山越郡(やまこしぐん)は、北海道(胆振国)渡島総合振興局の郡。
人口4,740人、面積310.76km²、人口密度15.3人/km²。(2024年11月30日、住民基本台帳人口)
以下の1町を含む。
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、以下の区域にあたる。
江戸時代の山越郡域には、松前藩によってヤムクシナイ場所が開かれていた。江戸時代初期の寛文9年6月に日高国域を中心に起こったシャクシャインの戦いの際、クンヌイ(現長万部町国縫)において蝦夷軍(アイヌ)と松前藩との戦いが行われている。この戦いで、松前に攻め込むほどの勢いであった蝦夷軍が、鉄砲を主力とする松前藩の前に敗れ形成が逆転、後に平定されている。
江戸時代中期、安永2年長万部に飯生神社が創建される。寛政年間になり、それまで地形が険しく道が途絶え舟に乗り換えていた区間を、幕命を受けた松前藩によって山越郡と虻田郡の境を越える礼文華、弁辺等の山道(国道37号静狩峠の前身)が開削され、渡島国の箱館から道東や千島国方面に至る陸路(箱館から長万部までは国道5号の前身)が繋がっている。
江戸時代後期、国防のため寛政11年山越郡域は天領とされた。享和元年に渡島国亀田郡にあったものを移転し山越内関所が設けられた。これは蝦夷地への武器の持ち込みなどを取り締まる国内最北の関所であった。享和3年には、警固に当たった津軽藩によって長万部 - 虻田間の道路が改修される。文化2年稲荷神社(現在は由追(山越)に移転)が創建され、文化4年には諏訪明神社(現在の山越諏訪神社)が創建された。文政4年には一旦松前藩領に復した。また文政年間には山越内に円融寺の前身の阿弥陀堂が建立された。
安政2年再び天領となり南部藩がヲシャマンベに陣屋(分屯所)を築き警固をおこなった。安政3年には長万部から歌棄(うたすつ)や寿都(すっつ)に至る黒松内越が開削されている。同年、山越内に堂宇が建立され翌4年には円融寺となる。和人の人口が増え、文久元年に山越内関所が廃止され、元治元年6月には長万部付近まで和人地となっていた。慶応2年長万部に善導寺が創立される。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して山越郡が置かれた。開拓使公文録には山越郡に「ヤムクシ」との訓が付してあったが、明治9年の大小区画制の際には「やまこし」になっていた。