やまのうち まさと 山内 雅人 | |
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プロフィール | |
本名 | 山内 幹雄(やまうち みきお)[1][2][3] |
愛称 | ミッキー[4] |
性別 | 男性 |
出身地 |
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死没地 |
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生年月日 | 1929年4月3日 |
没年月日 | 2003年4月7日(74歳没) |
職業 | 声優、俳優 |
配偶者 | あり[1] |
公称サイズ(時期不明)[5] | |
身長 / 体重 | 161 cm / 56 kg |
活動 | |
活動期間 | 1951年 - 2003年 |
デビュー作 | 霧ノ小次郎(『笛吹童子』)[1] |
山内 雅人(やまのうち まさと、1929年4月3日[4][6] - 2003年4月7日[2][3][7])は、日本の声優、俳優。東京府(現東京都)出身[5]。別芸名に、山ノ内雅人[6]、山内幹也がある。
旧制芝中学(現芝中学校・高等学校)を経て[8]、1950年に早稲田大学[5]法学部を卒業。大学在学中、劇団自由舞台を創設[9][10]。鎌倉アカデミア演劇科修了[6]。1949年にNHK東京放送劇団へ4期生として入団[4][2][11]。同期に黒沢良、川久保潔らがいる。
ラジオドラマ『笛吹童子』の霧ノ小次郎役でデビュー[1]。以降は声優として活動。1959年4月、文化放送の『役の行者』に加藤道子とともに出演[11]。東京放送劇団員がNHK以外の番組に出演した最初の例となる[11]。海外ドラマ『マッコレー隊長』以降は[12]洋画吹き替えにも多く出演、モンゴメリー・クリフトやタイロン・パワーなどの二枚目俳優を担当した。ラジオ『楽天くらぶ』の司会やテレビ『私だけが知っている』のナレーターとしても活躍し、出演本数は2万本以上とも言われる[2]。
美しい話し言葉の普及と朗読に力を入れ、朗読会や朗読教室を主宰。1974年には国語学者の金田一春彦と共にNHK文化基金を元に、江戸と東京の言葉を聴衆する放送表現教育センターを設立[2][13]。同センターは、日本初の朗読の専門学校で[14]やがてナレーターや声優の養成所となり、山内は代表を務めて後進の指導にあたり、ドラマチックリーディングという読み聞かせ方法を提唱していた[13][15]。
NHK東京放送劇団と並行してプロダクションTHGに所属し[16]、1977年にNHK東京放送劇団を退団した後は、Kプロダクション[17]を経て、フリーで活動。
2003年4月7日に東京都目黒区で肺癌のため死去。満74歳没(享年75)[2]。墓所は多磨霊園(5-2-6)にあったが現在は存在せず。
声種はハイバリトン[4][17]。NHKではNHK放送業務局長賞を受賞している。
洋画の吹き替えで印象に残った担当作品に、『長い灰色の線』『剃刀の刃』『ニュールンベルグ裁判』を挙げている[12]。
ドラマ『ドクター・キルデア』では、日本語版制作を行なっていた太平洋テレビの「お偉いさん」が銀座のホステスたちに「良い声の役者は誰?」と聞いたところ皆が「山内雅人」と答えたため、その人物から指名されて主役のリチャード・チェンバレンを吹き替えることになったという[12]。
山内は人生の恩師として小学校時代に4年間担任をしていた松尾弥太郎(全国学校図書館協議会創設者)の存在を挙げている[9][10]。松尾の朗読に感銘を受けて自身も朗読に精を出し学芸会では主役を貰った[10]。母方は医者の多い家系であったため、両親は慶應義塾普通部に進学させ、慶應義塾大学に進ませることを望んでいたが、松尾の説得により彼の母校である芝中学に進学することが出来たとされ、役者への道へと進んだ[10]。
山内の死後、持ち役を引き継いだのは以下の通り。