生年月日 | 1963年1月21日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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出身地 | 日本・京都府京都市南区 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 2016年10月20日(53歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
死去地 | 日本・京都府京都市 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 180 cm | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
体重 | 79 kg (12 st 6 lb) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
学校 | 京都市立伏見工業高等学校 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大学 | 同志社大学 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ラグビーユニオンでの経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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平尾 誠二(ひらお せいじ、1963年(昭和38年)1月21日 - 2016年(平成28年)10月20日)は、日本のラグビー選手。日本代表選手であったほか、日本代表監督、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーなどを歴任し、ミスター・ラグビーと呼ばれた[1]。
現役時代のポジションは主にスタンドオフ及びインサイドセンター。日本代表キャップは35[2]。同じく神戸製鋼の選手だった細川隆弘は従兄弟である。
京都府京都市南区出身、京都市立伏見工業高等学校、同志社大学商学部商学科卒業。同志社大学大学院総合政策科学研究科修了。小学校時代は野球少年だったが、京都市立陶化中学校(現・京都市立凌風中学校)入学と同時にラグビーを始める。理由は「野球部は部員が多くて下積みばかりしていた。そこでラグビー部を見たら、12~13人程度、先生もとてもいい先生で楽しそうに練習をしていたから」[3]。中学時代、父親にラグビースパイクが欲しいと伝えた時、無理だろうと思っていたのに買ってくれたことが「ラグビー人生で一番嬉しかったこと」と『徹子の部屋』にゲスト出演した際に語っている。
伏見工業高への入学のきっかけは山口良治。平尾が中学3年の時に出場した京都府秋季大会決勝戦を見た山口がそのプレーにほれ込み平尾の自宅を訪ねた。その時、平尾は特待生(授業料免除)で名門花園高等学校への入学が決まりかけていたという。当時は伏見工業高はワルの集まりだったため両親は反対したが、平尾はそれを振り切り入学した。同校1年の京都府大会決勝で花園高に敗れた際は、悔しさの余り表彰式で受け取った準優勝トロフィーを投げ捨てて帰ってきた。しかし翌年全国大会初出場を果たし、3年生の時の全国大会で同校が初優勝した際の主将となる[4]。
1982年に史上最年少(19歳4ヶ月)で日本代表に選出[5]。同志社大学ラグビー部在籍時代にはセンターとして史上初の大学選手権3連覇に貢献[2]。しかし1985年、日本選手権では[6]、松尾雄治を擁し7連覇を果たした新日鐵釜石ラグビー部に勝つことができなかった。
1985年、英国リッチモンドにラグビー留学した。そもそも大学卒業後の進路として平尾は、強豪ラグビーチームを有する多くの企業から誘いを受けるも、「大学卒業後はラグビーはしません」と公言しており、外国で事業や起業をしたいと考えていたことがその動機であった。イギリスを選んだ理由には、以前より望んでいたデザインの勉強ができることだけでなく、自分のラグビーのレベルが世界ではどの程度か知りたいと考えたこともあったという[7]。イギリスではリッチモンドクラブ (Richmond Football Club) に所属し試合に出場しながら、イギリスのデザイン学校の入学試験準備や受験勉強に取り組んでいた。
