島牧郡(しままきぐん)は、北海道(後志国)後志総合振興局の郡。日本の郡で最も人口密度が低い。
人口1,247人、面積437.18km²、人口密度2.85人/km²。(2025年1月31日、住民基本台帳人口)
以下の1村を含む。
1879年(明治12年)に行政区画として発足して以来、郡域は上記1村のまま変更されていない。
島牧は元「しまこまき」と読んだ。江戸時代、島牧郡域は和人地となる。松前藩によってシマコマキ場所が開かれていた。
陸上交通は、渡島国から天塩国増毛郡への道のりの途上であったが、南の瀬棚郡へは狩場山・茂津多岬が難所となって陸路が途絶えて舟に頼っており、安政年間に江差の商人鈴鹿甚右衛門と津軽の商人松前屋庄兵衛らが私費を投じ須築(現在の久遠郡せたな町)からコタニシ(現在の島牧郡島牧村原歌のあたり)に至る狩場山道(国道229号の前身)を開削し通年の陸路での移動を可能とした。
また、厳島神社は享和3年7月よりも前に創建され、現在「四季発句」掲額・石灯籠・狛犬・恵比須像・奉納太鼓が島牧村指定有形文化財となっている。この他、本目村の大宮平治が建立したと伝わる本目神社なども江戸時代以前の創建である。
江戸時代後期の文化4年には、島牧郡域は天領とされたが、文政4年には一旦松前藩の元に戻された。安政2年島牧郡域は再び天領となり津軽藩が警固をおこなった。安政4年には千走寺が開山している。安政6年、6藩分領がおこなわれ、戊辰戦争まで島牧郡域は津軽藩領となっていた。戊辰戦争(箱館戦争)終結直後の1869年、大宝律令の国郡里制を踏襲して島牧郡が置かれた。