岩谷 時子 | |
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文化功労者顕彰に際して公表された肖像写真 | |
ペンネーム | 千家春 |
誕生 |
岩谷トキ子 1916年3月28日 日本統治下朝鮮、京城府 |
死没 |
2013年10月25日(97歳没) 日本、東京都 |
職業 | 芸能マネージャー、詩人、作詞家、翻訳家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 神戸女学院大学部英文科 |
活動期間 | 1951年 - 2013年 |
ジャンル | 作詞、翻訳 |
代表作 |
『愛の讃歌』 『サン・トワ・マミー』 他 |
主な受賞歴 |
勲四等瑞宝章(1993年) 文化功労者(2009年) |
パートナー | 越路吹雪 |
公式サイト | 岩谷時子音楽文化振興財団 |
岩谷 時子(いわたに ときこ、1916年(大正5年)3月28日[1] - 2013年(平成25年)10月25日[1])は、日本の作詞家、詩人、翻訳家。本名:岩谷 トキ子(読み同じ)。歌手・越路吹雪のマネージャーを務めたことでも知られる。
1916年、京城府(現在のソウル特別市)生まれ。「石見尊徳」と敬われた島根県大田市の篤農家・岩谷九十老は曾祖父である[2][3]。京城で岩谷が生まれた日に、京畿道の初代長官であった祖父は退官した。父は東京高等商業学校(一橋大学の前身校)を出て貿易商社勤めで、母は明治のモダンな女性であった[4]。5歳の頃に兵庫県西宮市に移住。西宮市立浜脇小学校、西宮市立安井小学校、西宮市立西宮高等女学校(現・西宮市立西宮高等学校)を経て、神戸女学院大学部に進学。1939年に神戸女学院大学部英文科を卒業後に、宝塚歌劇団出版部に就職。宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長を務めた。
編集部を訪れた当時15歳で宝塚歌劇団新人の越路吹雪と出会う。2人は意気投合し、越路の相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手になりたいと相談すると、岩谷も退職を決意。小林一三の奨めで越路とともに上京し、東宝文芸部所属となる[4]。越路の付き人を務めた。その後は自らが作詞家として成功しても、自分の本業を聞かれるたびに「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。
1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。会社員として働く傍らで越路をサポートし、越路が亡くなるまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けた。
岩谷と越路が初めて接触したのは、まだ新人であった越路が自分のサインの見本を書いてほしいと岩谷に相談を持ちかけたことによる。このときに2人で考案したサインを越路は終生使い続け、越路が忙しくなってからは岩谷が「代筆」することもよくあったという。
その後の岩谷は、気づけば越路の付き人の役割を担っており、ある日の舞台が終わったあと、越路は不器用ながらも小道具の手入れをする岩谷を見て、「時子さんもどこか抜けているし、私も抜けている、二人でやっと一人前だよね」と言ったという[5]。
宝塚時代から、浪費癖によってしばしば給料を前借りしていた越路は、東宝に移籍するときには歌劇団に借金が残っていた。その浪費癖を承知していた岩谷は、1978年、越路がパリへアルバムのレコーディングに赴くにあたり、レコード会社の担当ディレクターに「(所持金が)足りなくなったら使ってほしい」とこっそり現金を託したという。
越路はリサイタルの直前は極度の緊張におそわれたという。緊張を紛らせるために煙草を燻らせ、コーヒーを飲んで、リサイタルに臨んでいた。ステージに出る際は緊張も極限に達して、岩谷から背中に指で「トラ」と書いてもらい、「あなたはトラ、何も怖いものはない」と暗示をかけられてからステージに向かっていた。
越路が胃がんで入院した後も、もう一度舞台に立たせたいと強く願っていた岩谷は、越路から睡眠薬とタバコを取り上げることに躍起になった。それにもかかわらず、越路の夫の内藤法美は、越路が病床でタバコを吸っていても大目に見ていた。「今の越路吹雪には厳しい愛が必要」と考えていた岩谷にとって、これは許しがたいことであり、3度目の入院を前に岩谷は越路のもとを訪れ「内藤さん、あなた(越路に)甘いんじゃないの。あなたもあなたよ。睡眠薬もタバコもやめなけりゃあ、胃の痛みは治らないって、お医者さまもおっしゃったでしょう。もし、あなたが私のいうこと守れなかったら、私はあなたの仕事から一切手を引かせてもらうわ」と説得し、その日から越路は睡眠薬とタバコをやめたという[6]。
マネージャーとして活動する一方で、1952年に越路が出演していたシャンソンショー「巴里の唄」の劇中歌として『愛の讃歌』で、自身にとって初めてとなる訳詞・作詞をした[7]。以降は越路が歌うシャンソンの訳詞を手がけたことをきっかけとして、作詞家・訳詞家としても歩み始める。ザ・ピーナッツ『恋のバカンス』、岸洋子『夜明けのうた』、弘田三枝子、中尾ミエ『夢見るシャンソン人形』、沢たまき『ベッドで煙草を吸わないで』、園まり『逢いたくて逢いたくて』、加山雄三『君といつまでも』、佐良直美『いいじゃないの幸せならば』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』などの、数多くのヒット曲を生み出してきた。
一方でオリジナルの詞にとらわれずに、独自の解釈で詞を当てることもあった。エディット・ピアフが歌った『愛の讃歌』は、元の歌詞が「愛を貫くためなら盗みでも祖国への裏切りでもしてみせる」という背徳的な描写を含んだ内容であるのに対し、岩谷の訳詞では一途な愛を貫くという翻訳になっている。美輪明宏が岩谷に訳詞について訊ねたエピソードが、NHK人間講座「美輪明宏愛と美の法則(2005年3月21日)」で放映された。[要出典]
モダニズム作詞家であった岩谷はヨーロッパに行ったことがなかった。ハワイに一度行ったきりである。「現地を体験していないからこそリアル、というパラドクスがここにある。しかし、それが『文学』の力だともいえる」[4]。
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