義を感じて擁護し続けたが、倒幕へと傾いた時代を止めることは出来なかった。幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案を坂本より聞いていた後藤は、これらを自分の案として容堂に進言した[要出典]。容堂はこれを妙案と考え、老中・板倉勝静らを通して15代将軍・徳川慶喜に建白した。
慶喜は「日本国の為に徳川家康が開いた幕府を、日本国の為に自分が葬る覚悟」で慶応2(1866)年12月5日将軍職を拝命し[注釈 4]、翌慶応3年10月14日(1867年11月9日)朝廷に政権を返還した。
しかし、その後明治政府樹立までの動きは、終始、薩摩・長州勢に主導権を握られた。同年の12月9日(1868年1月3日)開かれた小御所会議に於いて、薩摩・尾張・越前・芸州の各藩代表が集まり、容堂も泥酔状態ながら遅参して[要出典]会議に参加した。豊信は幕府・将軍の側に立って意見したものの、会議は岩倉の説に決まり、徳川慶喜に対して辞官納地を命ずることが決定した[25]。その後、有栖川宮熾仁親王が明治天皇の許可を取った[注釈 5][26]。
慶応4年(1868年)1月3日、 旧幕府側の発砲で鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、容堂は自分が土佐藩兵約100名を上京させたにもかかわらず、藩兵にはこれに加わるなと厳命した[要出典]。しかし、在京の土佐藩兵らは、容堂の制止を振り切り、薩土密約に基づいて自発的に官軍側に就いて戦闘に参加した[要出典]。同1月7日、西郷から「討幕の合戦近し」という密書を受け取り、さらに開戦したことを土佐在国中に谷干城から報告を受けた乾退助は、薩土密約に基づいて迅衝隊を率いて上洛した[要出典]。容堂は、京都を進発する前夜の2月13日、東山道へ出発する乾率いる土佐迅衝隊に、寒いので自愛するよう言葉を与えた[要出典]。
明治維新後は名誉職の内国事務総裁に就いたが、旧幕期は家臣や領民だったような身分の者と馴染むことができず、明治2年(1869年)に辞職した[要出典]。しかし木戸孝允とは仲が良く、自邸に招いては新政府の将来などについて語り合ったという[要出典]。本邸は新たに東京箱崎の元田安徳川家別邸を買収して居住した[要出典]。隠居生活は当時、別荘地として知られた橋場(現:東京都台東区)の別邸(綾瀬草堂)で、妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる豪奢な晩年を送った[要出典]。また、両国・柳橋などの酒楼にて連日豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの、容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し、家令の諌めを聞かなかったという[要出典]。また、武市瑞山を殺してしまったために土佐藩内で薩長に対抗できる人物を欠いて新政府の実権を奪われたと考え、これを悔やんだともいう[要出典]。板垣退助は「維新前後経歴談」の中で容堂について、「維新後不平から酒を飲み芸者を妾にしたが、本来は慎み深い人だった」と晩年の様子を惜しんだ発言をしている[27]。容堂は酒のために身体を壊し、明治5年(1872年)正月に中風(脳血管障害)の発作を起こして左半身不随、言語不明瞭となった。その後、ドイツ人医師ホフマンのエレキテル療法で一時回復するも、同年6月に発作が再発して昏倒し、46歳(数え年)の生涯を閉じた[27]。墓所は土佐藩下屋敷があった大井公園(品川区東大井四丁目)にある[28]。
小御所会議の場で、豊信は岩倉などと激しい議論を交わした。
会議冒頭に中山忠能が、「大政奉還に際し先ず一点、無私の公平を以て、はじめに王政の基本を定める公議を尽くすべき」旨を発言し[注釈 6][注釈 7]、公卿の中に「内府(慶喜)は政権を返上したがそれをおこなった目的の正邪が弁じ難いため、実績で罪科を咎めるべきだ」との意見がみられると[注釈 6][注釈 8]、容堂は大声を発して議論をはじめ[29]、自分自身直接会議に参加して認めていた王政復古の大号令を、それまでの自分の持論であった列侯会議路線、すなわち徳川宗家温存路線と根本的に反するが故に、[独自研究?]「速やかに徳川慶喜を朝議に参与させるべきだ」と主張した[注釈 9]。大原重徳に「内府(慶喜)が大政奉還したのは忠誠から出た行動かどうか知らないため、しばらく朝議に参与させない方がよい」と反論されると、容堂は抗弁し、「今日の(会議参加者の)挙動はすこぶる陰険なところが多いだけでなく、凶器をもてあそび、諸藩の武装した兵隊に議場を守らせ、わざわざ厳戒態勢を布くにいたってはその陰険さが最も甚だしく、詳らかに理由が分からない。王政復古の初めにあたっては、よく公平無私な心で何事も措置されるべきで、さもなければ天下の衆心を帰服させることはできないであろう。元和偃武から300年近くも天下泰平の世を開いたのは徳川氏ではないか。それなのに、ある朝になったら突然、理由もなくその大きな功績ある徳川氏を排斥するとは何事なのか。恩知らずではないか。今、内府(慶喜)が祖先から継承した覇権を投げうって、大政奉還したのは政令に一途だからで、金甌無欠の国体を永久に維持しようとしたものであり、その忠誠はまことに感嘆するのをこらえがたい。しかも内府(慶喜)の英明の名は既に天下に聞こえている。速やかに彼を朝議に参与させ、意見を開陳させるべきである。しかるに、2、3の公卿はどんな意見をもってこんな陰険な暴挙をするのか。