やまもと とうごう 山本 冬郷 | |
---|---|
『その夜の妻』(1930年)出演時、満44歳。 | |
本名 | 山本 鎌藏(やまもと けんぞう) |
別名義 | Togo Yamamoto |
生年月日 | 1886年11月4日 |
没年月日 | 1952年3月24日(65歳没) |
出生地 | 日本 神奈川県横浜市根岸(現在の同県同市中区根岸町) |
死没地 | 日本 東京都文京区湯島天神町(現在の同区湯島) |
職業 | 元俳優 |
ジャンル | 新派、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー) |
活動期間 | 1918年 - 1949年 |
配偶者 | 有 (死別) |
主な作品 | |
『幻の帆船』 |
山本 冬郷(やまもと とうごう、1886年11月4日 - 1952年3月24日[1])は、日本の元俳優である[2][3][4]。本名:山本 鎌藏(やまもと けんぞう)[2][3][4]。ハリウッド映画からスタートした日本人俳優で、帰国後は松竹蒲田撮影所、日活太秦撮影所、新興キネマ東京撮影所などで活躍した名脇役として知られる[2]。
1886年(明治19年)11月4日、神奈川県横浜市根岸(現在の同県同市中区根岸町)に生まれる[2][3][4]。旧制錦城中学校(現在の錦城学園高等学校)を卒業後、早稲田大学政治経済科に進学する[2][3][4]。
1904年(明治37年)2月、早稲田大学を中退して渡米[2][3][4]。種々の職業に従事していたが、日本から来た在留邦人相手の新派劇団に急遽加入し、各地を巡業する[2][4]。 1920年(大正9年)からは映画俳優に転向、ファースト・ナショナル社に所属していた映画監督マーシャル・ニーランに見出され、同年2月22日公開された『氷原の彼方に』でルイズ・ストーン扮するカナダ騎馬警官隊の隊員と殺人犯(二役)の敵役として出演し、話題となる[2][3][4]。以降、同年10月17日に公開されたセシル・B・デミル監督映画『人間苦』や、翌1921年(大正10年)3月21日に公開されたゴールドウィン・ピクチャーズ製作のフランク・ロイド監督映画『東洋の鬼娘』などのハリウッド映画に脇役として出演[2]。1923年(大正12年)2月、日本に帰国した[2][3][4]。
1925年(大正14年)、大東キネマを創立[2][3][4]。自ら監督と主演を兼ねて、岡田時彦、伊志井寛、藤川三之助、瀬川つる子と共演した大作『幻の帆船』を製作するが、失敗に終わる[2][3][4]。その3年後の1928年(昭和3年)夏、松竹蒲田撮影所に入社、1930年(昭和5年)7月6日に公開された小津安二郎監督映画『その夜の妻』や、同年12月12日に公開された『お嬢さん』など、多くの作品に脇役出演した[2][3][4]。1931年(昭和6年)9月、松竹蒲田を脱退した鈴木傳明、高田稔、岡田時彦と共に不二映画社の創立に参加、同年12月31日に公開された鈴木重吉監督映画『栄冠涙あり』などに出演したが、僅か2年で解散[2][3][4]。1933年(昭和8年)春、岡田と共に新興キネマに入社するが、間もなく日活太秦撮影所に移籍し、同年6月15日に公開された山中貞雄監督映画『盤嶽の一生』などに出演[2][3][4]。1934年(昭和9年)からは日活多摩川撮影所に移籍するが、後に新興キネマに復帰[2][3][4]。1942年(昭和17年)1月27日の戦時統合による大映の設立以降も継続入社、大映京都撮影所に所属して、脇役出演を続けた[2][3]。この間、山本の長男がニューギニアの戦いで戦死している[1]。
第二次世界大戦終結後は大映東京撮影所(現在の角川大映スタジオ)に所属し、脇役出演していたが、1947年(昭和22年)、東宝を経て新東宝へ移籍[2]。1979年(昭和54年)10月23日に発行された『日本映画俳優全集 男優編』(キネマ旬報社)では、1948年(昭和23年)9月9日に公開された渡辺邦男監督映画『エノケンのホームラン王』を最後に退社、芸能界を引退したとされている[2][3]が、翌1949年(昭和24年)2月1日に公開された稲垣浩監督映画『白頭巾現わる』に出演した記録がある。以後の消息は不明とされていた[2][3]が、『東京新聞』1952年(昭和27年)3月29日付によれば、晩年は通訳者を経て東京都港区芝浦で倉庫業に従事していたが、去る3月24日に急性肺炎のため、東京都文京区湯島天神町(現在の同区湯島)の自宅で死去したと報じられている[1]。満65歳没(数え年67歳[1])。
アメリカ映画
日本映画