やまだ いすず 山田 五十鈴 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() | |||||||||||||||
本名 | 山田 美津(やまだ みつ) | ||||||||||||||
生年月日 | 1917年2月5日 | ||||||||||||||
没年月日 | 2012年7月9日(95歳没) | ||||||||||||||
出生地 |
![]() (現在の大阪市中央区東心斎橋) | ||||||||||||||
死没地 |
![]() | ||||||||||||||
血液型 | A型 | ||||||||||||||
職業 |
女優 歌手 | ||||||||||||||
ジャンル |
舞踊 演劇 歌謡 劇映画 テレビドラマ | ||||||||||||||
活動期間 | 1930年 - 2002年 | ||||||||||||||
活動内容 |
1930年:日活太秦撮影所に入社、映画デビュー 1934年:第一映画社に参加 1938年:東宝映画に移籍 1962年:東宝演劇部と契約 2000年:文化勲章受章 | ||||||||||||||
配偶者 |
月田一郎(1936年頃 - 1942年) 滝村和男(1942年 - 1943年) 加藤嘉(1950年 - 1954年) 下元勉(1954年 - ) | ||||||||||||||
著名な家族 |
父:山田九州男(新派俳優) 娘:瑳峨三智子(女優) | ||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||
映画 『浪華悲歌』 『祇園の姉妹』 『現代人』 『流れる』 『蜘蛛巣城』 『どん底』 『用心棒』 『疑惑』 ドラマ 『赤穂浪士』 『必殺からくり人』 シリーズ 『必殺仕事人』シリーズ 舞台 『香華』 『たぬき』 『女坂』 | |||||||||||||||
| |||||||||||||||
山田 五十鈴(やまだ いすず、1917年2月5日 - 2012年7月9日)は、日本の女優。本名︰山田 美津(やまだ みつ)。愛称は「ベルさん」。位階は従三位。
戦前から戦後にかけて活躍した、昭和期を代表する映画女優の1人である。
時代劇映画の娘役を経て、溝口健二監督の『祇園の姉妹』で地位を確立。以来、優れた演技力で数多くの名作に出演した。1960年代以降は舞台女優として活動し、水谷八重子、杉村春子とともに「三大女優」と呼ばれた[1]。また、テレビドラマ『必殺シリーズ』では女仕事人役を演じて人気を得た。2000年(平成12年)に女優として初めての文化勲章を受章した(ただし、受章辞退者を含めれば杉村が初)。
生前に月田一郎、滝村和男、加藤嘉、下元勉との結婚歴があった。女優の嵯峨三智子は月田との間に生まれた娘であった。
1917年(大正6年)2月5日(月曜日)、大阪府大阪市南区千年町(現在の中央区東心斎橋)に生まれる。父の山田九州男[注釈 1]は新派俳優で、母の律は北新地の売れっ子芸者だった[1][2]。山田はその母の命で、数え年で6歳の時から常磐津、長唄、清元、日本舞踊の稽古を始めた[4]。
1924年(大正13年)、関西に出稽古に来ていた三世清元梅吉について本格的に清元を習い始める[2]。1925年(大正14年)、父が成美団に参加するため一家で上京して日本橋浜町の旅館に住み、久松小学校に入学するが、人気の落ち込んでいた父が仲間を集めて満州へ巡業に行ってしまい、旅館住まいが困難になったため、本郷区金助町の駄菓子屋の裏店に移住する[2][5]。その後、永田町に2階借りし、母と共に清元梅吉の内弟子となった。1927年(昭和2年)、師匠から清元梅美智の名を貰い、母娘揃って名取となる。後、母と宝塚に移り住み、清元の師匠をやって生計を立てた[6]。
1930年(昭和5年)、父が日活太秦撮影所所長の池永浩久を知っていた縁で、同撮影所に月給百円という幹部女優並みの待遇で入社[4]。芸名は伊勢神宮の五十鈴川にちなんで山田 五十鈴と決まり[1]、同年に『剣を越えて』で大河内傳次郎の相手役としてデビューした。続いて池田富保監督のオールスター特作『元禄快挙 大忠臣蔵 天変の巻・地動の巻』に、新人としては異例の大抜擢で出演した[4]。デビュー1年目の同年だけで15本の作品に出演し、その後も伊藤大輔監督の『続大岡政談 魔像解決篇』、内田吐夢監督の『仇討選手』、伊丹万作監督の『國士無双』『武道大鑑』、山中貞雄監督の『盤嶽の一生』など、一流の監督作品に立て続けに出演[4]。可憐なヒロイン役で人気を集め、日活時代劇のトップ女優となった。
