やまむら そう 山村 聰 | |||||||||||||||
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本名 |
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別名義 | 山村 聡 | ||||||||||||||
生年月日 | 1910年2月24日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2000年5月26日(90歳没) | ||||||||||||||
出生地 | 奈良県山辺郡 | ||||||||||||||
死没地 | 東京都杉並区 | ||||||||||||||
身長 | 171 cm | ||||||||||||||
血液型 | AB型 | ||||||||||||||
職業 | 俳優、映画監督 | ||||||||||||||
ジャンル | 映画、演劇、テレビドラマ | ||||||||||||||
活動期間 | 1936年 - 2000年 | ||||||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||||||
著名な家族 | 古賀定雄(祖父) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画
テレビ番組 CM トヨタ・クラウン | |||||||||||||||
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生涯で出演した本数は195本に上る[4]。
第二次世界大戦後の日本映画史を代表する名優の一人であり、日本映画界の大スターの一人でもあった。
奈良県[1]山辺郡(現・天理市)出身。神戸一中、旧制一高を経て東京帝国大学文学部卒業。
研究劇団「太陽座」に入団。戦前の劇団文化座等での舞台活動を経て、1946年、『命ある限り』で映画初出演。1947年、溝口健二監督作品の『女優須磨子の恋』で田中絹代演じる松井須磨子の愛人役・島村抱月役に抜擢され、1950年には小津安二郎監督作品の『宗方姉妹』で第1回ブルーリボン賞の主演男優賞を受賞。同じく小津の監督作品である『東京物語』など数多くの映画に出演する一方、1952年には東宝砧撮影所の芸能部長であった山田典吾とともに独立プロ「現代ぷろだくしょん」を設立し、翌年には山村自身も多額の出資をして完成させた第1回監督作品『蟹工船』を発表、映画監督としても活躍した。
山村は日本映画界において風格のある名優として戦後の早い時期から重宝される存在であり、更に極めて英語が堪能であったこともあり海外製作の映画への出演が多く、ハリウッド映画では1958年に公開された20世紀フォックス製作の『黒船』(ジョン・ヒューストン監督)の下田奉行の田村左衛門守役でジョン・ウェインと、1986年に公開されたパラマウント映画『ガン・ホー』(ロン・ハワード監督)の日本の自動車メーカーの重役・坂本役でマイケル・キートンらとそれぞれ共演している。
1970年に黒澤明が監督を降板した、太平洋戦争劈頭の真珠湾攻撃を描いた日米合作の戦争映画『トラ・トラ・トラ!』では連合艦隊司令長官山本五十六を演じた。同作の主演に至った経緯としては、当初のキャスティングで黒澤が演技経験のない実業家を山本五十六役に抜擢して撮影を進めていたものの、20世紀フォックスとの間のトラブルで黒澤が監督を降板したことにより日本側撮影チームが解散し、後任に舛田利雄と深作欣二両監督が就任し制作再開となったものの、山本五十六役が内定していた劇団民藝の芦田伸介が突如『トラ・トラ・トラ!』を降板[5]。民藝の実力者であった宇野重吉と滝沢修が「黒澤さんが二年以上も構想を練ってこられた作品。黒澤さんのものでなくなった作品に出演するのは芸術家として信義にもとる」と芦田に圧力をかけたための断念だった[5]。このため急遽、山村が山本五十六役のオファーを受けた[6][5][7]。山村は、東映制作の連続時代劇ドラマ『あゝ忠臣蔵』の主役・大石内蔵助として、撮影場所の京都で主演しており、東京と京都を往復する新幹線で『トラ・トラ・トラ!』の台本を読み[6]、「日本側に忠実に書いてあり役柄に不満はない。どうしても出演したい」と出演への意欲を燃やし[7]、東映と相談のうえ掛け持ちで本作に出演した。
『トラ・トラ・トラ!』主演の影響で、同時期に鹿島守之助役のオファーを受けていた映画『超高層のあけぼの』への出演を佐野周二と交代して降板するなどの影響が出た。
1972年には必殺シリーズ第1作の『必殺仕掛人』に元締め音羽屋半右衛門を演じ、代表作の一つになった[8]。
1976年には『隠し目付参上』に元締的な役柄である松平伊豆守信明役には、必殺シリーズの元締役で人気のあった山村が内定していたが、これに本作のスポンサーの白鹿から待ったがかかった。山村は当時、白鹿のライバルメーカーである日本盛のCMに出演しており、山村の起用は断念[9]、自身が出演していたスポンサー絡みで降板を余儀なくされた[8]。松平伊豆守信明役は三船敏郎の二役で行くことになった。
トヨタ・クラウンのCMキャラクターを長年務め、1962年の2代目から1979年の6代目まで出演した。
山村と同じく旧制神戸一中卒業の志村喬を尊敬し三船敏郎とは親友だった。
また、熱心な釣り人として知られ、1974年には『釣りひとり』という著書も出版したことがある。東京・銀座に自身の釣具店「ポイント」を経営していた[10]。旧制一高時代には東京湾でハゼに熱中し、長じては利根川下流の水郷地帯でヘラブナ釣りを楽しみ、一カ月滞在することがあった[11]。
2000年5月26日午後4時40分、急性心筋梗塞のため東京都杉並区の病院で死去。90歳だった。 墓所は青山霊園にある。