山尾 庸三(やまお ようぞう、天保8年10月8日(1837年11月5日) - 1917年(大正6年)12月22日[1])は、日本の政治家[2]。子爵。
長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋[3]であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。木戸幸一(太平洋戦争時の昭和天皇側近)の外祖父(長女の寿栄が木戸の母)に当たる。
萩藩寄組である繁沢石見に経理の才を認められ奉公(陪臣)に上がる。嘉永5年(1852年)江戸に赴き、同郷の桂小五郎に師事し、その後江川塾の門弟となる。
文久元年(1861年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した[4]。文久2年(1862年)、英国公使館焼き討ち事件に参加した[4]ほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した[5]。
文久3年(1863年)3月、長州藩が購入した癸亥丸の測量方を務め、横浜港から大阪を経由して三田尻港まで航行した。この時の癸亥丸の船長が井上勝(当時は野村弥吉)である。この時、京都にいた世子毛利元徳が帰藩のため癸亥丸に乗船予定であったが、操船に不安があったため、京邸の役人は庚申丸を選び、癸亥丸を随従させるという決定を下した。同年4月、周布政之助は「野弥山庸両人は、儲公三田尻御着船之上ハ宿志を遂候様に、於私に精々心配可仕候間」と書いた手紙を来島又兵衛に送っている[6]。
帰藩した山尾と野村はただちに洋行留学の願いを出し、井上馨を加えた3名の渡英が決定した。後に伊藤博文と遠藤謹助を加えて5名となった。
文久3年(1863年)、藩命により陪臣から藩の士籍に列し、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリスへ留学し、後に長州五傑(長州ファイブ)と呼ばれる。
ロンドンのユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)において2年間英語と基礎科学を学んだ。 UCL在籍2年修了後、成績優秀者として優等賞を授与された。分析化学で4位、理論化学で10位であった[7]。
その後グラスゴーに移り、ヒュー・マセソン (Hugh Matheson) の紹介でグラスゴーのネピア造船所 (Napier Shipyard) で徒弟工として技術研修を受けるとともに、アンダーソン・カレッジ(後のストラスクライド大学)の夜学コースで学んだ。その間ヒュー・マセソンの友人のコリン・ブラウン Colin Brown[8]宅に下宿した[9]。後に工学寮工学校都検として来日するヘンリー・ダイアーは、アンダーソン・カレッジの夜学で山尾の姿を見たと語っている[10]。
ブラウンは、山尾が明治3年に明治政府の要職に就いたことを工部省御雇いのコリン・マクヴェインから知らされ、グラスゴーで日本の将来のために毎日仕事と勉強に勤しむ山尾の姿を思い出し、彼こそ「真のヒロー」であると述べている[11]。
明治元年(1868年)に帰国。帰国後に明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となった。鉄道技師長のエドモンド・モレルの提案を受けて伊藤博文とともに明治3年(1870年)工部省の設立に勤めた[12]。この時、民部省内の一組織ではなく、独立した省として設立すべきと強く主張した。大久保利通の岩倉具視宛書簡に、「工部省之事も既二御治定二而、寮之筈之処山尾辞表差出終に省に御決定御発表有之候条(寮という民部省内の組織のはずだったのに、山尾が辞表を出しながら強く主張したため最終的に独立した省となることが決まった)、公も不得止御情実も被為在候や」とある。
明治4年(1871年)、工部省が10寮1司体制で始動すると、岩倉使節団副使として外遊する工部大輔の伊藤博文に代わり工部省をまとめあげるとともに、工学寮と測量司の長に就任。日本最初の実務技術者養成機関である工学校の創設に尽力し、この工学校は1877年に工部大学校と改められ、のちの東京大学工学部の前身となった。工部権大丞・工部少輔、工部大輔を経て、1880年工部卿に就任するなど、工学関連の重職を任された。工部省として、工鉱業の現状調査、導入できる西欧の人材・技術の選定、工鉱業の発展・高度・活性化の推進、原材料や商品の輸送手段(船・港湾・灯台、鉄道、道路)の整備に尽力した。
また、参事院議官、参事院副議長も務めた。工部省が廃止された1885年に、新たに創設された法制局の初代長官に任命され[14]、宮中顧問官・有栖川宮別当・北白川宮別当も兼任して務めている。1887年5月24日に子爵となる[15]。
1888年2月7日法制局長官を辞任し、宮中顧問官・有栖川宮別当・北白川宮別当兼任のまま、2月15日に官庁集中計画を担う臨時建築局のの第二代総裁に就任した(初代は井上馨)。山尾は、井上が進めていた計画を大幅に縮小・変更した新計画を作成し、同年9月25日に閣議決定を受けた。現在の日比谷公園と諸官庁の敷地である千代田区霞が関一丁目・二丁目はこの新計画に基づくものであり、山尾が「中央官庁街の原型を与えた」と言われる。1890年1月、臨時建築局の廃止処分とベックマン条約の満期前解約について山縣有朋大臣に上申した。臨時建築局は同3月26日に廃止され、その事務は内務省土木局が管掌することになった[17]。
1898年退官後、文墨に親しみ特に金魚の飼育を好んだ[18]。
明治4年には盲学校、聾学校の設置を主張する建白書を表す[19]など障害者教育に熱心に取り組み、1880年に楽善会訓盲院(東京盲唖学校の前身)を設立した。1915年には日本聾唖協会の総裁となっている。明治9年(1876年)に楽善会訓盲院設立認可が下りた日に因む東京盲唖学校の設立記念日12月22日(新暦)は、幕末に山尾が暗殺した塙忠宝(盲目の国学者塙保己一の息子)の命日と同じ日付(旧暦)である[20]。
長男・次男は早世しており、三男の山尾三郎(1877年-1946年)が子爵を襲爵した。
公職 | ||
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先代 (新設) |
![]() 1886年 - 1898年 |
次代 斎藤桃太郎 |
先代 井上馨(→欠員) |
![]() 1888年 - 1890年 |
次代 (廃止) |
先代 井田譲(→欠員) |
![]() 1888年 |
次代 岩倉具経 |
先代 田中不二麿 |
![]() 1884年 - 1885年 |
次代 (廃止) |
先代 山田顕義 |
![]() 1880年 - 1881年 |
次代 佐々木高行 |
先代 伊藤博文 |
![]() 1872年 - 1880年 (1873年まで伊藤博文と共同) |
次代 (欠員→)吉井友実 |
先代 河瀬真孝(→欠員) |
![]() 1871年 - 1872年 |
次代 (欠員→)井上勝 |
先代 (新設) |
![]() 1871年 |
次代 (欠員→)河野通信 |
学職 | ||
先代 原田虎三 |
工学会会長 1882年 - 1917年 |
次代 古市公威 |
先代 大鳥圭介 榎本武揚 |
工業化学会会長 1905年 - 1906年 1901年 - 1902年 |
次代 榎本武揚 大鳥圭介 |
その他の役職 | ||
先代 (新設) |
日本聾唖協会総裁 1915年 - 1917年 |
次代 山尾三郎 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 山尾(庸三)家初代 1887年 - 1917年 |
次代 山尾三郎 |