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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代中期 |
生誕 | 天保7年6月10日(1836年7月23日) |
死没 | 明治21年(1888年)7月19日(53歳没) |
別名 | 鉄太郎(通称)、一楽斎(号) |
戒名 | 全生庵殿鉄舟高歩大居士 |
墓所 | 全生庵(東京都台東区) |
官位 | 静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔、子爵、従三位、勲二等 |
幕府 | 江戸幕府:浪士組取締役、精鋭隊歩兵頭格、若年寄格幹事 |
主君 | 徳川家茂、慶喜→明治天皇 |
藩 | 駿河国静岡藩士 |
氏族 | 小野氏→山岡氏 |
父母 | 父:小野高福 母:塚原磯 |
妻 | 山岡英子 |
子 | 山岡直記、鈴子(松平定教室) |
山岡 鉄舟(やまおか てっしゅう、旧字体:山岡 鐵舟)は、日本の幕末の幕臣、剣術家、明治期の官僚、政治家[1]。
剣・禅・書の達人。鉄舟は居士号。他に一楽斎。通称は鉄太郎(てつたろう、旧字体: 鐵太郞)。諱は高歩(たかゆき、旧字体:高步)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典は従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。
江戸に生まれる。家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流や北辰一刀流の剣術、樫原流槍術[注釈 1]を学び、武術に天賦の才能を示す。浅利義明(中西派一刀流)門下の剣客であり、明治維新後は一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖となる。
幕臣として、清河八郎とともに浪士組を結成。江戸無血開城を最終決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜から直々に使者として命じられ官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)に辿り着き、単身で西郷と面会して交渉、大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となった。
明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称される。身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格であった。
天保7年(1836年)6月10日、江戸の本所に蔵奉行・木呂子村[注釈 2]の知行主である小野朝右衛門高福[注釈 3]の四男[注釈 4]第五子[3]として生まれる。母は塚原磯(常陸国鹿島神宮神職・塚原石見の二女。先祖に塚原卜伝)。
9歳より久須美閑適斎[注釈 5]より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。
嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山[注釈 6]に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となる。安政3年(1856年)、剣道の技倆抜群により、講武所の世話役となる。安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久2年(1862年)、江戸幕府により浪士組が結成され、親友の中條金之助とともに取締役となる。文久3年(1863年)、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。
この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず、弟子入りする。この頃から剣への求道が一段と厳しくなる。父の勧めもあって、17歳の頃から禅の修行も始め、長徳寺願翁、竜沢寺星定、相国寺独園、天竜寺滴水、円覚寺洪川に参じ、後年は、滴水和尚から印可を与えられた。
慶応4年(1868年)、新たに設立された精鋭隊[注釈 7]歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜の使者として3月9日官軍の駐留する駿府(現静岡市葵区)に辿り着き、伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会して談判する。
2月11日の江戸城重臣会議において、徳川慶喜は恭順の意を表し、勝海舟に全権を委ねて自身は上野寛永寺に籠り謹慎していた。慶喜は恭順の意を征討大総督府へ伝えるため、高橋精三(泥舟)を使者にしようとしたが、彼は慶喜警護から離れることが出来ない、と述べ義弟である鉄舟を推薦する。鉄舟は慶喜から直々に使者としての命を受け、駿府へ行く前に勝海舟に面会する。海舟と鉄舟は初対面であり、海舟は鉄舟が自分の命を狙っていると言われていたが、面会して鉄舟の人物を認めた。打つ手がなかった海舟はこのような状況を伝征討大総督府参謀の西郷隆盛宛の書を授ける。海舟の使者と説明されることが多いが、正しくは広義も含め慶喜の使者である[4]。
この時、刀がないほど困窮していた鉄舟は、親友の関口艮輔に大小を借りて官軍の陣営に向かった。また、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩行していったという[注釈 8]。
3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、
というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって江戸無血開城への道が開かれることとなった。江戸無血開城の中身は鉄舟と西郷の交渉でほとんど決まっている。
3月13日・14日の勝と西郷の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。徳川慶喜は謹慎先の水戸へ向かう前夜、山岡鉄舟は慶喜の御前に召し出され、慶喜は「(慶喜の救済、徳川家の家名存続、江戸無血開城)官軍に対し第一番に行ったのはそなただ。一番槍は鉄舟である。」と、慶喜自ら「来国俊」の短刀を鉄舟に与えた[4]。
明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下る。6月、静岡藩藩政補翼となり、清水次郎長と意気投合、「壮士之墓」を揮毫して与えた。また、幕臣の救済事業である牧之原台地開墾の責任者である中條金之助に茶の生産を助言する。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。
西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたりするなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。
明治14年(1881年)に新政府が維新の功績調査をした時、勝が提出した勲功録に、全て勝がやったように書かれており、それを読んだ鉄舟は嘘だと思いながらも勝の面子を潰すので、何も提出しなかった。無血開城の実情を知っていた局員がおかしいと感じて三条実美に鉄舟のことを伝えた。三条は腑に落ちないので、岩倉具視に伝えた。岩倉は鉄舟を呼び出し、「手柄は勝に譲るにしても、事実として後世に残さなければならない」と説得し、鉄舟に事実を書かせ提出させた[6]。
徳川家達は、明治15年(1882年)に徳川家存続は山岡鉄舟のお陰として、徳川家家宝である「武藤正宗」の名刀を鉄舟に与えた。勝海舟は名刀を与えられていない。岩倉具視は、当時の一流の漢学者に、名刀の由来と鉄舟の功績を「正宗鍛刀記」にしたためさせた[6]。この年に西郷との約束どおり致仕。明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。
明治18年(1885年)には、一刀流小野宗家第9代の小野業雄からも道統と瓶割刀・朱引太刀・卍の印を継承し、一刀正伝無刀流を開いた。
明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に叙される[7]。
明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。家督及び爵位は長男直記が相続した[8]。葬儀は22日に行われ、豪雨であった。前もって明治天皇の内意があったので、四谷の自邸を出た葬列は、皇居前で10分ほど止まった。明治天皇は、高殿から目送された。全生庵での会葬者は5千人にも上った。
この日、門人村上俊五郎は、殉死の恐れがあるというので四谷警察署に保護された。また門人栗津清秀も殉死しようとしたが、全生庵の裏山で発見されて止められた。門人鈴木雄蔵は、葬儀に出たまま家に帰らず、3年間も墓前に留まった。9月15日、門人三神文也が墓前で割腹殉死。同18日、鉄舟の爺や内田三郎兵衛が墓前で死んでいた。享年53。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。没後に勲二等旭日重光章を追贈された[9]。
小説
映画
ドラマ
漫画
アニメ
その他のテレビ番組
本
公職 | ||
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先代 土方久元 |
![]() 1881年 - 1882年 |
次代 (欠員→)香川敬三 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
子爵 山岡(鉄太郎)家初代 1887年 - 1888年 |
次代 山岡直記 |