山本 暎一(やまもと えいいち、1932年[1]または1940年11月22日[2] - 2021年9月7日[1])は、日本の映画監督、アニメ監督、演出家、脚本家、アニメーター、プロデューサー、小説家。京都府生まれ。
幼少期に父親が太平洋戦争に応召し、母親とともに母方の実家がある香川県の小豆島へ移住。中学時代よりアニメーターを志し、高校卒業後に横山隆一が主宰するおとぎプロに入社した。1960年、手塚治虫がアニメ映画を作ろうとしていると知り、おとぎプロを退社して手塚を訪問。翌1961年に設立された虫プロダクションの創設メンバーのひとりとなる。
1962年の第1回虫プロダクション作品発表会で上映された同社最初のアニメーション作品『ある街角の物語』(芸術祭奨励賞、ブルーリボン教育文化映画賞受賞作)で、スタッフの中軸として活躍。以後、1973年の同社倒産まで、演出、作画、脚本、プロデューサーと、多岐にわたる業務をこなした。特に、「アニメラマ」と名づけられた日本ヘラルド映画配給の劇場用成人向けアニメ『千夜一夜物語』『クレオパトラ』、および同路線で文芸色が強い「アニメロマネスク」として制作された『哀しみのベラドンナ』で監督を務めたことが有名である(『クレオパトラ』は手塚治虫との共同監督)。
虫プロ倒産後は、1974年に第1作がテレビ放送された『宇宙戦艦ヤマト』シリーズに企画段階から参加。「ヤマト」のロゴをデザインした他[3]、脚本を担当して同作の人間ドラマを構成し、脚本と絵コンテチェックも行った[4][5]。その後もいくつかのアニメ作品で監督、脚本等を担当している。
1989年春に虫プロ時代を回想した小説仕立ての『虫プロ興亡記 安仁明太の青春』を発表。同作で山本の氏名は「安仁明太」としている。あとがきでは、仕事(アニメ制作)に関する記述はほぼ事実だが、プライベートに関する箇所はほぼフィクションであると記しているものの、同書はアニメ研究家にとって虫プロを知る上での基礎文献となっている[6][7][8]。
生前に山本のインタビューが掲載されたウェブメディアでは「1940年11月22日生まれ」と記載されていた[2]。一方、2021年9月の死去時の報道では没年齢は「88歳」と記されており[1]、仮に日付が同じとすれば1932年生まれとなる。