市川 房枝 いちかわ ふさえ | |
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1940年頃 | |
生年月日 | 1893年5月15日 |
出生地 | 日本 愛知県中島郡明地村(現:一宮市明地) |
没年月日 | 1981年2月11日(87歳没) |
死没地 |
日本 東京都渋谷区 (日本赤十字社医療センター) |
出身校 |
愛知県女子師範学校 (現・愛知教育大学) |
前職 |
名古屋新聞記者 国際労働機関職員 日本婦人有権者同盟会長 |
所属政党 |
(無所属→) (第十七控室→) (無所属クラブ→) 第二院クラブ(1962-81) |
称号 |
参議院永年在職議員 愛知県一宮市名誉市民(旧・尾西市) |
選挙区 |
東京都選挙区→ 全国区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1953年5月3日 - 1971年7月3日 1974年7月8日 - 1981年2月11日 |
市川 房枝(いちかわ ふさえ、1893年〈明治26年〉5月15日 - 1981年〈昭和56年〉2月11日)は、日本の婦人運動家、政治家。元参議院議員(5期)。
1924年に「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成[1]。婦人参政権運動を主導した。終戦直後の1945年11月3日には「新日本婦人同盟」を結成。公職追放を受けるも、解除後の1950年に同団体を「日本婦人有権者同盟」に改称し、国会と女性を結び付ける運動を推し進めた。1953年に参議院議員に初当選。政界浄化、女性の地位や権利の向上に尽力した[2][3]。
愛知県中島郡明地村字吉藤(現:一宮市明地)に生まれた[注釈 1][注釈 2]。男2人、女4人の6人きょうだいで、市川は三女。誕生名は「ふさゑ」[5]。家は代々農業を営み、市川が生まれた頃は7、8反の土地をもっていた[6]。父の藤九郎は、1848年(嘉永元年)生まれで、一時商売をしていたが、基本的に農夫として一生を過ごし、暴力をふるう男だった。母のたつは、1859年(安政6年)生まれで藤九郎の隣村の農家に生まれた女性である。母は19歳の時に11歳年上の藤九郎と結婚した[7]。父親は自分の生業の農業に否定的であった。教育熱心の父親は、長男の藤市を小学校の教師から東京の政治学校の学生、米国の大学の留学生に育てた。また長女は奈良県の女子師範学校生になった。房枝の妹は名古屋市の淑徳女学校に進学した後に渡米、アメリカの日系人と結婚した[8]。
明地村立明地尋常小学校を出たのち、1903年(明治36年)4月に起町外三ヶ村学校組合立西北部高等小学校に入学した[9]。4年の二学期が終わった頃に村に朝日尋常高等小学校ができたため転校した。卒業後、米国にいる兄の藤市がお金を工面し、市川は上京。三輪田高等女学校の3年の補欠試験を受けるが不合格。
1908年(明治41年)4月に女子学院に入学し、7月に郷里に戻った。帰郷すると間もなく萩原町立萩原尋常小学校(現・一宮市立萩原小学校)の代用教員の口がかかり、9月から出勤した[10][11]。
1909年(明治42年)1月27日、尋常小学校準教員免許を取得[12]。ほどなく、次姉が通っていた額田郡岡崎町(現・岡崎市六供町)の愛知県第二師範学校女子部に進むことを考えた。当時、師範学校は月謝もなく、寄宿舎の費用も無料であった。一年一着の袴と夏冬に着物一枚ずつが支給された。そして卒業後5年間、県内の小学校に勤務する権利と義務が与えられていた。独立の職業がもてるため少女たちの入学希望者が多く、第二師範学校の場合、応募者は定員約30人に対し毎年2、3倍あった。試験はむずかしいとされていたが、市川は本科1年の補欠試験に合格し、同年4月に入学。寄宿舎に入り、岡崎では3年学んだ[13][注釈 3]。テニスに夢中になり、同じ六供にあった岡崎町立高等女学校(現・愛知県立岡崎北高等学校)との対抗マッチでは優勝した[16]。
1912年(明治45年)4月、西春日井郡金城村(現・名古屋市西区天神山町)に新設された愛知県女子師範学校[17][18]に移る。同年7月、新校長の良妻賢母教育に反発。同級生28人と授業ストライキを実施し、28か条の要求書を提出した[12][13]。
