岡原 昌男 おかはら まさお | |
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生年月日 | 1909年4月1日 |
出生地 | 岩手県胆沢郡水沢町(現奥州市) |
没年月日 | 1994年7月14日(85歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
第8代 最高裁判所長官 | |
任期 | 1977年8月26日 - 1979年3月31日 |
任命者 |
昭和天皇 (福田赳夫内閣が指名) |
前任者 | 藤林益三 |
後任者 | 服部高顯 |
任期 | 1970年10月28日 - 1977年8月26日 |
任命者 | 第3次佐藤内閣 |
岡原 昌男(おかはら まさお、1909年(明治42年)4月1日 - 1994年(平成6年)7月14日)は、日本の検察官。第8代最高裁判所長官を務めた。
岩手県胆沢郡水沢町(水沢市を経て、現在の奥州市)生まれ。長官としての任期は1年7か月とショートリリーフであったことは、衆目の認めるところであったが、大阪空港訴訟、ロッキード事件の嘱託尋問調書をめぐり、重要な役割を果たした。1979年4月29日、勲一等旭日大綬章受章。好きな言葉は「則天去私」(夏目漱石の言葉。小さい自分の心を超越して、宇宙の大きな道に従うこと)。
岡原が最高裁入りする少し前の八幡製鉄事件で政治献金を合法とした最高裁判所大法廷判決については、「企業献金は法律的には理屈が通らない。(政治家に)数千万円、数億円も入ってくるなんて悪だ。あり得べからざることだ。当時あれほど企業献金が行き渡っていては最高裁は違憲違法とは言えなかった。あれは『助けた判決』と言うんだ」と言った。
最高裁長官のあいさつとして、「座右の銘は『則天去私』。私心を捨て道に合った姿を求めていきたい」と話した[2]。最高裁長官としての1978年5月の憲法記念日の記者会見では「弁護人抜き裁判法案は必要。裁判所の努力にも限界がある。法廷で問題を起こす弁護士はばっさり(懲戒処分を)やればいい」と発言し、波紋を投げかけた[2]。日弁連が強く反発したが、後に法案は日弁連が裁判審理促進に協力することで廃案となった[2]。
大阪空港訴訟は当初は第一小法廷で判決を出す予定だったが、岡原長官が大法廷での審理することを第一小法廷の裁判長である岸上康夫に告げたことがきっかけで、大法廷で回付されて大法廷で判決が出ることになった(最高裁大法廷で評議・判決をしたのは服部高顯長官時代)[3]。
最高裁長官退官後に1983年のロッキード事件の田中角栄被告の一審有罪判決について「判決確定までの無罪推定論は、一審判決の重みを理解しないもの。上級審で逆転無罪になる判決は殆どない」と述べた[2]。