岩本寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 高知県高岡郡四万十町茂串町3-13 |
位置 | 北緯33度12分28.7秒 東経133度8分4.6秒 / 北緯33.207972度 東経133.134611度座標: 北緯33度12分28.7秒 東経133度8分4.6秒 / 北緯33.207972度 東経133.134611度 |
山号 | 藤井山 |
院号 | 五智院 |
宗派 | 真言宗智山派 |
本尊 | 不動明王 聖観世音菩薩 阿弥陀如来 薬師如来 地蔵菩薩 |
創建年 | (伝)天平年間(729年 – 749年) |
開基 | (伝)行基、聖武天皇(勅願) |
正式名 | 藤井山 五智院 岩本寺 |
札所等 | 四国八十八箇所37番 |
法人番号 | 4490005004010 |
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岩本寺(いわもとじ)は、高知県高岡郡四万十町にある真言宗智山派の寺院。藤井山(ふじいざん)、五智院(ごちいん)と号す。本尊は向って右より不動明王坐像、聖観世音菩薩坐像、阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像、地蔵菩薩半跏像の五仏。四国八十八箇所第三十七番札所。
前後の札所、36番青龍寺および38番金剛福寺との距離が遠く、四国八十八箇所巡礼の遍路は当寺で一泊することが多かった。
空海(弘法大師)の七不思議伝説が伝わる。それは仁井田五社にあったもので、子安桜(この桜に祈れば安産する)、三度栗(三度目は空海が焼き栗を加持したところ一年に三度も実るようになった)、口なし蛭(加持をしたところヒルが血を吸わなくなった)、桜貝(桜の花が散ったのを加持したところみんな貝になった)、筆草(ねじ花)、尻なし貝(巻貝に棘のあるもの)、戸たてず庄屋(空海が泊めてもらったお礼に加持をしたら泥棒が入らなくなった)である[1]。
寺伝によれば天平年間(729年 – 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が七難即滅・七福即生を祈念して開創したのが起源であるという。それは現在地より北西約2 kmの仁井田川のほとりで、仁井田明神のあったことから当時は「仁井田七福」、別名「七福寺」とよばれた。その後、弘仁年間(810年 – 824年)に空海(弘法大師)が五社・五寺からなる福円満寺を増築し、東から、東大宮が不動明王、今大神には清浄観音菩薩、中宮が阿弥陀如来、西大宮が薬師如来、聖宮が将軍地蔵菩薩とそれぞれ本尊を安置し、星供の秘法を修したという。こうして「仁井田五社十二福寺」と称し嵯峨天皇の勅願所となり栄え、別当寺の福円満寺が札所であった。
天正年間(1573年 – 1592年)に兵火によって焼失するが、時の足摺山主・尊快親王が弟子の尊信に命じて再興した[2]。
一方、岩本寺は、町中にあり福円満寺から足摺へ向かう途中の宿坊であった。中世末に一宿した尊海親王がこの宿坊に岩本坊の名を与え繁盛した。1652年から1688年の間[3]に衰退した福円満寺から別当が移り、岩本寺と改称し[4]、納経は「五社大明神 別當岩本寺」と記帳された。
明治初期には神仏分離により仁井田五社の5つの仏像は岩本寺に移されたが、岩本寺は高知県の政策により明治4年(1871年)廃寺になる。明治22年(1889年)岩本寺は復興して現在に至る[5][6]。
山門(仁王門)を入ると左に手水場、納経所、右手に聖天堂、鐘楼があり、正面右手に本堂が建つ。本堂の左には水天宮、鐘楼の奥に大師堂がある。本堂の正面に、土産物を売っている売店と宿坊があり、トイレもここで借りる。境内の裏手には土佐くろしお鉄道の線路が通り、参拝中に列車の姿を見ることができる。