1913年(大正2年)、愛知県女子師範学校卒業[12]。同校の第1回卒業生となる[19]。同年4月、母校の朝日尋常高等小学校の訓導に任命される。1914年(大正3年)4月、名古屋市の第二高等小学校に転任[20]。
1917年(大正7年)3月、病気のため退職。文化人グループで旧知の間柄だった小林橘川の紹介で、同年7月10日に名古屋新聞社(現在の中日新聞社)に入社、記者となった。十数人いた記者のうち、女性は市川だけだった[14][21]。1918年(大正7年)8月、同社を退職し上京[12]。
1919年(大正8年)に平塚らいてうらと日本初の婦人団体「新婦人協会」を設立した。女性の集会結社の自由を禁止していた治安警察法第五条の改正を求める運動を展開。
1921年(大正10年)7月、読売新聞特派員として渡米[22]。シカゴやニューヨークで働きながら、アメリカ合衆国の婦人運動や労働運動を見学[23]し、アリス・ポールやキャリー・チャップマン・キャットとも面会する[24]。
1924年(大正13年)1月、帰国。同年12月13日、「婦人参政権獲得期成同盟会」を結成[22]。男子普通選挙が成立した1925年(大正14年)には同盟会を「婦選獲得同盟」と改称し、政府・議会に婦人参政権を求める運動を続けた。1924年(大正13年)には国際労働機関(ILO)の職員となり、女性の深夜労働などの実態調査を行った(1927年(昭和2年)辞職)。
1930年(昭和5年)に「第1回婦選大会」を開催。同年に婦人参政権(公民権)付与の法案が衆議院で可決されるが、貴族院の反対で実現に至らなかった。他にも母子保護や、生活防衛などを目的とした様々な運動に関わった。東京婦人会館の評議員を務めるのは1937年(昭和12年)前後である[25]。
市川は国策(戦争遂行)への協力姿勢をみせることで、婦人の政治的権利獲得を目指す方針をとり評論活動を行った。1940年(昭和15年)に婦選獲得同盟を解消し「婦人時局研究会」へ統合。1942年(昭和17年)に婦人団体が大日本婦人会へ統合。大政翼賛会を中心とした翼賛体制に組み込まれ、市川は大日本言論報国会理事に就任[注釈 4]。
1943年(昭和18年)12月、東京都南多摩郡川口村(現・八王子市)で講演[27]。
1944年(昭和19年)6月、市川は疎開に踏み切った。講演を通じて縁ができた川口村の村長に「大事な書籍や資料を疎開させたい」と打診したところ、お大尽と言われていた地元の出征軍人が二間の離れと蔵を貸してくれることとなった[27][28]。真下ミサオ[注釈 5]とともに移り住み[31]、休日の日曜日は、大家から借りた30坪ほどの土地を開墾して、野菜を育てた。土地は家から4キロほど離れていたうえに、もともとは林だった。女手だけで木を倒し、根っこを掘り起すところから始め、木や根っこは燃料にするため、縄につけて手で引っ張って運んだ[28]。
1945年(昭和20年)8月15日、東京で焼け残った部屋を貸してもらう交渉をしていた長田幹彦の家で、市川は玉音放送を聞いた。同月18日まで東京に滞在。婦人解放の相談のため友人を訪ね歩いた[27]。同年8月25日には久布白落実、山高しげり、赤松常子らと共に「戦後対策婦人委員会」を組織し、引き続き政府や各政党に婦人参政権を要求した。同年10月10日に、市川とも交流があった内務大臣の堀切善次郎が、幣原内閣の初閣議で婦人参政権の実現を提案し[32]、同内閣は普通選挙法の改正を決定[33]。 11月3日には戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」を結成し会長に就任。12月17日には衆議院議員選挙法改正で婦人参政権(男女普通選挙)が実現した。
1946年(昭和21年)4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙では39人の女性議員が誕生した。市川は自ら立候補せず、また有権者名簿の登録漏れのため投票もできなかったが[34]、総選挙を機に、女性たちが主体的に政治に参画していくための啓発と教育が必要と考え、同年12月、渋谷区代々木に「婦選会館」を立ち上げた[35]。
1947年(昭和22年)3月24日、戦時中に大日本報国言論会理事であったとの理由により公職追放を受ける[36][注釈 6]。市川は公職追放になった最初の女性だった[38]。
1950年(昭和25年)10月13日、公職追放解除[39]。同年11月9日には新日本婦人同盟の臨時総会において、団体の名称が「日本婦人有権者同盟」と改称され、市川が会長に復帰。