しかし、ファッション誌にモデルで登場したことが当時のアマチュア規定に抵触したとの理由により、日本代表候補選手から除外された[8][9]。平尾の下宿に協会から連絡が入り、留学直前に受けたファッション誌の取材記事がアマチュア規定に反すること、アマチュア資格の停止のことを知らされた。違反を犯していた認識がなかったため寝耳に水だったが、日本ではもうラグビーをしないと考えていたため深刻に考えなかったという。しかしアマチュア資格の停止は国際的なもの(日本以外でも試合に出られない)と知らされ、弁明のため一時帰国。汚名を返上したければ日本の一流チームで成績を出せ、と言われ、急遽日本での所属チーム探しに追われることとなる。事件後はそれまでが嘘のように企業からの連絡はなくなっていた。そんな折、偶然イギリス出張に来ていた以前より顔見知りであった神戸製鋼の当時専務であった亀高素吉と食事に行く機会を持つ。そこで企業を探していることを相談、すると「ならウチはどうだ」と言われ神戸製鋼行きを決める。「神戸は遠足で行って以来、好きな街でしたし」とも語っている[3]。
1986年、神戸製鋼に入社[2]。社会人時代は、日本選手権で7連覇を達成(初優勝時から3連覇時までは主将、7連覇時は主将代行を務めた)。また、国内チーム相手でゲームキャプテンを務めた試合では負けた事が一度だけ(同志社大学時代の日本選手権対新日鐵釜石戦)という抜群のキャプテンシーを発揮。平尾は主将として「ボールをつないでトライを取るラグビー」を掲げ、強いフォワード選手に対しタイミングよくボールを出すことを求め、ラグビーの球技的側面を強調することで得点力を高めた。平尾は「ノックオンは犯罪的行為」とまで言い切り「ボールが一番大事」という意識を徹底的にチームに植え付けた[10]。
ラグビーワールドカップには、第1回(1987年)、第2回(1991年)、第3回(1995年)にそれぞれ出場[2]。特に第2回大会では、日本のワールドカップ初勝利(対ジンバブエ戦)の原動力として活躍した。その後一度は代表を退いたが、第3回大会に向けてのチーム強化の一環として臨時コーチとして招聘され、その後代表選手として本戦に出場した。
1997年から日本代表の監督に就任、「平尾ジャパン」が誕生。
1998年1月、現役を引退。その後、神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャーに就任[11]。ワールドカップ1999に向けたアジア予選で平尾ジャパンが優勝し[12]、4大会連続のW杯出場を決めた。
1999年5月~7月の第4回パシフィック・リム選手権で平尾ジャパンは初優勝を果たした[13]。
ワールドカップ1999に出場。プール戦で敗退したが、パシフィック・リム選手権優勝が評価され、平尾ジャパンの継続が決まる[14][15]。
2000年4月、スポーツと地域社会の振興を図るため、NPO「スポーツ・コミュニティ・アンド・インテリジェンス機構(SCIX)」を旗揚げ[16][17]。
2008年7月12日には日本サッカー協会理事に、同協会犬飼基昭会長の推薦で伊達公子(プロテニス選手)とともにサッカー界以外から就任したが、1期のみで退任している。
2011年には文部科学省の中央教育審議会委員に就任した[19][20]。
2016年10月20日午前7時16分、京都市内の病院で死去。53歳だった[21]。病名などの死因については当初は遺族の意向によって非公表となっていたが、その後遺族からの発表により、前年秋から胆管細胞癌の闘病中であったことが明らかになった[22]。
テーピングの際は「絶対にテープが見えないようにしてくれ」と要求したことがあった。弱みを見せず強さを際立たせる意図があったのではとの意見もある[31]。
著書『勝者のシステム:勝ち負けの前に何をなすべきか』によると[32]、同志社大学時代のチームメイトであった土田雅人がサントリーのヘッドコーチに就任直後、会食の最中に平尾に主将は誰がいいか相談し、「永友洋司がええんちゃうか」との平尾の進言にしたがって抜擢。その後、第48回全国社会人ラグビーフットボール大会の決勝トーナメント1回戦で、ノーサイド直前に永友がペナルティゴールを決め、サントリーは神戸製鋼と20-20の引き分けながらも、トライ数が上回っていたことから準決勝に進出。同時に、神戸製鋼の8年連続日本一の夢は潰えた。この結果を踏まえて、平尾は、「土田にしてやられた。永友の件以外にも、サントリーの弱点はどこかなど聞いてきて、当たり障りのない範囲で言ったつもりが、それがサントリーにとっての重要な戦略であったと後で気づかされた。」と述懐した。
一般に「1人はみんなのために、みんなは1人のために」と訳される成句「One for all, all for one」について、著書の中で、後半を「みんなはひとつのために」、つまり「一人のため」ではなくて「共通の目的のためにがんばる」という意味に訳すべきだと思うと述べていた[33]。