すこぶる理解しがたい。恐らくは幼い天皇をだきかかえ[注釈 10]、権勢を盗もうと欲する意図があるのではないか。まことに天下に戦乱の兆しを作るものである」と、一座を睥睨し、意気軒高に色を成して主張した[注釈 11][注釈 12][注釈 13]。また容堂は、岩倉、大久保が慶喜に対して辞官納地を主張したことについては、薩摩・土佐・尾州・芸州が土地をそのまま保有しておきながら、なぜ徳川宗家に対してだけは土地を返納させねばならないのかと徳川宗家擁護を行い、先ほど天皇を中心とする公議政体の政府を会議で主張したことに対して、徳川家を中心とする列侯会議の政府を要求した[要出典]。松平春嶽も「王政施行のはじめに、刑律の名を取って道徳を捨てるのは甚だ不可である。徳川氏は200余年の太平を開いた。その功績は今日の罪を償うに足る。よく容堂の言葉を容れるべきだ」と、容堂と共に大論陣を張った[30][31][注釈 14]。なお、岩倉具視側の記述である多田好間・編『岩倉公実記』では、その際、岩倉が容堂を叱って「これは御前会議である。容堂卿はまさに粛慎すべきである。聖上(明治天皇)は不世出の英材にして、大政維新の大事業を成し遂げられた。今日の挙動はことごとく陛下の判断に出たものである。みだりに『幼い天皇をだきかかえ、権勢を盗もうとする』などと言うのは、無礼の甚だしいものではないか」といい、容堂はおそれて失言の罪を謝った、とされている[注釈 15]ものの、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』(2007年)では、他の一次史料などに共通して見られないこの逸話は、後から岩倉側によって挿入された虚構の作り話とする[注釈 16][32]。なお他の一次史料である『丁卯日記』では、先に大久保利通が席を進んで「幕府が近年、正しい道に背いたのは重罪であるのみならず、このたびの内府(慶喜)の処置についてその正否を問うに、無理に尾張候(徳川慶勝)、越前候(松平春嶽)、土佐候(容堂)の立てた説をうのみにすべきではない。事実をみるに越したことはない。まず内府(慶喜)の官位をけなし、所領を朝廷へ収めるよう命じて(辞官納地)、わずかなりとも不平の声色がなく真実をみることができれば、速やかに参内を命じ会議に参加させればよい。もしこれと違って、一点でも要求の受け入れを拒んだりふせいだりする気色があれば(大政奉還は)いつわりなので、実際に官位をけなし領地を削り、内府(慶喜)の罪と責任を天下に示すべきである」といい、岩倉は大久保の説に追従して周りにも採用するようしきりに勧め「(慶喜の)正邪を見分けるに、空論で分析するより、実績を見て知るべきである」と弁論と極め、容保・春嶽らと対立し互いに正論と信じる主張をして決着しなかった、とされている[注釈 17]。こうして会議は容堂らの張る堅固な論陣のもと一旦休会することになった。会議出席者である芸州藩主・浅野長勲『浅野長勲自叙伝』(1937年)によれば、休憩中に、会議に参加せず警戒諸軍の指揮に就いていた西郷隆盛は、薩摩藩の者に会議の真情を聴くと、驚く気配もなく「短刀一本あれば片が付く」と、剣を示した[注釈 18]。この西郷の言葉を聴くと退いて休憩室に入った岩倉は[33]、「容堂がなお固く同様の論陣を張るつもりなら、私は非常手段を使って事を一呼吸の間に決するだけだ」と心に期した[注釈 5]。岩倉は浅野を一室に誘って「薩土(薩摩藩と土佐藩)の間で議論が大いに衝突している。これによって遂に維新の事業も水泡に帰るだろう」と深く憂慮する旨の発言をし、浅野へ(容堂の部下である)後藤象次郎を説得せよ、と依頼した[注釈 19]。そこで浅野が岩倉へ「私は(岩倉)卿の論が事理の当然とする。今、(自分の部下の)辻維岳に命じて後藤を説得させ、(岩倉)卿の論に従わせようと図っている。後藤がもしうなずかなければ、私は飽くまで容堂に抗弁してやめないであろう」といった[注釈 5][34]。五藩重臣の休憩室で後藤が大久保利通へ容堂の主張に従わせようとするものの、既に同じ休憩室にいた辻が岩倉の論に抗弁する事は不利だと後藤へ遠回しに諭していたために、大久保は聞き入れなかった[注釈 5]。それまで主君である容堂の説を推し、陰険を排して公正に出るよう一同に諭してやまなかった後藤だったが[注釈 20][35]、事の趨勢に大いに悟ったところがあり、容堂と春嶽をみて「先ほど(容堂と春嶽らの)主張された立派な議論は、さも内府(慶喜)公がいつわりのはかりごとをお持ちになっている事を知り、それを隠そうとしているかのごとく(会議参加者らに)嫌疑されている。願わくばもう一度考え直されんことを」といった[注釈 5]。明治天皇が既に席に着き、親王と諸臣が再び集まり会議を続けようとした。ここで容堂は心が折れ、敢えて再び、論戦しようとはしなかった[注釈 5]。
※日付=旧暦
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。 |
公職 | ||
---|---|---|
先代 正親町三条実愛 |
知学事 1869年 |
次代 松平慶永 大学別当 |
先代 鷹司輔煕(→廃止) 制度事務局督 |
制度寮総裁 1869年 議事体裁取調総裁 1868年 - 1869年 |
次代 鍋島直正 |
先代 鍋島直正 |
上局議長 1869年 |
次代 大原重徳 |
先代 (新設) |
知学事 1869年 |
次代 正親町三条実愛 |
先代 近衛忠房 刑法事務局督 |
刑法官知事 1868年 |
次代 大原重徳 |