1951年(昭和26年)11月2日、「公娼制度復活反対協議会」を結成し、売春禁止運動を起こす[30]。
同年12月19日、平塚らいてう、上代たのらと「再軍備反対婦人委員会」を結成[30]。
1953年(昭和28年)3月23日、日本婦人有権者同盟会長を辞任[30]。同年4月24日に行われた第3回参議院議員通常選挙に東京都選挙区(改選数4)から無所属で立候補し初当選した。
組織に頼らず個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた。市川は自らの選挙手法を他の候補者にも広めようとしてさまざまな選挙浄化運動に参加した[注釈 7]。国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った。石原莞爾を「高潔な人格者」「立派な軍人だと思います」と高く評価したり、1963年(昭和38年)結成の「麻薬追放国土浄化同盟」に加入し、右翼の大物、田中清玄や暴力団・山口組組長の田岡一雄、オールド・ライトの小説家、山岡荘八に協力したりもした。
1954年(昭和29年)7月1日、婦人問題研究所から専門誌『婦人界展望』を発刊[41][42]。
1962年(昭和37年)10月2日、渋谷区代々木につくった婦選会館は「財団法人婦選会館」となり[43]、婦人問題研究所と統合した[42]。『婦人界展望』も編集方針を一部変更し、1963年1月号から誌名を『婦人展望』に変えた[42][44]。
1965年(昭和40年)7月、第7回参議院議員選挙で3期目の当選を果たす。
同年10月15日、「国民参政75周年・普通選挙40周年・婦人参政20周年記念式典」が日本武道館で開かれた。天皇皇后が出席し、約6千人が参加したこの式典で、10名に対し特別顕彰があった。婦人参政に功績があった者として、市川、久布白落実、奥むめおが表彰された(山川菊栄も選ばれていたが、山川は辞退した)。同日夕方、総理府賞勲局から市川に「勲章を授与したいが受けてくれるかどうか」と問い合わせがあった。市川は1963年(昭和38年)の閣議決定による勲章制度復活[45]に反対の立場であり、「民主主義の今日、人間に等級をつけるなどとはとんでもないことだ」と考えていたため、即座に辞退すると答えた。その後、新聞記者を通じて、賞勲局が言っていた勲章は勲二等瑞宝章であったことが伝えられた[46][47]。
1967年(昭和42年)2月25日、東京都知事選挙で社共統一候補の美濃部亮吉を応援するため、日本婦人有権者同盟会長の辞意を表明。2月28日付で辞職した[48]。美濃部の選挙母体の「明るい革新都政をつくる会」の代表委員を務めた[49][50]。
1968年(昭和43年)、「国際連合に日本人女性を送り出したい」と考え、当時、国際基督教大学講師を務めていた国際政治学者の緒方貞子に白羽の矢を立ててその年の国際連合総会日本代表団に加わるように緒方を説得して了承させた。これが契機となり緒方は国際連合の仕事に関わるようになった[51]。
1971年(昭和46年)7月の第9回参議院議員選挙の東京都選挙区(改選数4)で、自民党は候補者を元警視総監の原文兵衛ひとりに絞った。民社党はニュースキャスターとして知名度の高かった木島則夫を擁立。その結果、市川は6番目の得票数で落選した。
1972年(昭和47年)の沖縄返還密約問題に対しては、「情を通じ」という発表のみを重視し、日本社会党の土井たか子、佐々木静子、田中寿美子らとともに「蓮見さん問題を考える会」を結成した。
1974年(昭和49年)2月、「理想選挙推進市民の会」が参院選・東京都選挙区に向けて擁立した紀平悌子の推薦会が結成された。市川は大渡順二とともに同推薦会の代表者に就任した[52]。青年組織「草の根運動で理想選挙を闘うグループ」はならばと、3月9日、市川を全国区から立候補させるためのパーティーを開催した。3月16日には5グループの青年代表13名の署名による申入書が市川に提出された。3月末、市川は高齢(当時81歳)を理由に辞退し、青年らに紀平の運動への協力を要請した。あきらめきれない一部の者は夜だけ使用できる事務所を渋谷に設け、呼び掛けのはがきを各方面に送った。熱意にほだされた大渡は青年らの仲間に加わり、扇谷正造、丸岡秀子、秋山ちえ子らと「市川房枝さんを勝手に推せんする青年グループ」をつくり、5月25日から29日にかけて、全国区立候補に必要な供託金60万円を集めるための一口1000円を募る趣意書を約850通発送した。5月28日夜、市川はついに全国区立候補を受諾し、翌29日、記者会見を開き正式に出馬表明した。即日、参院選に向けた組織「市川房枝さんを推薦する会」が結成された。代表者には菅直人、田上等、朝倉剛一の3人が就いた[52]。菅は選挙事務長も務めた[53][54]。