1934年(昭和9年)9月、日活を退社した永田雅一が第一映画社を設立し、伊藤、溝口健二、鈴木傳明らとともに同社に参加する[7]。溝口監督の『マリアのお雪』『折鶴お千』に主演するが、後者の撮影中に同社に移籍した月田一郎の子を身籠り、翌1935年(昭和10年)3月1日に美和子(後の瑳峨三智子)を出産した[4]。月田と結婚し、出産を機に女優を廃業しようと考えていたが、 1936年(昭和11年)溝口監督の『浪華悲歌』で復帰[8]。続けて『祇園の姉妹』に主演すると、その演技が高く評価され、生涯女優をやることを決意した。同年、第一映画が解散し、新興キネマ京都太秦撮影所に月田とともに移籍した。
1938年(昭和13年)6月、東宝映画に入社。同社第1作は川口松太郎原作・成瀬巳喜男監督の『鶴八鶴次郎』で、長谷川一夫と三味線弾きの夫婦に扮し、気は強く情にはもろい女芸人気質を好演した[9]。それ以来、『蛇姫様』『昨日消えた男』『婦系図』などで長谷川とコンビを組んだ。そのほか『新篇丹下左膳』シリーズでは丹下左膳役の大河内の相手役を演じ、渡辺邦男監督の『新妻鏡』、成瀬監督の『上海の月』ではヒロインを演じた。スターとして揺るぎない地位を占めたが、夫の月田は役に恵まれず、夫婦の収入に差が生じるようになり、夫婦仲も次第に亀裂が入る[9]。1940年(昭和15年)には別居し、娘の美和子は月田家が引き取った[4]。1942年(昭和17年)に月田と離婚し、映画製作者の滝村和男と結婚するが、1年余りで離婚した[9][10]。
1942年(昭和17年)、長谷川と共に新演伎座を結成。3月に東京宝塚劇場で菊田一夫作『ハワイの晩鐘』、川口作『お島千太郎』で旗揚げして以降、『伊那の勘太郎』『姿三四郎』などの舞台に立ち、太平洋戦争末期には軍の慰問にも回った[9]。翌1943年(昭和18年)、花柳章太郎主演の『歌行燈』に出演するが、この共演を機に花柳と恋愛関係に陥った[9]。
1946年(昭和21年)、豊田四郎監督の『檜舞台』が戦後第1作となり、戦中の『芝居道』以来共演のなかった長谷川とコンビを復活した。次いで衣笠貞之助監督の『或る夜の殿様』に出演し、同時に衣笠とも恋愛関係を結んだ[9]。同年10月、第2次東宝争議が発生。ストに反対する大河内に同調して、長谷川、高峰秀子、藤田進、黒川弥太郎、入江たか子、原節子、山根寿子、花井蘭子とともに十人の旗の会を結成して日本映画演劇労働組合(略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退。これが元で翌1947年(昭和22年)3月に新東宝映画製作所が創立された。しかし、すぐにその脱退組を離れてフリーとなり、製作が再開された東宝で衣笠監督の『女優』に松井須磨子役で主演した[9]。この頃、妻子ある衣笠と経堂に新居を建て、同棲生活をしている[11][12]。
1950年(昭和25年)、同年公開の『影法師』で共演した加藤嘉と結婚。共産党員だった加藤の影響で思想的に左旋回し、同年に日映演に加入[注釈 2]。「人民女優」とのレッテルを張られ[1]、レッドパージの対象にもなった。1952年(昭和27年)、加藤とともに現代俳優協会を設立[14]。この頃は亀井文夫監督の『母なれば女なれば』『女ひとり大地を行く』、関川秀雄監督の『ひろしま』など、独立プロ系の監督作に多く出演した。
その間、娘の瑳峨三智子が東映に入社し、母娘が再会する。しかし、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。1954年(昭和29年)2月、加藤と家庭と仕事の不成立を理由に協議離婚[4]。その直後に下元勉と結婚する。
その後は女優として最も充実した時期となり、成瀬監督の『流れる』、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』、小津安二郎監督の『東京暮色』、黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』、渋谷実監督の『悪女の季節』『もず』、市川崑監督の『ぼんち』など、巨匠・中堅問わず幅広い作品に出演。 この時期だけでブルーリボン賞主演女優賞(1956年)・助演女優賞(1957年)をそれぞれ1回[15]、毎日映画コンクール女優主演賞を1回、キネマ旬報ベスト・テン女優賞を2回受賞し、名実ともに映画界を代表する大女優となった。
