岩内郡(いわないぐん)は、北海道(後志国)後志総合振興局の郡。
人口16,283人、面積375.52km²、人口密度43.4人/km²。(2024年12月31日、住民基本台帳人口)
以下の2町を含む。
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、上記2町および古宇郡泊村の一部(大字堀株村・茅沼村[1])にあたる。
江戸時代、岩内郡域は和人地となる。松前藩によってイワナイ場所が開かれていた。
陸上交通は、渡島国から天塩国増毛郡への道のりの途上であったため、文化年間に岩内郡と余市郡を結ぶ余市山道(国道276号・国道5号稲穂峠の前身)が開削され道中の宿場として笹小屋なども設けられた。また、南の磯屋郡へは雷電峠が難所となって陸路が途絶えて舟に頼っており、安政年間に磯屋請負人の桝屋栄五郎がアフシタ以西の一里あまりを開削し、岩内請負人仙北屋仁左衛門がアフシタ以東の2里(7.9.km)余を開削、以降、雷電嶺(国道229号の前身)では通年の陸路での移動が可能となった。また、このとき中間の温泉(朝日温泉の前身)には箱館在住の又兵衛を家守とする家を建て、通行の官吏旅客の便を図った。海上交通は北前船も寄航していた。寛政年間には岩内神社が創建されている。
江戸時代後期の文化4年には、岩内郡域は天領とされたが、文政4年には一旦松前藩の元に戻された。天保6 - 8年ころには天保の飢饉の凶作のため、道外からの移住者が激増している。安政2年に再び天領となり庄内藩が警固を行った。
翌3年に岩内山帰厚院が開山、そして4年箱館奉行が前田幌似と発足常見(共和町)に御手作場を設け水稲栽培を開始している。また安政6年には岩内で家屋80余戸が消失する大火があった。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して岩内郡が置かれた。