同年7月7日、第10回参議院議員通常選挙が執行され、市川は通算4期目の当選を果たした[注釈 8]。東京都選挙区から立候補した紀平は7番目の得票数で落選した。
同年、三宅一生は、自らデザインした服を市川に贈った。ベージュと茶、黒を織り込んだロング丈のニットジャケットと黒いシャツを着た市川の姿は『アサヒグラフ』10月11日号の表紙を飾り話題となった(撮影は篠山紀信)[56][57]。
1975年(昭和50年)11月22日、日本の女性団体、計41団体が共立講堂に集まり、「国際婦人年日本大会」を開催。市川はその実行委員長を務めた。同年12月1日には「国際婦人年日本大会の決議を実現するための連絡会」(現・国際婦人年連絡会)が結成され、こちらも市川が委員長を務めた[58][59]。
社会問題化していた旧統一教会への反対運動にも協力し、1978年(昭和53年)に発足した「原理運動を憂慮する会」の呼びかけ人に名を連ねた[60]。
1978年(昭和53年)春の叙勲にあたり、勲二等宝冠章授与を打診されたが、辞退した。
1979年(昭和54年)、市川は雑誌『クロワッサン』の読者の好きな「女の顔」の1位に選ばれ、7月10日発売号の表紙を飾った(86歳の写真と大正時代の写真の2枚)。2位の山口百恵の倍以上の得票を得て1位となった市川は「化粧は一度もしたことがないですねえ。風呂上り、肌がパサパサするので、クリームをつけるぐらいが化粧と言えば化粧ですか」と語った[56]。
1980年(昭和55年)6月の第12回参議院議員通常選挙(衆参同日選挙)で、87歳の高齢にもかかわらず全国区でトップ当選を果たした。
議員在職中の1981年(昭和56年)1月16日、胸の苦しみを訴えて、東京都渋谷区の日本赤十字社医療センターに入院し療養していたが、同年2月11日7時13分、心筋梗塞のため、死去した[61]。87歳没。墓所は冨士霊園。死去の2日後の2月13日、参議院本会議では市川へ議長から弔詞と永年在職議員表彰が行われ[62]、その後、哀悼演説が同年2月27日の参議院本会議で、石本茂により行われた[61]。また、同年に出身地愛知県尾西市の名誉市民となった[63](尾西市が一宮市と合併後は、一宮市での名誉市民となっている)。
1981年(昭和56年)、ドキュメンタリー映画『八十七歳の青春 -市川房枝生涯を語る-』(監督・脚本:村山英治)[64][65]が公開される。
1983年(昭和58年)11月15日、婦選会館の増改築竣工式が行われた。建物2階には「市川房枝記念展示室」が設置された。また同日、財団法人婦選会館は「財団法人市川房枝記念会」に改称した[66]。
2000年(平成12年)に朝日新聞社が実施した、西暦1000年から1999年までの日本史の人物を対象にした「あなたが一番好きな政治リーダー」の読者投票において230票を獲得して9位にランクインされ、女性として唯一トップ10入りした[67]。
2009年(平成21年)、「財団法人市川房枝記念会」は「財団法人市川房枝記念会女性と政治センター」に改称。2013年(平成25年)4月1日に「公益財団法人市川房枝記念会女性と政治センター」に移行した[68]。
日本婦人有権者同盟の活動は、参議院議員となった紀平悌子に受け継がれたが、会員の高齢化や減少に伴い2016年4月に解散した。
現在、国立国会図書館には、市川が1978年(昭和53年)に語った「政治談話録音」[69]が収録されている。7時間に及ぶ長いもので、30年後の2008年(平成20年)に公開されるはずであったが、市川房枝記念会等の要望により期限前に公開された。現在、国立国会図書館にて、テープの視聴、および、テープから文字起こしをした「談話速記録」の閲覧、複写が可能である。
名誉職 | ||
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先代 青木一男 |
最年長参議院議員 1977年7月 - 1981年2月 |
次代 町村金五 |