1959年(昭和34年)、第4回新劇合同公演『関漢卿』に招かれて滝沢修と共演。その後映画出演の傍ら舞台出演が多くなり、1962年(昭和37年)に東宝演劇部と専属契約を結んでからは、活動の場は舞台中心へと移る。以後、商業演劇の看板役者となり、杉村春子・水谷八重子とともに三大女優と呼ばれた。代表作の1つである『たぬき』では立花家橘之助を演じ、浮世節を弾き語りして評判を得た。また、『津軽三味線ながれぶし』では三橋美智也と三味線の連れ弾きを披露している。そのほか、『香華』『華岡青洲の妻』『淀どの日記』『愛染め高尾』『太夫さん』など数多くの舞台に立った。1987年(昭和62年)には、ファン投票によって主演作10作を選定し、「五十鈴十種」と名付けた。また、若手の邦楽家や役者に三味線やお囃子を発表する会「東宝たぬき会」を立ち上げ、中村又五郎と共に指導を行っていた。
一方、1957年(昭和32年)からテレビドラマにも出演するようになり、大河ドラマ『赤穂浪士』では大石内蔵助の妻りくを演じた。必殺シリーズはテレビドラマでの代表作となり、いずれも三味線弾きの人物を演じた。『必殺からくり人』に始まるからくり人シリーズでは花乃屋仇吉や泣き節お艶、『必殺仕事人』ではおとわを演じた。『新・必殺仕事人』以降の作品では、三味線の撥を武器にする女元締のおりくを演じ、当たり役とした。同役では『必殺仕事人V』まで出演し、劇場版2作にも登場した。実に10年間に及んだシリーズ出演のきっかけは、娘の瑳峨三智子が『必殺必中仕事屋稼業』にゲスト出演した回を視聴し、その映像美に感銘して朝日放送[16]の仲川利久プロデューサーに電話で出演を希望したことというエピソードが、仲川と山田誠二の共著『秘録必殺シリーズの舞台裏 カルト時代劇に賭けた男たち』(洋泉社)に記述されている。
1980年(昭和55年)頃に京都の自宅を引き払い[17]、安全が保障されている上にお手伝いさんもいらないという理由で[18]東京・帝国ホテルの一室で生活を送っていた[17]。その後も精力的に舞台に出演し、1993年(平成5年)に文化功労者、2000年(平成12年)に女優としては初めての文化勲章を受章した。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の6位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター女優」では第5位になった。2014年(平成26年)発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優4位となっている[19]。
2002年(平成14年)4月に脳梗塞を発症、この年を最後に公の場に姿を見せることはなかったが[17]、親交のあった松井誠によれば、2009年(平成21年)の時点では復帰を目指してリハビリに励んでいたという[20]。最後の舞台は2001年(平成13年)に行われた『桜の園』の朗読会で、最後のテレビ出演はNHK教育テレビの『芸能花舞台』(2002年放送)だった。
2012年(平成24年)7月9日午後7時55分、多臓器不全により東京都稲城市内の病院で死去。95歳没。[17][21]。戒名は「寳光院天猷玅津大姉(ほうこういんてんゆうみょうしんだいし)」(「玅」は玄に少)[22]。「宝の光」や「遥(はる)かな天を描く」「妙(たえ)なる潤い」などの意味が込められている。墓所は大徳寺三玄院。
葬儀には、生前に山田を慕っていた俳優らでつくる「養子会」のメンバーである市村正親、西郷輝彦[23]、榎木孝明[23]、萬田久子を始め、司葉子、浜木綿子、三田佳子、八千草薫、北大路欣也、平幹二朗、中条きよし、池上季実子、草笛光子、佐久間良子、宇津井健、朝丘雪路、富司純子、江波杏子、山本陽子、三浦布美子、石井ふく子、中村メイコ、坂東三津五郎、南果歩、沢口靖子、など600名が参列した。
1958年(昭和33年)のロンドン映画祭に黒澤明が招待され、山田が主演した『蜘蛛巣城』がオープニング上映された。直後に行われたパーティで黒澤がローレンス・オリヴィエ、ヴィヴィアン・リー夫妻と会食した際、ヴィヴィアンは山田に対して大きな関心を示し、抑制された演技と発狂する場面でのメーキャップについて、黒澤に繰り返し質問したという[24]。
ニュース映画「日本ニュース」戦後編 第91号にて映画、演劇の入場税引き上げに反対する署名運動に参加している姿が写されている。
太字の題名はキネマ旬報ベスト・テンにランクインした作品