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人物情報 | |
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生誕 | 1920年5月11日 |
死没 | 2009年7月8日(89歳没) |
国籍 |
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出身校 | 京都帝国大学文学部地理学科 |
学問 | |
研究分野 | 地理学、文化人類学 |
称号 | 東京工業大学名誉教授 |
主な業績 | KJ法 |
影響を受けた人物 | 今西錦司 |
主な受賞歴 | 秩父宮記念学術賞、マグサイサイ賞、福岡アジア文化賞 |
川喜田 二郎(かわきた じろう、1920年(大正9年)5月11日 - 2009年(平成21年)7月8日)は、日本の地理学者、文化人類学者。東京工業大学名誉教授。
1920年(大正9年)、三重県津市で生まれた。京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)に入学し、山岳部に入る[1]山岳部の先輩の今西錦司らと山歩きに没頭。1937年に卒業[2]。第三高等学校理科に進学し、1941年に卒業[3]。
京都帝国大学文学部に進学し、地理学を専攻した。京都帝大時代は山岳部に入部し、今西錦司、森下正明、梅棹忠夫、吉良竜夫らと共に探検隊を結成。カロリン諸島や大興安嶺山脈を探検した。1942年の北部大興安嶺探検隊では、今西錦司が隊長、川喜田が支隊長であった[2]。1943年、京都帝国大学文学部地理学科を卒業し、文学士号を取得。
1943年、昭和通商株式会社に入社し、1945年まで勤務[2]。その間、1944年2月に陸軍に召集された[4]。
1945年、木原生物学研究所嘱託に採用された[2]。1946年、東海大学予科教授に就いた[2]。1950年、大阪市立大学法文学部(現:文学部)地理学教室助教授に転じた。この頃より、ネパールを研究フィールドとするようになった。1958年、西北ネパール学術探検に参加し、隊長を務めた[5]。
1960年、東京工業大学助教授に就任。1961年に教授昇格。1963年から1964年には、東南アジア稲作文化調査団を組織し、団長を務めた[5]。1964年、日本ネパール協会を設立。1967年、情報整理と発想のための手法としてKJ法を開発・発表。1969年、東京工業大学教授を辞任し、移動大学を始めた。
1970年、川喜田研究所を設立し、代表を務めた。1978年、筑波大学教授に就任。1985年に筑波大学を退任し、名誉教授となった。同年4月からは中部大学教授として教鞭を執った。1991年、東京工業大学名誉教授となった。2009年7月8日、敗血症により満89歳で死去。
生態学的な人文地理学を研究し、今西生態学の人類学方面の拡張を担った。豊富な野外調査の経験を基に、情報整理と発想のための手法としてKJ法を開発。ブレインストーミング後の整理法として、野外科学のみならず企業などでも広く応用され、その著書である『発想法』(正・続)[6]と、『知の探検学』は大きな評判を呼んだ。
1953年にマナスル登山隊へ参加。有名シャンソン歌手イベット・ジローの名をもじって、「チベット二郎」の異名を持つほどの、チベット文化の理解者であった。
1963年と1964年の民族学調査をきっかけに、アンナプルナ山のふもとの山村の活性化と環境保全のため、NGO「ヒマラヤ保全協会」を結成した。中華人民共和国政権のチベット侵攻に際し、抗議の論陣を張りガンデンポタン(亡命政府)を支援し、頑として訪中しない方針を貫いた。
川喜田二郎 朝日講座「探検と冒険」 全8巻 朝日新聞社 昭和47年1月~
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